Fear of the dark

@lostinthought

第1話

暗視装置ナイトビジョンが若者に売れ続けている。

よく売れているのは遠赤外線──生物でも無生物でもあらゆる物が自ら放射しているシグナルだ──を読み取り、その姿形を見ることのできるタイプだ。

少し値が張りはするが比較的安い微光暗視タイプとは異なり、完全な暗闇や悪天候の野外でも関係なく物を見ることができた。

僕が使っているのもこの遠赤外線を感知するタイプだ。

僕らはこの特殊な機械の力に頼ることで、人間の裸眼では本来何も見ることのできないほどの暗闇で物を見、肢体を動かし、日々を生きることができた。

ヘルメットと一体になった軍用のものも流通してはいるが、さすがに仰々しいからだろう、帽子の需要が増える夏を除いてあまり売れてない。

僕の使っているゴーグルタイプは、頭に直接ベルトを巻くことで固定して使用する。

片目用のものもあり、そちらは比較的軽量な点が支持されていた。特に女性に人気だそうだ。

もっとも清掃の仕事をするには片目だけでは距離感が掴み辛く不便なので、僕は絶対にゴーグル型しか使わない。

一度だけ実家に住む妹に借りて見たが、この型に慣れると日常生活でも片目用はありえなかった。

利き目である右目に装着すると左目は視界が真っ暗なので、居間を歩いていても足先をよくぶつける。イライラが募ってならなかったのですぐ妹に押し返した。


暗視装置ナイトビジョンをかけての生活に今では何の支障も感じていないが、使いはじめたばかりの頃はゴーグルの双眼鏡のように前方に突き出た部分と周囲の距離が一向に掴めず、動く毎といっていいほど必ず何かにぶつかった。

それが2年以上経た今では仕事をするのも、食事や洗濯といった家事をこなすのも、彼女の体を指で触ることすら、この装置なしではままならない。

暗視装置が生活必需品。

まさかこんな日が来るとは思ってもみなかった。

でも、これは何も僕に限った話じゃない。

恐らく日本中の若者が同じように思っているはずだ。

それもこれも、日本の若者の間で〈暗闇〉が広がっているのが原因だった。


──暗視病


暗視装置ナイトビジョンが手放せなくなることからSNS上でそう呼ばれ始めた新しい奇病が、いま日本の若者を侵食している。

3年前の4月頃から徐々に罹患者の存在が知られはじめたこの突発性の病は、発症すると急激に視界が暗くなり、昼間の屋外でもまるで夜のように見える──いや、真夜中のように何も見えなくなった・・・・・・・・・

未だにその原因がウイルスによるものなのか精神的なものか、あるいは遺伝子の異変によるものかさえ特定されていない。

原因不明の新病だ。

以前は暗視装置といえばサバイバルゲームの道具、あるいはミリタリーグッズとして一般には一部の層のみに向けて細々と販売されていたものだったのに、今や若者にとって手放すことの出来ない立派な必需品になっていた。

「スマホの使いすぎ」

暗視病が広がりはじめた初期の頃、テレビでそう言い切ったコメンテーターがあっという間に炎上し、すぐ謝罪コメントを出すという騒動が生じた。

炎上にはそれなりの理由があった。

その炎上事件の頃には、すでに若者にはよく知られていたように、この奇病の罹患者のほとんどが日本人・・・の10代から30代を中心にした若い層ばかりに集中していたからだ。患者はその年代の9割に上る。

だからそのコメンテーターの私見は明らかに間違っていた。

蛇足だがちょっと補足すると、スマホ発言で炎上したコメンテーターは40代の男性落語家。彼をTwitterで擁護して飛び火した有名な役者は50代の女性だ。

暗視病の原因が分からないまでも、日本の若者ばかりに広がっている奇病だということだけは確実だった。


「なんか病気まで年功序列だよね」

言ったのは僕の彼女だ。

僕のアパートで一緒に人気アニメの劇場版のテレビ放送を観たあとのことだ。次にはじまるニュース番組のCMで〈暗視病のいま〉という予告を見てだった。

僕の2つ年下で、今年24になる短大卒の莉緒りおは今、映画館のアルバイトをしている。

アニメを見ながら、賃貸料節約のため一緒に暮らそうかという先月からの話題を中断するように、莉緒はそう言ったのだった。

隣に座る莉緒は、座卓に肘をついた姿勢で両目用暗視ゴーグルのレンズを僕に向けている。

その暗視ゴーグルのボディカラーは赤らしいが、型落ちで安かったという理由で選んだという本人も、すべてがレンズを通して灰色に見える僕にも、本当にそれが赤なのかどうかは分からない。

「そうだよな」

僕は自分のゴーグルを揺らして頷いた。

僕が非正規で働く清掃会社でも40代以上でこの病に罹患している人はいない。

医療機関や政府の調査によると決して存在しないわけでもないらしいが、少なくとも僕の近くにはいなかった。

「ほら見てよ」

内心どうでもよさそうな眠たげな声で莉緒はテレビを向く。

「あのおじいちゃん凄く元気」

そう言われてテレビのほうを向く。暗視ゴーグル越しに濃淡のある灰色になったテレビ画面が目に入った。

暗視装置ナイトビジョンは、周囲の僅かな光を利用する微暗視型だと視界がグリーンに、僕や莉緒の使う遠赤外線をキャッチするタイプでは灰色に映る。

薄暗い灰色の画面の中では、昼間の砂浜で日光浴する裸眼の老人がインタビューを受けていた。視聴者の方に向けられているのは元気な笑顔だ。

片目だけの暗視装置をつけた女性インタビュアーが「若者が海にいないのをどう感じるか」という、若者にとってはさして関心を引かない質問を投げかける。

すると若々しい高齢男性が、

「寂しいなぁ」

溜息のような弱々しい声で答えた。

「本来やったら、わしも孫らと一緒に来たかったんやけどなぁ・・・・・・」

今日は8月11日。

以前なら夏休みを満喫する家族や子供たちで溢れていた海も、今は中高年の姿ばかりだ。

真夏の強烈な日差しによって、精密機器である暗視装置に負担がかかるのを避けるためと、細かな砂が内部に侵入して故障するのを避けるため、ほとんどの若者は夏でも海や山には出かけなくなっていた。

僕らも真夏はずっと互いのアパートの部屋を行き来している。

莉緒がふとリモコンでテレビを消した。

「いいね、お年寄りって。元気だし、お金もあるし」

「まあ老い先短いけどな」

俺が笑うと彼女は少し真面目な声を出した。

「でも私たちより長生きかもしれないよ。この変な目の病気の原因だってまだわかんないんだから」

「何気に怖いこと言うなって。大丈夫だよ、たぶん」

「そうかな?」

ゴーグルと一緒に小首を傾げる。セミロングの毛先がしゃらしゃらと揺れた。

たしか、莉緒は髪を染めないので黒髪だと言っていた気がする。

その表情はゴーグルのせいで分からない。愉快そうにも、不安そうにも見えた。

「大丈夫だって。精密検査しても誰からも異常が発見されないんだから」

実際、日本の医学界もWHOも罹患者から何一つ異常を発見できていない。

すると莉緒が呆れた声を出した。

「なんでそうなるのよ。これだけ検査されてるのに何も異常が発見されないのが、怖いんじゃない」

その一言に僕は黙る。

胸の隅でいつも燻り続けている嫌な不安に、苦笑の息をフッと吹きかけられたような気がした。

「やっぱり高齢者のほうが楽だよ。重たいゴーグル付けなくていいし、年金だって貰えるし、一割負担だし」

莉緒は僕の心がざわつく横で、コップに残っていた麦茶をストローで飲み干す。

ゴーグルをしているとストローなしではまともにドリンクも飲めない。

「でもさ、ゴーグル買う補助金だって出たじゃん。高齢者のほうが良いとまでは僕は思わないけどな」

ちょっとムキになって言い返した。

すると莉緒は今度は疲れたような声で、

「補助金って言ってもたった5000円じゃない。私達も一割負担にして欲しいよ、若者だってお金ないんだから」

「まあ、それはそうだけど・・・・・・」

お金が無いのは事実だ。

先週デートの際、ゴーグルを固定しているベルトの留め具が急に壊れた。そのせいで僕は繁華街のアスファルトの上に暗視ゴーグルを落として壊したのだ。

何も見えなくなり動けなくなった僕の手を引き、夜の10時まで営業をしているショップに連れていってくれたのは一緒にデートしていた莉緒だった。

その時お金のなかった僕の代わりに暗視ゴーグル代を立て替えて貰ったまま、まだ給料日が来てないので返せていない。

僕が何も言い返せなくなっていると、

「これから私達、どうなっちゃうんだろうね」

「どうって?」

「いろいろとだよ。年金とか、暗視病の両親から生まれた子供の将来とかいろいろ」

莉緒は最近、暗視病と高齢者を羨ましがる話しかしなかった。

映画館の人員が減らされて仕事が増えたこともあるのだろう、ゴーグルをしていても疲れているのが目に見えて分かる。


──暗視病の両親から生まれた子供


ひょっとしたらその子供達は、生まれた時から永遠に夜の世界を生きるのだろうか?

そう考えると、自分たち以上に次の世代が不憫に思えた。

「莉緒」

しばらく黙っていた僕は、おもむろに口を開いた。

「ゴーグル、外そう」

「え、さっきしたよ?」

彼女は疲れた声で言い、さらに何か続けようとして止めた。

「ちょっと待っててよ」

そう言ってベルトを解くと、静かにゴーグルを外す。

僕らがゴーグルなしで向き合うのはセックスの時だけだ。

何も見えない中、僕らは互いの体を手探りで求める。上手く性器が交われば後は闇の中で、肉体の感覚だけで激しく動き続けた。

暗視装置ナイトビジョンがなければ僕らは当たり前の生活すらままならないのに、セックスの時だけは装置を外さなければ、互いの存在を上手く抱くことすらできない。

僕は暗闇の中、胸の内で燻る不安から逃れたくて、コンドームをした性器を莉緒の細い体の中に挿入しながら思った。


──僕らがこの1LDKのアパートで一緒に生活して行くかどうかは、まだ決まりそうにない


けど、この明けることのない真夜中の世界に僕達の子供を産み落とす罪だけは、絶対に犯しはしない。

それだけは確実なことだった。

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