第2話 夕闇の子どもたち
子どもはときに残酷だ。
そう言う人は多いけど、あたしの場合、子どもはただひたすらに無垢で純粋なだけだと思う。だって、あのときのあたしは確かにちょっと周りの人から見てもおかしかったと思うのだ。
髪は腰の近くまで伸ばしていた。別に憧れていたわけじゃないけど、当時好きだったアニメのキャラにそのくらい長い黒髪の子がいて、それをちょっと意識していたのは認める。
だけど、その子とあたしは髪以外、何もかも違っていた。だって嘘みたいに脚が長くて胸だけは大きいアニメの世界と違って、あたしは猫背な上にちょっと太っているから後ろ姿がなんだかとても丸くて、コンプレックスの一つだった。ちょっと昔に一念発起して母と一緒にダイエットに励んだこともあったけど、そしてその時は少しは自分に自信が持てた気がしていたけど、写真とかで後ろ姿を撮ってもらうとやっぱりなんかちょっと丸かった。
そんなシルエットを少しでも縦長に見せるためにも、あたしは髪を伸ばしていた。そうしたらあんまり美容院にも行かなくなってしまい、前髪も伸びて毛先は枝分かれして、だからきっとあの頃のあたしは本当に、ひどい姿をしていたんだと思う。
アルバイトの帰り道。そっちの方が近道だから通る途中の公園で、子供たちが言った。
「あのひと……怖いね」
「しっ……近づいちゃだめだよ」
「お化けみたい」
ちゃんと全部聞こえていた。本当はそのあとにもうちょっと辛辣な言葉であたしを例えていたことも。それはたった一回のことだったけれど、もう毎日言われているみたいにあたしの頭に残ったから、今でもよく覚えている。
人間はどうして嫌な記憶ばかりこうも忘れずにいられるのだろう。
今とは違って、当時のあたしにはまだ、そんな夕闇の子どもたちの素直な気持ちを悟ることができなくて、ただ鮮烈にそのことばが脳裏に焼き付いてしまった。
もちろん、髪だって切ればいいし、体型だってまた痩せれば少しは違ったかもしれない。だけど、それをするための努力も意欲も、その頃のあたしにはもはやなかった。今から思えば、心が死んでいたのかもしれない。
高望みなんてしてないんだから、まぁどこかしらは大丈夫だろうと迂闊に考えていたらあっという間に就職浪人になり、アルバイトの時間を増やして生活をしていた。あたしの母はあたしが小学生の頃に離婚していて、こうこうせいの頃からしていたアルバイト生活にはもう慣れていたから、二人で慎ましく暮らすのだったらそれだけでもどうにか事足りていた。
そんななか、たまたま目にしたトーク番組のゲスト――ゲストというか、メインで呼ばれたお笑い芸人さんの
最初に見たときのるかくんのことをあたしは今も覚えている。はっきり言って、そんなに好きじゃないと思った。何しろ、当時の彼はまだHoney Wand's Magicを結成したばかりで無駄なほど気合いが入っていたし、髪だって白に近い金に染めていたのだ。
確かに顔はかっこいいけれど、司会者の方の提案に臨機応変に答えるどころか、かなり強引に自分が話すと決めてきたのであろう話をしていたり(案の定、あまりウケてはいなかった)、確かに笑ったときの無邪気な顔はその辺の女の子よりもよほど可愛いけれど、ちらちらとカメラを気にしすぎなところがあって、よほど自分が好きなのかなと思ってしまった。
もちろん、彼のことを知った今ではそれが初めての東京でのテレビ出演で緊張していたからだったのもわかるし、髪については当時やっていた舞台での役作りだったっていうのもわかる。だけど、とにかく、その大阪からやってきたかっこいいだけの青年なんて、ただ歩いていただけで小学生を怯えさせてしまうあたしとは一生縁のない存在なのだから、気にしたって仕方のないことだと思った。
だけど、だからこそあたしは気になってしまった。
あたしは怒られたり嫌われたりするのが嫌なので仕事上でミスはしたことはなかった。それなのに人間関係でのほんの小さな齟齬が重なってそろそろアルバイト先を変えて、人間関係をリセットしなければやっていけなくなると考えはじめていた頃だった。そんな後ろ向きでしかないあたしだからこそ、気になってしまった。それはもしかすると、運命なのかもしれなかった。
この人とあたしの、一体何が違ったというのだろう。見た目……と言われればそのとおりだ。だが、そうではなくて、彼の考え方や、ものの捉え方を知ってみたくなった。このまま、あの夕闇の中に消えてしまう前に、あたしではない誰かだったら、全く接点もないような真逆の人間である彼だったら、この人生をどうしていたのか――ということだけでも知りたかった。
今から思えばそれはきっと、一縷の望みだったのだ。
当時好きだったアニメの声優さん(女性なのだけど)が頻繁にグロウライブをやっていてそれを見ていたので、るかくんの配信はすぐに見つけられた。
▶︎ しえる:髪、普段は黒なんだ
トップアイドルの配信ともなれば、コメントの読み上げどころか、投げ銭へのお礼だっておざなりになってしまうことは多々ある。何しろ、それだけ視聴者が多いのだ。そして、その日のるかくん配信はテレビの効果もあってなのか、そんなトップアイドルたちに引けを取らないくらいの視聴者がいた。
だからあたしはその好きだったアニメキャラの名前で気軽にコメントをした。どうせ読んでくれないだろうし、仮に読まれても、なんなら嫌われたっていい。だから何も気負わずに思ったことを書き込んだ。
「あ、しえるさん。えーっと、初見さんかな? 『髪、普段は黒なんだ』……そうなん、ですよ。あれはね、舞台での役作りでして……」
300GP ▶︎ emma ❥❥❥凪原ルカ✥推し:『TOKYO CLIP』来年東京公演もあります。詳しくはプロフにリンクあります
「とわさん、こんばんは。テレビ見てくれてありがとうございます! ののんさん、junさん、それから……なつきさん、HiWaさん、くるみっとさん、星投げありがとうございます! あっ、emmaさんスパチャいつもありがとう。えー、来年の2月9日から渋谷クレセントシアターにて東京公演です、ぜひよろしくお願いします」
そりゃあ彼だって、人並みに努力はしてきただろうけど、わりと大きな事務所に所属して、先輩タレントからも可愛がられて鳴り物入りでデビューしたんだと勝手に決めつけていた。
だが、時折画面の端を見て何かを確認しながら一生懸命に喋る姿にあたしはあたしの狭い心がきゅっと締め付けられる思いだった。
▶︎ しえる:頑張ってね
「『大阪公演行きました!』――ありがとうございます。みれいさん、そして他の皆様も感想、『#TokyoClipを観た』……で、合ってたかな? そのハッシュタグと、ぼくの名前『#凪原ルカ』でもいいし、『#るかくん』でも『#金髪似合わへんやつ』でもいいので付けてくれたら全部見に行きます! 批判的な感想でもね、全然オッケーですよ。あっ、しえるさん。頑張ります! よかったらきてね」
違う。違う、違う、ちがう。
あたしは首を横に振った。この人がかっこいいのは、目や鼻や口が整っているからじゃない。いいや、それはもちろんそうなのだけど、それよりももっと内なるものが彼を輝かせている。
あたしが見ていた声優さんの配信よりも、彼はずっとたどたどしかった。あのテレビ番組と同じで拙くて、全部が全部、立派には捌き切れてなんていなかった。でも、みんなのことを笑顔にしようとするその気持ちだけは画面を通じてあたしみたいに半ば意地の悪い心で配信を覗いた人にさえ、ちゃんと伝わっていた。
彼はたくさんのファンの名前を呼んだ。それは一人でも多くのファンから投げ銭をしてもらうためなんかではない。名前を呼ばれたらうれしい。うれしかったら笑顔になれる。たったそれだけのこと。
▶︎ しえる:好きになってもいいの。
気がついたらあたしはそう送っていた。
あたしなんて、お金をたくさん持っているわけでもなければ、フォロワーが多い訳でもない。彼からもらった笑顔の半分も返すことはできないだろう。
そのあとも丁寧かつ必死にファンサをする彼が、あたしのコメントの順番になって、ふいに真顔になった。
しまった。そう思った。彼に甘えすぎた。適当な名前にしたからと言って、なんてばかな質問をしたのだろう。答えなんて、わかっているはずなのに。
せっかくの彼の配信に水を差してしまった。だからあたしはあたしが嫌いなのだ。だからあたしには……人を好きになる資格がないのだ。
「……しえるさん。そんなこと、初めて言われたよ」
彼は困ったように笑う。まるで自分だけがかまってほしい子どもみたいなあたしのコメントに、他のファンの人たちはさぞあたしを憎んだことだろう。彼がそうしている間にも、それとは関係のないコメントや投げ銭が次々に増えていく。
「好きになって……いいに決まってるよ。格好つけて言うわけじゃないけど、ぼくはさっき舞台に来てねって言いましたよね? あれは舞台に来て、たくさんお金を使ってくれって意味じゃないんだ。そうじゃなくて、なんていうかな。あの舞台を観て、『明日から頑張ろう!』とか、『あの場面、笑ったなぁ』とか、そういうふうに元気になれるから……というか、元気になれるように主演の加藤くんや演出の方、キャストのみんなと頑張って舞台を作ってるから、だからきてほしいんです。でも、だから、無理をしてまではこないでね。こないでっていうか……あー、ほんと口下手でごめんね。でも、その……要するにほら。好きになるのに権利はいらないから。例えばね、お金がなくて舞台観れないから好きと言えないとかさ。それだけじゃなくて、もうどの人だってそう。周りにアイドル好きを公言できなくて〝布教〟ができない人もそうだし、うーん、あとは自分の性別に悩んでる人もそう。もちろん、前からずっとずっと凪原ルカを応援してくださってる人も同じ。そりゃあさ、ぼくもできればSNSでバズりたいし、グッズもたくさん売れたらうれしい。だけどそれは全くもって、ファンの皆様の力不足ではないから。仮にぼくたちがもうめっちゃくちゃ魅力的なステージを作れたとすれば、自然に話題にもなるしグッズも売れる。週に何度かしか配信が見れなくても、グッズを買わなくても、もちろん舞台が観れなくても、好きだって思ってくれたらその瞬間、みんなみんなぼくのファンです……ってなんか恥ずかしい。てか、なんでこんな話になったんだっけ、ああ、えっと……でしたっけ? あっ、しえるさんか。だからね、ぜひ応援してやってください! 好きになってもいいんですよ」
▷ しえる:ごめんね、変なこと聞いて
▷ emma ❥❥❥凪原ルカ✥推し:○しえるさん 一緒に推しましょう!
気がついたらあたしは滲んだ視界でるかくんの配信のページを一旦閉じて、グロウネームを変えていた。
▷ ゆーぴの@しえるです、名前変えました:ありがとう。たくさん応援するね!
▷ゆーぴの@しえるです、名前変えました:○emmaさん ありがとうございます。一緒に支援します!
それはあたしにかつて、たった一度だけできたことのある恋人がつけてくれた名前だった。その恋は学生の頃のことで、わずか一週間くらいしかもたなかったけど、今でも時々思い出す。本名の日野優子というのをもじってつけてくれた大切な名前。
もちろん、ファンからしてみれば、まるで今日の配信の主役かのようにるかくんとやりとりをした上に都合よくアカウント名まで変えて、おかしなやつだと思われたかもしれない。emmaさんをはじめ、仲良くさせてもらっているファン仲間もいるけれど、今でも少し、そのときのことを根に持たれているような気がするときもある。
でも、あたしはただ好きな人を好きと言っただけ。誰かをばかにして点数を稼ごうとか、人様に迷惑をかけてまで推しを支援しようとしているわけでもない。
子どもの頃、旅行先で観たあの景色が忘れられなくて写真家になった人がいるとする。あるいは学生の頃に好きだった映画に憧れて海外で働くことを選んだ人がいるとする。あたしたちはきっとそれと同じ。あの夕闇から救ってくれた人が忘れられなくて、憧れて、好きで、推すことを選んだのだ。
フラスタ・バトル! 大宮れん @siel-n
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