挑戦
里奈と遥奈が友情を深めてから3日後のこと。
岸健史は都内スタジオでオーディションに挑んでいた。オーディションには今まで何度も参加してきたが、今回はわけが違う。
1ヶ月前、人気ハリウッド俳優、キング・グルーブの吹き替えを長きに渡って担当してきた、ベテラン声優の呉田夕(くれたゆう)が亡くなった。今回は、その後継者を決めるオーディションなのだ。
人気俳優であれば、定期的に何かしらの作品に出演することになり、そして当然それを吹き替える声優にも仕事がやってくる。二代目というプレッシャーもあるが、吹き替えもできるという事を業界に知ってもらえれば、芋づる式に仕事を増やしていくチャンスだ。
加えて、今回のオーディションにはもう1つ違うところがあった。基本的に吹き替え声優を決めるオーディションは日本で録音を行い、海外にデータを送り、現地で関係者が決める。
だが、今回はなんと直接本人がスタジオに立ち会ってオーディションを行うことになっているのだ。
普段のアニメのオーディションであれば、音響監督が「このキャラを演じるのにふさわしいか」を判断する。だが今回の場合は本人が「この男は俺を演じるのにふさわしいか」を判断することになる。まるで勝手が違うのだ。
そんな特殊な状況のオーディションということもあり、場数を踏んできた健史も日頃に比べて緊張せずにはいられず、目を閉じ、深呼吸をしていると健史の出番が回ってきた。
収録スタジオに足を踏み入れると、コントロールルームにいるキング・グルーブが健史を値踏みするように見つめる。
キングはイギリス出身だ。茶色の癖のある長髪で、服の上からでもボディビルダー顔負けに筋肉がついているのが分かる。さらに元格闘家という経歴の持ち主だけあって、目つきの鋭さに健史も思わず一瞬身体が硬直してしまう。
この日のために練習してきた英語でキングに向かって挨拶をすると、キングが話し始め、
「あなたの英語はなかなか上手だと言っています」
キングの隣に座っていた通訳がすかさず意味を教えてくれた。
なかなか。それが100点満点中どれくらいなのかは分からないが、聞くに堪えないということはなさそうだ。
健史は短くThank youと返し、オーディションが始まった。
その場で流れる映像に合わせて台詞を喋る。
この日のために、健史は呉田が吹き替えていたキング出演作を何度も見て研究していた。健史と呉田の声質は似ているわけではない。だが、そもそも呉田とキングの声も似ているわけではないのだ。大事なのは、キングに「この男になら任せられる」と思ってもらえることだ。
健史は演じるのではなく、自然に喋ることを意識した。今までの現場で培った経験を一旦忘れ、役を生きるというのはどういうことなのか。その自分なりの解釈を愚直にぶつけていく。
劣等感、不安、雑念といった今必要の無いものは消えていき、代わりにキングが演じている人物が抱いている感情、感覚が頭の中に生まれる。こういう状況なら体のどういうところに力が入るのか、どこに目線が行ってしまうのか、息苦しくなるのか……。
台本を読み終える頃には全身が汗だくになっていたが、健史の全身を心地よさが包んでいた。
これが、自分という身体を使って赤の他人の人生を生きる、演じるということの楽しさ。忘れかけてしまっていた感覚。今の健史にとっては、オーディションの結果はどうでもよかった。
ただ、満足だ。
健史が呆然とコントロールルームを見ていると、通訳を介してキングとスタッフが何か揉めていた。しばらく観察していても収まる様子がなかったので、健史は頭を下げると収録ブースを後にした。
マネージャーに連絡をし、スタジオの外へ出る。日差しが眩しい。
健史は以前事務所で里奈と出くわした時、将也とよりを戻すことにしたと謝罪されていた。
それに対して、将也に負けた、という気持ちは健史には特に無い。自分が力不足なのではなく、里奈の中で将也が過大評価されているだけだ。
社会的に見れば自分のほうが遥かに稼ぎもあるし、人気もある。そんな自分ではなく、将也を選んだ見る目のない里奈のことなんて見限って、新しい女性を探せばいいのだ。今の自分なら、引く手あまただろう。
なのに、なぜ今でもこんなに悔しいのだろう?
健史は大きく息を吐いた。
理屈では分かっていても、感情はそう簡単に切り替えることはできない。だからこそ、人は創作の世界に住む登場人物が葛藤し、苦しむことに共感を抱くのだ。感情を操る役者として、よく分かっている。
そう、自分自身が悔しいと思いたくて思ってるわけではない。脳が、身体が勝手にそう思いたがっているだけなのだ。
前に進まなくては。これから収録が待っている。健史は意識的に強く地面を蹴りながら、駅へと向かって歩いていった。
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