青空
将也と里奈は手を繋ぎ、徐々に道幅が狭くなっていく、真っ直ぐに伸びた道を歩いていた。右手には日差しを防ぐ屋根の柱があり、左手には通路を挟んで小さな港がある。天気は快晴で、絶好の行楽日和だ。風が吹き、里奈の黒髪が揺れる。
「静かだね」
里奈が港に視線を向けながら呟く。今日の里奈は涼し気なワンピースを着ている。艷やかな黒髪ロングヘアと相まって、儚さすら感じさせてしまう美しさだ。
2人がここに来る前に少し寄った商業施設は賑わっていたにも関わらず、わずか1駅のここは、将也の視界には老夫婦が一組いる以外人影がまったくなく、波の音がはっきり聞き取れるほど静まり返っている。
将也と里奈がまだ付き合っていた頃、女子高生が南極へ行くというストーリーのアニメが放送されていた。それを見た里奈は涙を流すほど感動し、現役引退した南極観測船が都内に繋留されていることを知った里奈は、将也と一緒に見に行こうと話していたのだ。
しかし2人はその後別れてしまい、結局実現したのは3年後の今だ。
辺りを散策し終えた2人は、ついに南極観測船『宗谷』の前にやってきた。
里奈は宗谷の船首から船尾まで横に首を動かしながら、
「うわあ……大きいね」
感嘆の声を漏らした。
「確かに思ったより大きいな」
将也もオレンジ色の船体に視線を向け、頷く。
宗谷は戦前に建造された船で、太平洋戦争でも使用され、紆余曲折を経て南極観測船として6度南極に行った歴史のある船だ。将也はここに来る前に軽く下調べをしていた。
もちろん改修を何度もされているのだろうが、そこまで古い船には見えない上、そんな歴史のある船がこんなところに係留されているのはなんとも言えないおかしさを将也は抱いていた。
「ほら、あそこから船に入れるみたいだよ? 行こ!」
将也が宗谷を眺めていると、里奈が将也の手を引きながら船内へ続く階段を指差した。2人が再び恋人になってから、里奈は以前にも増して積極的だ。
「そうだな。行くか」
2人は階段を上り、宗谷船内へと向かっていった。
将也と里奈は船内を巡ったあと、船首にある甲板に上がった。甲板から見える光景に将也は目を奪われ、里奈も「わあ……」と目を輝かせる。
目の前には静かな波の音を立てる海が広がり、頭上にはグラデーションがかかった青空が広がっていた。200メートルほど先には東京湾に浮かぶように東京国際クルーズターミナルが見え、そして対岸の右手には港区のビル群が立ち並び、左手には埠頭の巨大なクレーンが動いているのがよく見える。昼間でも思わず写真に収めたくなるほど綺麗だが、夜は夜で素晴らしい夜景が見られそうだ。
里奈は手すりに向かって駆け出し、将也は後を追う。
「いい眺めだね……空がよく見える」
里奈は手すりに手を置き、しみじみと呟いた。海から吹く風で里奈の黒髪が揺れる。まるで何かのワンシーンのようだ。
将也も里奈の左隣に立ち、目の前に広がる光景を眺めた。
「確かにな。こんなに空が広く見える場所、久しぶりに来た気がする」
将也の生活圏でここまで遠くが見渡せる場所はない。普段自分が住んでいるところはそこら中に何かしら建物があるんだな、とこの光景を前にしなければ思いもしなかっただろうことを考えてしまう。
いつの間にか風景を眺めるはずが考え事をしてしまっていた将也は、里奈が将也の手を握り直した感触で我に返った。将也も握り返し、それに応える。
「私の地元はどこもこんな風に、いや、もっと良く空が見えたんだよね」
里奈は首を上に向け、雲を追いかけるように空に視線を送る。
「もう随分帰ってないんだっけ?」
「うん。たまには帰りたいな……」
空は相変わらず青いが、里奈の表情が曇りだす。しかし湿っぽくなってきたのを嫌ったのか、
「そういえば私達って、あまり出かけることなかったよね。良く言えばお金がかからないけど、悪く言えばカップルらしくないというか」
遠くに視線を送りつつも話題を変えた。目の前の風景を見ているというより、目の前に昔2人が付き合っていた頃の記憶を浮かび上がらせ、それを見ているように見える。
「そうだな、食事に行ってもファミレスだったり、話す内容もひたすら演技のことばかりだったり、カラオケに行っても台本読み始めたりな」
将也も遠くを見つめながら、口元に笑みを浮かべた。
確かに、会う回数は比較的多かったものの、カップルらしくなかったかもしれない。
「そういえば、なんで将也のこと好きになったか覚えてる?」
「……なんだったかな。思い出せない」
里奈から「私と付き合って下さい」と告白されたのは覚えているが、なにをきっかけに好きになったかを教えてもらった記憶はない。
「それはそうだよ。だって言ったことないし」
里奈は妙に自慢気に言い、将也も「ないのかよ」と苦笑しながらツッコミを入れる。
「将也は養成所が終わった後にみんなで一緒に練習してると、目の敵にしてるのか! って思うくらい私にやたらダメ出しをしてきてたよね。『いつも下を見るのを直せ』とか、『声が小さすぎて声優を目指す以前の問題だ』とか。普通そんなこと思ってても言わないよ」
里奈の口調は、内容とは裏腹に楽しそうだ。
「そんなこと言って来るような奴、普通好きにならないだろ」
「そうだよね。口には出さなかったけど、最初は何様だよ! 嫌な奴~っていっつも思ってた」
里奈は軽く笑うと、
「だけど悔しいけど事実だったし、……気がつけばどうすれば将也を見返してやれるかって思うようになってた。その時私って実は負けず嫌いだったんだーって気づいたんだよね」
遠くを見るのをやめ、将也を見つめる。
将也は小っ恥ずかしくもあったが、続きが気になり、頭の動きで続きを促した。里奈は再び遠くに視線を戻すと、
「やたら失礼なことをダメ出ししてくるけど、直ったらちゃんと気づいてくれて、ぶっきらぼうだけど褒めてくれる。それが嬉しくて……気がついたらどうやったら将也にもっと褒めてもらえるかなって思うようになって、いつの間にか将也の事を好きになってた」
少し恥ずかしそうだが、それ以上に幸せそうな微笑を浮かべ、将也の手を握る力を強めた。
「なんだそれ」
将也は呆れたような笑みを浮かべたが、その笑みはすぐに消えた。
「……だけど、思ったより、『昔の俺』は里奈に影響を与えていたんだな」
まさか自分がそこまで里奈に影響を与えていたとは、将也も想像がつかなかった。
「そうだよ。将也がいなければ、今の私はいなかった。だから将也は私の恩人で……」
そこで里奈は言葉を切ると、将也に向き直り、
「私の大好きな人」
今にでも泣き出してしまうのではないか。そんな笑顔とともに熱い視線を将也に送った。
波と風の音が聞こえ、遠くにはビルやクレーンが立ち並んでいる。それは今も変わっていないはずなのに、将也にはそれらが全て消えてしまったかのように、里奈が今目の前にいるという事しか感じられなくなってしまっていた。
いつの間にか将也達と同じように甲板から風景を眺めていた客達は全員いなくなり、宗谷周辺は無人になっていた。しかし今の将也には分からなかったし、誰かいたところで気にしなかっただろう。
将也は里奈の手を握るのをやめると、里奈の両肩に両手を置き、里奈に視線で自分のしたいことを示すと、里奈はすぐにそれを察したのか、ゆっくりと目を閉じた。
それを合図に将也の顔が里奈に近づいていき、2人の唇が触れ合う。
里奈の唇の瑞々しさと、柔らかさが将也の唇を通して将也の脳に伝わっていく。脳の奥がバターのように溶けていくような甘い感覚。2年ぶり、いや、もしかしたらもっと前だったかもしれない。とにかく、随分と久しぶりのキスだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます