3人

 将也と里奈が宗谷に行った一週間後の夕方。

 いつものように里奈が遥奈に演技を教えている最中の事だった。

 もしかしたら、自分は取り返しのつかない事をしてしまったのかもしれない。里奈は遥奈を前にしてそんなことを思わずにはいられなかった。

 里奈と遥奈、2人の声質は比較的似ていると里奈は思っている。もちろん、ただ似ているだけなら別にどうということはない。

 例えば有名な声優のものまねをするお笑い芸人が何人かいるが、彼ら彼女らがその声優の仕事を奪ってしまうことはない。

 過去にオリジナルの声優が亡くなったあと、代役を務めてそのまま後を継いでしまう……という珍事中の珍事が起きたこともあるが、本人が亡くなった後だから当然仕事を奪った訳ではない。

 声優という仕事は声でキャラクターに魂を吹き込む仕事だ。よって声の特徴や性別によって演じられる役が決まることはなく、合ってさえいればベテランの男性声優がラブコメのヒロインの声をやろうと思えばできる。

 しかし、とてつもなく器用でもなければ、ある程度は演じる役の傾向が固まってしまうものだ。よって、声質が似ている声優は役の取り合いになる。似たような声の声優が共存していけるほど、声優業界の仕事は多くないのだ。

 そして残念ながら、上手ければ役を勝ち取れるかというとそうではない。声優の世界にはランクという制度があり、ランクが低いとギャラが安くなる。当然予算が少ない方が制作的にはありがたいので、ランクの低い声優が採用されることもあるだろう。さらに女性声優であれば、グラビアやメディア出演もある。そうなってくると、当然若いほうが重宝される。

 今はまだ遥奈はちょい役を1つもらっただけの声優未満の存在でしかなく、里奈の方が圧倒的に先を行っている。しかし、里奈には遥奈は将来確実に伸びるという確信があった。

 事実、ここ最近の遥奈の成長速度は恐るべきもので、加えて遥奈はひいき目に見ても可愛い。このままでは、自分の役を奪う脅威になってしまうかもしれない……。

「あれ、どうしたんですか? そんな怖い顔をして」

 いつの間にか思いつめたような表情で考え事をしてしまった里奈は、遥奈の声で我に返った。

「あ、ごめん。考え事してて」

 里奈が動揺していることを気づかせないためにごまかし笑いを浮かべる。

「あ、ダメですよボーッとしてちゃ。私最近すごく上手くなってるじゃないですか。ぼんやりしているうちに、三代さんを追い抜いちゃいますよ?」

 見え見えの冗談だと誰もが分かる態度だった。なのにも関わらず、

「え? 何を言ってるの? 遥奈なんて私に比べたらまだまだだよ。ちょい役1つやった程度で自惚れないで」

「えっ、あ……すみません」

 食い気味に射るような眼差しで睨みつけられながら言い返された遥奈は、一瞬驚いた表情で固まった後、怯えるように視線を落とした。

「あ、ごめん」

 すぐに自分の大人気なさに気づいた里奈は遥奈に近寄ろうとしたものの、

「そうですよね。私なんか全然まだまだですよね。生意気言っちゃってすみません……」

 遥奈は里奈と視線を合わせようとせず、公園から走り去ってしまった。


 その日の夜。将也と遥奈という珍しい組み合わせで、2人は夜の散歩に出かけていた。ちなみに里奈には内緒だ。

 今夜は月が妙に明るく、そのせいか夜だと言うのに視界に入るものの明度が妙に高く感じる、不思議な感覚を抱く夜だ。

「それにしても、朝倉さんが私を誘うなんて珍しいですね。あっ、もしかして三代さんと私で二股かけようとしてる!?」

 遥奈は芝居がかった狼狽しているような表情で、口元に手をやりながら言った。

「そんなわけないだろ。大体、お前はすぐ近くに住んでるんだからあっという間に里奈にバレるだろうが」

 将也はまともに取り合わずにあしらうも、

「……ってことは、私が離れたところに引っ越したらやるんですね?」

 今度は急に真顔になり、一段と低い声とともに将也を睨みつけた。

「何言ってるんだ。んなわけないだろ」

 急に豹変した遥奈に一瞬驚いたものの、どうせまたからかっているのだと気づき、雑に返すと、

「ですよね~。なんたって朝倉さんは三代さん一筋ですからね」

 今度はこれ見よがしに「三代さん一筋」のところを強調した。遥奈が声優志望だと知らなければ心配になってしまうほどテンションの振れ幅が大きい。

 2人はそのまま歩き続け、普段里奈と遥奈が練習に使っている公園にたどり着いた。公園内は薄暗く、人影はまったくない。1人でいたら間違いなく不安になってくるだろう。

「ど、どうしてこんなところにつれてきたんですか? あ、もしかしてここで私を襲うつもりなんですね! 警察を呼ばないと……」

 公園に着くなりいつものように冗談を言う遥奈だが、どこか動きがぎこちない。

 将也は遥奈に取り合わずに近くにあるベンチに腰を下ろすと、遥奈に隣に座るように促し、遥奈が1人分間を空けて座ると、将也は単刀直入に問いただした。

「里奈と何かあったんだろ」

「え、何もないですよ? 私と三代さんは相変わらず仲良しです」

 遥奈は何事もなかったかのように答える。しかし、将也は里奈から遥奈に暴言を吐いてしまったという話を聞いていた。

「里奈はなんてひどい事言っちゃったんだろって反省してたぞ」

「えっ……」

 遥奈の表情が、『本当に』戸惑っているように見えるものに変わる。

「お前里奈に声が似てると思うか?」

「え? 別に特に似てないと思いますけど」

 発言の意図が掴めないのか、遥奈は首を傾げながら答えた。

「だよな」

 将也は頷くと、

「どうも、里奈からすると里奈と八雲の声は似たような方向性……らしい」

 そう言った将也も納得できていなかった。もちろん演技をする時はまた違うと分かっていたが、声だけ聞いてもどっちが喋っているかすぐに分かるくらいには2人の声は違うのだ。

「似てるんですかね? 名前はどっちも『奈』がついてますけど」

 遥奈も納得できていないのだろう、困惑しているのが見て取れる。

 将也は内心で「名前は関係ないだろ」とツッコミを入れつつ、

「まあ、似てるだけならまだいい。どうも里奈は八雲が将来間違いなく売れっ子になって、自分を脅かす存在になるという確信があるんだとさ」

 そう言い終えると背もたれに体重をかけた。

「私がですか? 私なんてまだちょい役一つやっただけなのに……」

 遥奈は膝の上に乗せた両手を固く握りながら視線を落とす。

「それも里奈が言ってた。だけど里奈ですら、役をもらえるようになったのは事務所に所属してからだ。それって里奈以外からも実力を認められてるってことだろ?」

「……そんなこと、どうでもいいです」

「え?」

 声優としての才能があることが「どうでもいい」と返され、将也は思わず尋ね返した。

「三代さんに嫌われるくらいなら、下手くそのままがよかったです。せっかく仲良くなれたのに……」

 遥奈の目からぽたぽたと涙が落ち始める。

 普段のおちゃらけたキャラとまるで違うが、本来はきっとこういう性格なのだろう。そういう意味で、里奈と遥奈は似た者同士なのかも知れない。そんな事を将也は思う。

「はぁ……」

 それはともかく、とりあえずこのまま泣かせっぱなしにしておくわけにもいかない。将也は背もたれに預けていた上体をゆっくりと起こした。

「なんで里奈が八雲に演技を教え続けているか知ってるか?」

「……分かりません」

 冗談で返す余裕もないのか、遥奈は涙声で答えた。

「お前のことを大事に思ってるからだよ」

「……そんなこと朝倉さんに言われても信じられません」

 こいつ意外と頑固だな、と将也は思いつつも、

「里奈が結構忙しい事知ってるだろ? それなのにわざわざ時間の合間を縫って、どうでもいい奴に演技を教えたりするか?」

 言い聞かせるように意識的にゆっくりと言った。

「……確かにそうですね」

 しばらく間があったものの、どうやら納得したようだ。だが、相変わらず遥奈の表情は暗い。

「だけど、これからどうすればいいんでしょう」

「大丈夫だ。俺に任せろ」

 将也はベンチから立ち上がると、遥奈に視線を送り、

「えっ?」

 遥奈は目尻に涙を浮かべながら顔を上げて将也を見る。

 もし、遥奈がいなかったら。将也はそんなことを考えてしまう。きっと今も昔の自分からまるで変わっていなかっただろうし、里奈とよりを戻すことはできなかっただろう。もしかしたら野垂れ死んでいたかもしれない。

 将也にとって、遥奈は恩人なのだ。……本人には自覚が無いかもしれないが。

 とにかく、以前里奈と仲直りするために間を取り持ってくれたように、今度はこっちが借りを返す番だ。


「はぁ……」

 里奈は将也の家でベッドに腰を下ろし、台本を読んでいた。しかし遥奈に暴言を吐いてしまったことをつい考えてしまい、まるで集中ができない。台本をベッドに置き、仰向けに倒れ込む。

 遥奈に謝らなければ。そう思うものの、何と言って謝ればいいのかまるで思いつかないし、こんなときに限って相談したい将也は家にいない。

 里奈がそんなことを思っていると、ドアが開く音が聞こえ、将也が部屋に入ってきた。コンビニの袋を手にしている。

「どこ言ってたの?」

 聞くまでもなかったが、肝心な時にいなかった当てつけからつい聞いてしまう。

「これ買ってきたんだよ」

 将也が袋から取り出したのは、杏仁豆腐アイスだった。ナタデココが混ぜられており、かじると杏仁豆腐の香りと、ナタデココのコリッとした食感がたまらない。里奈の好物だが、最近見かけなくなってしまって随分食べていない。

「ほら」

 将也は手にしたアイスを里奈に渡した。

「……ありがとう」

 久しぶりに食べられるのがうれしく、表情がつい綻びそうになってしまうが、なんだか負けた気がするので不機嫌そうな顔をしつつ里奈は将也からアイスを受け取った。

 袋を開けると一口目からかじりつく。やはり美味しい。不機嫌な表情を作ろうとしても自然と笑顔になってしまう。美味しいものを食べている時に不機嫌になるなんて絶対無理だ。

 将也も里奈の横に並んで座り、ベッドの上にポケットに入れていたスマートフォンを置くと、同じようにアイスを食べ始め、2人はそのまま無言で食べ続ける。

 沈黙を破ったのは将也だった。

「ちょっとは元気になったか?」

「……うん」

 里奈は咀嚼していたアイスを飲み込み、頷く。当然、問題が解決したわけではない。ただ気の持ちようが変わっただけだ。

「じゃあ、八雲と仲直りをしないとな」

「うん」

 即座に頷く。遥奈に対してしてしまったことは、裏切りだ。慕ってくれていた相手に感情的に暴言を吐くなんて最低の行動だ。1秒でも早く謝らなければならない。

 そう思うのだが、なんと謝れば遥奈は許してくれるのだろう。きっと、ただ謝るだけでも遥奈は笑って許してくれる。しかし、それは根本的解決にはならない。今回の件で遥奈の中に生まれてしまった不信感は残り続け、いつかそれは爆発するだろう。そうなった時、もう仲直りは二度とできない。そう考えると怖くて動けなくなってしまうのだ。

 里奈は一口かじろうとしていたアイスを口の前で止めると、

「だけど、遥奈になんて言って謝ればいいのか分からない」

 アイスを持った手を膝の上まで下ろす。

「ごめんなさい、って謝ればいいだろ」

 将也は一口アイスをかじる。部屋が静かなため、固まったナタデココが噛み砕かれる音がわずかだが聞こえる。

「……それで許してもらえるのかな?」

 将也の言うことももっともと言えば、もっともだ。まず謝ることが大事であって、どう謝るかは二の次だ。

「というより、なんでそんなこと言っちゃったんだ?」

「それは……」

 里奈は言葉を詰まらせた。言ってしまえばこれは嫉妬だ。いくら恋人とはいえ、そこまで話すのは躊躇する。しかし、絶対に誰にも話したくないかといえばそんなことはない。こんなこと言っていいのだろうか、と思うことはやはり誰かに話したくなってしまう。

「……遥奈ってかわいいよね」

「え?」

 将也は明らかに困った表情で一瞬固まり、しばらく悩んでいるように視線をあちこちに向けた後、

「……ああ、そうだな」

 自分の意見は一切入っていない、客観的な事実だということを強調するかのように、短く答えた。

「だよね。しかも、最近すごい勢いで上手くなってるの。正直言って、私もういらないかもしれない」

「そんなにか」

 遥奈がそこまで上達していると思わず驚いたのか、将也の声のトーンが変わる。

「私ってちょっとは才能あるんじゃないかなって思うこともあったけど、遥奈を見てると、私のは才能じゃなくてただの『素養』でしかなかったんだなって思っちゃう」

「遥奈に嫉妬してしまったわけか」

 将也の問いに里奈は頷くと、

「実力でもそうだし、遥奈の方が若くてかわいいし、私もきっと先輩達から役を奪ってきたことがあると思う。でも、将来、遥奈に役を奪われるんじゃないかって思うと、怖くて仕方ないの」

 アイスが溶け、雫が里奈の手に落ちる。あわてて里奈は最後の一口を食べ終えると、続きを話し始めた。

「だけど、遥奈のことはなんだか妹みたいでかわいいし、そんな遥奈が上達していくこと自体はとても嬉しい。でも、遥奈が上手くなったら私の役を奪われてしまうかもしれない……私、どうしたらいいんだろう」

 冷静に考えたら、こうなることが予想できたかもしれない。だけど、公園で初めて遥奈の才能に触れた時、もっと上手くなったらどうなるんだろうと思わずにはいられなかったのだ。

「だそうだ」

 将也が里奈ではない、何者かに向かって言うと、

「はい。ありがとうございます」

 ベッドの上に置いていたスマートフォンから、遥奈の声が聞こえた。

「えっ……?」

 思わず里奈は将也のスマートフォンに素早く体ごと視線を向ける。

 よくよく考えてみれば、アイスを買ってきて話を聞き出そうとするなんて、里奈の知る将也のキャラではない。何かあるのではないか、と疑ってかかるべきだった。

 しかも将也は日頃ベッドの上にスマートフォンをよく置いていたため、里奈は気にも留めていなかったのだ。

「……今からそちらに向かいます」

 通話が切れ、1分も経たないうちに、髪の毛を下ろし、部屋着になった遥奈が部屋にやってきた。


 遥奈が将也の部屋に上がると、遥奈にどう接したらいいのか分からないのだろう、困惑した様子の里奈が遥奈の視界に入った。将也は事の成り行きを見守ると決めたのか、立ち上がり、里奈から離れていく。

「私のこと、そんな風に思っていたんですね。何ていうか、光栄です」

 遥奈は里奈の前に歩み寄ると、ぎこちない笑みを浮かべる。里奈の本音を聞けたのは嬉しいが、どう接したらいいか分からないのは遥奈も同じだ。

「うん」

 里奈は短く答え、視線を落とす。その短い一言に、沢山の意味が込められていることは遥奈もすぐに分かった。

 嫉妬していることを知られてしまった事の気まずさ、妹みたいに思っていると本人に聞かれてしまった気恥ずかしさ、未だに謝罪ができていないことの罪悪感。もしかしたら、他にもあるのかもしれない。

「三代さんは私のことが嫌いですか?」

 さっきまで将也が座っていた場所に、今度は遥奈が腰を下ろし、尋ねる。

 遥奈自身も、返答に困るなと思う質問だなと思う。だが、聞かずにはいられなかった。遥奈の予想通り、里奈は困ったような表情をしている。

 里奈の返答を待つこと無く遥奈は、

「私は、三代さんのことが大好きです。なんたって、三代さんは私の恩人ですから」

 ゆっくりと、昔のことを思い出しながら語りかけた。三代里奈の言葉によって救われた時のことを。

「それ、前にも言っていたよね。昔遥奈に会ったことあったっけ?」

 里奈が顔を上げる。

「いえ。ないですよ」

 遥奈は穏やかなようにも、寂しそうにも見えるような笑みを浮かべた。

「じゃあ、どうやって」

 どうやって自分が遥奈の恩人になったか気になるのか、里奈は首を傾げ、遥奈をじっと見つめる。

 今、自分は憧れの三代里奈に注目されている。そう思うと、自然と優越感で遥奈の口元に笑みが浮かぶ。

「私普段はおちゃらけてますけど、もともとは根暗で、全然友達もいなかったんです。だけど、別に寂しくないかと言ったらそんなことはなくて……行き着いたのはラジオでした」

「ラジオって意外だね。今なら他にも色々あるのに」

「動画はちゃんと見なきゃって意気込んでしまって億劫になっちゃうんですよね。だけどラジオだと聴くだけだから、気楽に楽しめるというか」

 答えに納得したのか、里奈は表情で遥奈に続きを促す。

「多分1年半くらい前だと思うんですけど、その日は全然眠れなくて……だけどスマホいじってたら余計眠れなくなっちゃうのでラジオを流してたんです。その時に、三代さんがパーソナリティをやってる番組と出会ったんです」

「1年半くらい前というと……『みしらじ』が始まった頃かな?」

『みしらじ』は里奈が単独パーソナリティを務めるラジオ番組だ。たまにゲストを呼ぶことがあるものの、基本的には里奈1人で自分が演じたキャラクターについて話すことが多い。

 顎に手を当てながら里奈が尋ねると、

「それです。『みしらじ』が私を変えたんです」

 遥奈は視線を上げ、遠くを見つめると、

「私も昔は引っ込み思案で、自分のことが大嫌いだったんですよね。だけど、ある人が気づかせてくれたんです。私が大人しいのは、自分が心のどこかで、そうなりたい、自分はこういう性格なんだと思っているから。だから本当はどうなりたいのか考えて、思い切って今いる場所から飛び出しみたんです。そしたら、意外と楽しいことに気づいたんです」

 アーカイブで何度も聴いて完全に覚えてしまった里奈の言葉を諳んじた。

「私そんなこと言ったっけ……あー、いや、言ったような気もするな」

 里奈は照れくさそうにこめかみを人差し指でかく。

「最初は『どうせこの人もぼっち営業なんだろうな』って思ってました。だけど、話しぶりを聞いてると本当に努力して来たんだろうなってのが伝わってきて、気がついたら、涙を流してました」

 あの時の里奈の言葉を聴いて、遥奈は自分の殻を破ってみようと思った。最初は怖かったけど、気がつけば友達ができ、『社交的な自分』を使いこなせるようになった。

 もし、あの時もしちゃんと眠れていたら。あの時もし違うラジオ局を聴いていたら。あの時ラジオを聴き始めるのがもっと遅かったら。今自分がこうしていられるのは奇跡みたいなものだ。そう思うと改めて怖くなってきて、遥奈は胸元に握った拳を当てていた。

「そっか……なんだかうれしいな」

 里奈は膝の上で組んだ手に視線を落としながら呟く。いつの間にか、里奈の表情からは遥奈が部屋に入ってきた直後の困惑の色は消えていた。

「三代さん」

 遥奈が名前を呼び、里奈が顔を上げると、

「私、三代さんと一緒に仕事ができるようになりたいです。だから、三代さんも私に役を奪われるなんて言っていないで、もっともっと上手くなって、これからも私の憧れの人でいて下さい」

 遥奈は膝の上に置かれている里奈の手を取り、真っ直ぐに里奈を見つめた。

 里奈は一瞬固まってしまっていたものの、

「うん。ありがとう。遥奈。それと、ごめんね」

 里奈が手を動かそうとしていることに気づき、遥奈が手を離すと、里奈は優しく遥奈を抱きしめた。女の遥奈でも惚れてしまいそうな、甘い香りがする。

「いえ……こちらこそ、ありがとうございます。『里奈』さん」

 遥奈も里奈の背中に手を回し、抱きしめ返す。

「これで、一件落着だな」

 部屋の端っこで椅子に座り2人を見守っていた将也が口を開いた。

「はい、ありがとうございます。将也さ……じゃなくて、朝倉さん」

 うっかり勢い余って名前で呼びそうになってしまい、慌てて遥奈が訂正すると、

「別に名前で呼んでもいいんじゃない? 私達3人、別に知らない仲じゃないんだし」

「えっ」

 里奈はそのまま名前で呼ぶよう提案してきた。

「将也もいいよね?」

「俺は別に構わない」

 遥奈が困惑しているうちに、里奈は将也から許可を取ってしまった。ここまで来ると、名前で呼ばないほうが失礼な気がしてくる。

「えっと……じゃあ、ま、将也さん」

「遥奈」

「~~!」

 恥ずかしさをこらえながら呼んだというのに、将也は即座に名前で呼んできたことが、遥奈の恥ずかしさを倍増させた。

 知り合った直後は救いようのない終わった人だと思っていたのに、実は憧れの三代里奈の彼氏だったり、妙に行動力があったり。本当によくわからない人だ。でも、今こうやって自分でもびっくりするほど充実した毎日を送れているのは、間違いなく、彼のおかげだ。

 心の中でもう一度「将也さん」と名前を読んでみる。やっぱり恥ずかしいけど、なんだか心が暖かくなってくるような気がした。

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