夜のそぞろ歩き

古博かん

見上げれば寒月

 頭が深々と冷える、そんな夜には温かい帽子が必需品でしょう?


 玄関灯の元で吐く息は頼りなく、凍えながら鍵をかけて真っ先に見上げた空では、ぽっかりと浮かんだお月様の周りに雪雲の円が出来ていて、まるでお月様が寒い寒いと分厚いコートを着ているみたい。


 そんな高いところにいるんだもの、やっぱりお月様だって夜は冷えるでしょう? そうでしょう?


 雪雲が月の周りを覆いながら次々と通り過ぎていくような夜道をまっすぐに歩く。国道沿いの無粋なネオンの明かりさえ邪魔をしなければ、今夜はきっと、もっと素敵な夜になっただろうに。

 すぐ隣を走行する車両の発する耳の痛い騒音がなければ、今夜はきっと、もっと静かで穏やかな夜になっただろうに。


 車の排煙と寒風に巻かれて行き交う人々の、ジャケットの襟を立てて首をすくませながらポケットに両手を突っ込んで俯き加減で足速に歩く人々の、傍らを寄り添って小声でヒソヒソ会話をしながら行き過ぎる若いカップルの、分厚いコートとお揃いのマフラーを巻いた熟年夫婦の頭の上で、雲の切れ間から煌々とお月様は輝き、そして時間は静かに流れていく。


 音も無く。

 さらさらと。


 さあ、ひたすらにまっすぐ歩いて行こう。

 街頭に照らされる吐息は相変わらず頼りないけれど、いつの間にか北風はぴたりと止んでいる。頭を刺すようだったキンと冷える空気が緩むと帽子の内側はホコホコと暖かい。不思議と周りも暖かい。

 まるで頭上のお月様みたいに、周りに空気の分厚いコートを着ているみたい。

 寒い夜に、暖かいから一人どんどん歩いて行こう。


 さあ、どんどん、どんどん。

 どんどん。


 すると、今度はどうだろう。風は無いのにどうしてか、心に隙間風が吹き始める静かな夜。それでもやっぱり、帽子の内側ばかりはホコホコと暖かい夜。

 深々冷えて吐く息ばかりは白い夜。

 時間はまだまだ先のはずなのに、過ぎゆく年に別れを告げる鐘の音が心に響く不思議な夜。


 そろそろ引き返そうかな、それとももう少し歩こうかな。どこまで歩けるかな、あと一時間? 二時間? それとも夜明けまで?


 澄み渡る空から真っ白な眠気が緩やかに降ってくる。

 深々と、ゆるゆると。


 それは少しずつ足元に積もり、肩にも帽子にも鼻の頭にも積もり、ちんちんと冷える。まだ時間は先だけど、そろそろ帰ろうかなと挫ける心とつま先が、とんと地面を軽く突く。


 一人で歩む静かな夜も、徐々に人手が増えてくる。

 みんな静かにそぞろ歩く中で空気ばかりがざわり、ざわりとさんざめく。

 遠くに見える仄かな灯りを目印に、ゆるりゆるりと一歩が段々小さくなって、代わりに大きくなる人波の中から垣間見るとお月様は、相変わらず煌々と明るく時折分厚いコートを纏う。


 遅くなるなあ、家に電話しよう。


 活気とはまた違う厳かな夜に静かに鐘が鳴り響く。心の隅々まで響き渡る音に浸って、それからまた、今まで歩いてきた道をのんびりまったり引き返そう。思い出に浸って引き返そう。


 一歩一歩、一歩一歩。

 静かな夜を歩いて帰ろう。 


 ふと見上げると、雪雲はいつの間にか暗い空の中に溶けていた。そしてぽっかりと丸裸のお月様が浮かんでいる。

 寒くないのかな、だってこんなに冷えるもの。きっと寒いでしょう?


 帰り道、頭の真上には煌々とお月様が一緒についてくる、雲の溶けた夜空にまたたく星もついてくる。


 みんな一緒に帰ろうか。

 ゆっくり歩いて帰ろうか。


 夜はまだまだ暖かい。

 みんなで分厚い空気のコートを身にまとい夜道をそっと帰ろうか。

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