星空

 22時。

 里奈は草むらに直接腰を下ろし、星空を眺めていた。視界の端にわずかに建物が見えるのみで、見渡す限りの自然だ。盆地ということもあり、まるで自然のプラネタリウムかのように頭上には星空がのびのびと広がっている。

 現在の東京は夜でも蒸し暑いにも関わらず、ここは同じ季節とは思えないほど快適だ。

 高層ビルや人工の明かりに遮られることなく広げられた夜空に輝く星たちは、昔と変わらず見ているだけで頭の中の雑念が消え、心が穏やかな気分になっていく。

 星空だけではない。盆地を取り囲むように並ぶ山頂に万年雪が残る山脈も星の明かりで薄明るく照らされ、夜景の美しさを際立てている。里奈にとっては、この眺めが世界で一番きれいな景色だ。

 地元を離れるまで、嫌なことがある度にこの景色に助けられてきた。この景色が、今の里奈を作り上げたのだ。

「はぁ……」

 里奈は星空を眺めながらため息をつく。

 衝動的に事務所を飛び出し、ここまで来てしまった。マネージャーからは何度も連絡が来ているものの、全て無視している。

 きっとこの業界に戻ることはもうできないだろう。そう思うと、この星空を以ってしても、頭が重くなってくる。会社員として働くべきか、実家の両親の言う通りお見合いでもするべきか。どちらも気が乗らないし、そんなことをしている自分がまるで想像できない。

 やはり自分は声優という仕事が好きなのだ。引退なんてしたくない。だけど、自分は役者なのに、役者である前に人間なのに、大好きな人と一緒に歩いているだけで大事になってしまうような業界にいたいとは思えない。

「将也……」

 思わず名前を口に出してしまっていた。

 星空は昔と変わらず綺麗だけど、大人になってから抱える大きな悩みを紛らしてくれるには力不足だし、星空をただ眺めているのではなく、より多くを求めたくなってしまう。

 ――大好きな人と、一緒にこの星空を眺めたかった。きっと、1人で眺めているよりも何倍も、美しく見えたはずだ。

 以前将也に急に別れを切り出された後も声優の仕事を続けられたことから、自分は強い人間になれたんだと思っていた。だけど、それは間違いだった。別に強くなんて無い。人気声優だのとチヤホヤされていたけれど、ただの1人の女の子なのだ。

 結局、どうすればよかったのだろう。これからはどうすればいいのだろう。夜空は助けてくれない。誰も助けてくれない。後悔、不安、怒り、ネガティブな感情が頭の中で混ざり合い、音を発している。うるさくてたまらない。静かなこの場所がかえって仇になってしまっている。

「……帰ろ」

 両親は何も言わず突然帰ってきた里奈に驚いていたものの、しばらく家にいていいと言ってくれた。しかし、ずっとこうしているわけにはいかない。いずれこれからどうするかを考えなければいけないが、今は考えたくない。

 里奈が立ち上がり家に帰ろうとした瞬間、後ろで何者かが草をかき分ける音が聞こえた。

 東京ならまだしも、里奈の地元でこの時間に人が出歩いていることはほぼ無い。どうせ小動物か何かだろう。特に警戒することなく振り向くと、そこには背の高い男が立っていた。

 里奈の心臓が一瞬大きく鼓動を刻み、里奈は反射的に男から距離を取ったものの、よく見れば男は里奈がよく知っている人物だった。

「将……也?」

「やっと見つけた」

 将也は疲れた表情を浮かべつつも安心した様子で、ゆっくりと里奈の所へ向かって歩いてくる。

「ど、どうやってここへ?」

 まだ混乱したままの里奈が尋ねると、

「健史に金を借りた」

 ズレた答えが返ってきた。

「そうじゃなくて、どうやってここが分かったの?」

「里奈が前に言ってたことからある程度は絞り込んだけど……最後は虱潰し。思ったより早く見つけられてよかったよ。ホテルの延泊せずに済むからな」

 将也は里奈の横に立ち、夜空を見上げる。

「本当に綺麗だな。こんな夜空、東京じゃ見られないんじゃないかな?」

「……奥多摩の辺りなら多分見られると思うんだけど、飛驒山脈はここにしか無いから」

「確かにな。冬はすごく寒そうだけど、すごく綺麗なんだろうな」

 星空がきれいな所は日本にもあちこちにある。それは認める。だが、里奈の大好きなこの景色には、似たようなところはあってもここにしかないのだ。そこを里奈は強調する。

「……どうしてもっと早く見つけてくれなかったの?」

 里奈がいなくなってしまってからすでに1週間以上経過している。しかし、数少ない手がかりで見つけられたのならむしろ早い方なのかもしれないし、ここまで来てくれたことは嬉しい。

 それでも、自分でも面倒くさい女だなと思いつつも、言わずにはいられなかった。

「すまなかった」

 将也は里奈の手を取り、軽く握る。里奈の手に、大きくて骨ばった手の感覚が伝わってくる。そんな手なのに、心が落ち着くような、胸の奥が少し苦しくなってくるような不思議な感覚を抱いてしまう。里奈も将也の手を握り返す。

「……恥ずかしい話なんだけど、やっぱり俺は里奈とは住む世界が違うから、もう会わないほうがいいんじゃないかって思ったんだよ。そしたら昔の俺に戻りそうになっちゃって……遥奈にもめちゃくちゃ怒られたよ」

 夜空を見上げたまま、将也は苦笑を浮かべる。

「またお酒ばかり飲んでたの? 呆れた。体に悪いって言ったのに」

 里奈はわざとらしく大きくため息をついた。

 だけど、仕方がない事を里奈も分かっている。決して将也も心が強いわけではない。むしろ弱いほうかもしれない。それなのに、自分自身を強そうに見せる。里奈と将也は、似た者同士なのだ。

 けれども将也はただ強がりなだけではなく、意外と優しいところがあって、不器用ながら他人のために一生懸命になってくれる。そんなところが里奈は好きなのだ。

「……すまない」

 将也は首を動かし、隣に立っている里奈に視線を送る。

「いいよ。ここまで来てくれたから」

 里奈も将也に視線を送り、微笑む。

「……ところで、首が疲れてこないか?」

 将也は空を見上げるのをやめると、首を左右に動かしながら手で擦った。

「はぁ、ムードぶち壊し」

 里奈も空を見上げるのをやめて非難するようなジト目をすると、

「悪い」

 将也は申し訳無さそうに笑った。しかしそんなやりとりがなんだかおかしくて里奈はフッと笑うと、

「じゃあ、寝転がって星を見よう? 子供の頃はよくやってたんだ」

 再び草むらに腰を下ろすと、そのまま後ろに倒れ込んだ。地面により近い所に頭があるためか、草の香りを強く感じる。

 将也も里奈に倣い、地面に仰向けになって夜空を見上げると、

「すごいな」

 ゆっくりと目が見開かれていく。きっと将也の視界いっぱいに星空が広がっていることだろう。

「本当に綺麗だよね……」

 満面の星空。ずっと眺めていると、少しずつ星空へ向かって落ちていっているような、そんな不思議な感覚を抱く。

 この広い星空と比べると自分の悩みなんて相変わらずちっぽけで、大人になったら悩みを何とかするにはこの満天の星空では力不足なんて思ってしまった事を謝りたくなってくる。

「おかしいよね。大の大人が2人並んで地べたに横になって夜空を眺めてるなんて」

「だけど綺麗だな」

「うん」

 再び手を絡め、しばらく2人無言で空を眺めていると、

「里奈。東京に戻ろう」

 唐突に将也が言った。

「……私だって戻りたいよ。だけど」

 将也に言われるまでもなく、当然里奈も戻りたいと思っている。しかし、このままでは戻れないし、戻りたくない。

「声優の仕事は好きなんだろ?」

「好きだよ」

 里奈は即座に断言する。

 それは間違いない。大変なこともあるけど、こんなに楽しい仕事はない。

「じゃあ大丈夫だよ」

 将也は夜空を見上げながら呑気な様子だが、確信の込められた口調で言った。

 そう言ってもらえるのは嬉しい。だが、相変わらず里奈の表情は暗いままだ。

「だけど、私将也と一緒にいる所をすっぱ抜かれちゃったし、マネージャーや社長に問い詰められている途中で飛び出して、誰にも言わずにこんなところまで来ちゃったんだよ? 今更戻れないよ」

 こんな状態で東京に戻ったところで、また今までと同じように声優が続けられるとは思えない。仮に続けられたとしてもレッテルは貼られるだろうし、突然いなくなってしまった声優として敬遠されることは間違いないだろう。

「そうだな……」

 将也は少し考えているような様子を見せると、

「里奈が家に置いてった台本を見たんだけどさ、書き込みの量が尋常じゃなくて驚いたよ。自分の演じたキャラとは直接関わらないキャラのことまでしっかりメモしてあって、この作品の世界、登場人物をしっかりと理解した上でこの作品に望みたいっていうのが伝わってきた」

 首を横に向け、里奈の目をしっかりと見据えた。

「しかも家にいる時はいつも台本を読んでただろ。里奈みたいに声優という仕事を愛している人間が、こんなしょうもないことで消えてしまうなんて間違っている」

 そこで一旦将也は言葉を切ると、

「……これからも、里奈の隣にいて支え続ける。だから、戻ろう」

 何か衝撃的な事を言われたわけでもない。心に残ってしまうような上手いことを言われたわけでもない。愚直なまでにド直球の言葉だ。

 けれども、自分をしっかり見ていてくれたことが嬉しくて、はっきりとこれからも一緒にいたいと言ってくれたことが嬉しくて、胸の奥が熱くて、里奈の目からは涙が溢れていた。

「……うん」

 里奈は泣き顔に無理やり力を入れて、今自分ができる最高の笑顔を将也に見せた。

 きっとこれから何度も困難に直面することがあるだろう。だけど、将也がいればきっと大丈夫だ。里奈はそう心の中で断言していた。

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