最終手段
将也がアパートに戻ってくるなり、遥奈が家に押しかけてきた。
実家に帰っている間も遥奈からは連絡があったが、どうせ里奈を探しにいけと言われるだけだと分かっていたので全て無視していた。しかし、あまりにもしつこく呼び鈴を押されるため、ついに根負けした将也はついにドアを開けてしまった。
「どこに行ってたんですか!」
将也の顔を見るなり、遥奈は土間に足を踏み入れ、自慢のツインテールを揺らしながら声を荒げた。
将也はため息を小さくつき、
「親父がガンになってしまって実家に帰ってたんだよ」
覇気のない表情で遥奈に当てつけるように答えた。
「うっ……」
そう言われては流石に遥奈も非難できないのか、一歩引き下がったものの、
「じゃ、じゃあ今から探しに行きますよ!」
将也の手を取り、外に連れ出そうとするが、
「どこを探しに行くんだよ。もう思い当たるところは探しただろ?」
体格差もあり、将也は打ち込まれた杭のように全く動かない。
「もう一度探したら見つかるかもしれないじゃないですか!」
「どこをどう探すんだ? もう一度探す場所はどういう基準で、どういう順番で探すんだ?」
遥奈はなおも食い下がるも、将也には意味のないことにしか思えなかった。
「里奈さんのことが心配じゃないんですか!?」
「別にどうでもいいよ」
「嘘です! 里奈さんは将也さんの恋人なんですよ? 恋人がいなくなったのにどうでもいいわけないです!」
遥奈は両手で将也を外に連れ出そうとするも、やはり将也は動かない。
「……本当にもうどうでもいいんだよ。離してくれ」
将也が低い声で投げやりに答えると遥奈は手を離して一歩後ろに下がり、
「本当にそれでいいんですか?」
哀しそうな目で将也に問いかける。
「いいよ」
将也は遥奈を見ずに即答した。
本当にどうでもいいかと言われれば、そんなことはない。だが、どうしようもないのだ。
例えばニュースで好きな芸能人が怪我をして入院したという記事を見れば心配になるが、それ以上のことでできることは何もない。将也にとって里奈はもはやそういう存在なのだ。
「……私、お邪魔だったかもしれないですが、3人でいるのが好きでした。将也さんをからかったり、里奈さんとお話するのは本当に楽しくて……それに何より仲良さそうな将也さんと里奈さんを見ているのが好きだったんです。ここまで誰かと一緒にいるのが楽しいなんて思えたのは初めてで、おふたりが、私の人生を変えてくれたんです」
遥奈は自分の胸元を握りしめながら、苦しそうに心の内を語る。
「……」
将也は何も答えることなく、掃除するようになって昔より綺麗になった床に視線を落とした。
「私知ってるんですよ。将也さんと里奈さんって、一度別れたけどまたよりを戻したんですよね? 里奈さんのおかげで昔のゴミみたいな将也さんから立ち直れそうだったのに、また元に戻っちゃっていいんですか?」
遥奈は顔を上げると、将也に訴えかけるように視線を送る。
ゴミみたいな。ひどい言い草だが、事実だ。そして将也は鼻で笑う余裕もない。
「ゴミに戻っちゃって悪いな……もう帰ってくれないか?」
遥奈はしばらく帰ろうとせずに将也を睨みつけていたものの、一言も言葉を発することなく将也に背を向け、部屋を出ていった。
夕方。いつもの公園で遥奈は台本を閉じると、ため息をついた。公園は日陰になっているので比較的涼しいものの、遥奈の額からは汗がにじみ、昼間と勢いの変わらない蝉の鳴き声が体感温度をさらに上げてくれる。
正直言ってこんな状態で練習なんて気が乗らない。だが、練習を辞めてしまったら里奈は絶対怒るだろうなと思うと、重い腰を上げてなんとか練習を続けることができている。
遥奈はあれからちょくちょく養成所経由で仕事をもらうようになっていた。最初はいわゆる『通行人A』だったものの、今は出番が少ないが、名前のあるキャラクターを演じることもあった。
スタッフ曰く、異例のことらしい。他人に取り入る上手さのおかげもあると思うが、きっとそれだけではない。全然実感はないのだが、自分には才能があるのだろう。
とは言ったものの、遥奈のモチベーションの源泉だった里奈がいなくなってしまったことで、このあたりが潮時かなと考えるようになってしまっていた。きっと周りの人はもったいないと引き止めるだろうが、そんなことは関係ない。もったいない以前に、もう意味がないのだから。
里奈がいた頃より短い時間で練習を切り上げ、帰ろうと思ったところで将也が公園にやってきたことに気づき、「将也さん……」と思わず声が漏れる。
「やっぱりここにいたか」
遥奈のもとに歩いてきた将也の表情は以前よりも元気そうだが、同時にどこか開き直ってしまっているかのような危うさを感じさせる。
「はい。里奈さんがいなくなったからと言って練習をサボる理由にはなりませんから」
将也に当てつけるように、意識して刺々しい口調で答える。
しかし将也は特に反応することなく、
「俺実家に帰ることにしたよ」
「えっ……」
遥奈は耳を疑った。
「嘘ですよね?」
こんな状況だと言うのになぜか顔が笑ってしまう。
将也は表情を変えず、何も答えない。つまり、本気だということだ。
「嘘だって言って下さいよ!」
湧き上がってきた感情に突き動かされ、遥奈は将也を怒鳴りつけた。
「だってもうここにいる理由はないだろ?」
将也はまるで動じることなく、淡々と答える。動じていないというよりは、脳の反応する部分が機能していないような、そんな様子だ。
「本当に、いいんですか?」
もう何度も聞いたし、答えも分かっている。だが、尋ねずにはいられなかった。
「ああ」
そして予想通りの答えが返ってくる。どうすれば、どうすれば将也を止めることができるのだろう。
恋人でもない、友達かと言われるとなんだか違う、ただ尊敬している女性の恋人というだけだ。多分、男として好き……というわけでもないし、そもそも将也には恋人がいるのだ。
それでもとにかく、将也にはいなくなってほしくない。
将也が「じゃあ元気で」と遥奈に背を向けようとしたところで、遥奈は将也の腕を両手で掴んでいた。そうしたいと思った瞬間、体が勝手に動いていたのだ。
「お願いです! 行かないで下さい! 私には将也さんが必要なんです!」
将也の目を見て、懇願する。誤解されそうな発言だな、と口に出してから思った。他人に自分と将也の関係を説明するための言葉は思いつかないし、何でこんなに必死になっているかも分からない。だけど、いなくなって欲しくない。もう会えないなんて、絶対に嫌だ。
「……」
将也は無表情な目で遥奈を一瞥すると、
「俺が必要だって思っているのは勘違いだ。前に自分で言ってただろ。『3人でいるのが楽しい』って。里奈がいないなら、遥奈には別に俺は必要じゃないんだよ」
遥奈を突き放すように言った。
違う。そんなことはない。絶対に違う。遥奈は心の中で叫んでいた。
里奈のストーカーを捕まえたり、里奈と喧嘩してしまった時には間を取り持ってくれた。遥奈にとっては、頼りになって心を許せて、近くにいると安心する存在なのだ。必要ないなんてことは決して無いのだ。
しかし、確かに将也を頼もしいと思ったエピソードは全て里奈絡みだ。
本当に自分は将也を必要としているのか? 里奈がいなくなったこの後も、将也を必要とし続けられるのか? どのようなことで? 答えられない。
それでも、将也の言うことは間違っている。しかし、どのように間違っているのか答えられない。ということは間違っている? いや、そんなことはない。だけど、答えられないなら、やはり間違っているのではないだろうか。
遥奈が自問自答していたのは時間にして一瞬のことだった。将也の言うことはやはり間違っている。しかし、どう違うかはっきり答えられない以上、やはり間違っているのではないだろうか。
そんな迷いから、遥奈は手を離してしまっていた。また掴み直すこともできたはずなのに、できなかった。
「じゃあな。きっと遥奈は人気声優になれるよ」
将也は疲れた笑みを浮かべると、一度も振り返ることなく遥奈の前から去っていった。
「……違うんです」
1人公園に取り残された遥奈は自分に言い聞かせるようにつぶやく。今も将也を納得させられそうな言葉は見つからないし、自分がなぜこんなにも将也を引き留めようとしているのか言語化することができない。だけど、「里奈がいないなら、遥奈には別に俺は必要じゃないんだよ」というのは絶対に間違っている。
親しい人間の気持ち1つ動かせなくて、何が表現者だ。遥奈は自分の無力さが、憎たらしくてたまらなかった。
翌日。実家に帰ることを決めた将也は部屋の片付けを始めていた。
5年も住んでいると、自分はこのアパートにいることが当たり前のように思えてくるし、なんだかんだで愛着も湧いてくる。やはりわずかにだが寂しさを感じずにはいられない。
「さて、どうするかな……」
将也は里奈が家に残していったものを眺めながら呟く。
洋服掛け、収納ボックス、化粧箱など里奈は様々な家財を買い揃えていた。洋服掛けや収納ボックスは実家でも使えるかもしれないが、化粧箱は箱自体も中身も男の将也には不要なものだ。処分するしか無い。
「里奈……どこに行っちゃったんだ」
つい独り言が漏れてしまう。里奈のことは完全に忘れる。そう決めたものの、やはり里奈が心配だ。もしかしたら事件に巻き込まれてしまった可能性もある。
だが、もう自分にはもうどうしようもないのだ。将也は一旦里奈が買った家財は後に回すことに決め、他のものを片付けることに決めた。
片付けを始める前は億劫だったものの、無心で作業に取り組んでいるうちに気分が多少は紛れることに気づき、将也は更に片付けに没頭していく。
最近は頭の中はネガティブなことでいっぱいで、寝ている時以外ほぼ四六時中頭の中で自分を責めてしまっていた。気がつけば昔のように冷蔵庫にはアルコール度数の高いチューハイが並ぶようになり、それらを買う資金は里奈から借りたお金だということが、さらに自分を責める材料になった。
「ん?」
机の周りを片付けようとしたところで足元に何か落ちていることに気づき、拾い上げると、それは里奈が出演したアニメの台本だった。以前読み合わせに付き合わされた時に使っていたものだ。そのままゴミ袋に放り込んでもよかったのだが、将也は台本を開き、読み始めた。
パラパラとめくっているうちに、見覚えのあるセリフが書かれているページを見つけた。2人で読み合わせをしたのが遥か昔のことのように思えてしまう。
「すごいな……」
台本をめくりながら、将也は感嘆の声を上げていた。台本に書き込まれた量が尋常ではないのだ。里奈が担当のキャラについては言うに及ばず、里奈の演じたキャラとは間接的にしか関わらないキャラクターについてもメモがびっしりと書かれていた。
比較的新しい台本にも関わらず、書き込み量のおかげで各ページが固くなってしまい、めくるたびにばらり、と音が鳴る。
台本を閉じると、将也はゆっくりと台本を机の上に置いた。
このまま戻ってこなければ、里奈は声優を引退せざるを得ない。しかし、ここまで声優という仕事を愛し、真剣にやれる人間をこんな騒動で引退させてしまっていいのだろうか?
もちろん言うまでもない。よくないに決まっている。将也は片付けを放り出し、家を飛び出した。
「どこに行ったんだ……」
夜まで探し続けた将也は、中腰で体を屈めて膝の上に手を付き、息を吐いた。あちこち歩き回りヘトヘトだ。
今将也がいるのは、里奈と一緒に行ったターミナル駅近くにある、旅行代理店のすぐ近くだ。
夜になり涼しくなってきたものの、あちこち歩き回ったおかげでシャツの背中部分が汗で体に張り付いている。
以前デートに行った場所、事務所、かつて通っていた養成所、里奈のマンション、思い当たる所全てもう一度行ってみたものの、やはり里奈はどこにもいない。
繁華街がすぐ近くにあるということもあり、夜になっても人通りは減ることなく、若い男女のグループにカップルや中年サラリーマングループでにぎやかだ。
街は隙間なく建ち並ぶビルから放たれる明かりや街灯で照らされ、夜とは思えないほどに明るい。ビルで追いやられた空は狭く、何も見えない灰色の空を眺める人は誰もいない。将也を除いて。
将也が生まれ育った地元も、別に特段寂れていたわけではない。本当の『田舎』で育った人たちに「うちの地元は田舎で……」と話すと、「いや、お前の所は田舎じゃないから」と否定される程度には不便に感じることはなかった。
とはいったものの、将也が今いる都心と比べると、夜はそれなりに星が見えるところもあるし、ここまで空が狭いわけではない。そんなことを考えていると急に今いる場所に息苦しさを感じてしまう。きっと里奈も地元と比べて同じようなことを思ったはずだ。
将也がそう思った次の瞬間。
「まさか……」
今まで全く思いつかなかったことに、将也は自分を恥じた。
里奈が行きそうな所がまだ一箇所残っている。
違っている可能性を微塵も考えることなく、将也はスマートフォンを取り出すと、電話をかけ始めた。
事務所を後にした健史は、駅に向かおうとしたところで、ポケットに入れていたスマートフォンが震えていることに気づいた。
立ち止まり、スマートフォンを取り出してディスプレイを確認すると、『朝倉将也』と表示されている。
「何の用だ?」
将也からかけてくるなんて、一体何の用だろう。そう思いながら電話に出た。
『健史。頼みたいことがある』
「何だ?」
あの将也が自分に頼み事をするなんて考えられないことだ。わずかな好奇心を抱きながら健史は尋ねた。
『……金を貸してくれ』
「断る」
健史は即答した。将也に金を貸す義理はない。一体何なのかと思えば結局金か。つまらない。
そのまま電話を切ろうとしたものの、
『里奈の場所が分かったかもしれないんだ』
「何だと?」
耳からスマートフォンを離そうとしていた手を即座に止め、聞き返した。自然と声量が大きくなる。
『今からそこに行こうと思う。だから、行くための金を貸してくれ』
「……前に俺が言ったこと覚えてるか?」
将也がこのような悪趣味な嘘をつくために、わざわざ電話をかけてくるとは思えない。つまり、自分は知らなくて、将也は知っている情報から里奈の居場所を割り出したということだ。妬みからつい嫌味ったらしい口調になってしまう。
『覚えてるよ』
「なら話は早い。俺が行くから場所を教えろ」
『いやだめだ。俺が行く』
健史は舌打ちをしたくなったのをこらえ、代わりに荒く息を吐いた。
「いいか。お前と里奈は住む世界が違うんだ。お前では里奈を理解することは出来ない。同じ業界の俺ならそれができる」
『里奈がどこにいるか分からなかったのにか?』
「くっ……」
痛いところを突かれ、言葉を詰まらせる。
『健史。頼む。このまま里奈が声優をやめてしまうなんて、絶対にダメだ。それは健史も同意見だろ?」
電話越しに、将也が懇願する様子が伝わってくる。
確かに健史も同意見だった。里奈は声優としてはまだまだこれからなのに、こんなつまらないことで消えてしまうなんてありえない。しかし、それは将也に譲る理由にはならない。
「きっとこれからもお前には想像もつかないようなことで里奈は悩んだり、苦しんだりすることがあるはずだ。その時にお前は力になれるのか?」
『ああ』
「その根拠は?」
一瞬の逡巡もなく即答した将也に苛立ってしまい、つい意地の悪い質問を投げかけてしまう。
『そんなものはない。だけど、やっぱり俺は里奈のことが好きで、これからも一緒にいたいと思っている。これだけは間違いなく自信を持って言える』
まるで根拠になっていないし、ただの精神論でしかない。しかし、そう言い放った将也の声は、かつて同じ養成所に通っていた頃の将也を思い出させた。
前に進むための根拠をいちいち探そうとしたりせず、ただ無根拠に自分を信じて、自分の夢のために愚直に、懸命に突き進んでいく。
かつて健史が目標にし、里奈が恋した将也はそんな男だった。
「なんだそれは」
健史は鼻で笑った。しかし、その意図は将也をバカにするためではない。
「金は貸してやる。口座を教えろ」
将也と話し始めてからずっと立ち止まっていた健史は再び歩き始めた。
『本当か?』と驚いた様子で尋ねてくる将也に、仏頂面だった表情の口元に笑みを浮かべ、「本当だ」と即答する。
やはり将也には勝てない。それでも、不思議とすっきりした気分だった。
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