第5話

 今日は丸一日、休みだ。午前中、ダイダムははずせない公務があるらしく、会うことはかなわない。あまり部屋に入り浸りになっても不在をあやしまれるだけなので、シャオとしてもそれで不都合はなかった。

 昼食後に後宮内を散歩していると、出入り口で思わぬ人物に出くわした。

「シャオ! シャーオー!」

 無遠慮にも、シャオのことを大声で呼び止める。聞き覚えのあるその声にぎょっとして、声のするほうを見た。サオトラがそこにいた。

 がつんと頭を石で殴られたような衝撃が走った。

 フンテオ一座でのシャオの兄貴ぶんが宮廷にいる。なにをしにきたのだと愕然とした。

「サオトラ」

 シャオは急ぎ出入口に駆け寄る。宮殿と後宮とをつなぐ境界の門で、日中は開かれている。サオトラは境界をまたぐことはなく、門の外側に立ち、そこから話しかけてきた。

「よう、ひさしぶりだなあ。うーん、そういう格好していると、本当に貴族の娘みたいだ」

 シャオの心など知らぬといった様子でサオトラは軽口を叩く。

「すこしは声を落とせ。なにをしにきた」

 シャオは兄貴分をねめつける。

「俺、今日からここで働くことになったから。宮廷の厨房係。まずは栄えある鳳凰候補さまにご挨拶を、と思って」

 にこにこ笑顔で宣言するサオトラに、シャオは仰天した。

「なんで……」

「親父の命令」

 シャオは目を剥いた。

「なにを考えているんだ、あの人は。おまえと接点があることがばれたらまずいだろう」

「そこはお互い、知らぬふりでうまくやろうぜ」

 サオトラは逆立った茶髪をかきあげ、ぼわーっと大あくびをする。だらしなく着くずしてはいるが、上下白の衣服はたしかに給仕人の装いだ。

 いくら周囲に人気がないとはいえ、自分たちが後宮に潜入させた男と白昼堂々、言葉を交わすことにいっさいの躊躇が見られない。サオトラはあいかわらずのんきな調子だ。だがふと、一座の男の顔を取りもどし、表情を引き締める。

「クジが金を持ち出して逃げた」

 シャオははっと目を見開く。クジは組織の上から四番目に位置する幹部だった。

「逃げたって、どこへ?」

「隣のヴァルネイだよ。やられたな。鳳凰不在のいまを狙われたんだ」

 そうか、とシャオは思い当たる。祈りを捧げる鳳凰がおらず、タロ海峡の渦潮は止まっている。見張りの兵士たちさえどうにかすれば船で出国できる。

「捕まえるのか?」

「いんや。もうヴァルネイから大陸のほうに入っただろうから、探しても無駄だ」

 クジはいつから逃亡を計画していたのだろうとシャオは思う。だが鳳凰の死期など予測できるものではない。今回の崩御を受けて急遽、国外逃亡を思いついたのだろう。一座の金を持って逃げるなどという発想はシャオにはなかった。

「持ち出された額もでかかったんで、親父はかんかんよ。それでだ。おまえが頼みの綱になったんだ、シャオ」

「どういうことだ」

 一座から妙な期待を寄せられている気配にシャオは身じろぎする。

「おまえが鳳凰になれるかどうか、最初は望み薄な博打だった。どうせ途中で男だとばれて、宮廷で処刑されるだろうと一座の大半が思ってた。けど噂に進捗状況を聞くと、おまえさんはなかなかどうしてうまくやっているじゃないか。ひょっとすると、本当に鳳凰になれるんじゃないかっていう可能性さえ見えてきた」

 昨日は危ないところだったが、ダイダムのおかげでからくも難を逃れた。

「クジに取られた金の埋め合わせに、鳳凰の報奨金、なにがなんでも手にしたい。ということでシャオの近くで手助けをしてやれって、俺が派遣されたわけだ」

 手助けと言いつつ、実際は監視のためだ。

「助けは必要ない。宮廷に協力者がいるから。誰とは言わないが」

 サオトラはわざとらしく目を丸くする。

「へえ、さっすがはシャオだ。そのへんは抜け目ないな」

「親父の命令で来たんだったら、帰れとは言わない。けど、今後俺とはかかわらないでくれ。ぽっと現れた料理人が俺と知り合いだと誰かに知れたら、そっちだって困るだろ?」

 本当にわかっているのか疑わしい調子で、サオトラはへいへいとうなずく。

「わかってるって」

「頼むぞ。ここまでうまくやれているんだ。……俺は必ず鳳凰になる。それで報奨金をおまえたちに渡すから」

 決意を込めてシャオはそう宣言する。

「期待してるよ」

 サオトラはきびすを返し、片手を挙げると去って行った。

 久々に一座の人間の顔を見た。緊張感から解放されて、今度は虚脱感がシャオを襲う。

 後宮に入ってからなんだか、生まれ変わったような気分だった。一座とは縁が切れて、鳳凰になってもなれなくても、彼らとは二度と顔を合わせることなどないはずだと。そんな気さえしていた。

 けれど違った。都合のいい勘違いだった。シャオははっきりと自覚した。

 やつらはどこまでもシャオを追いかけてくる。女を逃がした償いとして、金か命かの二択を迫る。シャオの片足はいまも鎖で一座につながれたままだ。自分はどこまでいっても一座の人間なのだ。

 シャオはふらつく足取りで、隠し通路を目指した。


 階段から上がってきたシャオの元気のなさに、ダイダムが眉をひそめる。

「……どうした? またなにかおかしなものを食べたのか?」

 シャオは黙って首をふる。

「じゃあ、どうした」

「……サオトラが……。一座の兄貴ぶんが来た」

 シャオは力なく椅子にもたれた。

「俺のことを見張るためだ。この先、試験に失敗するようなことがあればすぐに一座に報告が行く。それで追っ手を差し向けられる。逃げ出す機会はない」

 絶望感から口吻が弱々しい。金を持ち出した一座の人間のせいでシャオに余計な期待がかかり、自分が失敗したらすぐに捕まえて制裁を加えられるように監視役が派遣された経緯をシャオは説明した。

「俺はだめだ、ダイダム。一座と手を切ってまっとうにやりなおすなんて、無理だったんだ」

 シャオはがくりと肩を落とす。

「シャオ、こっちに来い」

「なんで」

「いいから」

 シャオは渋々、席を立ちダイダムの近くに立つ。体を引き寄せられ、抱きしめられた。

「大丈夫だ」

「なっ……」

 予想外の抱擁にシャオは顔を赤くする。ダイダムは子どもをあやすようにシャオの肩をやさしくさすった。

「大丈夫。おまえが逃げのびる方法はちゃんと考えてある。鳳凰に選ばれても、選ばれなくてもだ」

 二次試験まではどう試験を乗り切るかで頭がいっぱいで、逃げることまで考えが至らなかった。逃亡計画についてダイダムから詳細を聞いたことはない。

「その逃げた男と同じだ。鳳凰不在のうちにタロ海峡から船を出す。偽の指令で見張りの兵を騙して、出国する船を一隻、見過ごさせればいい。だからおまえはなにも心配するな」

 ダイダムは力強く請け合った。どれほどシャオの救いになるかわからない言葉を打算なく口にする。

「おまえが鳳凰に選ばれてくれたほうが俺にとっては都合がいい。けど失敗しても見捨てるような真似はしないさ」

 一座では、取り返しのつかない失態を犯せばもう後はなかった。敗者を救ってくれる者など誰もいない。だからシャオは必死だった。間違っても敗者にならぬよう必死に、細い綱を渡ってきた。敗者は弱い。敗者に待つのは死だけなのだから。

 だがいまはその細い綱を、手をつないで渡ってくれる者がいる。シャオが落ちてもすくいあげようとしてくれる者がいる。その頼もしさに安堵して、シャオは目に涙を浮かべた。

「シャオ、人は何度だってやりなおせる。一度は失敗をしても、二度、三度と立ち上がれる。おまえが歩んでいるのはたしかに厳しい道だ。でも心折れるな。おまえの道だ。だからおまえ自身が、自分はやれると信じないでどうする」

 ダイダムは力強く励ます。シャオはしっかりとうなずいた。

 シャオにとってダイダムはあまりにも眩しい。

 まず生まれからして違う。正当なグェンロン王朝の血筋だ。側室の子でありながら兄相応に敬われているようで、政策上の要職に就き、国を動かしている。

 なによりも、生まれながらにして得た地位に甘んじることはなく、ダイダムはおのれが信じるものに向かいまっすぐだ。母のため鳳凰制度をなくそうと奔走し続け、シャオと出会った千載一遇の好機をものにしようとしている。自分の道を自分で切り開く、まっすぐな強さこそがダイダムを輝かせる。翳りなど出現しないほどまばゆく周囲を照らす。

 シャオはダイダムの光に強く惹かれていることをはじめて自覚した。

 ダイダムと一緒にヴァルネイに行けたらどんなにいいだろう。シャオの頭にふと、そんな考えまでよぎる。だがダイダムはこの国の皇子だ。シャオとともに行くことはできない。

「ダイダム……ありがとう」

 細い指で、シャオはわずかに浮かんだ涙をぬぐう。

「ああ。おまえは試験のことだけ考えていればいい」

 そこでダイダムがにやりと笑う。

「なあ……。なぐさめてほしいんなら昨日の続きをするか? 心身ともにあたたまるぞ」

 昨晩、ダイダムに見せた痴態を思い出し、シャオは首まで朱に染まる。

「ば、馬鹿か、おまえは……!」

「どうして。おまえとするのはよかったぞ。意外な一面がたくさん見られたし」

 ダイダムの顔の下半分がゆるんでいる。冗談を口にしてからかっているのだ。あせる自分に対して余裕のある表情なのがくやしい。

「俺はもう、しない。こ、後宮の娘たちに精液くさいなんて思われたら困るからな」

「あの素朴な娘たちが精液のにおいを知っているとは思えないがな。ん……? においがしなければいいのか?」

 不用意な失言がまたシャオを焦らせる。ダイダムに抱かれること自体はいやではないのだと言っているのも同然だった。問いには答えず体を離すと、シャオはぷいとそっぽを向いて話を打ち切った。照れて口を閉ざすシャオを見て、ダイダムはからからと笑い声を上げる。こんな話を続けていたら、またダイダムに抱かれたい気分になってしまいそうだった。


 残された二十人が、鳳凰の所持品当ての試験に挑む。

 試験当日の朝、少女たちは教室に集められ、試験内容を知らされた。これから一人ずつ呼ばれて別室に向かう。そこに、前鳳凰ゆかりの品が置かれている。試験監督者のまえで少女は正解だと思われるものを指し示し、選んだものが帳面に記帳される。まだそこでは結果は知らされない。

 試験を終えた少女から先に、部屋に帰される。まだ挑戦していない者が待機している教室に戻ることは禁止された。なかになにが置いてあったのか、なにを選んだのか。間違っても試験まえの者に情報を流すなということも申し渡される。

「長く愛用していた物にはその人の力が宿ります。前鳳凰ゆかりの品に直接手を触れて、そしてみなさんがたの心の目でしっかりと見ることですぞ。鳳凰の資質を持つ人間ならば必ずや、鳳凰の好んで使っていた品々がわかるでしょう」

 試験内容および注意事項の説明をしたブン翁は最後に、いかにも抽象的な助言を残す。

「トウファ」

 ブン翁が去り、試験監督者たちがやって来るまえ、シャオはすばやく隣のトウファに耳打ちをした。

「ブン翁の助言どおり、品をよく見るんだ。光って見えるかもしれない」

 歴代鳳凰となった者は前鳳凰の力に感応する。前鳳凰の持ち物が光っているような気がするのだとか。ダイダムはそう言っていた。迷信だとは思いつつも、可能な限りの助言を送る。

「わかりましたわ」

 トウファは小声で返事をして、うなずく。

 一人が去り、次の者が呼ばれる。シャオの体感では、所要時間は一人、十分程度だ。シャオのまえに十二人が呼ばれた。いよいよシャオの名が呼ばれる。

 宦官に連れられて別室へと向かった。そこは普段は締め切られている部屋だ。教室よりもやや広い。案内の宦官によると、客人の迎賓室らしい。後宮に客が訪ねてくることなどほとんどないだろうが。

 目のまえに長机が置かれて、端から端までさまざまな品が置かれている。鏡、櫛、化粧筆、茶器、筆、雑記帳、衣類、香炉。日常で用いるありとあらゆる品だ。目算だけでも軽く三十種類くらいはある。

「では、はじめてください」

 宦官の号令を合図に、シャオは長机に歩み寄る。ダイダムからの事前情報によると、スホ王妃は翡翠色を好んでいたらしい。まずは翡翠色、あるいは部分的にでも翡翠色が用いられている品物に狙いを定める。続いて鏡や櫛など、民族由来の印を刻みつけられる素材のものを優先的に確認していく。

 端から順番に手に取るも目視では見つからず、指でなぞってもわからなかった。

 鏡、櫛、化粧筆、茶器にはなかった。まだ最初の四つだけだ。それに、目に見えて特徴的な印が入っているものは品の候補から除外するだろうから、おそらくは一見するとわかりづらいところに刻まれているに違いない。そう自分に言い聞かせ、シャオははやる気持ちを落ち着かせる。続いて金属製の香炉を手にした。直感がして、蓋を開けてみる。蓋の裏側に小さな文様を見つけた。蛙の形をくずした文様。ダイダムに教わったとおりの形状だ。

 これがスホの愛用品で間違いないだろう。確信を抱き、香炉を両手で挟み持つシャオは宦官に向かってうなずいた、

 シャオが部屋に戻り、三十分ほどするとトウファが戻ってきた。オウカ、リーリオ、ラアカイはすでに戻っており、なにを選んだか姦しい様子で確認しあっている。もうわからないので一番高価そうなものを選んだのだとオウカが口惜しそうにしゃべっているのに、ほかの二人も同調を示していた。

「なにを選んだ?」

 シャオはトウファに声をかける。

「香炉にしました」

 シャオはほっと胸をなでおろす。自分と同じ正解をトウファは選んでいた。偽物がどれほど混ざっていたのか知らないが、運がいい。

「そうか。どうして香炉にしたんだ?」

 んー、とトウファは指をあごに当てる。

「笑わないでくださいね。光って見えたの」

 シャオはひくん、と喉を詰まらせた。姦しい軍団の聞き耳を気にして、トウファは声を落とす。

「シャオの言ったとおり。うすーく光って、なんだかわたくしのことを呼んでいるみたいに感じたわ。ブン先生とシャオの言葉で暗示にかかってしまったのかしら?」

 他人の言葉で簡単に影響されたのが照れ臭いのか、トウファは恥ずかしそうに笑った。

「いや……。トウファにそう見えたんなら、きっと光っていたんだろう」

 ダイダムの情報をシャオは反芻する。

 そんな話は迷信の類だと思っていた。だが、トウファの弁は本当であるように感じられた。くじ引き方式は鳳凰の神秘的な力をあぶりだそうとするのに、実は有効な試験なのかもしれない。

 鳳凰の資質があるということなのか。トウファに。

 先ほどおのれが目にしたものの取り扱いに困ったようにほほえむトウファ。その顔は十七歳の純朴な娘そのものだ。たった一人で国を守護する鳳凰の資質があると言われても、にわかには信じられない。垂れ眉のやさしげな顔をシャオは見つめた。

 ありもしない超自然的な力を試すことを、宮殿側はいっさい疑問視しない。そこに鳳凰の神性を信じぬく千年王朝の在り方や、長きに渡り連綿と続く現実を超越した伝統に、常人には容易に立ち入ることのできない圧倒的な、狂騒にも似たおぞましさと壮大さとを感じて、シャオは震えた。

 その日の夕刻に再び教室に集められ、結果が伝えられた。前鳳凰の品として正解だったのは香炉と、髪留めだけ。合格したのはわずかに、二十人中八人だけだった。

 シャオの同室で、トウファとオウカは残った。リーリオとラアカイは去ることになり、支度をする間に同室の少女たちは別れを惜しんだ。

「行っちゃったわね」

 宦官に付き添われた二人が部屋をあとにすると、オウカがさびしそうにつぶやく。五人部屋が三人には広すぎるように感じられた。

 残された候補者たちは二部屋にまとめられた。シャオたちは動かず三人のまま。あとの五人はそれぞれの部屋からもともとフーヨウのいた部屋に集められた。

 翌朝、わずか八人の少女が教室に集う。刺繍で最優秀に選ばれたフーヨウもしっかりと残っていた。

 第四次試験の内容が告げられる。

 今晩から候補者と皇帝が部屋で語らいあう。一人ずつ呼ばれるので、じつに八日かけて試験が行われることになる。鳳凰選抜も最終局面に近づいているのにあたり、ここで皇帝が残された候補者との相性を直接たしかめることが目的であると説明された。

 いつものごとく事前情報を手にしていたシャオにおどろきはない。だが皇帝に接近する機会を与えられたほかの少女たちは発狂せんばかりの混乱ぶりだった。誘惑の術の効果が混乱に拍車をかけていることもあるだろうが、術にかかっていないトウファにしてもさすがに困惑し、頬を桃色に染めておろおろしているほどだった。

「どうしましょう……! ドゥグアロイさまと、二人きり……」

「ふ、二人きりじゃないわよ! 一応、近くで係が見ているわけなんだし」

「そ、そうだったわ……。でも、お近くに行けることは間違いないし、どうしましょう」

「そんなの、わたくしだってわかりませんわ……!」

 教室に桃色の悲鳴がこだまする。

「静粛に。静粛に、お嬢さんがた」

 枯れたブン翁の声が何度か割って入ると、ようやく少女たちは静かになった。

「心を開き、気をてらわず、じっくり皇帝と語り合ってみることです。皇帝はあなたがたがどんなお嬢さんなのか。偽らない姿を知りたいと思っているのですぞ」

 以前のシャオならばまた抽象的な助言だと鼻白んでいただろう。だが、香炉が光って見えたというトウファの言葉を耳にして、わざともってまわった言い方ではあるが、ブン翁は試験で気にかけるべき重要なことを示唆してくれているのではないかと思うようになっていた。

 皇帝との最初の晩を過ごしたのはオウカだった。試験内容を知らされた当夜に選ばれることに憤慨し、もっと美貌に磨きをかける準備期間が欲しかったと嘆きながら、宮廷にある皇帝の私室に連れて行かれた。

 翌朝、幽鬼のようにおぼつかない足取りで部屋に戻ってきたオウカのもとに少女たちが突撃し、質問攻めにする。それをシャオ、トウファ、それからフーヨウは様子を気にしつつも遠巻きに眺めていた。

 オウカはまったく興奮さめやらぬといった様子で、視線をあらぬ方向に向けたままぽーっとしている。皇帝と話したことを口外するのは禁止だ。どんなやり取りがあったのか内容まではわからないまでも、相当に夢のような時間を過ごしたのだろうということはわかる。

「オウカ、皇帝とはどのくらい接近したんだ?」

 シャオが質問する。男とは悟られない距離を保っていられるのか、気になっていた。

 恍惚として、オウカが答える。

「あのお方のいい香りが、わたくしの体に染みつくくらいよ……!」

 それほど接近するのか。まずいな、とシャオはあせる。

「こんなにいい思いができるなんて。わたくし、ここで試験が終わっても悔いはないわ」

 勝気なオウカがそんなことまでのたまっている。

 四六時中、少女たちと一緒で風呂までともにする。同性でさえ、シャオが男だとは気づかなかったくらいだ。皇帝を騙しとおすことは不可能ではない。ばれないよう、普段以上にふるまいに気をつけ、慎重にやるのだ。

 オウカの次に呼ばれたのはフーヨウと同室の四人の少女たちだ。順番に、ひと晩ずつ持ち回りをする。続いてフーヨウ、その次にシャオの順番がまわってくる。最後はトウファだ。この順番もなにかの意図があって組まれたものなのだろうか。

 いよいよ、シャオが皇帝の私室へと渡る。宮廷から伸びる長い渡り廊下を使い、行き着いた先に別室があるのだ、皇帝と皇后たちが愛を紡ぐためだけの特別な部屋だ。宮殿の奥深くに位置し、後宮からも離れた場所にある。うつくしく手入れがされた中庭に囲まれた別荘の塔だ。

 塔を上がる。最上階で皇帝が待っている。

 宦官が扉を開ける。鍾乳洞に迷い込んだかのような真っ白い空間が広がっていた。

 階段を数段、上がった先に大きな寝台が置かれている。天蓋からは透ける白い布が垂れている。寝台に腰かけていたドゥグアロイが扉のほうに目を向け、立ち上がった。

「やあ、シャオ。よく来たね」

 皇帝は前開きの着物に帯を巻いただけの簡素な装いだ。淡い水色の艶が浮かぶ白い着物は寝巻用の薄物の素材で、皇帝の体の厚みがよくわかる。寝乱れないようにか、長い髪の毛は体の左前に寄せ、なかほどを編み込みあとは結んで垂らしていた。

 伴侶にしか見せないであろう、皇帝の常ならぬくつろいだ姿を拝むこともまた、少女たちの特別感と高揚感を煽るのだ。

 ドゥグアロイは手のひらをかざし、寝台に上がるよう示した。一度、椅子に腰かけて茶をすするなど、甘い緩衝を挟むことは許されていないようだ。

 シャオはほほえみで、勇む心を覆い隠す。皇帝のそばへと進み出た。高貴な人が互いの息がかかるほどの至近距離にいる。

 肩に手をまわされて、ともに寝台へと腰かけた。オウカの言っていたとおり、皇帝からなにかいい香りがする。体の内側から香っているような、上品なほのかさだ。ここまでの待遇を受けてよくぞ少女たちが発狂しなかったものだとシャオは逆に感心した。

「夜は長い。じっくりと話をしよう」

 宦官は下がり、扉が閉ざされた。姿は見えないが、扉一枚隔てた奥に侍っており、なにかあれば飛んで来る。

「では、なんの話をしましょうか?」

 シャオはにこりと笑う。だが、笑顔は長くもたなかった。皇帝はシャオの耳元に口を寄せ、そっとささやく。

「きみ、本当は男の子なんだろう?」

 どくんっとシャオの心臓が跳ねた。瞬間、目を瞠り、あわてて表情筋をもとに戻す。動揺を悟られないようにシャオは身じろぎせず、ただ石造りの真っ白い床を見つめていた。

「きみと、あともう一人。トウファという子が、私の術にかかっていないようだったから。どうかな? 怒らないから言ってごらん」

 おだやかな皇帝の声が、いまはおそろしい。

 終わりだ。シャオの頭が真っ白になる。ここで体を探られたら終わる。

 皇帝はシャオよりもずいぶんと体が大きい。押さえ込まれたら抵抗はできないだろう。皇帝の狼藉を訴えたところで果たして、宦官たちは飛んで来てくれるのかどうか。

 だがここで逃げ出すのは、男だと返事をしているようなものだ。だんまりになって動けないシャオの気持ちなど構わず、皇帝はおかしそうに笑う。

「勇敢に闘って、後宮に入り込んだ不届き者を撃退したんだってね。それと、食事に鳳仙花を混ぜられていたんだって? どうにか乗りきったみたいだけど、災難だった。その報告を受けて確信した。きみは男の子だ」

 チクったのはどの宦官だ? あるいは娘たちか。シャオの頭が怒りで沸騰する。

「そのお話。どなたから聞いたのです?」

 あくまでおだやかな声でシャオは問う。皇帝の体は大きく、あたたかい。けれど肩に腕をまわされているとだんだん、心が冷えていく、

「ラアカイ」

 ドゥグアロイが口にした思いがけない名にシャオは訝り、眉をしかめる。彼女は三次試験が終わり即座に後宮を去った。皇帝と接する機会はなかったはずだ。

 シャオの疑問には皇帝が答える。

「彼女はね、私がまぎれ込ませた試験監督なんだよ。候補者のふりをして、きみたちのことを監視してもらい、私は逐次報告を受けていた」

 それでか。シャオとトウファが術にかかっていないことは、ダイダム以外には気づかれていないと思っていた。

「このことはダイダムも知らないよ。きみはダイダムとも通じ合っていたみたいだけれど」

 ダイダムと協力関係にあったことまで見透かされている。

「いえいえ。ダイダムさまとは、後宮でたまに立ち話をさせていただいただけで」

 なるべく自然な笑顔を浮かべながら精一杯、候補者の少女としての演技を続けるシャオの焦燥を落ち着かせるように、皇帝の手が肩をさする。

「それだけで私を男だと? トウファのように術にかからない者もいるのに?」

 皇帝はどう出るか。シャオは切り返してみる。ふーむと皇帝はうなった。

「あの子は……どうしてだろうね。それは私にもわからない。でも、皇帝の力を跳ね返すなんて……。ひょっとしたら歴代最強の鳳凰になるかもしれないよ、トウファは」

 皇帝の術が効かない相手に、男以外の例外はないらしい。それにしても、のんびりとしたトウファと歴代最強という言葉があまりにも結び付かない。

「本題に入ろう。私はね、男の子でもいいと思っているんだ」

 そこではじめてシャオは、皇帝の顔をあおぎ見た。声と同じおだやかさで、目が細められている。少女たちをとりこにする表情だ。

「きみの望みはなに?」

 おだやかな表情とは裏腹に、皇帝の瞳はよくとぎすまされた冷たい氷のような、透明な光をたたえる。澄んだ光でシャオの胸をひと突きする。

 シャオが正直に答えるまで、妥協をしない構えの目つきだ。抵抗してもまたしつこく、本音を問われるだけだろう。言葉を荒げるわけでも、暴力に訴えるわけでもなく。気高さのみで向き合った相手を威圧し、自然と言うことを聞かせてしまう。それが王族という生き物だ。皇帝の高潔はシャオが抵抗する気力を削ぐ。

「……妹に会いたい」

 この答えは予想していなかったのか、皇帝がほう、とわずかに息を吐く。

「そう。理由はどうあれ、ここまで来られたということはきみに鳳凰の資質があるということなのかもしれない。時代が、きみを選ぶのかもしれない。皇帝でも、どうにもできないものがある。それが時運というものだよ」

 寝台のやわらかさが、こわばるシャオの体を落ち着かなくさせている。

「鳳凰の伝統は長く続いてきた。父は規則や慣習を変えたがらない人だけれど、私はすこし違う。いいものは残しつつ、改善すべきところには手を入れるべきだと思っている。鳳凰は長く女性がつとめてきたけれど、鳳凰の崩御に際して運よく資質を持つ人がこの先もあらわれるとは限らない。男でもいいというように、規則を見直すべきではないかな」

 ドゥグアロイの言葉に誘惑の色が混じる。シャオのことを甘い水場へと誘うように。

「約束しよう。本当にきみが最後の一人に残ったのなら、私は規則を変える。きみを次の鳳凰に任命する。どうかな?」

 ドゥグアロイの手がシャオの頬をなでた。

「妹さんは生きている?」

「……たぶん」

「居場所は?」

「わからない」

「そう。じゃあ鳳凰になったら彼女のことも探して、会わせてあげよう」

 シャオは動揺していた。皇帝から取引を持ちかけられるとは思ってもいなかった。

 ダイダムのことが頭をよぎる。皇帝の取引に乗るのは、ここまで手を貸してくれたダイダムへのひどい裏切りではないか。ダイダムはシャオが鳳凰に選ばれても選ばれなくても、自分のことを逃がそうとしてくれているというのに。

 男のシャオを鳳凰として認めるという皇帝の提案は、男を選出した不名誉を軸に鳳凰制度をひっくり返そうとしているダイダムの目論見を、根底から叩き潰すものだ。ダイダムとドゥグアロイ。どちらも伝統を壊そうとしているが、そのやり方はまるで違う。ダイダムは既存の伝統の正当性を疑い、新たなものに作り替えようとする。ドゥグアロイは既存のものを一部分だけ壊し、伝統を存続させようとする。

 シャオはなにも言えなかった。不用意に何事か口にすれば、自分とダイダムが通じていたことが露呈してしまいそうだからだ。皇帝はおそらく、弟が策略を巡らせていることにうすうす勘付いているのだろう。鳳凰制度をめちゃくちゃにするという彼の策略に。

 シャオは取引の提案を取り下げてほしいとは言えない。皇帝が提案を取り下げれば、鳳凰に選出された時点でシャオは鳳凰制度をゆるがす異分子となり、都合の悪い異分子は国によって処分される。またせっかくの救済措置に異をとなえれば、その裏にある意図を執拗に問われた挙句、自分とダイダムがつながっていたことや、泰平をゆるがしかねない企みでダイダムが兄の信頼を裏切ろうとしていたことも暴かれてしまう。

 皇帝のちらつかせる誘惑は、ダイダムの国への裏切りをなかったことにするものだ。謀略を無に帰すものだ。彼の立場をまずくするくらいならいっそ皇帝の話に乗り、そんな計画ははじめからなかったのだということにしたほうがいい。

 黙って、取引に乗るしかない。ダイダムを守るためだ。

「最後の一人まで残れたら、命は見逃してあげよう。私の話に乗ってくれるね、シャオ?」

 皇帝は笑う。

 この若さでフォンという大国を統べる男だ。あなどってはいけなかった。シャオの何倍もの狡猾さと周到さで皇帝は、今回の鳳凰選抜に男が混ざっていたことを見抜けなかった宮廷の不名誉を、円満に処理するための手を打ってきた。

 シャオは黙ってうなずいた。

「いい子だね。さあ、今晩はここで眠るといい。次の試験からは、これまでとは段違いに厳しいものになる。体を休めておいて」

 シャオのために寝台を開けると、皇帝はゆらりと歩み去る。扉の奥に消え、シャオは一人、真っ白な空間に取り残された。


 ろくに眠れず、朝を迎えた。宦官に付き添われて皇帝の白い寝所をあとにして、また後宮へと続く廊下を渡って行く。

 やっかいな重荷がシャオの両肩にのしかかる。

 シャオにとって最も理想の筋書きは、鳳凰に選出されたら即座に報奨金をフンテオに横流しし、国外に逃げることだった。そして男が鳳凰に選ばれたという事実をダイダムに広めてもらい、制度に関する疑心を人々の心に植えつける。試験を荒らされ、報奨金を持ち逃げされ、宮廷はかんかんになるだろうが、わざわざ鼠一匹を追うために人を動かすことはないだろうと高を括っていた。また仮に鳳凰選抜に敗れたとしても、国外にさえ出てしまえばフンテオの追っ手からは逃れられる。

 成功しても失敗しても、命をつなげる希望が見えていたというのに。いまや、シャオにとって鳳凰に選出されることが生き延びるための絶対条件になってしまった。鳳凰選抜に失敗すれば即、ドゥグアロイに始末される。あのおだやかさのなかに厳然さを隠した皇帝は、宮廷の不名誉が露見しないように、シャオ一人のためでも平気で国軍を動かすだろう。どこまでも徹底的に追いかけて、殺す。タロ海峡の警備兵にも事前に情報が伝えられ、脱出は絶望的になるだろう。

 宮廷軍とフンテオ一座の両方が、シャオの首を狙っている。

 鳳凰選抜をなんとしても勝ち抜けば、命は助かる。皇帝が約束を果たせば、全国を徹底的に捜索し、きっとトウファにも会えるだろう。

 だが自由がない。希望もない。

 鳳凰になればこの先、一生を国のための祈りに捧げることになる。ダイダムには、シャオが皇帝の甘言に流されたようにしか見えないだろう。彼を裏切ってしまった自責の念にさいなまれ、さんざん手助けしてやったにもかかわらず裏切った自分が軽蔑されていることをひしひしと感じながら、後宮で余生を送るのだ。

 そもそも、シャオに鳳凰の資質などない。皇帝は、時代が人を選ぶと言った。人の手がおよばないなにか大いなる力の存在を信じているようだったが、不正をして試験を有利に進めてきただけのシャオに国を守る力などない。後宮入りを果たしたところでそのことが遠からず露見して処分される。

 先行きが真っ暗だ。どうあってもシャオの命は、自由は、保証されない。ただ死ぬのが遅いか早いかだけの違いだ。

 後宮に来てシャオは、自分が弱くなったように感じていた。男の暴力に抵抗する術を持たない、か弱い十七歳の娘の立場を味わったからだ。だが弱くなったと思ったのは、後宮で娘のふりをするところからくる一時的な錯覚ではなかった。

 結局のところ、シャオはずっと弱かったのだ。腕利きとしてフンテオ一座で大きな顔をしていてもその実は、一座の言うことに無理やり従わされる駒でしかない。シャオが本当は望まない、暴力と恐怖で誰かを痛めつけることを強要されている。

 強き者の言いなりで、力をふるうシャオは弱いのだ。一座に入った子どものころから、シャオはずっと搾取されたままだ。自由を、意志を、はく奪されている。

 皇帝とフンテオ。一方はシャオの足首に手をかけ、泥沼に引きずり込む。もう一方は強烈な光でシャオの身を焼く。圧倒的な力をまえにして、シャオは無力だ。

「シャオ。兄貴との語らいはどうだった?」

 シャオの戻りを待っていたらしい。後宮に戻って宦官から解放されるなり、回廊の壁にもたれていたダイダムが近くにやってくる。やけに「語らい」を強調するところからして、シャオのことをからかっているようだ。顔ににやにや笑いが張りついていた。

「……おまえの兄貴は……。おそろしい人だな」

 シャオはぽつりとつぶやいた。

「なにを言われた?」

「言えない」

 シャオは首をふる。

 本当はダイダムに洗いざらい話してしまえたら。どれほど気持ちが楽になるだろう。だが、言えない。言ったところでこの窮地を打開する方法はさすがのダイダムでも思いつくまい。気持ちが多少、楽になったところで一時しのぎにしかならない。

「でも、大丈夫だ。誘惑の術にかかったふりをして、最後まで男だとは気づかれなかった。なんとなく、その場で合格したようなことも言われたし」

 シャオは嘘をついた。

 これ以上、危険なことにダイダムを巻き込めない。

 細い綱の上を渡る苦行。ダイダムと手をつないでなら渡って行けると思っていたのに。シャオは自分からその手を離した。すべてはダイダムを守るためだ。

「なら、いいんだが。シャオ、時間がないから手短に。次の試験のことだ。なにをさせられるのか俺でも情報がつかめなかった。すまないな」

 ダイダムが申し訳なさそうにする。

「いや、いいんだ。むしろいままで協力してくれてありがとう。ここまで来られたのはおまえのおかげだ」

 シャオはわずかに唇をゆがめる。うまい笑顔が作れない。

「シャオ、これを」

 ダイダムが紙を差し出す。

「脱出計画が書いてある」

 はっとした。だがもう、むだになってしまうものだ。ダイダムが差し出した手を引かないので、シャオは迷いつつも紙を受け取った。

「水に溶ける紙に書いてある。一度で読んで頭に入れろ。読んだらすぐに水に溶かして捨てるんだ。いいな?」

 ダイダムがシャオの目をのぞきこむ。ぜったいに生き延びろ、あきらめるなとその目が語りかけてくる。視線の圧を受け、実行されることのない計画書を持つ指にぎゅっと力がこもる。

 ダイダムの脱出計画は、鳳凰選抜に成功した場合と失敗した場合の両方を想定していた。失敗した場合は、シャオが後宮を去るところから開始する。

 馬車に乗せられてシェンドーを出る。ここまでは兵士と役人たちに付き添われる。サオトラが伝書鳥を使い、遠いフォンタムにいる一座にシャオの失敗を伝えるまでにある程度の時間が稼げる。すくなくともシェンドーを出るまでは、フンテオの一座が狙ってくることはないという算段だ。

 シェンドーの県境でフォンタム行きの馬車に乗り換えるところで、睡眠薬を使って御者を眠らせ馬を奪う。計画書には粉薬の入った小袋がいくつか、糊で張りつけられていた。馬で駆けて三日もすれば、タロ海峡に行きつく。そこで馬を解放すると、ダイダムの発した偽の伝令でかく乱された兵士たちの視線をかいくぐり、あらかじめ用意された船に乗り込んで港を出るのだ。

 成功した場合は報奨金をフンテオ一座に横流ししたあとで、一度後宮に入り、隙を見て脱走する。シェンドーを出てからの手順は失敗した場合と同じだ。

 実現することのない計画だ。希望はない。それにもかかわらずシャオは、まだ先に進もうとしている。

 すべてはトーアのためだ。どうせ死ぬのなら、鳳凰になり死ぬまえにひと目だけでも会えれば満足だ。そういう破れかぶれな執念だけでシャオは動いている。

 白い紙が水に溶けて消えた。


 皇帝との語らいの夜はすべて終了し、八人の娘たちは四人に減った。残ったのはシャオ、トウファ、オウカ、そしてフーヨウだ。トウファが残れたのはシャオが手助けをしたおかげでもあるが、それにしてもシャオの同室が二人も残る快挙だった。

「すごいわ! わたくしたちの部屋は三人も残ったのね!」

 オウカが興奮した声を上げる。ここまで残れた栄誉で酔っている。これまでは実感のなかった鳳凰の座がいよいよ実態をもって眼前に迫ってきている。その現実が少女たちを昂らせる。部屋ががらんどうになったので、フーヨウはシャオたちの部屋に移された。

 四人が、第五次試験に挑む。

 翌朝、宦官に指示されたとおり、まだ外がかなり薄暗い時間に四人は教室へと向かった。第三次試験と同じく、事前に第五次試験の内容は明かされない。試験当日の朝になっても具体的な説明はなかった。ただ本日の試験は長丁場になるだろうということだけが知らされて、娘たちは馬車で移動するべく後宮まえの道路へと連れて行かれた。

 後宮から馬車で小一時間は走った。はじめは開けていた道がどんどん細くなる。周囲には木立が多くなり、林に入り、最後は森のなかを進んだ。道は整備されているが、うっそうと茂る木々の様子から、人がめったに立ち入らなさそうな場所に導かれていることがうかがわれた。木立の薄暗さが、少女たちを不安そうな面持ちにさせた。

 ようやく日が昇ったとは思えないほどの、外の薄暗さも不安に拍車をかける。空はぶ厚く鈍色をした雲で覆われている。空の重みが地上にのしかかる。いまにもひと雨来そうだった。

 到着した先に大きな廟があった。外壁で覆われ、霊廟なのだと言われない限りは宮廷の一部施設としか思えない流麗さに満ちている。

「よくぞ参りました」

 ブン翁が先に、廟の外壁まえで待っていた。

「ここは、先代の鳳凰さまがたが眠っておられる墓です」

 ブンは背後に横たわる巨大な建物を見やる。石造りで、壁から天井までが覆われており、なかの様子が外からでは確認できない。

「十一代目の鳳凰さまから、先日崩御されたスホ鳳凰さままでが、このなかにおられます」

 十代までの廟は一人ずつ建てられた。シェンドー域内に点在している。

「この奥に、悪しき者がおります。おぞましき呪いの炎が生み出した、災いです。鳳凰の候補者たちよ。あなたがたの祈りの力で鎮めて来るのです」

「それが……今回の試験なのですか?」

 フーヨウの問いにブンはうなずく。皺の寄った目じりがさらに細められ、老いの刻みがこめかみにまで達した。

「そうです」

「祈るって……」

 呆然としてオウカがつぶやく。

「どうやればいいの……?」

 オウカは答えをせがむ。

 祈祷学など所詮、座学でしかなかった。それも、よくある祈祷の種類をさらっただけだ。祈りの実践などしていない。

「災いよ、去れ。ただそう祈るのです。祈りは鳳凰に与えられた役職。あなたがたのどなたか一人が近いうちに鳳凰となる。ここで祈りの力を目覚めさせるのです」

 薄暗い空間にほの白く横たわる廟からなにか、とてつもない圧力を感じる。ここに眠っているのがかつての鳳凰たちであると知ったことで。彼女たちの持っていた神の力をまざまざと感じ、魂をゆさぶられている。

 第三次試験となった鳳凰の私物の目利きから、試験がどこか現実離れした色を帯び始めた。肝心なことはなにも知らされないまま、なにかひどくおそろしいことをさせられるのではないか。いやな予感が、少女たちの間に広がりはじめた。

「この奥にはなにがいるんですの? ねえ、ブン先生」

 オウカの声が震えている。

「災いです。オウカよ」

 ブン翁はただそれだけを答えた。

 宦官により廟の正門が開かれる。

「さあ、行きなさい」

 ブンが少女たちを送り出す。どこか手の届かぬところに行ってしまう孫娘との別れを惜しむ祖父のような、さびしそうな目で彼女たちを見つめている。少女たちはためらいがちに、廟に向かい歩を進めた。

 やがて少女たちが建物のなかへと消えると、宦官たちは正門を閉ざした。禍々しきものの放つどす黒いものが空気に混ざり、外部へと漏れないようにしているかのようだ。そして宦官とブンは馬車に乗り、その場を去った。それを合図とするかのように、ぽつり、ぽつりと雨粒が垂れはじめ、やがて本降りに変わって行った。

 なかにいる少女たちに雨音は届かない。授けられた提灯に火を入れて、闇を照らす。薄明りを頼りに奥へと進むのだ。

「ど、どうしましょう。わたくし、こわいわ……。お墓のなかに行くだなんて……」

 オウカは早くもおびえきっている様子だ。常日頃から沈着冷静なフーヨウもさすがに表情を硬くして、落ち着かない。

「行くしかない。試験なんだから」

 シャオはそう鼓舞する。行くしかないのだ。戻っても自分を待つのは死だけなのだから。

「トウファ、オウカの手を握ってやってくれるか?」

「もちろん」

 シャオが先頭に立った。オウカとトウファを真ん中に挟み、フーヨウが最後尾からついて来る。すすり泣くような、オウカのおびえた息遣いの反響する廟のなかを静かに進んで行く。

 奥に災いがいる。では、とにかく最奥部を目指せばいいのか。

 災いとはなんだ。霊廟ということは幽霊の類なのか。

 推理を働かせるシャオの明かりが目のまえを照らす。

 長い一本道が続くばかりだ。どこから入り込んだのか、真っ白な回廊には木の根や蔦がはびこっている。生者を拒む厳然さに満ちた場所で生命の気配を感じるとわずかに安心した。

 すさすさとなにかが擦れるような音がする。

「きゃあーっ!」

 音を聞きつけてオウカが叫び、全員の足が止まった。

「オウカ、大丈夫ですか?」

 背後からフーヨウが声をかける。

「大丈夫じゃないわ……! いまのはなに?」

 シャオは音のするほうへ明かりを向ける。走り去るねずみの姿が見えた。

「大丈夫、ただのねずみだ」

 シャオはこわばるオウカに向かい、安心させるようにほほえみかける。

「ねずみ……」

 肝試しに憔悴しきった顔でオウカは脱力する。四人は再び歩き出した。

 奥へ進むと開けた空間に出た。十角形をしている。十角形の面それぞれに彫刻が施してあった。鳥の羽根が生えた女の姿だ。真っ白い石に彫られたとは思えないほど精巧な細工がしてあり、身なりが豪奢であることがよくわかる。よく見ると一つひとつ、髪型や装いなどの姿が違う。歴代の鳳凰たちの姿だ。一面に一人ずつ、この壁の奥にいるということだ。

 国を守るためにその身を賭した者たちの命の連なりを感じ、このときばかりは少女たちも恐怖を忘れ、おごそかに感謝を捧げる気持ちになった。

「ブン先生の言っていた悪しき者。どこにいるんでしょうね」

 フーヨウが問う。四つの提灯が明るく照らす空間にはこれといって目立つものはない。

「ここにはいなさそうだな。先へ進もう」

 シャオは少女たちをうながした。

 外から確認した廟は、正門から奥に向かって矩形となっていた。シャオの体感では十角形の空間を過ぎたところで、長方形の長い一辺を途中まで進んだところだと思われた。廟はまだだいぶ先へと続いている。

 途中、また先ほどと同じような広間に出た。十角形の壁に鳳凰の彫刻がされている。またこれといって気になるものは置かれておらず、同じ部屋をふたつほど行き過ぎた。

 途中、ぐるりと回廊を曲がった。シャオは頭で立体図を組み立てる。廟の右手側を進んでいたが、一番奥に突き当たったので角を曲がらされて、今度は左側の回廊に出たということだ。今後は廟の入り口まで戻る道に乗っている。行程が半分終わった。

 悪しき者とはまだ邂逅しない。

 墓地で根性試しをさせられただけなのか。全員の気が抜けかけたところで、するするする、と音がした。

 地面になにかが滑っていくような音だ。ねずみの足音とは違う。もっとなにか長いものを引きずるような音だ。

「な、なに……」

 あらゆる気配に敏感になっているオウカが肩をこわばらせる。

「オウカさん、大丈夫よ。きっとまたねずみです」

 トウファがオウカの手を握り、気分を落ち着かせた。

 仲間のおびえを取り払おうとするトウファの努力をあざ笑うかのように、するする、するすると地面をこする音が続く。音はだんだん大きくなっているようだ。

「わたくし、もういや……」

 オウカが嘆く。恐怖で取り囲まれながらも、まだ肝心の悪しき者とは出会っていない。この先、これまで以上の度胸試しが待っている絶望感で心臓が縮み上がっていることだろう。

「シャオは、怖くないの?」

 勇敢にも先頭に立ち、少女たちを先導し続けるシャオにオウカが問う。

「不気味な感じはするが、怖くはない」

 シャオにとっては、救いのない現実のほうがよほど怖いのだ。

 一度音が止んだのを確認して、シャオは歩きはじめた。

 しゅろろ、しゅろろとまた音がする。シャオたちを誘うように、音が大きくなっていた。

 続いてまた同じ作りの十角形の部屋があらわれる。音はどうやらそのなかからしているようだ。

「ここから聞こえる」

 入室まえに一度シャオは立ち止まった。

「このなかにいるのですか? ……例の者が」

 これからいよいよ怪の物と対峙する予感を抱き、おののいたフーヨウは「悪しき者」と、その呼び名を直接口にすることはなかった。

「たぶん」

 しゅろろ、するする、とおかしな音はシャオたちをなかへと誘っているようだ。

 部屋に入る。また壁面に彫刻がされていたが、一部なにも彫られていないところもある。そこは未来の鳳凰たちのために空けられている。

「…………っ!」

 トウファが悲鳴を飲みこんだ。

「トウファ! どうした?」

 シャオが問い、トウファは片手で口をふさいだまま、指で前方を指そうとする。体を動かそうとしているようだが、全身がぶるぶると震え、変な具合に硬直して動かない。

 シャオはすばやくトウファの視線の先を見る。

 瞬間、恐怖に体をわしづかみにされて、大声を上げそうになった。

 見たこともない生き物がそこにいた。

 四つ足で、体は大きな犬のようだ。だが犬には見られない、虎のような長い尻尾が生えている。

 背中には翼が生えていた。大きく、伸び広がっている。

 生き物がシャオのほうを見た。

「……っ!」

 おぞましい顔に、息が止まった。

 これまで見たことがない。ほかにたとえようもない妙な顔が犬の体の先にくっついている。

嘴があり、鳥のように見える。目はあるのかないのかわからない。細い筋のようなものが顔の中心から二本、外側に向けて走っている。閉じられた目と言われたらそのように見えるような気もした。頭から生えた真っ黒い髪の毛が地面まで垂れている。するするとなにかが床を滑る音の正体はどうやら、髪の毛を引きずる音らしかった。

 こいつはなんなんだ。

 こんな禍々しい生き物は見たことがない。

 先ほどは鳥のようだと思った顔だが、本当は違う。シャオは……まるで人間のようだと思ったのだ。人間の、女のような顔だと。

「きゃああああああーっ…………!」

 とうとうオウカが叫び声を上げた。ねずみにおどろいたときのかわいらしいものではない。

人が真に恐怖に貫かれたときに出す、発狂寸前の叫びだ。

「あーっ……! ああーっ……!」

 オウカの叫びが鼓膜をびりびりとしびれさせる。

 悪しき者はシャオたちに向かってきた。地面を走り、突進してくる。

「散れ!」

 シャオの指示で少女たちは一度ばらけた。

 悪しき者は翼の力で壁面に駆け上がると、空中で回転して降りて来る。ぐにゃら、ぐにゃらと首をゆらして、にたりと笑ったように見えた。

 そのおぞましさに、ぞおっとシャオの背中が震える。

 悪しき者はシャオに狙いを定めると、また突撃してきた。

「……っ!」

 シャオは明かりを持ったまま逃げまわる。

「シャオ!」

「シャオ! 危ない!」

 トウファとフーヨウが口々に危険を知らせる。三人は、十角形の広間の入り口付近でひと塊になっていた。

「……シャオっ! 逃げるのよ! はやくこっちに!」

 ようやく恐怖から立ち直ったオウカも叫ぶ。

「……逃げない!」

 こいつが悪しき者だ。この悪しき者を鎮めるのが自分たちに課された試験だ。

 逃げても待つのは死だけ。生きたいのなら、ここでこいつをねじ伏せるしかない。

「うあっ!」

 悪しき者にシャオはのしかかられた。奇妙な顔が眼前にある。その不気味さに頭の後ろがぞわぞわとした。悪しき者は髪の毛を器用に操り、シャオの首に巻きつける。

「ぐっ、くっ……」

 首を絞められてシャオは悶絶した。

「シャオーっ!」

 トウファがこちらに駆け寄ろうとするのを、ほかの二人がその両腕をつかみ、とどめた。

「こんの……!」

 シャオは拳をふるい、悪しき者の顔面に叩き込む。うんともすんとも言わないが、何度もうちこんでいると首の拘束がゆるんだので、すかさずまとわりつく長髪を手でさばいて首からはずした。

 シャオは悪しき者の下から這い出て、走って距離を取る。髪留めを使い、後ろで自分の髪をひとまとめにした。

「トウファ! オウカとフーヨウを連れて逃げろ!」

「いやですわ! あなたを置いていけない!」

 視線は悪しき者に向けたまま、シャオは腰を落とし、手をまえに構える。

「だめだ! 行け! 二人を頼む! 俺もあとから行くから!」

 人称に気を遣う余裕はなく、シャオはつい後宮での話し方を忘れてしまった。

「……わかりました……!」

 本当は納得していない悲しさを声ににじませつつも、トウファはほかの二人とうなずきあって、部屋を出る。三人が走り去るのをシャオはちら、と横目で確認した。

「さあ、やるか」

 シャオは不可思議な生き物を誘う。

「俺に祈りの力はない。力技でやるぞ」

 じり、とシャオは一歩踏み出した。

「おまえが何者なのかは知らないが……」

 言いかけてシャオは口をつぐんだ。

 長い黒髪に鳥の羽。人と鳥とが融合したかのようなその姿。

 これは鳳凰だ。シャオはそう確信を抱いた。あちら側へと還れなかった鳳凰の、魂の残滓が実体化したものなのか。事情はよくわからないが、廟の奥深くに潜んでいた。

 鳳凰は翼を使い、室内を飛びまわる。高くは飛べないので低空飛行と四足での疾走とを織り交ぜながら、シャオを追い詰めていく。予測のつかないその動き。不気味がっている暇はない。上下左右から嵐のごとく体をなぶられる。

「あっ……!」

 大きなかぎ爪がシャオの肩を引っ搔いた。服が裂け、血しぶきが上がった。瞬間、痛みに気を取られたのにつけこまれ、鳳凰はシャオにのしかかるとざくざくと体を斬りつけていく。

 膝の裏をやられて、背中に深く爪が入り込んだ。

 シャオはうつ伏せで、地面に倒れ伏した。鳳凰は翼で提灯をひっくり返す。蝋燭が消えて、周囲はいっさいの暗闇となった。

 まずい。なにも見えない。

 シャオはあせりつつも必死で耳を澄まし、神経を研ぎ澄ます。音で鳳凰の気配を探るのだ。

 かつん、かつんと爪が地面を打つ音。しゅろろ、と髪の毛を引きずる音。

 やるなら一気に来るはずだ。

 鳳凰が飛翔する。シャオめがけて突っ込んでいく。

 シャオはわざと体にぶつからせ、突き飛ばされた。地面に転がり、身を半分起こして鳳凰の体と思われるものをすかさず抱きとめる。

 手で髪の毛をたぐった。髪の毛の先に頭がある。

 シャオは両腕のなかに頭を抱え込んだ。ぐーっと力を込めて締めつつ、ひねり上げる。

「こんの……!」

 鳳凰はなにも言わない。効いているのかどうかさえよくわからない。力を入れたので、シャオのあらゆる傷口からぷしゅっと血が吹き出す。

 全力で締め上げていると、視界にほんのりと明かりが戻ってきた。不思議に思い顔を上げるとトウファが走り、戻って来るのが見えた。

「トウファ! 逃げろと言ったのに……!」

 明かりがあると周囲の様子がわかってくる。まさにシャオの狙いは正しく、鳳凰の体を足で抱きこんで押さえつつ、首を固定しているところだった。

「二人を廟の外にお連れしたので、戻って来ました!」

 勇敢にもトウファは暗い回廊を一人で進み、シャオのために戻ってきた。

 悪しき生き物を絶命させようと、シャオは首を絞める腕に力を込める。毛に覆われた目を細めた表情は変わらない。苦痛の声も上げない。効いているのかどうかがわからない。

 鳳凰はシャオに抱えられたまま翼を動かし、舞い上がろうとする。

「だめ!」

 明かりを地面に置き、トウファが翼を押さえにかかる。

「シャオにひどいことをしないで!」

「いい加減、おとなしくしろーっ!」

 血管から血が吹き出すのも構わず気力を振り絞り、シャオは腕にいっそう力を込める。気迫が満ち満ちたのか、びりっと空間がしびれたようになった。

 がくりと首を折り、鳳凰が静止した。古代の遺物が風化するように体がくずれていく。やがてすっかり、姿が消えた。

 達成感などないままに、シャオは地面に横たわる。全身の出血がひどい。特に背中とわき腹の傷が深く、大量に血を流していた。

「シャオっ!」

 満身創痍となった姿に、トウファがいまにも泣き出しそうだ。

「ここを出ましょう。早くお医者さまに」

 立ち上がりたくとも、両膝の裏をやられている。もう自力では歩行も困難だ。

 トウファはどうにかしてシャオを抱え上げようとする。鳳仙花を盛られたときはわずかに力が残っており、軽い支えだけを必要としていたがいまは違う。シャオの全身から力が抜けており、トウファ一人では運べない。

「シャオ。待っていて。戻ってオウカさんとフーヨウさんを呼んで来る」

 シャオの意識が朦朧としはじめた。一座にいたころはほかの賊とのいざこざを起こし、流血くらい過去に何度も経験している。その経験が物語る。今回ばかりは毛色が違うのだと。命にかかわる致命傷を負っているのだということをシャオに実感させる。

 まずいかもしれない、とシャオは思った。トウファが戻ってくるのが長引けば自分は死ぬ。そんな予感がした。

「シャオ!」

 トウファが立ち上がりかけたところで、回廊の奥から男の声がした。広間にダイダムが走り込んでくる。

「シャオ!」

 もう一度名を呼ぶと、地面に横たわり全身から血を流すシャオと、その横で心配そうに見つめているトウファのもとにダイダムは駆け寄った。

「ダイ……ダム……。どうして……」

「五次試験の会場がとんでもないことになっているのを見て、飛んできた」

「とんでもないこと……」

「シャオ。外が変なの。雷が鳴っていて、それも普通ではない数が落ちてきて。オウカさんとフーヨウさんは、廟の軒下で雷よけをしています」

「ああ。外で二人に会った。まだなかにおまえと、引き返したトウファがいると言っていた」

 ダイダムはシャオの体を抱え起こして、背中におぶる。

「話はあとだ。早く治療を受けよう」

 広間を出る。廟のなかもひどい有様だった。雷は廟にも落ちたらしく、ところどころの天井に穴が開き、そこから雨が降り注いでいる。雷鳴は止んでいるようだった。

「危ない!」

 トウファの声と同時に、ダイダムが足を止めた。天井の一部がくずれ、大きな石板が落ちてくる。雷で亀裂が生じたため、一部で建物の崩落が起こっていた。

「どこがくずれるかわからない。生き埋めは厄介だな。急ぐぞ」

 シャオを背負ったダイダムとトウファは走り、入り口に向かって回廊を戻る。

 廟の出口で両手を取り合ったオウカとフーヨウが待っていた。心配そうな面持ちを扉のほうに向けており、三人が飛び出してくるのを見ると安堵の顔になった。

「シャオ!」

 ダイダムの背中におぶわれてぐったりとしたシャオの姿に、二人は悲痛な叫びを上げる。

「シャオ……! わたくしたちのために、ごめんなさい……!」

 オウカは涙を浮かべた。

「シャオ……。本当にごめんなさい……。あなたが男か女かなんて、本当はどうだっていいはずだったのに……。わたくしは一度、あなたを疑ってひどいことを……!」

 オウカの告白は料理に鳳仙花を混ぜたことを指してのものだろう。やはり犯人はこの娘だったのだなと、霞がかかった頭でシャオは納得した。だがオウカへの怒りなどない。ただ無事でよかったと安心するばかりだ。

 まだ少女なのだ。十七歳の少女だ。か弱く、自分の身を守る術を知らない。魔物との邂逅でいたいけな少女三人が命を落とすことなく、生きて帰してやれたことにシャオは感謝した。

「宮廷に戻るぞ」

 シャオは目の端に黒ずんだ物体があるのをとらえた。

「あれは……」

 細長いものが地面に刺さっている。

「俺の刀だ。雷で撃たれそうになり、とっさに避雷針代わりにした」

 金属製のダイダムの愛刀は黒こげになっていた。よく見ると廟のまわりにある木々が倒れ、あたりには雨と煙のにおいがただよっている。まるで廟を狙うかのように、その周囲に集中して雷が落ちた。

 外の様子がまったくわからなかったが、これでは異常気象だ。

 あの悪しき者のせいだろうか。シャオは推測する。悪しき者の禍々しい力が雷を招いた。そうとしか考えられない。

 いつ至近距離に雷が落ちるかわからないなかをダイダムは進み、助けに来てくれた。

 安心すると意識が遠のく。シャオはダイダムの背中で眠るように気絶した。


 このあとのことをシャオはよく覚えていない。

 天候が回復したことで試験の終わりを知り、戻ってきたらしいブン翁や宦官たちと途中で合流し、馬車で宮廷へと連れ帰られた。

 シャオを乗せるまえ、宦官の一人がダイダムの介入を咎めるようなことを言った。それに対してダイダムは、自分に試験の詳細をなにも知らせず、四人を危険な目に遭わせたことを一喝した。そして試験そのものには手を貸しておらず、自分が駆けつけたときにはすでにシャオは悪しき者を討ち果たしたあとだったのだと主張し、相手を黙らせた。ダイダムはその場にいた全員を震えあがらせるほどの、とてつもない剣幕だったとあとでトウファから聞いている。

 三日三晩、傷から来る高熱でうなされた。熱が引いてからも寝たきりで、ようやく食事をして歩けるようになるまでは、そこからさらに六日かかった。

 十日目の朝、差し込む朝日で目覚めたシャオは枕で半身を起こし、寝台に腰かける。長きに渡る寝たきり生活でぼんやりとした頭を醒まそうと、窓の外に目を凝らした。抜けるようなうつくしい青空が広がっていた。

 茶器を持ち、トウファがやってきた。目覚めたシャオに蓮茶の入った杯を差し出す。シャオはありがたく受け取り、口をつけた。

「オウカさんとフーヨウさんは、後宮を去りました」

 二人の出立が、トウファによって告げられた。

「今日?」

「いいえ。七日まえのことです」

 どうりで部屋ががらんとしている。オウカとフーヨウの寝台からはいっさいの寝具が消えていた。

「シャオの体調が落ち着いたら話そうと思っていましたの。二人は、自分の意志で鳳凰候補を辞退しました」

 あれほどおぞましい出来事を経験したのだ。少女二人に鳳凰試験をあきらめさせるにはじゅうぶんすぎるほど、心にいやな思いを刻みつけられる出来事だった。

「ここで見たこと聞いたことは決して口外しないように皇帝とお約束をして、帰りました。お二人は、本当はシャオが回復するまで待つおつもりだったのです。けれど早々に決断を迫られたので別れを伝える暇もなく、代わりにわたくしが伝言を。オウカさんもフーヨウさんも、あなたに感謝していました」

「そうか」

 鳳凰試験に隠されたおぞましき秘密を目撃させておいて、宮廷がおとなしく少女たちを帰すとは思えなかった。試験の内容が漏れないように、皇帝が追加で誘惑の術をかけたのだろうとシャオは思った。

「おまえは降りないのか?」

 トウファはほほえむ。丸い頬の持ち上がるかわいらしい笑みだった。

「はい。せっかくシャオが守ってくれて、ここまでたどり着けたのです。シャオが手助けをしてくれたことを無駄にはしたくない」

 ひゅろろーと、外で鳥の鳴く声がする。自由に空を滑空する鳥の声が。

 トウファは遠慮がちに切り出した。

「お医者さまが……。シャオはひょっとして男の方なのではと言っていました」

「へえ。股間のものを見られたのか?」

 下世話な発言にトウファは顔を赤くした。

「いえ、そこまでは……。ただ体つきが少年みたいな少女だと」

 治療を受ける際に服を脱がされたのだ。あまりにも平坦な胸や、しっかりとした骨格の造形から医師たちに感づかれたらしい。だがぎりぎりのところで確証を抱くまでには至っていないようだ。

「ドゥグアロイさまが、そういう体型の子だから気にするなと医師団に」

 皇帝の計らいで、ダイダムの介入もお咎めなしになったそうだ。ドゥグアロイは立ちかけた煙をもみ消し、シャオが試験に残れるように計った。

 まだ取引は有効だよ。皇帝が耳元でささやきかけたようにシャオは感じた。

「私が男か、女か。おまえはどちらだと思う?」

 オウカには男だと疑われた。一番多く行動をともにしたトウファはこれまで微塵も、シャオを疑ったことはなかったのだろうか。

「わたくしは……。どちらでも構わない。シャオが好きだから」

「そうか」

 すなおなトウファらしい返答にシャオは笑った。

 トウファが、トーアであればいいと思っていた。けれどいまはどちらでもいい。シャオもトウファ自身が好きだと思った。

 開かれた扉からダイダムが姿をのぞかせた。

 トウファは立ち上がり、寝台横に置いてある椅子をゆずる。

「ダイダムさまもずうっと、シャオのことを心配していましたのよ。大丈夫だからとお誘いしても、遠慮してお部屋には入られなくて。まるで出産にのぞむ妻のいる部屋のまえで右往左往する夫のようでしたわ」

 立ち去るまえにトウファがシャオに耳打ちする。不適切なたとえにシャオは頬を赤くした。

「具合はよくなったか」

 ダイダムは小さな丸椅子にどかりと腰かける。体の大きさに対して椅子が窮屈そうだ。

「だいぶよくなった。もう意識がはっきりしてる」

「そうか」

 澄み切った空の青さがしばしの沈黙から気まずさを濾過する。

「なにがあったのか、トウファから詳しく聞いた。おまえは鳳凰に会ったんだろう。あの霊廟の奥で」

 シャオたちがなにを見たのか聞いたのか。すっかり把握したらしいダイダムから問われる。

「ああ。……あれはなんなんだ。俺たちが遭遇したあの……あれは」

 化け物が、と評していいのか迷い、シャオは口をつぐんだ。悪しき者は化け物そのものだった。だが鳳凰でもある。

「鳳凰の呪いが実体化したものだ」

 ダイダムがあっさりと答えをくれる。

「呪い?」

 また、呪術の話だ。廟に入るまえ、ブン翁も祈りの力で鎮めて来いと指示を出していた。

「おまえが臥せっている間にすこし調べてみた。……鳳凰は、祈りの力で国を守る。常時、海域に渦潮を発生させるほどの祈りだ。その力はあまりにも強い。国を守りたいという強い思いは、裏を返すと周辺国への敵意でもある。長年を経て、祈りはやがて呪いに変わる」

 祈りと呪い。薬と毒。相反しながら表裏一体のもの。シャオは授業の内容をぼんやりと思い出す。

「鳳凰が消えても、呪いの力はしばらく残る。行き場を失った力はやがて生物に形を変える。それがおまえたちが廟の奥で見た物の正体だ。鳳凰の呪いの力が結集したもの。俺の母の力の名残だったんだろう」

 その姿形から、あの生き物は鳳凰だと直感した。だがスホの力の名残だとまでは想像がつかなかった。それをこの手で封じ込めたシャオに衝撃が走る。

「そんな。宮廷はそのことを知っていたのか? 知っていてわざと俺たちをあんな場所に」

「ああ。古来から鳳凰が死ぬと、国は一時荒れた。雷鳴が鳴り響き、謎の生き物が跋扈して都を荒らしたという逸話も残っている。その正体こそ、おまえたちが見た悪しき者だ。悪しき者は鳳凰の死後、その遺体から漏れ出た力が結集して誕生する。だから十一代のころより、宮廷はあそこに大型の廟を建てて歴代の鳳凰を祀ることにした。あれは墓であり、鳳凰の死後に誕生する呪われた生き物を閉じ込めておくための檻でもある。鳳凰選抜をくぐり抜けて、前鳳凰の呪いを鎮める力を秘めた女たちがあらわれるまでのな」

 シャオの頭が混乱する。宮廷は呪われた生き物の誕生を知っていた。知っていて獰猛な呪いの檻にシャオたちを投じたのか。

「祈りの力、か。ばかばかしい。俺はあの生き物の首を絞めてとどめを刺したんだぞ」

 兵士たちのほうがよほどうまく太刀打ちできただろう。年端もいかない娘たちを危険な目に遭わせるまえに宮廷側で処理しろよ、とシャオは憤る。

「おまえ、祈ったんじゃないのか。物理攻撃は効かないはずなんだがな」

 ダイダムが首をかしげる。

「そんなの、また伝承の類だろう。ラムトゥが空を飛んだのと同じだ」

 迷信に従い命を落としかける者たちがいる。人命を軽視するやり口にシャオは頭が痛い。

「歴代の試験でこんな非道な真似がされてきたのか。鳳凰への妄信ぶり、あきれ果てて物も言えないな」

「ああ。最終試験として必ず組み込まれてきたようだ。鳳凰選抜は次代の鳳凰を選ぶのと同時に、前鳳凰の遺物を処理するための制度でもある。グェンロンはひたすら、外部にはこのことを隠しているがな。俺にさえ詳細は知らされなかった」

「最終試験?」

 ダイダムのひと言が引っかかった。ダイダムは苦々しく顔をゆがめ、言った。

「本当はあそこで最後の一人になるはずだったんだ。祈りの力を目覚めさせた一人だけが助かる」

 シャオが逃がさなければオウカも、フーヨウも、そしてトウファもあの場で命を落としていたということだ。

 おそるべき秘密を知り、長い沈黙が空間を満たす。

「シャオ」

 ダイダムが再び口を開く。

「逃げろ」

 シャオはすぐには是とは言えない。戸惑いを浮かべてダイダムを見つめるシャオを、ダイダムは説き伏せにかかる。

「鳳凰選抜がろくでもない代物だったことはよくわかっただろう。おまえとトウファが残り、おまえが回復したところで追加の試験がはじまることになっている。娘たちを平然と異形の檻にぶち込むくらいだ。最後はなにをさせられるのかわかったもんじゃない」

 ダイダムは怒りで青筋を浮かべた。

「逃げろ、シャオ。すぐに後宮を出てヴァルネイに行くんだ。いまなら渡れる。逃げるならいましかない」

 逃げるのか。トーアには会えずじまいのまま。

 逃げたらどうなるのだろう。

 まずフンテオは激怒する。シャオの渡航を阻止するべく、追っ手を放ってくるだろう。

 それから、ドゥグアロイ帝もシャオを追う。男が鳳凰選抜にまぎれこんでいたことを最終試験まで見抜けなかったという、グェンロン王朝最大の恥辱を即座に雪ぎにかかる。宮廷の兵を動かし、ヴァルネイに逃げ込まれるまえにシャオを殺す。

 運よく海を渡れたとしても、もうフォン国には戻って来られなくなる。戻ってくれば確実に命を狙われることになる場所にやすやすとは引き返せない。また鳳凰の祈りが再開してしまえば海には自然の防護壁ができ、密入国も困難だ。

 国を出てしまえば、トーアとは二度と会えない。

「俺は……逃げない」

 逃げたらなにもかもを失う。わずかにつかみかけた妹との再会の希望も手放すことになる。逃げるのは負けだ。死だ。シャオにその選択はない。

 ダイダムは目を剥いた。

「おまえ、死にかけたんだぞ! あと半刻、処置が遅かったら助からなかったかもしれないと医者に言われた!」

 大声でまくし立て、ダイダムは肩で息をする。ダイダムの剣幕とは反対に、シャオは落ち着き払っていた。深い覚悟を決めた者に特有の、賢者の達観を持った冷静さだった。

「助けてくれたことには感謝してる。ダイダム、おまえが助けに来てくれなかったら俺はたぶん死んでいた。そもそもおまえがいなかったら、最後の二人にまで残れなかったし。だから俺は、ここまで来られたことを無駄にはしたくないんだ。鳳凰に選ばれる可能性があるなら、それでトーアに会えるなら……。俺は自分の命を懸ける」

 ダイダムは目を瞠り、次いで苦しそうに顔をゆがめた。

「そんなに大事か、妹のことが。自分の命よりも」

「ああ」

 シャオにとっては愛を取りもどす行為そのものが、生きることと等しい。失われた家族の愛を取りもどすことが生きる理由だ。果たせなければ負ける。負けは死と同義だ。

「いくらでもやり直しはきく。一度、安全なところに身を隠すべきだ」

 シャオは力なく首をふる。

「ないよ、ダイダム。どれだけ逃げても、この世界に安全なところなんてない。鳳凰に選ばれるのが唯一、助かる道だ」

 たとえ選ばれたところで、その先はどうなるかわからない。ただ祈りの力がないことで始末されるまえにひと目でも、トーアに会えるのなら本望だった。

「家族を思うおまえの心は好きだ。だが……」

 そこまで言い、ダイダムは呻吟する。

 ダイダムは深く静かな怒りのなかにいる。シャオを思うがゆえに、自分の身を顧みない選択が我慢ならないのだ。

 ダイダムは雷鳴轟くなかを勇敢に進んだ。避雷針代わりにした刀が雷にやられたほどだ。ダイダム自身もいつ黒焦げになっていたかわからない。そんな大それたことができたのは、おそれよりもシャオを救いたい気持ちのほうが勝っていたからだ。

 ダイダムのなかでシャオの存在がたしかに根付き、大きくなっている。いまや、シャオを鳳凰にするという共通目標に向かう連帯意識以上のつながりが二人を結んでいた。

 シャオはダイダムの強さに触れた。ダイダムはシャオのさびしさに触れた。家族のため、決死の覚悟で願いを成就しようとする、悲愴とも言えるほどの慈愛に触れた。それを強がりで覆い隠す、滑稽ないじましさとも言えるものにも触れた。

 互いに心の芯をのぞかせ合い、信頼や思慕が心をつないだ。

「一時の愛のはずが本物になった。あの夜をともにして以来、俺はおまえに惹かれている」

 突然のダイダムの告白におののき、シャオは掛布を握りしめた。

「あっただろう、シャオ。あるんだよ。かりそめの愛だと思われるものでも、思いが強ければそれはいつか本物の愛に変わる。家族愛以外にも、この世には愛がある」

 伝えるつもりもなかったが、つい気持ちが漏れてしまったらしい。あるいは肉親以外にも真の愛を感じることがあるのだと説くことで、一時、トーアのことを忘れろとうながしているのかもしれない。

「それは……たぶん気の迷いだ」

 シャオはうつむき、ダイダムの言葉を拒絶する。

「俺にとっての愛は儚いよ、ダイダム。願っても手に入らない、むなしいものだ」

 ダイダムが長く息を吐きだした。互いに主張をゆずらない。ため息に込められた諦観が、無念さが、これ以上、シャオを説得するのは無駄だと語っていた。

「……わかった。手を組むのもここまでだな。俺は、もうなにも言わない」

 ダイダムは立ち上がり、踵を返す。

 これまでの感謝と、裏切ってしまったことへの謝罪と、ダイダムへの慕情。決して混ざり合うことのない気持ちを込めて、シャオは立ち去る背中を見つめた。

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