失態
「旅行に行きたいね」
里奈その一言をきっかけに、将也と遥奈は旅行代理店に来ていた。
受付カウンターは3つあり、全て埋まっている。1つ目は若い女性グループ、2つ目は老夫婦、そして3つ目が将也と里奈だ。
以前2人が付き合っていた頃は金銭的余裕がなく、旅行に行ったことは一度もなかった。
「時期はいつ頃をお考えでしょうか?」
20代半ばと思われる女性スタッフから尋ねられ、2人は顔を見合わせた。将也は特に考えておらず、里奈も表情から見るに、同様のようだ。
「いつ頃がいいんだろう?」
将也が尋ねると、
「うーん、クールとクールの間なら……いや、でもそっちはそっちでオーディションがあるし……いつがいいのかな?」
里奈は弱ったように苦笑を浮かべる。結局、どこも忙しいということのようだ。
「やっぱりこういうのって早めに予約を入れておいたほうがいいですよね?」
「そうですね……やはり値段も高くなってしまいますし、人気のあるホテルは埋まってしまう可能性もあります」
スタッフからもっともな答えが返ってきた。
「うーん、どうするかな」
里奈の仕事は融通が利くようで利かない。平日の昼間に遊びに行くこともできるが、急にオーディションが入ってくることもある。そして人気声優とはいえ、せっかくのオーディションを見送れるほどの地位では決してないのだ。
将也が腕組みをして背もたれに体を預けると、
「私は別に人気のあるホテルじゃなくてもいいよ? 何か出そうな古びたホテルでも、将也となら絶対に楽しいと思うし」
里奈は将也の手を取り、公衆の面前で許される程度に体を近づけると、甘えた表情で将也を見た。
「それも楽しそうだな」
将也はスマートフォンを取り出すと、『幽霊 ホテル』で検索し始めた。里奈もさらに体を近づけ、画面に視線を落とす。
「うーん、廃ホテルばっかりだな……」
当然だが、今でも泊まれるホテルは全く見つからない。
「座敷わらしならどうかな?」
「それなら怖くなさそうだな」
今度は『座敷わらし 旅館』で検索する。
「お、結構あるな」
座敷わらしに遭遇すると良いことが起こる、という言い伝えがあるためか、想像以上に今でも営業している旅館が見つかった。
「だけど、1年先まで予約がいっぱいだとちょっと厳しそうだね」
里奈が1センチほど画面をスクロールさせる。そこには『あまりにも人気なため、1年先まで予約で埋まっている』と書かれていた。
「……あの、お客様」
完全に蚊帳の外に置かれてしまっていたスタッフが、引きつった笑みを浮かべながら2人の会話に割り込む。
「あ、すみません。また時期が決まったら出直してきます」
将也が椅子から立ち上がると、里奈も続いて立ち上がり、2人は店を後にした。
店を出た2人はどちらからともなく手を繋いでいた。
空は鮮やかな青色が広がり、大きな入道雲はまさに地上を歩く人々を見下ろしているかのようで、どこかからメスに振り向いてもらうために必死で鳴く蝉の鳴き声が聞こえる。すっかり夏だ。
日差しは強いが、都内ターミナル駅のすぐ近くということもあり、人通りは多い。
「旅行どうする?」
将也は横を歩く里奈に尋ねた。
「うーん。別に旅行じゃなくてもいいかな」
「というと?」
「将也とならどこでも楽しいってこと」
風が吹き、里奈の長い髪が揺れる。
今日の里奈は清楚な印象を与える白を基調のワンピースに身を包んでいる。里奈の流れるような長い黒髪との組み合わせは、毎日のように顔を合わせている将也でも目を奪われてしまう。
「そうか……ありがとう」
面と向かってそんなことを言われるのはなんだか恥ずかしいが、そうやって自分が必要だと言ってもらえるのはやはり嬉しい。
未練がありつつも、一度は里奈と別れてしまった。一緒にいるのが辛くてたまらなかったからだ。
しかし今は過去を乗り越えて一緒にいることができている。
里奈と再会するまでは自分の将来に希望を持つことなんて全くできなかったのに、今はそんなことを考えることすらなくなってしまった。人生何があるかわからないものだ。
もう絶対に里奈を手放さない。
将也は里奈の手を握る力を強めると、里奈を見つめた。
「どうしたの?」
里奈が涼し気な笑みを浮かべながら将也に尋ねる。
「いや、なんでもないよ」
幸せってこういう事を言うんだろうな。将也がそんなことを考えていると、里奈が肩にかけたカバンからスマートフォンを取り出し、しばらく画面を見つめた後、
「事務所からだ。ごめん、ちょっと行ってくるね」
手を離すと、申し訳無さそうに両手を顔の前で合わせた。
「分かった」
どこかに遊びに行きたかったが、将也は素直に頷いた。里奈は人気声優だ。そういうこともある。
「ホントにごめんね。終わったらすぐに連絡するから」
事務所は歩いていける距離にある。里奈は将也に手を振ると、事務所に向かって歩いていった。
「お疲れ様です」と言いながら事務所に入った里奈は、室内の空気がどこかおかしいことに気がついた。
一体どうしたのだろうと思いながらマネージャーの久保のところに向かうと、事務所奥にある4人がけの机が置かれている小会議室に通された。そこには、普段あまり姿を見せることのない社長の村井が腕を組んで椅子に座っていた。
社長がいるなんてただ事ではない。自分は今から何を話されるのだろう。口の中がカラカラに乾き、心臓の音がうるさい。
「座りたまえ」
里奈は村井と向かい合う形で座り、久保は村井の横に座った。
「あ、あの、何があったんでしょう?」
里奈は久保が座るなり、即座に尋ねると、久保は無言でタブレットを操作して里奈の前に置いた。
「これ、三代さんだよね?」
里奈は画面を見た瞬間、言葉を失った。そこには『人気女性声優M熱愛!』という見出しの、とある出版社が運営するニュースサイトのページが表示されていた。
ページに表示されている写真は、紛れもなく家の近くを2人並んで歩く将也と里奈だ。
里奈が呆然としていると、村井が口を開いた。
「恋愛をするなとは言わないが……あまりにも迂闊すぎないかね?」
口調は淡々としていたが、目つきからは明らかに里奈を非難しているのが伝わってくる。
「……」
里奈はタブレットを見つめたまま無言で膝の上に置いた拳を強く握り、1つのことを考えていた。
この写真は一体誰が撮ったのだろう?
……まさか。
脳裏によぎった1つの仮説を即座に否定した瞬間、カバンにしまっていたスマートフォンが鳴った。
「すみません、マナーモードにします」
カバンから取り出し、画面を見た瞬間、里奈は我が目を疑わずにはいられなかった。
そこには『これで有名人だな!』という巧からのメッセージ通知が表示されていた。里奈の予想通り、巧は改心などしていなかったのだ。
動揺のあまり手の力が緩み、危うくスマートフォンを落としそうになってしまった。落とすことは避けられたものの、マナーモードにすることを忘れて、再びカバンに戻してしまう。
「再来週は写真集の発売があるし、来月はトークイベントがあるんだよ? 絶対キャンセルが出るよ? どうするの? 前に俺に言ったことはウソなの?」
「自分の売り方を知らないとは言わせないぞ。君は年頃の女性である前に、人気商売の『声優』なんだ。どう責任を取るつもりなんだ?」
里奈への非難は続く。
だが、里奈はまともに聞いていなかった。
どうして私の心配をしてくれないんだろう。
どうして声の俳優でしかない私がタレントみたいなことをしなきゃいけないんだろう。
……どうして、好きな人と一緒にいるだけでここまで言われなきゃいけないんだろう?
里奈が無言で立ち上がると、
「……三代さん?」
久保が視線を上げ、眉間に皺を寄せた表情で尋ねる。
しかし里奈は何も言うこと無く、部屋を飛び出した。当然後ろから2人の呼び止める声が聞こえたものの、それらは里奈を止めるには何一つ効果がなかった。
「暑いな……」
将也は太陽を睨みつけた。真っ白な雲が流れていく鮮やかな青空も、この暑さではきれいと感じる前に恨めしさを感じずにはいられない。
どこか店に入って休憩したいところだが、里奈がそのうち戻ってくる可能性を考えるともう少し待っていた方が良さそうだ。
里奈と別れてすでに1時間。将也がスマートフォンをポケットから取り出し、里奈にメッセージを送ろうとした瞬間、巧からメッセージが送られてきた。
巧とは例の一件以来一度も会っていない。一体なんだろうと思いながらメッセージを開くと、URLだけが書かれていた。
URLをタップし、表示されたページに載せられている写真を見た将也は「え……?」と思わず声を漏らしていた。
背景と一緒に写っている男の顔にはぼかしが入っていたが、どう見ても家の近くで手を繋いで歩く将也と里奈の写真だ。
将也はすかさずその場で里奈に電話をかけた。だが、いつまで経っても里奈が出る様子はない。二度三度とかけなおすも、やはり出ない。
事務所に直接向かうべきか。そう思ったものの、冷静に考えると事務所で今後の対策を話し合っている可能性もある。そう考えると、何度も電話をかけても仕方がない。しばらく待つべきだ。
将也は一旦待つことに決めた。
2時間後。やはり里奈から連絡が来る気配はない。メッセージを送ってみたものの既読がつく気配もなく、通話も通じない。
将也は事務所に直接行ってみたが、当然入り口に置かれている受話器越しに門前払いされてしまった。
里奈はどこへ行ってしまったのだろう。事務所前で立ち尽くし辺りを見渡してみたものの、それらしい人影はない。
遥奈に『里奈がいなくなった。そっちにいないか』というメッセージを送ると、即座に遥奈から電話がかかってきた。
『里奈さんがいなくなったってどういうことですか!?』
声だけでも困惑しているのが伝わってくる。
将也は自分と里奈の2人で歩いている写真を巧に垂れ込まれてしまったこと、そのあとから里奈と連絡が取れないことを話した。
『私のところにも里奈さんから何も連絡は来てないですね……何かあったらすぐに連絡します』
「ありがとう。一旦切る」
将也はスマートフォンをポケットにしまい、思い当たるところを虱潰しに探すべく駆け出そうとした瞬間、スマートフォンが震えた。
きっと里奈だ。だが、画面に表示されていたのは身に覚えのない番号からの着信だった。
「……もしもし」
もしかしたら里奈に関係する相手かもしれない。迷った末、電話に出ることにした。
『将也か? 俺だ。健史だ』
そういえば随分昔に電話番号を教えた記憶がある。だが、そんなことより、このタイミングでかけてきたということは間違いなく里奈に関することで間違いないだろう。
「里奈がそっちにいるのか?」
いたらいたでどういう状況なのか勘ぐりたくなるが、尋ねずにはいられなかった。
『いや、いない。それより、あれはどういうことだ?」
「あれは……巧の仕業だ」
『巧の?』
健史が事情を知らないことを思い出し、事情を説明すると、
『なるほどな……あいつそんなことしていたのか』
口調は静かだったが、怒りを滲ませているのが将也にも分かった。
『……だが、お前にも責任がある』
「は? どういうことだよ!」
つい将也は声を荒げてしまい、将也の近くを歩いていた通行人が訝しげな視線を投げかける。
『少し考えれば分かることだ。なぜ里奈がこうやってニュース記事に取り上げられたか分かるか?』
対して健史はそれにつられることなく、落ち着いた口調だ。
「それは里奈が人気声優だからだろ? 何が言いたいんだ」
健史は何当たり前のことを言っているのだろう。イラつくあまり、将也は踵で地面を踏み鳴らしながら言った。
『ではなぜそんなうかつな真似をしたんだ? 巧以外でも同じことを考える奴がいてもおかしくないのに、今回の件は巧を捕まえたからって安心しきっていたお前の責任だ』
「なんだと……ふざけるな!」
健史の言っていることは正論だと将也も分かっていた。里奈は人気声優、つまり芸能人であり、しかも美人とくれば、スクープのネタとして狙うには絶好のターゲットだ。それなのにも関わらず、巧を捕まえたことに安心しきってしまっていた。
責任は自分にもある。そう分かっていながらも、認められず、怒鳴ってしまった。
『その取り乱し具合から見るに、自覚があるみたいだな』
「ぐ……」
涼し気な表情で今自分を非難している健史が手にとるように思い浮かぶ。目の前にいたら殴っていたかもしれない。代わりに将也は手にしているスマートフォンを手が白くなるほどに強く握った。
『いいか。里奈とお前は住む世界が違うんだ。それなのに、お前が無理して里奈と関わったおかげでこうなってしまったんだ。里奈の将来を壊したのは将也、お前だ』
何も言い返せなかった。里奈と再会し、巧を捕まえてしまったがために、里奈の声優としての未来を閉ざしてしまったのだ。
里奈の隣を再び歩くことは、里奈にとっても、自分にとってもベストな選択だと思っていた。だけど、それは間違いで、自分の存在は里奈の枷にしかなっていなかった。
『じゃあな』
最後に短く一言言うと、健史は電話を切った。
「……」
将也は耳からスマートフォンをゆっくり離すと震える手でポケットにしまおうとしたが、手に力が入らず、地面に落としてしまった。落ち方が悪く、画面にひびが入る。だが、将也はスマートフォンを一瞥することもなく、ただ淀んだ表情で空を眺めていた。
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