里奈

 1年半後。

「おはようございます!」

 将也はスタジオのドアを開け、中に入るなり部屋中に響き渡る声で挨拶をする。

 床がリノリウムでできたスタジオの広さは20人くらいが集まってダンスができる程度はあり、部屋の奥には長机と椅子が置かれている。

「おはようございま~す!」

 将也より先にスタジオにいた何人かが、将也に向かって挨拶を返した。全員20歳前後で、将也より半周りくらい年下だ。

 再び働き始めた将也は、再び声優養成所に通うことにした。

 正直の所、26歳というのは年齢的には相当厳しいものがある。

 そもそもデビューできる確率も低い上に、大学生や高校生のような若い子に混じってレッスンを受けていると、自分はここにいていいのかと悩んだり、若い才能に自信をなくしてしまったりするし、自分よりも年下なのにすでに何年もキャリアを積んでいる声優がいる事実に焦りを感じずにはいられない。

 世の中の大多数の人間は間違いなく声を揃えて「やめたほうがいい」と断言するだろう。

 それにどんなことでもやる理由を1つ見つける前に、やらない方がいい理由を10も20も見つけられてしまうものだ。

 しかし、それならば後になって挑戦すれば良かったと後悔するよりは、やったほうがいい。何事も完全に諦めるためには全力を尽くして心折れるしかないのだ。

 もちろん、将也も完全にダメ元で挑んでいるわけではない。将也には里奈や遥奈という強力なサポーターがいる。

 当然結果はどうなるかわからないにしても、2人の時間を使っている以上、将也は本気だった。あれ以来酒を飲むことはなくなったし、食生活も改善され、運動もするようになり、以前より明らかに引き締まった顔立ちになった。仮に声優になれなかったとしても、以前のような生活に戻ってしまうことは決して無いだろう。

 将也が着替えを終えて準備体操をしていると、ドアが開いた。

「おはようございます!」

 将也はいの一番に男に向かって挨拶をし、周りで同じように発声練習や準備体操をしていた受講生たちも全員が次々に「おはようございます!」と元気な挨拶を入ってきた男にしていく。

 萩野恭介。将也の通う養成所の代表取締役であり、講師であり、現役で何本もレギュラーを抱えているベテラン声優だ。年齢はすでに50を超えているが、どう見ても30半ばくらいしか見えないほどに若々しく、二枚目役を数多く演じてきたことから声優界のプリンスと呼ばれている。

「おはよう」

 萩野は短く挨拶を返すと、スタジオ奥に置かれている長椅子に向かって歩いていき、椅子を引き出し、座る。見た目は若々しいものの、貫禄は年相応にあり、どこか非現実感のある人物だ。

 受講生が駆け足で長机の前に集まると、萩野は全員を一瞥し、話し始める。

 吹き替えからゲームまで幅広く出演する萩野の声はただぼんやりとしていても自然と話している内容が頭に入ってくるほど聞き取りやすく、そして色気があり、かつまるで嫌味さを感じさせない。

 常々、萩野は「格好付けるな。結果として格好いい声を目指せ」と言っていた。現実でも、創作の世界でも格好いい人間は格好付けるのではなく、『格好いい』のだ。萩野の声が色気がありつつも嫌味さがまるでないのは、きっと格好いいからなのだろう。

 もしオーディションを勝ち残りプロになれたとしても、彼のような男たちと役を奪い合わなければならない。そう思うと、将也も恐怖で背筋が寒くなってくる。

 だが、今更怖気づいていられない。そもそも同じ土俵に立つことができるか分からないが、いつかこの男を超えてみせる。将也は話を聞きながら、闘志の込められた眼差しを萩野に向けた。


「このまま……このまま……終わると思うなよ! 3000年後、私は必ず蘇る! その時こそこの恨み、何千……いや、何万倍にして返してやる! ハッハッハッハッハ!」

 収録ブース内に高笑いが広がり、即座に吸音材に吸収されていく。

「はいオッケーです。ありがとうございま~す」

 コントロールルームから音響監督の声が聞こえ、里奈はため息をつくと、周りの共演者達に会釈をする。

 先程までの張り詰めていた空気が消え、

「おつかれさまでした~」

 最終回の収録を終え、回りの共演者達も安心したような、名残惜しそうな様子でブース内の全員に向かってねぎらいの言葉をかけていく。

 里奈は収録ブースの壁伝いに設置されているベンチに腰を下ろし、ミネラルウォーターを一口飲んだ。冷たい水で火照った体が冷やされていくのが心地よい。

 先程まで里奈が声を吹き込んでいたのは、50年以上続く人気特撮ヒーローの最新シリーズ、『覆面レンジャーマン』に登場する敵組織の女首領、エリザだ。

 里奈は今まで可愛らしい、いわゆる『正統派ヒロイン』のような女の子を演じることが多かった。そんな里奈が目的のためなら部下を平気で見捨てるエリザ役にキャスティングされたことに、最初はインターネットを中心に疑問の声が上がっていた。

 だが蓋を開けてみれば、里奈のぶっ飛んでいつつもどこか色気を感じさせる演技に、手のひらを返したように「はまり役だ」と声を揃えて称賛した。


 1年半前。

 里奈は将也と一緒に東京に戻るなり、事務所に会見を行いたいと伝えた。当然今までこのような事があっても反応しないことが声優業界では常識だったため渋い顔をされたものの、最終的に動画配信サイトで生会見を行うことになった。

 里奈が会見で話した内容は以下の通りだ。


 先日、とあるニュースサイトに私、三代里奈と思われる女性が男性と歩いている所の写真が掲載されましたが、これは間違いなく私です。

 そして、おそらくファンの皆さんの中にもショックを受けてしまったり、私が今まで演じたキャラクターを今まで通り愛せなくなった人もいるかと思います。これに関しては、申し訳ないと思います。

 だけど、私は声優で、そして声優である前に、1人の女性なんです。こういうことを言うのも恥ずかしいですが、恋をして、誰かを愛する経験をしたいという欲求があります。

 それに、私が今まで演じてきたキャラクターたちは、私が今までしてきた経験がなければ絶対にあそこまで生き生きとはならなかったと思います。今までの私の人生があったからこそ、彼女たちに私は魂を吹き込むことができました。

 そして、私は彼のことが大好きです。彼がいなければ私はここまで人気が出ることも絶対なかったでしょうし、そもそも声優になることもできませんでした。それくらい彼は私の大切な人であり、私の人生を変えてくれた恩人なんです。なのに、彼の存在を無かったことにして声優を続けるなんてできません。私は彼が……将也が大好きなんです! 一緒に手を繋いで歩くことすら許されないなんてそんなの無理に決まってます!

 ……大体私、みたいな美人に男がいないわけないでしょ! 私に説教したければ、プロデューサーか、音響監督にでもなってから出直してきて下さい。以上っ


 当然、里奈を非難する者は一定数いたものの、予想以上に里奈に同情的な声が多く、想定外のことが里奈に起きた。

 元々男性ファンがほとんどだった里奈だが、今回の一件で女性ファンが増えたことにより、乙女ゲーの主人公として呼ばれることが増えた。

 ゲームの仕事は拘束時間が長いものの、ギャラは何文字喋ったかにより計算されるため、以前より収入が増えてしまうという事態が発生した。

 ちなみに、そんな今までの『三代里奈』のイメージがぶっ壊されてしまったことも、『覆面レンジャーマン』のオーディションでベテラン声優を差し置いて勝ち抜けた理由でもあるのだが、里奈は知らない。


「あ、おはようございます! イーマックス所属の、八雲遥奈と言います。よろしくお願いします!」

 遥奈は収録ブースに入るなり、初めて顔を合わせた他の出演者たちに朗らかな笑みを浮かべながら挨拶をした。

「お、おはようございます。元気いいね。こちらこそよろしくね」

 他の出演者たちも遥奈の元気の良さに少し驚きつつも、挨拶を返してくる。

 あの後遥奈は養成所内で行われたオーディションで合格し、なんと里奈と同じ事務所所属になった。

 ちなみに里奈が今までいたポジションが空き、そこに代わりに座ることになったのが遥奈だ。

 ビジュアル、新人離れした実力、そして人に取り入るのが上手な性格、そこに事務所からのプッシュも加わり、デビューから1年で一気に人気になってしまった。事務所としても渡りに船だろう。

 だが、里奈が業界を変えようとしたのに、結局自分が里奈の後釜になってしまっては意味がないのではないか。遥奈としては複雑な気分だ。

 里奈にそのような事を話すと、

「それで売れるようになったなら別にいいんじゃないかな? 私は別に業界を変えようとしたわけじゃないしね」という答えが返ってきた。

 確かに、養成所で同じクラスだった人たちのほとんどは事務所に所属できることなく、ただ金と時間を消費しただけで終わってしまったのだ。そう思えば、自分は運に恵まれていることは間違いない。

 それに、いくら人気声優といえども里奈は1人の若手声優でしかなく、声優を昔のように裏方仕事だけに戻すなんてできないことも分かっている。

 しかしそれでも、里奈が声を上げたのに結局元通りになるように自分が手を貸していることに、後ろめたさを感じずにはいられなかったが、今そんなことを考えていても仕方ないと思考を打ち切り、意識を切り替え、自分がなぜ声優になったかを今一度思い出す。里奈と共演すること。今のまだ所叶っていないが、将来必ず叶えてみせる。

 遥奈が決意を新たにしているうちに、収録が始まろうとしていた。立ち上がり、台本を開いて待機する。

 目の前にはマイクが2本置かれていた。基本的にアフレコの現場ではマイクが人数分置かれていることはあまりなく、自分の出番が来たらマイクの前に歩いていき、それが終わったら下がるという手順を踏むことになる。

 遥奈は一度大きく深呼吸をして、心を落ち着ける。すでにアフレコはもう何度も経験してきたものの、やはり緊張する。噛んでしまったり、最近は減ってきたものの、台本をめくる時に音を立ててしまったらどうしようと怖くなってくる。

 だけど、これは自分が選んだ道なのだ。だったら、できる限りのことをやるしかない。

 収録が始まり、遥奈の演じるキャラのセリフが近づいてきた。遥奈は小さく頷くと、音を立てない歩き方でマイクへ近づいていった。


「お疲れさまでした~」

 収録を終えた遥奈が上着を羽織り、荷物を手早くまとめて出口へ向かおうとしたところで、今回の収録の共演者の1人も同じタイミングで外へ出ようとしていた。

「あ、どうぞ」

 出口の脇に立って笑顔を作り、手で先に出るように促す。

 遥奈の事務所の先輩である岸健史は無愛想に「ああ」と短く答えると、ドアを開け、外へ出ていった。

 声優に限らず、役者は自分とは全く違う性格の人物を演じることはざらにある。とはいったものの、健史の演じているキャラは底抜けに明るい性格をしているというのに、本人とのギャップに、「声優ってすごいな」と、まだ新人の遥奈はまるで声優ファンのようなことを思わずにはいられなかった。

 遥奈は健史に続いて外に出ると、速歩きで健史に追いつき、「お疲れさまです!」と元気よく挨拶をした。

「……お疲れ様」

 相変わらず健史は何を考えているのか分からない仏頂面で挨拶を返す。

 遥奈は笑みを浮かべたまま、健史の表情を一瞥した。以前ネットでインタビュー記事を見た時は黒縁メガネに短髪だったが、今は髪の毛を伸ばし、色は明るくなっている上にパーマがかけられ、眼鏡はかけていない。イメチェンするような何かがあったのかもしれない。

 収録ブースを出ると、大人3人がギリギリ肩を並べて歩くことができる広さのL字の廊下があり、突き当りにはドアがある。そこを開けると椅子や机が置かれているロビーがあり、そこから外に出ることができる。

 健史とは同じ事務所で、かつなぜか共演することが多いため、軽い雑談を一言二言を交わすことができる程度の仲にはなっていたが、健史は会話を盛り上げるのが下手なのかその気がないのか、すぐに沈黙が訪れてしまう。

 外に出た瞬間。遥奈は寒さから体を縮こめた。コートを着て、マフラーを巻いていても寒いものは寒い。

 遥奈が「う~寒い」と一言つぶやこうとしたところで、喉に違和感を覚えた。少しイガイガするような気がする。

 手で首を擦りながらエヘンと喉を鳴らすと、

「大丈夫か? これ舐めろ」

 横にいた健史はカバンから青いパッケージののど飴を取り出し、遥奈に差し出した。

 予想外の健史の行動に遥奈は一瞬固まったものの、

「あ、ありがとうございます……」

 素直に袋から1つ飴を取り出すと、口に含む。独特のハーブの味が口の中に広がり、喉の違和感が楽になってくる。

「ああ。この時期は喉を痛めやすいから気をつけろ。じゃあな」

 相変わらず無表情でそう答えると、健史は足早に駅方面に向けて去っていく。

「はい、お疲れさまです……」

 普段の態度から冷たい人だと思っていたけど、実は意外に優しく面倒見がいい人なのかも。

 遥奈は出口で立ち止まったまま健史の後ろ姿を眺めながら、そんなことを考えていた。


 養成所を後にした将也は、里奈と待ち合わせしている駅の改札前に向かっていた。

 先に収録を終えた里奈からすでに到着しているというメッセージを受け取っていたので、自然と歩く速度が早くなってしまう。

 里奈が今日向かった収録スタジオと、将也が通っている養成所の最寄り駅はたった一駅しか離れておらず、電車に乗るより歩いて向かったほうが早いため、将也は徒歩だ。

 季節は冬。改札前で里奈を長時間待たせておくわけにはいかない。歩く速度が上がり、ついに将也は駆け出した。体が暖かくなり、首に巻いていたマフラーを走りながら外す。

 白い息を吐きながら走り続け、ついに視界に駅が入る。あと少しだ。

 改札前にたどり着くと、白黒の世界に1人だけ色がついているかのようにすぐに里奈を見つけ出すことができた。

「里奈!」

 将也は手を振りながら里奈に駆け寄っていく。無表情で佇んでいた里奈の表情が、一気に明るくなった。

「将也!」

 里奈も駆け寄る将也に向かって歩いていく。

「悪い……待たせたな」

 将也は呼吸を整えながらも、笑みを浮かべる。

「大丈夫。じゃあ、行こ?」

 里奈は少し甘えた声で言いながら将也に手を差し出し、将也はその手に指を絡め、2人は歩き始めた。

「息荒いよ? もしかして興奮してるの?」

「さっきまで走ってたんだから仕方ないだろ」

 里奈のツッコミ待ちのボケに苦笑を浮かべながらお望み通りツッコミを入れ、里奈はイタズラがばれ、それを誤魔化す子供のような笑みを浮かべる。

「あったかいね」

「こうするともっとあったかいぞ」

 将也は里奈の手を取ったまま、コートの右ポケットに手を突っ込んだ。少し窮屈だが、ポケットの中が二人の体熱で心地よい温度になっていく。

「ホントだ。あったかいね」

 手の暖かさを味わっているのだろう。里奈の指先が細かく動き、将也の手の甲の出っ張った骨をなぞる。

 そんなことをしながら穏やかな笑みを浮かべている里奈の横顔を見て、将也は幸せを感じていた。愛する人と手を繋いで歩く。それだけのことでこんなに幸せに思えるなんて不思議だな、とつい思ってしまう。

 相変わらず、将也と里奈の住む世界は違う。片やキャリアを積み続ける人気声優。片や無職ではなくなったものの、ただの声優志望なのだから当然だ。

 だけど、そこで「住む世界が違うから」と諦めたりなんてもうしない。一度ならず二度もこの手を離してしまったけど、三度目の正直だ。もう、絶対にこの手を離したりしない。

 決意を新たにし、将也は里奈の手を握り返した。

(終わり)

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元彼女は人気声優 アン・マルベルージュ @an_amavel

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