真夜中の段田蜜子
清水らくは
真夜中の段田蜜子
僕の高校は、家から二時間のところにある。
毎日、船と電車を乗り継いでいく。もう少し近いところもあったのだが、受験に失敗してしまった。毎日五時半に起きて、六時過ぎに家を出ている。始発のフェリーに乗って、海を渡る。
友達の多くとも別れ、最初はとてもつまらないと思っていた。部活にも委員会にも入らず、遅くならないように寄り道せずに帰る日々。何といっても帰りの最終フェリーが夜7時15分発で、それを逃すとどうしようもないのである。
ただ、こなすだけのような毎日。休日遊ばないかと言われても、「島を出るのが大変だから……」と断るうちに、誰からも誘われなくなった。
本当にただ通うだけの毎日だった僕だが、二学期になって事情が変わった。担任が病気になり、休職したのである。代わりに担任になったのは、主に三年生の授業を担当していた段田先生だった。
段田先生は学校でも噂の美人教師だったが、マドンナ的存在かと言うとそうでもない。確かに美人なのだが、どこか怪しさがあり、艶めかしさを感じる。僕たち高校生は絶対に相手にしてもらえないだろうという、そういう雰囲気だった。
ただ、担任になった段田先生は予想とは違い、朗らかだった。
「人生初めての担任だから、皆も優しくしてね?」
声がとても柔らかくて、それでいてよく通る。いつまでも聞いていたかった。
前の担任に代わり、数学の授業も担当することになった。黒板に字を書いているときの、肩から腰にかけての線がとても美しいものに見えた。段田先生の動きは常に落ち着いていて、僕はどうしても目で追ってしまった。
段田先生を見たい。それが学校に行く動機になった。フェリーから陸地が見えてくると、「あそこが段田先生のいる大地だ!」と思った。
噂では段田先生は独身ということだったが、彼氏がいるかどうかはわからなかった。あんなに魅力的な人なのだから、いても不思議ではない。むしろいてほしい、と思った。好きな人をのことを話すときの、照れた顔を見てみたいのだ。
僕は、自分が段田先生に恋をしているとは思わなかった。手に入れたいとは思わないし、いやらしいことをしたいとか、そういうことじゃなかったのだ。ただただ眺めて、できればどんな人かを知りたい。
たぶん段田先生は僕にとっての芸術作品であり、宗教なのだ。
窓ガラスを叩く雨の音が激しくなってきた。風もビュンビュンと唸っている。
確かに雨の予報だったが、ここまで天候が荒れるとは思わなかった。
「えーと、みんないる?」
五時間目と六時間目の間の休憩時間、段田先生がひょっこりと現れた。
「あのね、大雨で電車が止まっちゃったみたい。土砂崩れも起こって、今日中の復旧はできないって」
教室の中にざわめきが起こる。
「あと、清岳君」
「は、はいっ」
突然名前を呼ばれたので、返事をする声が裏返ってしまった。
「フェリーも動かないみたい」
「えっ」
考えてみれば当然なのだが、それは困った。
「六限目は中止になったから、みんな家に連絡しましょう。帰れない人は、学校に泊まれるようにしてもらうから」
大変なことになった。車で迎えに来てもらえる生徒も多かったが、通行止めの道もあり、どうしても帰れない人もいた。そして僕は、電車とフェリーが動かないので帰りようがない。
「5組は男子、6組は女子の部屋にするから。シートと毛布を運びましょう」
こういう時のために、色々と用意がしてあったらしい。5組と6組になったのも浸水の可能性のある1階、を避けてのことで、ちゃんとこういう時のためのマニュアルがあったとのことだ。
一年生の男子は25人が泊まることになった。僕のクラスからは5人である。ちなみにもともとフェリーで通っているのは僕だけなので、「船が欠航で」泊まることになったのは一人だけである。
「男子のみんな、もうちょっと手伝ってくれる?」
段田先生に呼ばれた男子たちは、他の先生たちと一緒にバケツを持って外に出た。断水した時のために、水を貯めておくらしい。
まだまだ土砂崩れの危険もあるということで、学校に避難してきた人々もいた。体育館が解放され、駐車場の車内で過ごしている人もいる。本当に大変なことになった。
教室に戻ってくると、段田先生がいた。僕を見つけると、手招きをした。
「清岳君」
「はい」
「明日フェリーが再開したら、港まで送ってあげるね」
「えっ、先生が?」
「段田君はおうちの人迎えに来られないでしょ? 代行バスが出ても、フェリーの時間には合わないかもしれないし」
「ありがとうございます」
確かに電車も止まっているし、代わりのバスとかもどうなるかわからない。
段田先生の車に乗る。そう考えたら胸がドキドキしてきた。
男子のクラスには、体育の先生が一緒に泊まることになった。そして、隣の女子のクラスには、段田先生が。
ビニールシートを床に敷き、その上に毛布を敷いている。
「夜更かしするなよ」
体育教師はどすの利いた声で言ったが、色々な理由で眠れる気がしない。相変わらず雨と風の音が大きいし、いつもと違う環境だし、隣のクラスには段田先生がいるし、明日は段田先生の車に乗れる。
夜が深まっていくにつれて、頭は冴えていった。僕は今まで、昼間の段田先生しか知らない。夜の段田先生……段田蜜子は、どんな感じなのだろうか。すぐ隣にいるのだ。けれども、女子の部屋に入っていくわけにはいかない。
女に生まれていても、僕は段田先生に魅力を感じていただろう、という妙なことを確信する。女に生まれていれば、真夜中の段田先生を知ることができたのに。
いくつかの光が見えた。スマホだ。やっぱり、眠れない人が多いのだろう。
このままではただ毛布にくるまったまま朝を迎えてしまう気がして、僕は立ち上がった。一応、トイレに行くような感じで。
夜の学校は不気味なほどに暗かった。スマホのライトをつけて、ゆっくりと進む。
「清岳君?」
突然声をかけられて、僕は飛び上がった。2組の前の廊下に、段田先生がいたのである。
「あ、先生」
「お手洗い?」
「ああ、はい」
「気を付けてね」
「先生は?」
「ちょっと、外の空気を吸いに。外でもないんだけど」
ぼんやりと照らし出された先生は、運動着を着ていた。購買で買ってきたのだろうか。いつものきっちりとした着こなしとのギャップに、目が離せなくなる。
「ちょっと、ダサいって思ってるでしょ」
「いやいや、皆着るものですし」
「さすがに寝間着は持ってないしね」
「そうですよね」
段田先生はニカッ、と口角を上げて笑った。あまりにも眩しい笑顔だった。
「女子は寝てます?」
「あんまり。私がいない方がいいかもって思って、出てみたの」
「そうだったんですか」
ちなみに体育教師はもう寝息を立てている。
「段田君は毎日えらいよね。二時間でしょ」
「いやあ、公立落ちちゃったんで」
「勉強も頑張ってるよ」
「ありがとうございます」
それだけのやり取りだった。僕は頭を下げて、トイレに向かった。戻ってきた時には、段田先生はもういなかった。
真夜中の段田先生を見てしまった。そう思うと、頭がどんどん冴えてきた。ただ見ただけじゃない、話してしまった。いつもよりも、声のトーンが高い気がしたが、思い違いだろうか。少なくとも、いつもより綺麗だった。
雨は怖い。でも、学校に泊まるのはちょっとワクワクするというのも事実だ。段田先生も、そんな気持ちになっていたりしないだろうか?
いろいろな妄想が、全く止まらなかった。
朝になり、雨脚は弱まっていた。ただ、まだ風は強く、電車もフェリーも動いていないらしい。
「あー、皆起きたか。今日は休校になったが、帰れないやつはしばらく学校にいていい。最悪もう一泊もあるかもしれん」
体育教師が大きな声でそう言う。
多くの生徒は、何とか帰ることができそうだった。ただ、僕に関してはフェリーが動かないことにはどうしようもない。もし僕一人だけ帰れなかったら? 一人で学校に泊まるのは怖すぎる。というか、体育教師と二人きりか。
午後になり、フェリー再開の連絡が来た。段田先生が迎えに来た。いよいよ先生の車に乗せてもらえるのだ。
けれども、僕の瞼には昨夜の先生の姿が焼き付いていた。真夜中の段田先生は、本当に魅力的だった。段田蜜子には、夜が似合うということを知ってしまった。だからもう、昼の段田先生には、冷静に接することができる。昼間の段田先生は、本気を出していないのだ。
またいつか、真夜中の段田先生に出会うことはできるだろうか。僕はきっと明日から、天候が荒れるのを願ってしまうだろう。できれば学校に来てから荒れてほしい。
真夜中の段田蜜子に、もう一度会いたい。
真夜中の段田蜜子 清水らくは @shimizurakuha
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