第6話
異例の最終試験はそれから三日後に催されることになった。
第五次試験後に候補者が複数残った場合の追加試験らしい。なにをさせられるのか、また事前に説明はなかった。
試験当日の朝、シャオとトウファはそれぞれ別の宦官に付き添われて、後宮を出た。宮廷内の控室に連れて行かれ、そこで衣服を着替えさせられる。娘の衣装を脱ぎ、丈の短い上着と下履き、長靴を履かされた。その上から前開きの着物を羽織る。貴族の男の戦装束のようだった。
そこから馬車で宮廷の奥へと連れて行かれた。宮廷から見て北西にある。ちょうど霊廟の反対側に位置している場所だ。
三十分ほど走ったところで馬車が止まった。
不可思議な空間だった。はるか地底に向けて巨大な空洞が開いている。
石造りの扉が左右に大きく開閉されて、地面がぼっかりと口を開けているのだ。その幅は、後宮でシャオたちのいる部屋を丸ごと飲みこんでもまだ余裕があるほどだ。穴の内部を見やると、岩石を削り出して作った階段がらせん状に下へと続いている。ようやく人一人が通れるくらいの狭い階段に、落下を防ぐのは心もとない手すりだけだ。シャオは手すりに手をかけ細い階段を下り、下へと向かった。
――ドゥグアロイ……!
地下空間へと下りる階段の途中、反対側の壁面に皇帝が座しているのをシャオは目にした。どうも、玉座が壁にはめ込まれているようだった。その周囲には兵士が二人、控えている。
これから行われる試験の内容を当然知っているであろう皇帝は涼しい顔をして、目のまえに視線を向けていた。
やや離れたところにはブン翁と、家来に付き添われたダイダムもいる。ともに岩肌をえぐって作られた物見台に立ち、ダイダムは憮然とした様子で腕組みをしていた。
「よもや、この奈落の蓋が再び開くことがあろうとは……」
宮中で仕える者たちも、普段は立ち入ったことがない空間らしい。奇妙な空間のおそろしさに体を震わせ、つい職務に徹することを忘れた宦官が漏らす。
「ここはなんなんだ。なにに使われるところだ?」
背後からシャオの問いに、宦官は首をふって答えない。
「開くのは三十年ぶりだ」
直接の答えを返す代わりにそんなことを言った。
空洞の途中でシャオは止まるように言われる。シャオのいるほうから反対側まで、手すり代わりの綱が取り付けられた細い橋が渡されている。そこを渡り、移動する。空洞の中央に木をつなぎあわせた巨大な一枚板が渡されていた。四隅を鎖で吊られて、ひとつの大きな筏が宙に浮いているように見える。
――トウファ。
やがてシャオがいるのとは反対側の階段、皇帝に近いほうの階段を下りてトウファが向かって来た。二人が同じ位置にそろうと、巨大な一枚板に降り立つように指示された。
板は足踏みをするときしみ、心もとない。四方が鎖で支えられているのみで隙間は空いている。落ちたら奈落へまっさかさまだ。地下空間はまだまだ続いており、終わりが見えない。
不安定な高所に立たされ、シャオの心臓がばくばくと鳴りはじめる。トウファも同じだけの緊張を抱いているはずだ。
見上げるとはるか高いところから陽光が差し込んでいる。巨大な井戸のなかから地上を見上げているようだ。
宦官が、盆に載せた刀をシャオに差し出す。シャオは刀を取り、トウファも同じく刀を手にした。
「それではこれより、鳳凰選抜の最終試験を開始する」
最後は皇帝自らが取り仕切るらしい。ドゥグアロイの声が朗々と地下空間に響き渡る。
「最終試験は、どちらか生き残ったほうを鳳凰とする。相手を呪い、制圧せよ」
「シャオ! トウファ!」
ダイダムが前のめりになり、叫ぶ。すぐさま兵に取り押さえられた。
「ダイダムさま! お静かに! 退場させますよ!」
兵の脅しでダイダムは沈黙した。いきり立っていたが渋々、おとなしくなる。
「鳳凰の力は祈りの力。反転すると、呪いでもある。私にそなたらの力を示せ」
ドゥグアロイの冷たい声が響く。
殺しあえということか、トウファと。
シャオの額から冷や汗が垂れる。対面にいるトウファはおびえきった表情だった。
仲間と殺しあう悲しさになぶられたその表情を見て、シャオは唐突に理解した。
前鳳凰のスホが、鳳凰になるためにしたことで悔いていたこと。ここが開くのは三十年ぶりだということ。
まえに開いたのは、スホが鳳凰選出された年のことだ。スホはここで、寝食をともにした少女と殺し合い、勝利した。鳳凰になるためその手で、仲間だった少女を手にかけたのだ。そのことを生涯、悔いていた。
二人とも硬直したまま動かない。ひゅんっと足元に弓矢が飛んできた。皇帝のそばに控えている兵士が放ったものだった。一人が放つと、岩壁に散り散りに配置されていたほかの兵も続き、二本、三本と飛んで来る。シャオを急き立てて、トウファと戦えとうながしている。トウファをやらなければ、矢を撃ち込まれ続けるという脅しだ。
トウファにも弓矢が放たれる。シャオは仕方なく中央へと進み出た。矢から逃れるため、トウファもおぼつかない足取りで中央へと進む。二人が進むと不安定な板がゆれる。奇妙なゆれを体で感じ、めまいを起こしそうだ。
シャオは刀を構え、トウファに向かった。
「トウファ、構えろ!」
応戦するように命じて刀を振り下ろす。
「きゃあっ」
トウファは降り注ぐ針の雨から身を守る傘をかかげるように、頭上に刀を構えてシャオの攻撃を受け止める。かしーんと乾いた音が反響し、刃が触れ合った。
「トウファ、戦っているふりをしろ。その間に俺が逃げ出す方法を考える」
シャオは顔を近づけて指示を出す。何度か刀を合わせて、すばやく身を離した。
呪いの力で相手を殺せと言うのならなぜ武器を持たせる。わかりやすく、殺意を煽り立てるためか。
シャオは一瞬だけ、ドゥグアロイをにらんだ。皇帝はいつものおだやかなまなざしで、試合の成り行きを見守っている。
トウファと間合いを取り、刀を構える。矢を撃ち込まれないように時おり、接近しては刀を合わせて金属音を鳴らす。手加減をしているつもりが、トウファはシャオの攻撃を受け止めるのが精一杯の様子だ。刀の重みに耐えられず、足がふらついている。
まだ少女なのだ。十七歳のか弱い少女。
弱き者同士を戦わせる。恐怖を煽り、防衛本能から強い呪いの力を持つ鳳凰を作り出す。鳳凰選抜のやり方にシャオは怒りをつのらせる。
許さない、と思った。トウファだけはなんとしても助ける。
だが地上ははるか上だ。皇帝に兵まで見守るなかで、トウファを連れての脱出は不可能だ。階段を駆け上がっている途中で捕まってしまう。
どちらかが鳳凰になるしか道はない。それは同時に、どちらか一方の死を意味する。
膠着が長く続くと、すかさず矢が飛んでくる。
トウファが集中して狙われ、あわれに逃げまどっていた。
「トウファ!」
シャオの声にも応じている余裕はない。
「トウファ! 逆から射られるぞ!」
ダイダムも頭上から声をかける。また兵に取り押さえられていた。
「きゃあっ」
トウファは足をもつれさせて転んだ。どどどど、と容赦なく矢が射られる。トウファは板上を転がり、這いまわり、必死に逃げた。
連続して降り注ぐ矢の動き。まるでトウファをどこかへと誘導しているような……。
「危ない!」
シャオは駆けだした。逃げるのに必死で気づいていない。このままだとトウファは、板の隙間から下に落ちる。
あと一歩間に合わず、トウファは板から転げ落ちた。
「トウファーッ……!」
シャオの悲鳴が空気を切り裂く。
助けられなかった絶望感でがくりと膝をついた瞬間、ばさりと大きな音が響いた。なにかが羽ばたくような音。
翼がはためく。下からトウファが上がってきた。
「トウファ! トウファ……ッ⁉」
一度目は安堵して名を呼んだ。二度目は驚愕して、名を叫んだ。
トウファから翼が生えている。正確にはトウファの肩から先が両腕とも、大きな鳥の羽に変わっているのだ。極彩色をした羽だ。
黒髪のうつくしい女の体の一部が、鳥の姿に変わっている。人と鳥の融合したその姿は、絵画や彫刻で描かれてきた鳳凰そのものだった。
伝説は、伝説ではなかった。鳥の姿に変わり敵艦隊の間を飛びまわったという十代鳳凰のラムトゥ。彼女もたしかに鳳凰へと変異したのだ。
トウファにはあったのだ。鳳凰の資質がたしかにあった。
そのことに気がつき、シャオの体にびりっと電流が走る。
あの霊廟では、祈りの力を目覚めさせたたった一人が生還する。例外が発生し、複数が生還したときのためにこの決闘上は設けられている。
あのとき……。あのとき、トウファが羽を押さえ込み叫ぶと、悪しき者は絶命した。
物理攻撃は効かない相手に、とどめを刺したのは自分ではない。トウファだ。あのときすでに、鳳凰の力がトウファのなかで目覚めていた。
シャオは愕然として、空中に浮き上がるトウファを見つめた。
「成ったな、鳳凰に」
ドゥグアロイが立ち上がる。
「鳳凰。またの名を呪われた怪鳥ヂン」
ドゥグアロイはトウファに語りかける。突然変異したおのれの体に戸惑い、泣き出しているトウファに向かい、容赦のない言葉を浴びせかけた。
「祈りは呪い、呪いはまた祈りだ。私のためにシャオを殺せ。殺して国の守り神となれ」
「いや……!」
トウファは空間を飛びまわる。羽が疾風を巻き起こし、周囲が突風に煽られる。風で奈落に振り落とされてしまいそうだ。試合の成り行きを見守っていた兵たちは、手すりにすがりついてふんばった。
シャオはここがこれほど深いのにも納得した。鳳凰へと変異した者の姿を外部にさらさないための鳥かごなのだ。
「シャオを殺すなんて、したくない……!」
トウファは制御の効かない翼に振りまわされている。
「シャオ、わたくしいやです。あなたを殺すなんて、したくない」
トウファの意志とは裏腹に、羽根が先からどす黒い色に変わって行く。
祈りの力は呪いへと変わる。鳳凰は体に毒をため込み、飛ぶだけで農作物を枯らし、人を死に至らしめたという神話の毒鳥、ヂンへと変わろうとしている。
あの羽根にかすられただけで、おそらく人が死ぬ。いまやトウファの両翼はすっかりと闇色に染まった。
「シャオ……!」
自らの翼の制御を失った、悲しくきれいな生き物がむせび泣く。
どちらかが鳳凰になり、どちらかが死ぬ。逃げることは死と同義だ。そんなことを考える暇もなく、シャオはとっさに思っていた。
トウファに人殺しをさせたくない。スホと同じように生涯に渡り、この手でシャオを殺めたことを後悔させるなど、あってはならない。
「もうやめだ!」
シャオは叫んだ。
シャオは乱暴に上着の留め具を引きちぎりまえを開く。薄い胸があらわになった。
「俺は男だ!」
時が静止したように、周囲の混乱も興奮も、一瞬のうちに静まった。
「ずっとおまえらを騙していた! 俺は女と偽り鳳凰選抜に潜り込んだ! 最初から鳳凰の資格はない! オウカとフーヨウが去った時点で、トウファが鳳凰に決まっていた! そうだろう⁉」
たしかに試験の規則上はそういうことになる。
「最終試験は中止だ! トウファに俺を殺させる必要はない!」
しん、と静まり返った。トウファの翼がはためく音だけが鳥かごを満たし、微風を巻き起こしている。誰しもが凝然として、おどろきに見開かれた目でシャオを見つめていた。誰も、なにも言わない。判断はドゥグアロイにゆだねられた。
ややあってから、ドゥグアロイが口を開く。
「トウファ。きみがわたしの鳳凰だ」
皇帝は時代の節目を宣言し、かたわらの臣下になにごとか耳打ちする。
殺される。
シャオはそう直感した。板の舞台から橋に飛び移り、走る。走って地上への階段を駆け上がる。
「逃げたぞ! 捕らえよ!」
兵の一人が指示を出し、シャオのすこしまえで待ち伏せをしようと細い通路に走り込んでくる。
あいつらを突破できるか。持っていた刀をシャオは構える。
そのとき、思いがけないことが起こった。強風が巻き起こる。下から吹き上げられる、竜巻のような風だ。トウファが地上へと急浮上してきたのだ。大いなる力にふりまわされていた先ほどまでとは違い、明確な意志を持ち飛翔している。
ぶわ、と周囲に鳥の羽根がまき散らされる。毒を持つヂンの黒い羽根だ。
「ひ、ひいっ……!」
羽根に触れるのを兵は怖がり、その場で身をかがめている。
トウファがシャオを逃がそうとしてくれている。シャオは好機を逃さず、地上へと走った。鳥かごを抜けるとすぐさま近くに止めていた馬車から馬を外して乗る。そのまま一目散に駆ける。宮廷を走り抜けた。
木立と田園のなかを走り、シェンドーを抜ける。
追っ手が来る。トウファがどこまで時間を稼いでくれるのかはわからないが、いずれ追いつかれる。いまのうちになるべく距離を離しておく必要がある。目指すのはタロ海峡だ。
宮廷のサオトラもまもなく、試験の結果を耳にすることだろう。兵士に加えてフンテオたちの追っ手も加わるはずだ。
シャオの行き先について、当たりはついていることだろう。伝書鳥を放たれて、海峡では兵と、フンテオの一味に先まわりされているかもしれない。それでも唯一、逃げ延びられる可能性が高い脱出口はそこだけなので、行くしかない。
シェンドーを出て丸一日走ったところで街に寄り、長距離を走破してくたびれた馬を乗り換える。夜を徹してまたシャオは走った。すこしでも変装の代わりになればと途中、結び目の根本から刀で髪を切り落とした。あごの長さになった髪をふり乱し、シャオはタロ海域へと馬を走らせる。
夜通し走ったおかげで、夜が明けるころには目指す場所が見えてきた。陸側からタロ海峡へ出るには、渓谷を超えていかないといけない。シャオの目のまえに稜線が隆起する。岩と草木で構成された山だ。
シャオは馬から降り、野に放った。
ここから港に出る人がいるので、渓谷は人が通れるように整備されている。草の生い茂ったところは開かれ、土が剝き出しの小道からは石や岩が取り除かれて歩きやすい。それでも中腹を過ぎるとすこしずつ傾斜がきつくなってくる。シャオのこめかみに玉の汗が浮かんだ。小川の水で喉を潤し、先へと進む。
背後から人の気配と、話し声のざわめきを感じた。シャオはとっさに草の生い茂る木の陰に身を隠す。小道をはずれると、シャオの背丈ほどもある野草が生い茂っているので、かがむとちょうどよく目くらましになるのだ。
港へと出る貿易商だろうか。じっと身を潜めて正体を誰何する。耳をすますと、シャオの蝸牛が会話をとらえた。
……もう海峡に出たのか……
……まだ連絡が来てからそんなに時間が経っていない。サオトラの話じゃ……
サオトラ、という名前を聞きつけ、シャオの体がびくんとする。
とうとう来た。フンテオが放った追っ手のほうが先に来た。
シャオはそっと草むらを移動する。服が草をなでてざわざわとした音を立てるので心臓が縮み上がりそうだ。
小道に戻るとシャオは頂上に向かい走る。反対側に出さえすれば、海峡はもう間近となる。
「おい! あれ!」
背後から怒鳴り声がする。とうとう見つかってしまった。
シャオは歯を食いしばり山道を駆ける。徹夜でふらふらの体に傾斜が負荷をかける。筋肉が張って足が痛んだ。
ひゅんっと矢が飛んで来て、シャオは足を止めた。放たれる矢から逃れようと左右に蛇行する。
すばやく振り返り確認する。追っ手は二人だ。まだほかの者もあとから追いかけて来るのかもしれないが、とりあえずこの二人から逃れれば、また先へと進める。
シャオは立ち止まり、交戦することにした。護身用にそのまま持っていた刀を抜く。
シャオが静止したのをさいわいと、男たちも刀を抜いて駆けてきた。近くに来た顔を見て、あっと思った。フォンタムで見かけたことのある二人だ。三十路がらみで口髭が生えている。体が頑丈なので荒事に抜擢されることの多かった二人だ。
「シャオ、ひさっしぶりだなあ」
男が刀をぺろりと舐め、にやにやと笑う。シャオは身構え、男をにらみつけた。
「来るのがずいぶん早かったな。宮廷の兵よりも早い」
「おうさ。おまえさんがとんずらしたときの備えで、俺たちゃ近くの街に先まわりさせられていたんだよ」
逃走など無駄だったのだと言いたげに、もう一人がぎらついた目でシャオをあざ笑う。先に手を打っていたとはフンテオもかなり用心深い。ねばついた執着心とも言う。それは金に対する執念というよりは、裏切り者は見せしめに必ず排除するという、統制と秩序を重んじる冷徹な組織の長としての判断によるところが大きい。
「シャオ、いまはまだ殺さねえ。俺たちと来い」
シャオは後ずさる。
「おまえを生きて宮廷に差し出せば謝礼金がもらえる。親父はそれで手を打つと考えている。な、悪い話じゃねえだろ? ここで俺たちとやりあうよりも生きられる可能性が高いぜ」
そんな剣呑な口車には乗るかとシャオはいっそう顔をけわしくする。自分を人質に法外な身代金をふっかけて、鳳凰と同じだけの報奨金を手にする算段に違いない。宮廷に引き渡されたらシャオは皇帝に始末される。
シャオはなにも言わず、刀を地面に置くふりをした。
「そうそう。さあ刀を捨ててこっちに来い」
男二人が誘うのに乗ったふりをしてすこし近づく。近づくと片手を振り上げて、男たちの顔に向かい砂を放った。目に命中し二人は顔を伏せ涙を流す。
「シャオっ! てめえっ!」
砂粒に目をやられてもがいている男にシャオは、急いで拾った剣の峰で一撃を加えた。すねを強打する。
「あがあーっ!」
断末魔の叫びで男は倒れ、シャオに打たれた足を押さえている。しばらく腫れて、大きな青あざができるのは間違いなく、ひょっとすると骨にひびが入っているかもしれない。
「くそおっ」
涙をこぼしながらも目を開け、シャオに刀を向けるもう一人の間合いにもすばやく滑り込んで胴に一撃を見舞った。男は地面になぎ倒される。
「あんたたちを殺したくはない。退け」
一座にいたころにおそれられていた冷厳さを持って、シャオは男たちに命ずる。
「馬鹿か、てめえは。親父のやり方はよくわかってるだろうが。そんなことしたら俺たちがただじゃすまねえよ」
胴を打たれた男が脇腹を押さえつつ立ち上がろうとする。
「ああ、そうか。じゃあ宮廷の兵に追いかけられて俺は死んだとでも言っておけ」
男たちが回復するのにまだ時間がかかりそうだと判断し、シャオは身を反転させ、山頂へと駆け上る。
ばあっと視界が開ける。眼下には大きな海が見えた。タロ海峡に出たのだ。
シャオは山道を滑り降りるようにして、今度は下る。
タロ海峡には大小さまざまな大きさの島が何千と浮かんでいる。深い青緑色をしたうつくしい海に、意志を持ってにょきにょきと生えているかのような島嶼が林立する。神々の住まう島にやって来たかのような不思議な光景だ。
ぴぃーっと下のほうから警笛が聞こえる。なんだ、とシャオは身構えた。
兵士たちが徒党を組んでこちらに上がって来る。シャオは肝をつぶした。
ちっと舌打ちをして身をひるがえす。やはり伝書鳥で自分の来訪があらかじめ知らされていたのだ。沿岸を警備する十人余の兵たちが岩山を登って来る。
もうすこし、もうすこしなのだ。海まで出られればどうにかなるのに。
シャオは走る。兵たちは統率力を持つように鍛え上げられ、またここの地形もよく把握しているようで、拡散して連携を図る。逃げるシャオを一方的に追いかけているようでその実は、逃げ場がないところにさりげなく追い込んでいる。
やがてシャオは絶壁に追い詰められた。正面からは兵士たち。その奥から、どうにか回復して追いついてきたらしいフンテオ一座の二人組が続く。
「おおい! そいつは俺たちの獲物だ! どうだい兵士さんがた。あんたたちはこの場を離れられないだろう? 俺たちがこいつを宮廷に連れて行くぜ」
追い詰められたシャオを見てあざ笑いながら手下が取引を持ち掛ける。兵たちは身なりの卑しい二人組を訝り、返事をしなかった。
兵たちは甲冑に刀を帯びている。弓矢を背負っている者もいる。装備がまるでシャオとは違う。
はるか下に青緑色の海が見える。波が岩礁に打ちつけられ、白いしぶきを上げていた。
空には鳥が。岸壁で起こっているごたごたなどあずかり知らぬといった様子で悠々と空を舞う。
絶体絶命だ。ここで兵に捕らえられ、宮廷へと連れ帰られる。抵抗すれば即座にこの場で命を落とす。
でも、まだだ。シャオはまだ、あきらめてはいなかった。
逃げること、敗北することは死だと思っていた。
シャオは一度、トーアの手を離した。いとおしい者の手を自ら離してしまったのだ。その選択を後悔していた。
トーアのいない一人きりの人生はとてもさびしかった。たとえフンテオにどれほど汚い仕事をさせられるとしても、本当はあのとき無理やりにでも手を引いて一緒に連れて来たほうが、自分のとってもトーアにとっても最善だったのではないかと何度も悔いた。
死を偽装して、なんとかしてトーアとの生活を守ることから逃げた自分は弱い人間だ。大事なものを取り返すためにもう二度と、逃げることは許されない。
逃げること、失敗することを忌避する感情はシャオの魂の奥深くに刻み付けられて、あらゆる場面で心の奥から声を上げる。逃げるな、逃げることは負けだ。死だ。
だが、すこし違うのかもしれない。頬をなでる風が、シャオに気づきを与える。
発端はあのフォンタムで捕らえられた五人の娘たちだ。シャオは娘たちを逃がすという大失態を犯した。それでフンテオの怒りを買い、殺されかけたのだ。だが同時に好機にもなった。フンテオのためにろくでもない奉仕を続けさせられる生活からの解放だ。
「あの五人はどうなった?」
シャオは手下二人に問う。緊迫した場面での唐突な質問に、男二人はぽかんと口を開けた。
「俺が逃がした黒髪の娘たちだ! 追いかけられて捕まったか⁉」
補足するとようやく考えが至ったようで、男二人は顔を見合わせ、一人が言った。
「わざわざ追いかけたりしねえよ。代わりにおまえが後宮に入ったからな」
「そうか」
シャオは安堵でほほえんだ。
第四次試験で試しの場となった霊廟では一人残り、命にかかわる重症を負った。だがそのおかげで残りの娘たちは助かったのだ。本来なら、資質のない候補者をふるい落とすための罠となっていたあの魔物の巣で、三人とも絶命していてもおかしくはなかったのに。
あれほどこだわっていた鳳凰の座も自ら手放した。トウファのためだ。トウファに人を殺めさせてはならないという強い信念に突き動かされた。
シャオは負けたのだ。負け続けたのだ。ただ、それで救われる命があった。
逃げることはそこでなにもかもが終わりということではない。負けることは死ではない。現にシャオはまだ生きている。
逃げて負けて、そこから立ち上がりまえに進み続けるのが生きることだ。立ち上がるのをあきらめたときこそが、死なのだ。
シャオはじりじりと後ずさる。兵たちもまた、じりじりと歩を進めた。道幅が狭いので互いに押し合いへし合いをしないように慎重に移動している。
シャオの背後にはなにもない。ただの断崖絶壁だ。海からの高さは、宮殿の建物の軽く倍くらいはある。
空は無風。雲ひとつない突き抜けた青い空。ひゅろろーと鳴く、鳥の声を聞いた気がした。
俺は鳥だ。自由な鳥になるんだ。
これは死への旅立ちではない。生き続けるための一時退避だ。
シャオは地面を蹴り、背中から真っ逆さまに海へと落ちた。
ああっとおどろきの声とともに、兵の一人が駆け寄る。ついいましがたまでシャオの立っていた位置に膝をつき、下をのぞきこんだ。兵士が目にしたのは、岩にぶつかる波の立てるのとは違う、やや大きな水しぶきだった。
数人の兵も駆け寄り、眼下の様子を確認する。シャオは海に落ちた。海面から人が顔を出すことはない。
数分待っても、誰も浮かび上がって来る様子はない。シャオは海底に沈んだのだ。追い詰められたシャオが生をはかなみ、自殺を図ったものと判断した兵たちは宮廷に向かい、伝書鳥を飛ばした。
シャオは死んではいなかった。岩礁の陰に隠れて、激しく打ちつける波に体をさらわれそうになりながら、岩に張りついて必死に耐えていた。
誰もシャオを探しに来る気配がないとわかったところで、シャオは着物を脱いで上着一枚となった。下履きと長靴も脱ぎ捨ててしまいたかったが、体が冷えるのを防ぐために履いたままにしておいた。
沿岸に兵たちが戻って来るまえに、海へと泳ぎ出た。岩と苔と青々とした草木で構成された島々の浮かぶ間を進む。
死んだと見せかけて、このままタロ海峡を泳ぎ、ヴァルネイへと向かう。船で六時間の距離なので、泳いで渡るにはその五倍以上はかかるだろう。ヴァルネイは陽が沈む方角にある。進むべき方向はわかっている。また島々の連なりはヴァルネイの近くまで続いている。途中、どこかの岩礁にへばりついて休みつつ進めば、できないことはないと思った。ヴァルネイ近くに行けば貿易船、漁業船に出くわす可能性も高くなる。
いつ遭難するとも知れない、あまりにも無謀な挑戦だ。それはシャオ自身もよくわかっている。大海へと泳ぎ出るおそろしさで一瞬、体が震えた。
海面から顔を出して泳ぎつつ、空をあおぎ見る。晴れ晴れとした青空だ。この空を、鳥人間になったラムトゥが舞った。
先ほど海に飛び込んでみてわかった。ここから落ちたら死ぬかもしれないという後ろ向きな気持ちでは、シャオは決して飛べなかった。この先に希望があると信じられた。だからあのような無謀なことができたのだ。
きっとラムトゥも同じだった。自分の身を犠牲に敵艦隊と相打ちを果たす。そんな決死の覚悟で飛んでいたわけではないだろう。皇帝を救い出せるのは自分だけだ。救い出した皇帝ともう一度、国を立てなおす。そんなよろこびに打ち震え、希望で心を熱くしながら大空を飛翔していたはずだ。
シャオはラムトゥのことを、愛に裏切られたかわいそうな鳳凰だと思っていた。だが違う。胸に情熱をたぎらせる勇気ある鳳凰だった。結果として燃え尽きてはしまったが、たった一人で敵を蹴散らしたその姿の気高さは、誰にも貶す資格はない。
ラムトゥは最後には皇帝の愛を勝ち得たのだ。ラムトゥの死後、都での華やかな暮らしを捨て、そばで祈りを捧げ続けるように余生をかけて寄り添う。そんなザムネイの姿は、ラムトゥへの疑いようのない愛にあふれている。もっと早く通じ合えていたらなどと外野が勝手な仮定をするなど、二人の尊い絆のまえでは無粋だ。
ラムトゥ。俺はあんたを誤解していた。自分の手で愛をつかんだあんたを尊敬するよ。
シャオは気力を奮い立たせて、いっそう力強く水をかき分ける。
シャオの脱出を阻むかのように、夕方にかけて時化となった。強まった波になぶられつつ、シャオは近くの岩礁を目指す。長時間の遠泳で体はくたびれきっていた。気を抜くと沈みそうになる。日中泳いでいる間は背面で浮かび体を休めたが、これほど荒れた海ではそんなことをしている余裕はない。
シャオがフォン国から逃げ出すことで怒っているかのように、海は荒れる。逆に、夜の間に追っ手が来ないようにシャオを覆い隠してくれているようにも取れた。
一時、泳ぎを中断したシャオは上陸できる島に上がり、体を休めた。上陸といっても、人一人がようやく座れるほどの平たい部分しかない岩礁だ。フォンからヴァルネイへと脈々と続く島々は石灰岩質で傾斜がきつく、とても人は住めない。近くの岩に帯で自分の体をしっかりと巻き付けて、うとうとしている間に波にさらわれないようにした。
深夜が過ぎて、海の荒れが静まりはじめた。太陽が昇り気温が上がるまで待ち、シャオはようやくすこしだけ仮眠を取った。眠っている間に流される、あるいは体が冷えすぎて凍死しないようにするためだ。
日が昇っているうちに距離を稼ぎたい。シャオはまた泳ぎ出す。
さすがに疲労困憊していた。シェンドーを出てからろくに眠っていない。腹が減り、喉も乾いている。
また休み休み数時間、泳いだ。脈々と続く島々がなければ余計に、大海に放り出された不安感でいっぱいになったことだろう。また遠くのほうにうすぼんやりとではあるが、大陸のようなものも見えてきた。あれが目指すヴァルネイのある大陸だ。シャオに希望が満ちてくる。
息継ぎを誤り海水を飲んで、塩辛さに吐きそうになった。鼻から塩水を吸ってしまい、喉の奥が焼け付いた。それでもシャオは泳ぎをやめない。大海原を懸命に渡って行く。
体は冷え、喉が渇き空腹で、もうこれ以上動かしようもないほど全身の筋肉が疲弊し、気を抜くと眠ってしまいそうになる。潮に流されてはまたもとの軌道に戻りつつ泳ぐ繰り返しで、ときに強い潮の動きに翻弄されて溺れそうになる。それでも心は折れない。シャオはまえだけを見据えていた。
追試験まえにシャオに退避をうながしたダイダム。あのときはトーアをあきらめろと言われているように感じ、差し伸べてくれた手を思わずふりほどいてしまった。
生きることの何たるかを知ったシャオはいまや、ダイダムの不屈の強さを体現していた。だからいまならわかる。
必ず道はある。一度は退いて、あきらめずに何度でも立ち上がれとダイダムは言っていたのだとよくわかる。
孤独な海の道でシャオはときおり、耳飾りに触る。もとの持ち主の力強さをはらんでいるような気がして、シャオは勇気づけられる。
ダイダム。俺は必ず生き延びる。生きて戻ってくる。それでおまえに謝りたい。それから、俺もおまえに惹かれているのだということを伝えたい。
希望がシャオの動力源となる。陽が暮れるまでシャオの痩躯は困難と格闘し続けた。
すこし休んでまた陽が昇り、泳ぎ出す。途中、眠気に襲われて意識が朦朧としかけたところで、一隻の船を見た。沖合から港に寄港するようで、シャオに船尾を向けている。速度はゆっくりだ。シャオのいるところからなら、追いつける。
シャオは気力を振り絞り全力で泳いだ。泳ぎ、なんとか船の周囲に渡された綱をつかむ。そこから船上へと這い上がった。
全身がぐっしょりと濡れた体で、シャオは船上に転がった。
どしゃり、と大きな魚でも打ち上げられたような音を聞きつけたのだろう。船首で船を操っていた人があわてて飛んで来た。竹の編み笠をかぶった漁師だ。全身ずぶ濡れで突如として船上に出現したシャオを見て吃驚している。
漁師はシャオに駆け寄り、大丈夫か、溺れたのかと声をかける。もはや半覚醒状態のシャオはゆるゆると頭を上げて問いかけた。
「ヴァルネイ……?」
漁師は何度もうなずき、ああそうだ。いま漁に出ていたところで、船はヴァルネイに引き返しているんだと説明した。
安心したシャオの全身から力が抜けた。
「ヴァルネイまで連れて行ってくれるか……?」
シャオが頼むと漁師は、もちろんだともと請け合う。そして船室にシャオを招き入れると、乾いた手ぬぐいを持ってきて、それで体を包んでくれた。
服が乾ききる間もないままに、シャオは船内で気を失った。
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