第7話

 広い通りを、肩を擦り合わせるほど近接した大勢の人々が行き交う。立ち並んだ店のあちこちで、店主が呼び込みをする声が聞こえる。雑然と表裏一体のにぎわいとが共存する、活況な市場の様子だ。明るい光に満たされた通りを、買い物かごを片手にシャオは悠然と進む。

「シャーオ!」

 顔なじみの店の主に呼び止められた。主は野菜を投げてよこす。

「売りもんにならないやつだ。形は悪いけど味は同じ。持って行けよ」

 気前のいい店主に、シャオは薄くほほえんで礼を言う。肩までで切りそろえられた髪を優雅に潮風になびかせて、シャオは市場をぐるりと一周した。

 シャオがヴァルネイに到着してから、一年が経過していた。

 あのあと、親切な漁師に医者に連れて行ってもらい、病院で数日、体を休めた。はじめは回復するのに精一杯で、本当に外国にやって来たのだという実感もなかった。休んでいる間に目にしたもの、耳にしたものですこしずつ実感が湧き上がってくる。

 言語が違う。食事が違う。人々の容貌が違う。

 フォンとヴァルネイは言語的にはほぼ同じだ。フォンの一部方言がヴァルネイ語だととらえられるほど、言葉が近しい。ただしフォンでは象形文字を用いるが、ヴァルネイではそれらが完全な音に変わっている。そのため口頭ではシャオの言葉は通じ、シャオも相手がなにを言っているのかわかるが、文章を見せられてもシャオはさっぱり読めず、逆にこちらの文字も書けなかった。

 食事は口に合うが、フォンでなじみのあった飯や麺が大陸文化と混ざり、独自に変化している。それから大陸の人種と混ざっているので、ヴァルネイはフォンよりも目の色、髪の色が色彩に富んでおり、また色素の薄い者たちが多かった。シャオの真っ黒な髪の毛はめずらしく、羨望の目で見られる。

「ただいま」

 港付近にある質素な家にシャオは帰宅した。

「頼まれたもん、買ってきたぞ」

 シャオは書き物机で作業中の女に、買い物かごをずいっと差し出す。女は紙から目を離すこともなく言った。

「ああー、ありがと。うーんと、保冷庫にしまっておいて」

 女は筆を走らせつつ、どうにか茫洋とした生返事をする。執筆中にこういう反応が返って来るのはいつものことだ。わかっていつつ、一応声をかけたシャオは保冷庫に野菜やら魚やらをしまいはじめた。

「ねえー、シャーオ。これはどういう意味なの?」

 片づけを終えたシャオを女が手招きする。シャオは女の手元をのぞきこんだ。

「結局は、っていう意味」

「へえー。はじめて見た」

 女は丸眼鏡の奥のつぶらな目を丸くして、原本を手に持ちしげしげとながめる。

「日常ではまず使わない言葉だな。物語調だからだろう。なにを翻訳しているんだ?」

「鳳凰花月伝よ」

 ザムネイとラムトゥの物語だ。

「……ふうん。なつかしいな」

「シャオも昔、読んだことがあるの? フォンではよくお芝居になる人気の物語らしいじゃない。花月伝は私以外の翻訳者も手掛けているけど、最近、大人向けのちょっといい本が入ってきたから自分でも訳してみたくて」

 なつかしいと言ったのは、一年まえの鳳凰選抜でまさに花月伝を演じたからだ。そう言いかけて言葉を飲み込み、シャオは曖昧にごまかした。

 女の名はマーリィと言う。ヴァルネイの港町で一人暮らしつつ、翻訳家をしながら生計を立てている。三十代に入ったばかりの女だ。翻訳の専門分野はフォンの書籍全般だ。鎖国していてもフォンは自文化の輸出には積極的で、書物なども外国に届いている。

 シャオは食堂で働いているときにマーリィと出会った。

 シャオがよくなったかどうか、あの漁師は心配してわざわざ見舞いに来てくれた。治療代を立て替えることまでしてくれたのだ。彼に借金を返すために紹介してもらった働き口が、港で働く人たち向けの大衆料理屋だった。そこで給仕係として働いている折、客として店を訪れたマーリィに声をかけられたのだ。

 ほかの誰にも、シャオがフォンから来たのだとはわからなかった。だが言語の専門家であるマーリィは、言葉にわずかに混ざる違和感を嗅ぎつけた。シャオには、ヴァルネイの言葉とは微妙に発音が異なるフォン国流の訛りがあった。マーリィは、もしフォン国の言葉を解するのならば自分の手伝いをしてもらえないだろうか、と丁重に頼み込んできたのだ。そこには、母国から逃げてきたシャオの正体を暴いてやろうとする野卑た感情はすこしも混ざっていなかった。

 故郷からの追っ手を警戒するシャオははじめ、マーリィのことを胡乱に感じた。マーリィの目的を探るために時おり、翻訳の仕事を手伝うようになった。接するうちにマーリィに他意はなく、ただ純粋に、よりよい精度でフォン国の物語群を翻訳するため、仕事の助けを必要としていただけだとわかった。マーリィの仕事が増えてきたのでシャオはいまでは彼女の家に住み込み、食堂で働きつつ、翻訳の手伝いをしている。一度、翻訳業にとりかかると生活面に頭がまわらなくなるマーリィのため、掃除に買い出しなど身のまわりの雑事を引き受け、先ほどのように請われて、わからないところを教えてやるのが主な仕事だ。

 いまは翻訳にしか興味のないマーリィは、結婚や恋人などという人間関係のわずらわしさとは無縁だ。

「あー、疲れたなあ。シャーオ、お茶にしよう」

 頭を垂れてずっと同じ姿勢を維持していたマーリィが立ち上がり、大きく伸びをする。この国の人はシャオのことをシャーオと間延びした発音で呼ぶ。言語の源泉を同じくしながら、大陸の影響でわずかに、その枝葉は別なる方向へ活き活きと伸びている。

 マーリィと自分のため、シャオは紅茶を淹れた。

「そういえば私、シャーオに言ったっけ?」

「なにを?」

 茶の湯気で眼鏡を曇らせた愛嬌のある姿で、マーリィが訊いた。

「もうすぐフォンから重大発表があるらしいよ。外国省で働いている友だちが教えてくれた」

「それ、機密情報じゃないのか。ずいぶんと職業意識のゆるいお友達だな」

 シャオは片頬で笑う。広大な陸地でなににも脅かされずに生活しているからか、ヴァルネイはどんと構えておおらかな人が多い。

「なんの発表だろう。まさか戦争でも仕掛けるつもりじゃないだろうな」

 革命児たらんとするドゥグアロイの性格を思い、シャオはわずかに緊張を浮かべる。

「そんな物々しい感じじゃなかったよ。なにかいい知らせだといいね」

 フォンから流れ着いたことを、シャオはマーリィにだけは話していた。シャオが国に帰りたがっていること、帰って妹と再会したがっていることをマーリィは知っている。

 タロ海峡の潮渦は、シャオが入国を果たしてから四日後に再開した。

 同時にヴァルネイに知らせがもたらされた。隣国のフォンで次の鳳凰が誕生した。トウファという名の少女だと。

 トウファが正式に鳳凰に任命された。人の役に立ちたいと切望していた彼女が、自分の生きる道を見つけたことでシャオはすこしほっとしつつ、同時に国と皇帝のために祈りを捧げ、強すぎる祈りのためにやがて呪いで我が身を蝕まれて後宮で一人、朽ちていく末路を思うとその身を案じずにはいられなかった。

 翌日の昼、ヴァルネイにとある知らせが駆け巡った。フォンが国を開くと宣言したのだ。

「マーリィッ! これ、なんて書いてある⁉」

 ヴァルネイの言語をだいぶ解するようになったシャオだが、母語のように一瞥しただけで意味を即座に理解するのは難しい。近所の人がうわさをしているのを聞きつけるとシャオは外で配られていた新聞の号外をひっつかみ、帰宅してマーリィに翻訳をせがんだ。

「わあ、シャーオ。落ち着いてってば」

 眼鏡をはずして長椅子でくつろいでいたマーリィがどっこいしょと身を起こす。

「えーっとね、フォン国は国を開き、ヴァルネイ以外との交易を再開します。自国民および外国人の自由な出入国を許可します。フォンから亡命した者の罪を赦し、帰国することを認めます、だってさ」

 最後の一文でシャオは呆然とした。

「よかったねー、シャーオ。これで国に帰れるよ!」

 マーリィは声を弾ませてシャオの肩を叩く。

「マーリィ、本当にそう書いてあるのか? 罪を赦し、帰国してもいいと」

 震える声でシャオは問う。

「うん、たしかにそう書いてあるよ。ああ、これ。皇帝と鳳凰さまが共同で発表した声明なんだね。鳳凰さまの名前が表立って出てくるなんてこれまでなかったんじゃない? どういう心境の変化なんだろう……。たしかに国が変わりつつあるのかもね」

 今回の開国宣言にはトウファが一枚嚙んでいる。最後の一文はきっとシャオのために付け加えられたものだ。シャオは無事にヴァルネイに渡った。そう信じたトウファが、一体どうやって宮廷を説き伏せたのかはわからないものの、とにかくシャオがいつでも戻って来られるように図ってくれたのだ。

 フォンに帰れる。またトーアを探せる。

 シャオの目に涙が浮かんだ。

 喧嘩別れをしたままになっていたダイダムとも会えるかもしれない。宮廷にいる彼とお目見えするのは相当に難しそうだが、なんとかして会い、直接謝りたかった。

「マーリィ、俺……。国に帰る」

 マーリィはうなずく。

「そうしなよ。しばらくあっちにいる?」

 シャオはうなずく。

「そっかあ。じゃあいろいろと片付いたらまた遊びに来てよね。手紙、書くからね」

 マーリィはにこやかに言い、今日は祝いの昼食を外で食べようとシャオを誘う。外出の準備をした。

「彼氏にも会えるから、うれしい?」

 シャオは目を剥く。

「彼氏ってなんだ」

「ええ? その耳飾りをくれた人のことだよ。彼氏なんでしょー?」

 シャオはダイダムからもらった耳飾りにそっと触れる。

「か、彼氏じゃないっ……」

「ずうっと肌身離さず身に着けてるのに? 照れちゃってえ。ほんと、シャオはかわいいねー」

 軽口でシャオをからかいつつ、ようやく財布を見つけたマーリィは戸外へと歩き出した。

 耳飾りははずしていない。シャオはいまでも、ダイダムを思っている。

 シャオはマーリィのもとを辞して食堂も辞めると、帰国に向けて準備を整えた。


 一年ぶりにフォンの土を踏みしめた。

 空が青い。はるか上空まで澄み切った色に突き抜けた空には雲ひとつ浮かんでいない。

 フンテオ一座を警戒したシャオは眼鏡をかけて金髪のかつらを被り、外国の女に化けて帰国した。だが不要な対策だったとすぐにわかった。

 一年のうちにフンテオの一座は大きく力を失っていた。まずフォンタムにあった娼館を失ったことが大きい。続いて、フンテオを筆頭に大量の逮捕者を出したことも影響している。借金のかたに女を無理に働かせるなど人の道をはずれた行いが警備局に知れ、取り潰しにあったのだ。頭を失った一座はもはや風前の灯で、まともに機能していない。

 一座の一掃作戦を指揮した警備局の局長は、ダイダムだとシャオは知った。ダイダムもまた手をまわしてくれたのだ。シャオの脅威を取り除き、国に帰れるように取り計らってくれた。

 ダイダムはまだ自分を思ってくれている。裏切った自分を赦してくれている。その証拠だととらえてもいいのだろうか。シャオの胸が高鳴る。

 だがダイダムは王族としてのつとめを果たしたに過ぎないのかもしれない。シャオに特別な思い入れなどないままに。

 どうしてもダイダムと会い、直接言葉を交わしたかった。会って真実をたしかめるのは怖くもある。ダイダムはいまでもシャオと過ごした特別な時間を忘れていない。シャオへの慈愛を失ってはいない。そういう妄想にひたっていたほうが、幸せでいられるのかもしれない。

 だがシャオは宮廷に向かうことを決意した。ただひと言、ダイダムに謝罪と、自分の思いとを伝えられればそれでよかった。

 あのときは、シャオを自分のものにするというダイダムの言葉を照れ臭く感じ、気のないそぶりをしていたが、本当は嬉しかった。妹以外の誰かが自分を愛そうとしてくれるなどはじめてのことだった。

 ダイダムの強さに惹かれた。失敗しても、何度でも立ち上がればいい。その言葉に支えられて宮廷から逃げ、海を渡り、ようやくここまで来られた。

 どうせ門前払いだろうと思いつつ、シャオはなつかしのシェンドーを訪れた。最寄りの街から広大な敷地を抜けると、赤々とした屋根を反り返らせた宮殿が見えて来る。たった一年まえのことなのに、ここで十七歳の少女として自分が過ごした日々を、前世での出来事のように遠く感じた。

 そびえ立つ城門のまえで馬車を降り、御者を引き返させた。

 陽明門を挟んで二人の兵士が並び立つ。そのうち一人が近づいて来るシャオの顔を見とがめる。あっと表情におどろきが広がった。

「伝令ー!」

 叫んで喇叭を吹くと、なかから別の兵士がすっ飛んできた。伝言を聞くと大慌てで宮殿のほうに走り去っていく。

「しばし、ここで待たれよ」

 しゃきりと背筋を正した兵が指示を出す。シャオが何事か言うまえに、目まぐるしい勢いで物事が進んで行く。

「シャオ! シャオー!」

 すこし離れたところから、高らかな少女の声がした。

「お待ちください、トウファさまー! 宮殿の外に出てはいけませんー!」

 シャオの名を呼び、遠くから駆けてきたのはトウファだった。地面に引きずる着物の裾をつまんで走る。その後ろから侍女と思われる人物がトウファを追って走ってきた。

「シャオー!」

 興奮で城門を飛び出したトウファは呆然とするシャオに抱きついた。

 これはトウファなのか。

 散歩中に野良猫に飛びつかれた愛猫家のようにシャオは目を丸くして呆けていた。後宮に秘匿されているはずのトウファにこんなにあっさりと会えるとは思っていなかった。まるで実感がない。

 トウファは裾から腰丈まで割れた伝統衣装に裾の広がった下履きを着て、そこにたっぷりと布の厚みがある着物を羽織っている。いずれも豪華な刺繍が全面に施されていた。頭には金でできた髪飾りをいただき、どういう順番で組んでいるのかわからない、複雑な手順で長い髪を結い上げている。鳳凰らしい、威厳に満ちた出で立ちだった。

 だが顔つきは変わらず、一年まえに出会ったまま。目をうるませてシャオを見つめるその顔はまぎれもなく、素朴で愛嬌のあるトウファだった。

「トウファ……!」

 友との再会にようやく実感のこみ上げてきたシャオは、トウファをきつく抱きしめた。

 追いついてきた侍女が門の外にはみ出してしまったトウファを咎めようかと進み出て、すぐに引いた。トウファがどれほどシャオと再会したがっていたかを知っている。奇跡の再会に横やりを入れるのは短慮なことだと承知していた。

「トウファ……」

 シャオの目から滝のように涙が流れた。

「ありが……ありがとう……! 帰れるようにしてくれて……! あの声明を考えてくれたのは、トウファなんだろ?」

 トウファはシャオの目を見てほほえみ、しっかりとうなずく。

「ぜったいにヴァルネイに渡り、生きているものと信じていましたから」

 二人は両腕を互いの腕にまわし、そこが縫い留められたかのようにしばし抱擁する。

 やがてトウファが身を離した。

「会えたらすぐにお知らせしたかったことが」

 トウファは着物の袖をめくる。

「鳳凰になったあとで両親に報告のお手紙を書いたのです。そのとき、一緒に確認してみました。そうしたら……。幼いころのわたくしの腕には、入れ墨が入っていたそうです」

 シャオは目を瞠った。

「人買いに捕まり目印として無理やり入れられたのだと思った両親は、わたくしを彫り師のもとに連れて行き、入れ墨を消す施術を受けさせました。わたくしは当時のことをあまり覚えていなかったのですけれど」

 ああ……。ああ……。シャオの胸が驚愕でいっぱいになる。

「どんな……図柄だった……?」

 まさか、そんな馬鹿な。吃驚と興奮とが頭のなかで交互にまわり、気がはやる。

「シャオの入れ墨の形状を両親に説明しました。その蓮をくずしたような模様。わたくしの腕にあったのも、同じもので間違いないとのことです」

 目のまえがくらくらする。シャオはまるで魂が抜け出てしまうかのような、恐悦至極のため息を吐いた。

「トーアなのか」

 トウファがトーアだった。失望をおそれることから期待を排除したい気持ちもあり、出来過ぎた偶然だとばかり思っていた。

「間違いないと思います。でも……。血のつながりがあろうとなかろうと、あなたはわたくしのおにいさまです。わたくしを守り、鳳凰の座まで導いてくれたあなたは。わたくしに生きる意味を与えてくれて、ありがとう」

 トウファがシャオに抱きつく。今度は、妹との再会をよろこぶ気持ちを腕の力に込め、シャオはきつく抱きしめ返した。

 鳥がさえずり、木々が葉をゆらす。ややあってから、トウファが周囲を見まわした。

「シャオ、なかへ。兵たちがいるのでここは安全ですけれど、私は普段、宮殿の外に出てはいけないことになっているのです。それと、会わせたい人もいますし」

 トウファは腕を組み、シャオを宮殿へと連れて行く。兵たちは頭を深く垂れてトウファを見送る。侍女が後ろからついてきた。

 会わせたい人はあちら側からあらわれた。

 宮殿へと続く長い堀を通過しているときのことだった。はじめは米粒のような小ささで人の姿があらわれ、急速に大きくなり近づいて来る。

 深い色をした青き衣。腰には剣を帯びている。甲冑姿の兵ではないのに、宮殿で帯刀を許されている唯一の人物。皇帝を除くと一人しかいない。

「ダイダム……」

 はっとおどろきに打たれてシャオは立ち止まった。かたわらのトウファの腕にぎゅっとすがりつく。

「おにいさま。大丈夫ですから」

 トウファがシャオの背中をやさしく押す。

 シャオがためらっている間にダイダムは、あっという間に二人のまえにやって来た。全力疾走したらしく、はあはあと息を切らしている。

「シャオ……。シャオなのか……」

「ダイダムさま」

 トウファが苦笑する。

「見間違えようもないですわ。たしかにシャオです」

 トウファはそっとシャオの隣から身を離した。侍女の控える横で立ち、ほがらかな顔で成り行きを見守っている。

「あの……。ダイダム……」

 ダイダムは目を見開いたままひと言も発しない。刮目した目の迫力に圧されたシャオはおずおずと切り出す。

「本当にすまなかった。おまえのこと、裏切るような真似をして。あのとき、サオトラには出くわすし、皇帝には取引を持ち掛けられるし。八方塞がりで逃げ場がなくて、どうしようもなかったんだ。おまえに相談していたら別の道も切り開けたかもしれないのに。でも、おまえを巻き込んで迷惑かけたくなかったから……」

 シャオがすべてを話しきらないうちにダイダムはシャオの右腕をつかむ。そのままぐいぐいと腕を引いてシャオを連行する。

「お、おい! どこに……?」

 シャオは体を斜めにして引きずられるようになっている。

「トウファ!」

 宮殿方面に歩みを進めつつ突然、思い出したかのようにダイダムが振り返り叫んだ。

「おまえも積もる話があるだろうが、先にシャオを借りるぞ!」

「どうぞ、ごゆるりと!」

 拡声器代わりに口の横に手を当てて、トウファも叫び返す。

 シャオはむっつりとしたダイダムに手を引かれて、王族用の移動装置に乗せられた。ダイダムが碁石を動かして把手を引くと、ものすごい勢いで移動してどこかへ向かう。

 到着した先はこれまでシャオの立ち入ったことのない部屋だった。二つの丸い把手が着いた重厚な扉には全面に装飾がほどこされている。

「ここ、どこだ?」

「俺の部屋」

 隠し部屋ではなく、宮殿内にある。こちらが公としてのダイダムの私室だった。

 ダイダムは扉を開け、シャオをほとんど突き飛ばすようにしてなかへと導いた。扉の把手になにかをかけてから閉める。

「俺が出てくるまで、勝手に開けるなという印だ」

 性急に説明したダイダムはシャオの手を引き、勢いよく抱き寄せた。

「おかえり、シャオ」

 背中にまわされた腕の熱が骨まで伝わる。

「怒っていないのか……?」

 ダイダムはむっとした顔で目を細める。

「怒っているさ。俺にひと言も相談がなかったこと。一人で身の危険を冒したこと」

 にらまれてシャオはしゅんとした。

「だがトウファとドゥグに事情を聞いて、おまえが追い詰められていたことがよくわかった。そこで頼られなかったのは俺の落ち度だ。おまえだけを責められない」

 ダイダムが自分を赦してくれている。シャオは安堵し、涙をにじませた。

「髪を切ったんだな。似合っている」

 ダイダムの手が髪の毛に触れる。

「ああ……。逃げるときに切り落としたから。いまはすこし伸びた」

 まっすぐの毛先がシャオの肩でゆれた。

「ダイダム。俺、会えたら伝えたかったことがあるんだ」

 人生ではじめての愛の告白に、シャオはおおいにまごついた。照れて視線をあちこちに這わせつつ、やがて口を開く。

「あの話はまだ有効か?」

「あの話?」

「その、俺をおまえのものにするという話だ」

 頬を赤く染めつつシャオは、ダイダムから視線をはずさなかった。

 ダイダムがすっと手を伸ばし、シャオの髪をかき分ける。

「いまでも耳飾りをしてくれているんだな」

 ダイダムの指がりん、と耳朶の金属をはじいた。ダイダムに無理やり開かれたところに装着された金の輪は、鳳凰選抜からずっとシャオに寄り添っていた。一緒に海まで渡った輪。シャオは自分とダイダムを唯一つなぐお守りのように感じていた。

「はずしかたがわからなかったのか?」

「いや。工具を使えば無理にでもはずせた」

 ダイダムの瞳の表面にゆらぎが見えた気がした。

「ダイダム、おまえの教えてくれた強さのおかげで、俺は自由になれたんだ。本当にありがとう。会って、直接そのことだけ伝えたかった」

 ダイダムは無言だ。試すようにシャオの心の内を読み取るように、深い黒の瞳で見つめる。真意を伝えきっていないことを見透かされているようだ。シャオは逡巡しつつ口を開く。

「それから、おまえの強さが好きだ。おまえに惹かれている。また会えたら気持ちを伝えたいと、この一年ずっと思ってた」

 シャオの唇がふさがれた。厚みのあるやわらかい唇でダイダムは何度もシャオの唇を食む。表面だけを吸われるのがもどかしく、シャオは自ら口を開けた。

 もつれるように寝台へと移動する。二人してどおっと横倒しに倒れると、厚みのある寝台がやわらかく沈み、体を受け止めた。

「シャオ、俺もだ」

 ダイダムが急いた手つきで服のまえを開き、革紐に通された装身具を見せる。片方ずつシャオと分け合った耳飾りの輪があった。

「俺もおまえが好きだ。いまでも気持ちは変わっていない。必ず、戻って来るものと信じていた」

 ダイダムが脱衣するのに合わせてシャオも服を脱ぐ。あたたかな寝具に包まれて、素肌をぴたりと触れ合わせた。羽毛のたっぷりと詰まった長枕が、割れやすい卵を扱うようにやさしくシャオの後頭部を包み込む。

 ダイダムが紐を引くと、えんじ色の天蓋が寝台を丸ごと覆った。二人だけが存在を許された天幕のなかでダイダムの手が伸び、寝台横の卓を探る。引き出しのひとつを開けると、なかから精油を取り出した。まだ未開封のものの封を切り、中身を手に垂らす。麝香と香草の混ざったようなにおいが天幕内に満ちた。

 ダイダムはシャオの秘所を探り、精油を塗りつける。なかがほころんだところで性急に押し入ってきた。

「すまない、シャオ。余裕がない」

 ずん、となかを穿たれる。媚薬で体がおかしくなって以来味わう、快感を求めて昇り詰める感覚がシャオに戻ってきた。

「ふ……あっ……」

 熱い肉塊が内部を行き来する。敏感なしこりをこすり上げられシャオは体を震わせてよろこんだ。

 寄せては返す波のような、おだやかだが継続して力強い満ち引きが繰り返される。合間にはずっと口づけを交わしていた。いろいろと話すまえにまずどうしても、体同士で語りたがっている。離れている間もたしかにお互いを思っていたことを。

「ああ……ダイダム……。そこ、だめだ……」

 背中を逸らしシャオは悶絶する。

「どこだ? だめではなく、いいと言ってほしい」

 シャオの求める場所をダイダムは探り、緩慢な動きで腰を振る。

「ああっ、あ、ああん……っ」

 内部の一点に収斂された愉悦が全身に広がる。特にひどいのはシャオの雄芯だ。腹につくまで立ち上がったそれは、触れられてもいないのに激しい熱で燃え盛っている。

「あん、ダイダム、俺、もう……」

 ひくひくと喉を震わせながらシャオは達した。腹に白いものがまき散らされる。

「まだ終わりじゃない。まだ足りないんだ、シャオ」

 甘えるようなすがるような声でダイダムが続きをねだる。その甘さはシャオの胸の奥を羽根でくすぐり、きゅんと縮み上がらせた。

「ああ、いい……。俺もまだ、足りないから」

 内部に埋められたものを引き抜かないままに、腰の動きが再開される。とろ火でなにかを煮込むような、丁寧で執拗な動きから徐々に、肌同士がぶつかり破裂音を立てる激しさを伴っていく。

「ああっ、ああっ、あ……っ」

 一度落ちたのも束の間、シャオは再び高く高く舞い上がる。体で感じるダイダムの熱が、肌に飛び散る汗が、シャオのことをどれほど思っていたかを訴えてくる。

 かつての愛を失い、愛に裏切られることをおそれていたシャオはもういない。

 気持ちを翻弄されるのはおそろしく、求めている愛が手に入らないのはむなしい。

 むなしさにためらっているだけでは、愛は手に入らない。一度は弾かれても、何度も手を伸ばし続ければいい。希望をつないで未来へと渡る強さを秘めたダイダムが教えてくれた。

 シャオはダイダムの体を抱きしめる。なかで熱い生の奔流を感じ、そのあたたかさに酩酊したシャオもまた、命の咆哮を飛び散らせた。


 汗まみれになり、湿った体を寝具に横たえる。やわらかな素材の敷布は肌当たりがいい。薄物の掛布を胸まで引き上げると、心地よさからシャオは思わずまどろみそうになった。

「それにしても、俺がフォンを離れてからたった一年で開国宣言か。あのドゥグアロイを説得するのは大変だったんじゃないのか」

 肘を支えにシャオに向き直ったダイダムがきっぱりと否定する。

「そうでもない。すべてトウファのおかげだ」

「トウファはどんな手を使ったんだ」

 あのおっとりとして競争意識の薄かった娘が、皇帝と対等に渡り合ったというのか。声明は共同で発表されていたので、皇帝に立場を認められているのは疑いようもないが、わかには信じられない。

「おまえがいなくなってから、しばらく大変だった」

「どうして?」

 ダイダムは当時の苦労を思い出すかのように天井をにらむ。

「俺は、本気でこの国が壊れるかと思った」

 最終決闘場となった鳥かごからシャオが逃げたあとで、トウファが大暴れしたらしい。空は黒く厚い雲に覆われ、花を腐らす長雨が七日間降り注ぎ、雷鳴が轟く。海は暴れ狂って荒れ、この島ごと削り取ってしまうのではないかとおそろしくなるほどの勢いで、岩礁には高い波が打ちつけた。長く眠っていた活火山が突如目覚めて活動をはじめ、山の頂から吹き上げる白い煙が幾筋も目視できるようになった。

 怒りに駆られて天変地異を巻き起こしたシャオは皇帝に要求した。自分の代で、鳳凰制度を終わらせろ。鳳凰に依存しない国を作れ。さもなくば、この国と皇帝を呪う。

 トウファの呪いが国中に満ちていく。自然豊かでうつくしいはずのフォンが、この世の終わりの様相となる。皇帝の術を跳ね返したトウファやはり、歴代最強の力を秘めていた。自然現象が本格的に人々の生活を脅かす寸前、圧倒的な力を目にした皇帝が折れ、トウファの要求を呑んだとのことだった。

「そうか」

 それを聞いてシャオは安心した。

 トウファはもう国のために祈らなくていい。今後、呪いの力で自らを蝕むことはない。歴代の鳳凰たちよりも長く生きられる。

 千年王国を長らく支えた鳳凰の伝統が終わる。ひとつの終わりは新たなはじまりだ。これからフォンは国を開き、諸外国と交流するなかで自らの立ち位置を模索し、新たな枠組みを持った国として再生することになる。

 しばらく体を休めると、シャオはダイダムに付き添われて露台へと出た。宮殿の中庭に面しており、外からは見えないようになっている場所だ。

 うつくしく整備された庭が見える。木々が植えられ大きな池が配置され、堂々たる自然の様子を限られた空間内に再現していた。

「きれいだな」

 ぬるんだ心地のよい風に髪をなぶらせ、シャオはほほえむ。

「気に入ったか? これからここがおまえの部屋だ」

 ダイダムは背後からシャオの痩躯を抱きしめる。

「あ、おまえのというか、俺たちの愛の巣というわけか」

「また、阿呆なことを言う」

 馬鹿な発言にシャオは苦笑する。

 ひゅろろーと一羽の鳥が鳴く。シャオは空を見上げた。

 大きく翼を広げた黒鳥が空を行く。鳥は軽快に飛翔し、どこまでも続く青空のかなたへと飛んで行った。

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孤独な鳥は後宮で愛を知るか? 森野稀子 @kikomorino33

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