千文字短編集
玄武 水滉
走るトロッコ
人には命があるらしい。不思議なものだ。誰も見たことが無いのに。
生前と死後では人間の重さは違うらしい。人はそれを命の重さと揶揄した。
では、仮にその変化が、体重の変化が無かった人が居たとしよう。では、その人には命がなかったのだろうか。僕には分からなかった。
「なぁ、これ。なんて書く?」
「さぁ、進学かな」
人差し指と親指で摘んだ一枚の紙が、僕にはとても鬱陶しく感じた。カズはいまだに迷っている様だった。どうして、と僕が言うと、カズはやりたい事が無数にあると言った。空に浮かぶ星が呼ばれたかと思って突如瞬いた。
やりたい事。生憎僕には無関係な事だ。僕は親に敷いてもらったレールの上を走るだけの無機物だ。きっと僕が神様ならば、僕に命はないと言うだろう。それが僕であった。
カズは僕とは違った。選択肢はないだろうが道は無数にあった。何の障害のない道。ゴツゴツとした歩きにくい道。通るだけで傷だらけに成りそうな茨の道。それでもカズにはレールはなかった。
「進学か〜まぁ、真面目だもんな。俺にはよく分からないや」
「よく分からないって何が?」
「俺がしたいのは進学かどうかは分からないって事さ」
カズは残念ながら勉強は得意ではない。それでも眼の下に隈を作りながらも努力する様はきっと評価されるだろう。
寒空の中、カズは鞄に進路相談の紙をねじ込んだ。きっとぐちゃぐちゃになっているだろうに。それでもカズの道は途絶える事なく、無限に広がるのだろう。そう考えたら、一本しかない僕の道がちっぽけに見えた。でもこれが正しいんだ。これが正解なんだ。だってそうやって教えられてきたから。遠回りで近道なのが一番楽なんだって。思考を停止して思考を動かすのが一番楽なんだって、僕はそう教えられてきたから。
「カズは何したいのさ」
「何をしたいか。うーん、それがさ決まってないんだ」
ゆっくり悩めば良いんじゃない?僕はそう言おうとしてやめた。何だかとても無責任に感じたから。
悩むカズを傍目に、トロッコは僕を乗せてどんどん進む。旅人を置いて行って、僕の人生だけがぐんぐん進んでいく。きっと先に死ぬのは僕だろう。
「お前はこのまま医者になるんだろ?」
「まぁね、継げって言われちゃったし」
「俺はさ、それが堪らなく羨ましく感じた」
なんでさ。好きなものになれる方がよっぽど良いのに。自分を押し殺して親の為に勉強して、親が言うから病院を継ぐ。これの何処が羨ましいと思うのか、僕には分からない。
それでもカズは僕を羨む目で見た。ショーケースの中のトランペットを眺める少年の様に。手を伸ばしても届かないものを見る目で、カズは僕を見た。
「俺には無数の道がある」
「そうだよ、カズは何になっても良いんだよ。何を目指しても良いんだよ」
「でもさ、それって道がないのと一緒なんだって、最近気が付いたんだ」
「そうなんだ」僕から出た言葉は恐ろしく冷めていた。敷かれたレールの上を走る僕には何も出来なかったし、僕はそれをとても羨ましく感じたから。大草原にいるカズと、只々レールを走るトロッコ。どっちが良いかなんて一目瞭然だった。
「じゃあ俺は何になれば良いんだ?どの道を走れば良いかわからないんだ。だってどの道にもレールはないんだから」
レールのある僕と、レールのないカズ。
トロッコが走りやすいのは一体どっちだろうか。僕はその時、初めて本当の幸せを噛み締めた。
千文字短編集 玄武 水滉 @kurotakemikou112
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