和解
夕方。自室の床の上で寝てしまっていた将也は目を覚ました。周りにはスナック菓子や酒の空き容器が転がっている。
「いてて……」
体のあちこちが痛い上に、頭は靄がかかっているようだし、全身が重くてまるで筋力が一気に衰えてしまったようだ。
足元に転がっていたストロング系チューハイの空き缶が視界に入り、将也は自嘲的な笑みを漏らした。
自分みたいな人間には、やはりこんなゴミみたいな生活が似合っている。本来、里奈とは住む世界が違うのだから関わってはいけなかったのだ。片や人気女性声優、片や無職のアル中。どう考えても釣り合わない。最初から分かっていたはずなのに、里奈が望むから、自分も好きだからと感情を優先してしまった結果がこのざまだ。
そんなことを考えていたらまた酒が飲みたくなってきた。将也は重い体を無理やり動かし、ゆっくりと立ち上がったところで、財布が見当たらないことに気づいた。
家に帰るまでは間違いなくあった記憶がある。よたよたとおぼつかない足取りで部屋中を探し回ると、なぜか洗面台の脇で見つかった。
財布を手に取ると、洗面台にはめ込まれている鏡に自然と視線が吸い込まれる。
精気のないぼんやりとした目つきで、髪の毛はあちこちがはねていて、不摂生のおかげで顔のあちこちに吹き出物ができている。酷い顔つきだ。
フリーターだった頃よりもひどい有様になってしまっている自分の状況がおかしくて、鼻で笑ってしまった。
まあそんな事はどうでもいい。とりあえず今は酒だ。
将也は外へ出ると、近くのコンビニに向かって歩き始めた。
「あっ」
コンビニから戻ってきた将也は、アパートの前で遥奈と出くわした。
最初は驚いた表情を浮かべていた遥奈だが、徐々に険しい表情へ変わっていく。
「それお酒ですか」
将也が左手で持っているコンビニの袋を見ながら刺々しい口調で言った。
「そうだけど」と短く答え、遥奈の横を将也が通り過ぎようとすると、
「またそんなに……。これは私が預かります」
遥奈は両手で将也の左手を掴んだ。
「やめろ」
遥奈を振り払おうとするも、遥奈は必死で抵抗してくる。
「酒なんか飲んで……何になるんですか? 里奈さんを探しに行かなくていいんですか?」
「俺と里奈は住む世界が違うんだ。いいから離せ!」
一度振り払うことに成功するも、再び遥奈はしがみついてきた。
「そんなの関係ないじゃないですか! 里奈さんが心配じゃないんですか?」
「探したければお前がやればいいだろ!」
「もうやってます!」
遥奈は袋からストロング系チューハイを一本取り出すと、将也から距離を取った。
「おい、返せ」
「返しません!」
将也が遥奈に近寄ると、その分遥奈は将也から離れていく。
早く酒が飲みたいのに。将也は思わず舌打ちをしてしまう。
「なんでそんなに必死なんだ?」
イラついていることを隠そうともせずに遥奈に尋ねると、
「将也さんが冷め過ぎなだけです! 恋人がいなくなっちゃったんですよ? 探しに行こうともせずに酒飲んでるなんておかしいですよ!」
里奈も負けないように声を張って言い返してくる。小柄な体には不釣り合いな、張りのあるよく通った声だ。
なぜこいつはこんなにも必死なんだろう。そんな疑問が将也の頭の中で生まれ、平時なら思っても絶対に言わないような事を、気がつけば全く抵抗なく口に出してしまっていた。
「とか言って、実はお前が犯人なんじゃないか? 思ったより大事になって焦ってるからそんなに必死なんだろ。よかったな。これでこれで将来安泰……」
将也が全部を言い終える前に、左頬に衝撃が走った。近寄ってきた遥奈が思いっきり将也にビンタをしたのだ。
「最低です。見損ないました。もう勝手に1人でくたばっててください」
遥奈はおまけに手にした缶を将也に投げつけると、速歩きで自分の部屋へ向かっていった。その目からは、涙が滲んでいた。
「……」
残された将也は缶を拾い上げると表面についている砂を払い、再び袋に戻すと、自分の部屋に上がった。あれだけ酒が飲みたかったはずなのに、今は一口も飲みたいと思わない。返品しようかな、と思ったもののすでにレシートは捨ててしまっていた。思わず舌打ちをしてしまう。
「……あれ、携帯どこやったっけ?」
いつもは右ポケットに入れているのに無いことに気づいたが、そういえばそもそも家に置いてきてしまったことを思い出した。もしかしたら里奈から連絡があるかもしれないのに、完全に諦めてしまっている証拠だ。自分の薄情さが嫌になってくる。
そんなことを考えているうちに、再び酒が飲みたくなってきた。ベッドを背もたれにして床に腰を下ろして缶を開けようとしたところで、ベッドの上に置いてあるスマートフォンの通知ランプが点滅していることに気がついた。
まさか。
将也は缶を放り出しスマートフォンを拾い上げると、里奈からではなく、もう何年も連絡を取っていない母親からの不在着信だった。将也は声優を目指すにあたって両親と喧嘩になり、半勘当状態になっている。
思いの外、抵抗なく将也は発信ボタンを押していた。3度呼び出し音が鳴り、通話が繋がった。
『……もしもし』
「……将也だけど」
昔より声が疲れている気がする。そんな事を思いながら将也は名前を名乗った。
将也は電車を乗り継ぎ、久しぶりに地元へ向かっていた。目的地は、実家の近くにある病院だ。
乗り継いでいくにしたがって乗っている客もまばらになり、それに対応するように電車の本数、車両数も減っていく。時間帯が平日の昼間ということもあるが、将也がいる車両の乗客は将也1人だ。
いつの間にか車窓から見えるのは青々と茂る木や畑ばかりの茶と緑が主役の風景に変わり、それらを眺めているうちに、気がつけば母親から「お父さんがガンで入院して、将也と会いたがっている」と告げられたときの事を将也は思い出していた。
将也の上には年の離れた兄と姉が1人ずついる。そのため父親はすでに高齢なのだ。
兄と姉とも随分会っていない。父親に倣って堅実な大学に入学し、堅実な企業で働いていることだけは知っている。そしてそんな2人みたいになりたくなくて、家を飛び出したのだ。
しかし今となっては、2人に倣えば良かったのではないかとつい考えてしまう。そうなったらそうなったで違う悩みがあったのは間違いないだろうが、今のようなことで悩んでしまうことはきっと無いはずだ。
そうこうしているうちに、病院の最寄り駅にたどり着いた。病院の入口を通り抜け、病院独特の鼻につくニオイを感じながら院内を歩き、母親から教えられていた病室の前に立つ。ドアの横に貼られている名札に書かれている名前は、間違いなく将也の父親のものだ。
スライド式ドアの取っ手に手をかけ、一瞬躊躇したもののドアを横に引く。ベッドの上で上半身を起こした父親と、ベッドの横に置かれた椅子に座っていた母親が将也に視線を向ける。
部屋は個室で、病室らしく床もシーツも机も全てが真っ白だ。窓は開け放たれ、これまた白いカーテンが風で揺れている。
「将也……」
母親が小さい声で呟く。
将也は無言で2人の元へ歩いていく。近寄っていくに従って、父も母もわずか数年で驚くほどに白髪としわが増えていることに気づいた。それだけでなく、妙に2人が小さく、頼りなく見える。
そんな2人とは半ば勘当のような状態だというのに、なぜか将也の目からは涙がこぼれ落ちていた。決して2人に会えて嬉しいわけではない。時の流れという残酷さに心を動かされたからだろうか。なぜだか分からないが、胸の奥にこみ上げてくるものがあった。
「……思ったより元気そうだな」
将也はベッドの前にたどり着くと、父親を見ず部屋のあちこちに視線をやりながら言った。
ガン患者といえば髪の毛がなくなっていたり、やせ細ったりしているイメージだが、父親は流石にまだ経過した年相応に老けているだけで、思いの外元気そうだ。
「まあ、まだ見つかったばかりだからな」
父親は昔とまるで変わらない無愛想な口調で、これまた将也と目を合わせようとせずに言った。
「そういえばそうだったな」
そこで会話が途切れ、沈黙が訪れる。
「……座ったらどうなんだ」
「ああ」
父親にそう言われ、突っ立っていた将也は病室の端に置かれていた椅子をベッドの近くに運び、座った。
「……それで、なんで呼び出したんだ。ガンになって不安になったからなんて理由じゃないんだろ」
言いたいことがあるのに、切り出すタイミングを測りかねている。父親がそんな風に見えた将也は、自分から尋ねた。
「……ちゃんと生活できているのか?」
「親父の言う『ちゃんと』には程遠いけど、まあなんとかなってるよ」
本題を話す前のきっかけ作りなんだろうなと思いながら、皮肉を込めて返した。
「そうか……」
仏頂面だった父親の顔が僅かに緩む。
「どうやら俺はそんなに長くないらしい」
ガンにかかると長く生きることは難しいと知っているからだろうか。父親とは勘当状態だったからだろうか。思ったより驚いていない自分に将也は驚いていた。
とは言ったものの適切な言葉が思いつかず、「そうか」と短く答える。
「お前は愚かだ。声優なんてなれるかも分からない、なれた所で食っていけるかも不確かな仕事を目指すなんて、将来のことを何も考えていない大馬鹿者のやることだ」
「……」
言葉とは裏腹に、そこまで非難の感情は伝わってこない。将也は黙って父親の言葉の続きを待つ。
「対して確かに俺はさほど不自由のない生活は送れてきた。しかし、今までの人生を振り返ってみて、それが本当に俺の思う生き方だったんだろうか。不自由のない生活を送れることは、すなわち正しい人生だったんだろうか。そんな風に思うようになってしまった」
「きっと親父は不自由な生活を送っていたら逆のことを考えていたよ」
いわゆる隣の芝は青いというやつだ。将也だって常々「父親の言うことに従っていればよかったかもしれない」と考えることがあった。
「それもそうだな」
父親は寂しそうに笑ったかと思うと表情を改め、
「それでも、今の俺なら、不安定な道を選ぼうとするお前を勘当するようなことはなかったはずだ。……将也、すまなかった」
将也に向かって頭を下げた。
「えっ……」
将也は自分の目を疑った。常に上から目線で、自分の考えが常に正しいを思っていた父親が、頭を下げているのだ。
「もちろん、これで許してもらえるとは思っていない。いくら父親とはいえ、お前にはひどい事を言ってしまった」
父親は顔を上げると、真剣な眼差しで将也を見つめた。
お前は安定した生活の尊さを分かっていない。きらびやかな物ばかりに目が行って、その陰にある夢破れた者たちがどれだけいるのか分かっていないのか。現実を見ろ。そんなことも分からないのか。お前は我が家の恥だ。
今でも父親に言われたことを将也は思い出すことができる。そして、父親の事は一生許せないと思っていたはずなのに、昔に比べてはるかに弱々しくなってしまった父親にこうやって頭を下げられると、そのように意固地になっていた自分がバカバカしく思えて仕方がないのだ。
許してもいい。しかし、父親になんと言えばいいのか。「許すよ」でもいいのかもしれないが、自分のキャラではないような、この場にふさわしくないような、そんな気がする。将也はきまり悪さをごまかすように体をソワソワと動かした。
「将也……」
黙ったままの将也に母親が心細そうな表情で声をかける。
「……分かった。もういいよ」
沈黙の後、将也が短く小さい声でため息交じりに答えると、
「許してくれるのか?」
どちらとも取れる答え方だったためか、父親は不安そうな表情で尋ね返してきた。
「……」
将也は無言で首を縦に振る。それを見た父親は表情を緩ませ、
「ありがとう……将也」
安心したようにゆっくりと頷き、母親も安心したようにため息をついた。
「いいよ別に」
なんだか照れくさく、将也は床の汚れに視線を落とす。別に元々両親のことが嫌いなわけではない。中退してしまったとはいえ大学まで通わせてくれた恩もある。ただ、考え方が致命的に合わなかっただけだ。
その後将也はぎこちなさを感じつつも、両親と近況を話し合った。正直に今仕事を探している事を話すと、実家に戻ってきてもいいと両親は言ってくれた。その場で即決はしなかったものの、もう今のアパートに住み続ける必要の無くなってしまった将也には、魅力的な選択肢に思えてならなかった。
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