再開

 巧との一件があってから数日後のこと。

 その日将也は面接を受けていた。場所は各駅停車しか止まらない駅から徒歩10分のところにある3階建ての小さなビルの一室で、ガラス張りになっている会議室からは、仕事をしている社員の姿がよく見える。

 将也はしばらく中断していた就職活動を再会した。いつまでも、里奈のすねをかじっているわけには行かない。

 巧は新しい道を歩み始めても、声優の夢を諦めた事に苦しみ続けていた。将也自身も一生かけても完全に吹っ切ることはできないという予感がある。

 それでもやはり、前に進まなければならない。吹っ切ろうとしても吹っ切れずに苦しむほうが、現実を受け入れられずに無為な毎日を過ごし、ただ寿命を無駄遣いしていくような生活を送るよりはまだマシだ。

 将也の向かいに座っている採用担当の男は髪を短く切りそろえ、肌は日焼けしていて、年齢は40過ぎくらいに見える。間違いなく休日はスポーツをやっているんだろうなと将也は思った。名字は大谷なので、野球かな。そんな事を考えてしまう。

「ずっとフリーターをやってたみたいですけど、何か理由があったんですか?」

 大谷は将也の履歴書が表示されているのか、操作しているノートパソコンに視線を落としながら尋ねた。

「はい。ずっと声優を目指していたので、そのためシフトの融通が利くフリーターを選びました」

 今までは「声優を目指していた」と言うことに抵抗があり、面接で聞かれてもぼかして答えていたのだが、変にごまかしても仕方がないと正直に答える。

「5年間ずっとですか? それはなかなか大変だったでしょう。私も昔は売れない舞台俳優をやっていたので気持ち分かります」

「え、そうなんですか?」

 思わず将也が尋ねると、

「まあ、途中でほとんど劇団にも顔を出さなくなっちゃって、そこからはただのフリーターみたいなものだったんですけどね」

 大谷は苦笑を浮かべた。

「実は、俺……じゃなくて私も同じ感じです。途中で養成所を辞めてから腐ってしまって、しばらくダラダラとフリーターを続けてしまっていました」

「なるほど。まあ、そういうこともありますよ。人間何かを諦めて、『よし次に行こう!』って言えるほど器用じゃないですからね。そういう時期があって初めて前に進めるんですよ」

 大谷のその言葉に、将也は今までの自分が許されたような感覚を抱いていた。声優を諦めて里奈と再会するまでにこんな生活やめなければと思ったことは数え切れないほどある。

 しかし結局現状維持という楽な方向に流れてしまい、自己嫌悪を抱いてしまっていたが、大谷の言葉を借りるなら、それは決してムダな時間ではなかったのだ。

「ありがとうございます。なんだか少し気分が楽になりました」

 将也は本音とともに頭を下げた。

「それは良かったです。それではうちがどんな事をやっているか説明しますね。例えば……」


 面接を終えた将也はそのまま直接収録を終えた里奈を迎えに行き、一緒に帰路についた。もうストーカーはいないのでこんな事をする必要はないのだが、里奈たっての希望だ。

 2人は徒歩5分ほど歩いたところにある地下鉄の駅に向かい、帰宅ラッシュが始まる少し前の空いた電車の座席に並んで座った。気がつけば日常の一部になってしまった光景だ。

 無言で電車に揺られていると、里奈が話を切り出した。

「今日の面接はどうだったの?」

「未経験でも覚える気があるなら歓迎するってさ」

「へえ、良かったじゃない!」

 里奈は将也に体ごと顔を向け、目を輝かせる。心から喜んでいるようだ。

「ありがと。……ちょっと話したいことがあるから、あっちについたら話す」

「……うん、分かった」

 改まった態度で里奈を見る将也に、里奈も笑みを引っ込め、頷いた。


 2人が最寄り駅に到着する頃には、空は暗くなり始めていた。

 歩き始めて10分ほど経つと、道路は相変わらず車の往来はあるものの、歩道の人通りは一気に少なくなる。駅前にはそれなりに商業施設はあるが、今将也の視界に入るのは住宅や小さなクリニックばかりだ。

「それにしても、この辺も昔とは少し変わったよね。あそこのコンビニはいつの間にか歯医者さんに変わってるし」

 里奈は視界で道路を挟んで反対側にある、明らかに昔はコンビニだったことが分かる歯医者が建っていた。本来ならコンビニ名が書いてある天井付近の看板照明は白く塗りつぶされ、窓は内側からフィルムが貼られて中の様子が見えないようになっている。

「そうだな……。この辺もあんまり変わらないようで、少しずつ変わっているもんな」

 将也は歯医者に向けていた視線を戻すと、

「里奈」

 名前を呼び、今度は里奈の顔を見た。

「うん」

 将也の様子を見て電車の中の続きだと分かったのだろう。凛としていつつも、どこか儚さを感じさせる里奈の目が将也に向けられる。

「この前は済まなかった」

 将也は短く謝罪したものの、

「この前?」

 何の事か分からなかったのか、里奈は首を傾げ尋ね返した。

「その、うっかり巧に今一緒に住んでると話してしまったせいで怖い目に遭わせてしまったから」

「ああ」

 里奈は合点がいったのか口元に笑みを浮かべると、

「私もまさか巧がストーカーだなんて思わなかったし。仕方ないよ」

 将也を流し目で見て笑う。

「ああ、悪いな」

 前々から自分がうっかり口を滑らせてしまったせいで、里奈の居場所を巧に明かしてしまい、里奈を怖い目に遭わせてしまった事を謝らなければと思っていた。しかし、将也が言いたい事はそれだけではなかった。

「……里奈」

 将也は言葉を詰まらせたものの、立ち止まって里奈の顔を見据えると、

「急に一方的に別れを告げてしまってすまなかった」

 頭を深々と下げた。

 里奈との関係も、このままにはしておけない。前に進まなければならない。

「あ、その……うん。とりあえず、頭を上げて。歩きながら続きを話そうか?」

 弱ったように髪の毛を触りながら言う里奈に、将也は頭を上げると再び肩を並べて歩き始めた。

「……私ね、将也から一方的に直接会いもせずに『お前とは別れる』ってメッセージを送りつけられてからしばらくは、将也の事を許せなかった」

「……すまん」

 将也は視線を落としながら言った。

 2人は将也が別れを切り出す直前まで、特段仲が険悪になっているというわけでもなかった。実際は将也は劣等感を押し殺しながら里奈と会っていたのだが、傍から見ると何も問題ないカップルに見えていた。よって里奈もそう思っていたはずだ。

 そんな状態でいきなり別れるなんて言われた日には許せないのは当然のことだ。

「私は将也のことを本当に愛してたから……必要としていたから、急に将也が目の前からいなくなっちゃって、どうしたらいいか分からなくなったし、もう何もしたくなかった」

 里奈は当時のことを思い出しているのだろう。暗い表情を浮かべ、肩に掛けているバッグの紐を強く握った。

「だけど、それでもせっかく掴んだ声優の仕事はやめたくなかった。辛かったけど、将也を吹っ切るために目の前の仕事を必死で頑張っていたら、いつの間にか人気声優になっちゃってたんだよね」

「……」

 将也はふさわしい言葉が思いつかず、黙って里奈の話を聞くことしかできなかった。もし、自分が里奈と別れなければ、ここまで里奈が人気声優になることはなかったかもしれないが、それは怪我の功名でしかない。結果はどうあれ、里奈に対して不誠実だったことは揺るぎない事実だ。

「そしたら無意識のうちに『これで将也を見返せる!』って思っちゃってて……その時に気づいたんだ。根暗だった私を引っ張り上げてくれた、私の殻を破ってくれた将也の事をまだ好きなんだって。一時期は憎くてたまらなかったのにね」

 自分の大切な宝物について話すように、里奈は微笑を浮かべながらゆっくりとした口調で言う。

「里奈……」

 将也が里奈と再会した時、昔より遥かに自分に自信を持っているように見えた。だが、それは1人になってしまった里奈が生き抜くために必死で努力した結果得た賜物であって、里奈は今でも昔の里奈のままなのだ。

「知ってる? 私、将也と別れた後誰とも付き合ってないんだよ? 最初はそんな余裕がなかっただけだけど、今はね……まだ将也のことが好きだから。将也は……あ、ムリか」

「ふん、うるせぇ」

 真剣な話から急に軽口を叩いた里奈に将也も軽いノリで応えると、

「……俺もずっと里奈のことは好きだった。いや、嫌いになったことなんて一度もない」

 照れくさくて里奈の顔を見ることはできなかったが、改まった態度で断言する。

「じゃあどうして一方的に別れを告げたの?」

 好きだったのになぜ別れを告げたのか。里奈が疑問に思うのも当然だ。将也は自分の頭の中を整理しながら話し始めた。

「だけど、里奈に対して抱く劣等感は別だった。俺は何の成果も出ずに養成所をやめてしまったのに、里奈は着実に声優としての道を歩み始めていた。里奈に会う度に、自分が惨めになってしまって苦痛で仕方がなかったんだ」

「あっ……」

 里奈は目を見開き、驚きの声を漏らすと、

「確かにこんな役をもらった~とか、よく話してたよね。ごめんなさい。私も、将也を苦しめてたんだね」

 弱々しい声で言いながら表情を曇らせた。

「いや、それはもういい。巧を見てて思ったんだ」

「巧を?」

 急に巧の名前が出てきたことで、里奈は頭を傾げる。

「新しい人生のスタートを切ることができた巧でも、結局劣等感に苦しんでいた。そう簡単になくなるものじゃないんだ。だから、これからも付き合っていかなきゃいけない感情なんだよ。なのに、里奈を今でも好きなのに、劣等感を理由で里奈を遠ざけるのはつまらないことなんじゃないか、って思ったんだよ」

「うん」

 里奈はただ一言で返しただけだったが、将也は分かっていた。里奈は何が言いたいかをすでに分かっていて、それを待っているから短く答えたのだと。

 将也は立ち止まり、里奈の顔を見つめる。

 里奈も将也に倣い足を止めると、胸の前で左拳を右手で包んだ状態で将也を見つめ返した。

 2人を包む空気が変わる。

「……少しでも、里奈の恋人にふさわしい男になれるよう頑張るから、また、やり直せないかな?」

 一度は別れてしまった。何度も後悔したけれど、仕方なかったのだと諦めてしまっていた。

 再会した後も、怖くて、自分に自信がなかった。だけど、前に進まなければ何も変わらない。変わらなければならない。そんな将也の決意が込められていた。

「…………うん」

 目尻から涙を滲ませながら頷いた里奈の表情は、将也に身覚えるのある、昔の里奈そのものだった。

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