結論めいたもの
※今回の文章は、心身ともにある程度健康な方に向けてのものです。
また書けそうです。やってみます。
本日は2022年の4月12日。某国軍は某国の首都に迫る軍を撤退させ、占領地の様子が明らかになってきています。
いくらかの方々が指摘されるような、世界に向けたプロパガンダの可能性を差し引いても、占領は凄惨なものだったと思います。
占領者の去った村々では、これを書いている今でも、まだ対人地雷や爆弾、不発弾の除去は終わっておらず。亡くなられた方々がどなたであったかさえも、完全には明らかでありません。
ただ平和に暮らしていた方々に、いきなり襲ってきた理不尽は、地獄の責め苦すら生ぬるいようなものでした。
それは前回私が記した、結果が出ないことをやり続ける孤独とかいう、生存が保証された環境で暮らせる者の余裕のある苦悩とは一線を画したものです。
せっかく頑張って書いたものが読まれない程度の苦痛。他方では、占領者がドアを破壊し、レイプと殺戮、略奪の限りを尽くしてくる恐怖におびえながら、食料や水の尽きた家々でいつ終わるとも知れず暮らす苦痛。
果たして本当に比べることができるでしょうか。比べることすらおこがましいと、私は思い始めました。
この戦争が始まって、悲惨な状況が連想される動画が出回る以前のことを考えてみましょう。
『世界のどこかで飢饉に苦しむ恵まれない子供たちの苦痛を思いやれば、恵まれたこの国での苦痛による自殺は甘えだ』と、そう言えば、冷酷なごみくず扱いされていました。
人の心の苦痛の程度は、比べることができない。飢えた者には飢えた者の、安全に生きるだけの者には安全に生きるだけの者の、苦痛がある。前者と後者を比べることは無意味だと。
私もどっちかいうと、そう思っていました。
自由を行使した結果の、このみじめでめぐまれない人生の苦痛は、唯一無二であり、分かりようがないと。とりわけ、私の苦しみを否定するような、健康で文化的で生きることに前向きな、人生に成功しているちゃんとした人には絶対に分かるはずがない。軽はずみなことを言うな、なんて。
さて、そして今です。
占領者による死を、目の前での知り合いや愛する者に対する殺戮を意識させられながらの苦痛は、はたして私と比べられるでしょうか。
たかがうけない、ただ寂しい程度のことと、本当に比べられるでしょうか。
間接的ではあります。映像を通じてではあります。でも私は、圧倒的な力を背景に、命を脅かされながら生きる苦しみというのを、想像して感じ取ってしまいました。
私はコロナが怖いです。感染が怖いです。二年前の流行から、外出や買い物の機会は明らかに減ってしまいました。少しでもせきをしたら、ちょっとでも熱があったら、意識の喪失、呼吸不全の死、あるいはECMOを口に突っ込まれる恐怖がめぐります。後遺症で、ただでさえめちゃくちゃな人生が、もっとぐちゃぐちゃになることにもおびえています。
死の確率は限りなく低い、ワクチンの副作用の筋肉痛にさえ、死を意識しておびえ震えたのです。
そんな私が、銃を突きつけられ、殺すぞと言われたなら。しかも相手が、その集団が脅しではなく目の前で同郷人や知り合いを処刑していたのなら。
恐怖を感じる器官は、ショートして泣き叫ぶでしょう。
どれほどおびえるか、想像するだけでも恐怖で体調を崩しそうです。
しかし確実に、それに襲われている人が居るのです。その中で亡くなられてしまった人が居たのです。
それでも、私は私の小説が読まれないとか言えるでしょうか。
私の人生がつまらないとか、私を愛する女性が向こうから現れてくれないとか、言っていていいのでしょうか。
あるいは、私より頭が悪そうな人が人生の楽しみを得ているのが憎らしいとか。
適当なモテ方法を駆使していい思いしているカス野郎がこの世に存在するとか。
全部勝手にやってください。べつに構いません。
なんだかもう、すべてが些細なことに思えてしまいます。
だって、私は今殺されません。自由にお店に買い物に行き、食料を得ることができます。眠くなったら安心して眠ることができます。
確かに、殺人を犯してでも成り上りたい強盗に、襲われる可能性はゼロではないでしょう。あるいは、別の某国からミサイルが飛んできてやられるかもしれませんね。
けれど、占領者や爆弾が眠っている間に私を殺す確率は、某国で占領者におびえておられる方々よりは限りなく低い。
くそいまいましい、パレートの法則とかいうやつにより、何かの分野で評価され続ける二割は決まっていて。現在、私はそっち側に居ません。だから、私が何かを一生懸命やって死んでも、死んだあとにすら評価されない、残り八割で終わるのかもしれません。
失敗して終わるだけならまだしも、私が八割のどうでもいい作品を必死に書いて、全体を盛り上げることで、私は私の憎む二割のすごいやつのための、養分にすらなっているのかもしれません。
押し付けられた上位二割がいい思いをし続けるための価値観、自由に平等に競争することは素晴らしいという価値観。
続ければいつか評価されるとかいう、くそどうでもいい、おそらく全く私に起こることがないであろう、少なくとも私を私の思う最強で最高の安心に導くことは決してないであろう、ざまぁも無双も、ハーレムも私に導いてこないであろう、ごみみたいな価値観。
生存の保障、機会の平等、自由な作品を書く権利。
こんなものが。私を苦しめる私の自由と生存が、たまらなく愛おしく、大切に思えてくるんですよ。今、この惨状に想像を巡らせると。
八割のどうでもいい作品であっても、私の作品は私の思想であり表現なんです。
自分たちの支配力や威厳のために、他者を虐げる連中の権力を保全するためになんか、絶対に使いたくありません。
そうしなきゃ殺されるとか、どこにも発表できないとか、そんな事態がこの世に存在すること自体、意味が分かりません。
権力や権威の暴力に屈して、何を書いてどんな数字が上がろうが、そんなものは私という人間の人生の否定でしかありません。
そんなものを記すためのインクは、顔料のために掘り出される鉱石のぶん、資源の無駄でしかないし。
印刷される紙なんて、森林を破壊してしまうぶん、数十億年の歴史を経た地球を馬鹿にする最悪の破壊行為でしょう。
ネット上のデータになるなら、サーバーに使う大切な電力がもったいない。太陽の光でさえも、いずれ尽きるというのに。
そもそも人間の勝手での何かの破壊は、許されないことですけど、唯一何とか許してもらえる可能性があるとすれば、人の表現、心の奥底から湧き出る何かを伝え、刻み込む目的だけです。
どれほどの数字を上げようと、そうでないなら――。
いろいろな事態が深刻になるにつれ、だんだんわかってきた気がします。
私は、私が自由に表現できることを、まず評価するべきだったんです。
たとえ、私の表現が、数値上は、八割のどうでもいいなにかで終わってしまうんだとしても。
その八割は、私が生きてきたことが詰まった八割なのです。
私が、私だけが、言い換えれば私に出会ったすべての人や出来事が結晶化した、かけがえのない、八割なのです。
月並みですが、数字では計り知れません。
今、私が生きているということ、私が触れてきたものが確かに存在しているということのすべてなんです。
だからくだらない愚痴は、終わらせましょう。
私程度がいくら苦しく思えようと、虚しく思えようと。もう少し、小説のほうであがいてみるべきなのです。
本当に。
某国にも、某国にも。
生きていることを叫びたかった人はたくさんいたはず、でしょうに。
私はVtuverが好きですけれど。
彼らの配信の中で、ときどきつくコメントの言語からすれば、同じリスナーの中に、この戦争で亡くなられた方がいらっしゃるのでしょう。
あるいはもっと直接に。
単に好きなものが同じ、なのではなく。
小説が書きたかった人だって、書いていた人だっていたことでしょう。
彼らは、亡くなってしまった。
あるいは、私と違って、競争の中で二割の名作を残す誰かが、彼らの中から生まれていたかもしれないのに。
私には、まだ表現ができます。
自分と関係ない誰かに魂を引っ張られて、心が壊れるって?
いいえ。毒を吐きながらも、多少健全になってしまった私には。
彼らの悔恨を想像して背負いこんでみることも、可能な気がするのです。
そうすることが、同じ人間として、やるべきことのように感じるのです。
この情けなくも自分勝手な文章は、このあたりにしておきましょう。
今表現ができる環境にいる私は。
私だけの八割のどうでもいいものを、書き続ける必要があるのですから。
長文失礼しました。休むことに似た下手の考えは、ここで終わりです。どうなるかわからないけど、小説の執筆に戻ります。
引き続き、コメント、お待ちしております。なんかしゃべりたいんですよ、本当に。
どうか、誰か答えてください 片山順一 @moni111
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