裏切り
翌日。遥奈はいつもの公園で里奈に演技を見てもらっていた。
昨日のことがあってか、里奈の指摘は以前よりも厳しくなっていたが、自分のことを思ってるがゆえの厳しさだと思うとそれが逆に嬉しくて、遥奈はそれに応えるように食らいついていく。
気がつけばすっかり暗くなってしまっていた。
「ふぅ……今日はこのくらいにしておこうか」
里奈が表情を緩めながらため息をつく。
「ありがとうございました!」
遥奈は勢いよく頭を下げ、それにつられてツインテールも大きく動く。
以前よりもさらに『演じる』ということの理解度が上がったことを、遥奈は実感していた。
同時に声だけで演じることの難しさ、果てしなさも身にしみていたが、だからこそこれからも努力を重ねていこうと前向きに考えることができている。
「じゃあ、そろそろ帰ろっか」
「はい!」
2人並んで帰路につく。そのような場所にある公園だからこそ、周りの人に気兼ねなく練習できるのだが、公園からアパートまでは人通りも街灯もあまりなく、1人で歩くには少し心細い道が続く。
しかし今の遥奈は全く心細くない。里奈がいるおかげで心強いどころか、心弾んでしまい、それが表情に出てしまう。
「なんだか楽しそうだね?」
腕を大きく振り、見るからに上機嫌な遥奈に里奈が尋ねた。
「はい! こういう薄暗い道を歩いていると、なんだか前にお化け屋敷に行ったときのことを思い出しますね!」
「あ、うん、そうだね……」
目を輝かせる遥奈に対し、あまりあのときのことを触れられたくないのか、里奈は引きつった笑みを浮かべ、そこで話題を打ち切った。
しばらく2人は無言で歩き続けていたが、不意に里奈が立ち止まり、後ろを振り向いた。
「あれ? どうしたんですか?」
遥奈も立ち止まり後ろを振り返るが、特に何もない。
「何もないですよ?」
遥奈が横に立つ里奈の顔に視線を向けると、何もないどころか、何かに怯えているかのようにこわばっていた。
「誰か……いる」
「いくら人通りが少ない道でも、そりゃいますよ」
「そうじゃなくて……つけられてる」
里奈のこの様子はただ事ではない。
「どういうことですか?」
遥奈が尋ねると、
「私、少し前からストーカー被害に遭ってて……だから将也の家に置いてもらってたのに……どうしてここが」
夜になっても汗をかくほど暑いというのに、里奈は寒そうに体を震わせる。
「……気のせいじゃないですよね?」
そんなことがあれば神経質になってしまうのも分かるが、勘違いの可能性もある。遥奈は念の為尋ねた。
「私もそう思いたいんだけど……でも、さっき後ろを振り向いたときに……いたの。物陰に隠れる人影が」
里奈は両手で自分の肩を抱き、背中を丸めた。
「わかりました。とりあえず、ストーカーを撒かないと……」
ストーカーが近くにいると思うと、遥奈も怖くてたまらなかったが、今里奈を守れるのは自分しかいない。恐怖心を押し殺して辺りを見渡していると、いいタイミングでタクシーがやってきた。遥奈がタクシーに向かって手を上げると、遥奈たちの前で止まり、ドアが開く。
遥奈は里奈と共に後部座席に乗り込むと、ドライバーに遠回りしてアパートから少し離れた場所に向かうように告げた。
30分後。
将也がベッドの上で求人アプリを眺めていると、
「朝倉さん、大変です!」
部屋に足音と同じく慌てた様子の遥奈が入ってきた。それに里奈が続く。
「なんだよそんなに慌てて?」
2人のただならぬ様子に将也は上半身を起こすと、大きなあくびをした。
「三代さんのストーカーが、家の近くにいたんです!」
「なんだって?」
将也はベッドから飛び出した。
「今日も公園で遥奈の演技を見てたんだけど、帰りに誰かにつけられてる気配がして、後ろを振り返ったら……」
怯えからか、里奈は両膝をくっつけ、体を縮めており、顔色も悪い。
「タクシーを拾ってわざと遠回りしてもらったんですけど、もしかしたらもうここに三代さんがいることを知ってたから公園近くにいたのかもしれません」
遥奈は不安そうに床に視線を落とす。
「一体どうやってここを突き止めたんだ?」
将也の家は里奈の自宅からは離れている上に、送り迎えをするときは注意深く辺りを確認していた。自宅まで着いてこられるはずがない。どうやって里奈の居場所を突き止めたのか将也には見当がつかなかった。
しかしこれはチャンスだ。まだ近くにいるのなら、捕まえることができるかもしれない。
「八雲協力してくれ。ストーカーを捕まえるぞ」
将也は先を歩く遥奈と里奈を遠くから見守っていた。昔使っていたランニングウェアを身につけ、ランニング途中に見えるようにカモフラージュしている。
考えた作戦はこうだ。将也の家の周りには、一見通り抜けられるように見えて実は行き止まりになっている道がいくつかある。将也はそこに追い込むことにしたのだ。
時刻は21時。若干駅から離れているため、この時間でもすでに人気はない。
2人にはおしゃべりをしながら夜の散歩を楽しんでいる体で適当に歩き回ってもらいながら、ストーカーをおびき出してもらっている。そしてストーカーの姿を認め次第、将也と同じくらい家周辺を知っている遥奈に突き当たりに誘い込んでもらう作戦だ。
まさかストーカーがこちらにやってくるとは思ってもみなかったが、地の利はこちらにある。今晩必ず捕まえる。将也は心の中で決意を固めた。
だが、もし今日捕まえることができたら、里奈はやはり家を出ていってしまうのだろうか……。その先の事を考えることに恐怖にも似た感情を抱き、将也は思考をそこで止めた。
「三代さん、本当に大丈夫ですか?」
隣を歩く遥奈が気遣うように里奈に声をかける。
「うん、大丈夫。将也もいるし、隣に遥奈がいるからね」
里奈は遥奈を心配させないよう、意識して明るい声で答えた。
本音を言うと、近くに自分のストーカーがいるというだけで怖くてたまらないのだが、1人ではないと思うと多少は気持ちが楽だ。それに将也の言う通り、ストーカーを捕まえるチャンスなのだ。家で震えている場合ではない。
「私がもうちょっと背が高ければ、三代さんの影武者をやれたかもしれないのに……今は自分の体の小ささを呪いたいです」
本気で考えているのか、遥奈は弱々しい声でうつむきながら言った。違うところは自分より遥かに大きい遥奈がそんなことを言うものだから、里奈はつい苦笑を浮かべてしまう。
「大丈夫。遥奈を危険な目に遭わせるわけにはいかないし、こうやって一緒にいてくれるから心強いよ」
「三代さん……今が真夜中でなければ大声で喜んでいるところです」
遥奈は体の内側から湧き上がる感情を抑えているかのように真顔だ。
「あ、うん。そう……なんだ」
里奈は妙なところで常識があるのだなと引きつった笑みをうかべつつ、心の中でツッコミを入れた。
遥奈と最初に会った時は変な子だなと思っていたが、自分を慕ってくれるし、良すぎるくらいの元気さに触れているとこちらも元気になってくる。里奈には今まで親しい友人があまりいなかったが、きっと親友ってこういう存在なのだろうな、とそんなことを思う。
「三代さん……」
スマートフォンを手にした遥奈が硬い表情で里奈の顔を見た。
里奈は遥奈の言いたい事を察し、頷く。
将也はストーカーらしき人影が見えたら遥奈にワン切りすると話していた。つまり、今後ろにいる、ということだ。
身体がこわばり、呼吸が荒くなってくる。里奈は落ち着くために大きく呼吸を一度した。
「そこの角を曲がったところなんですが、先があるように見えて実は行き止まりなんです。そっちに誘導しますね」
細心の注意を払っているからか、里奈がギリギリ聞き取れる声で遥奈がささやき、里奈は悟られないように目だけで遥奈に応えた。
2人は角を曲がり、そのまま道を進んでいく。遥奈の言う通り、道の先は入れないように柵が立てられた売地に続いていた。左手は線路、右手はマンションの高い塀があり、逃げ道はない。
いる。里奈は背中から気配を感じ取った。誰かが自分たちを付けている。ギリギリまで引き付けなければ逃げられてしまうと分かっていても、将也早く来て、と思わずにはいられない。
そして2人がついに売地の柵の前に来た瞬間。後ろで誰かが駆け出す気配が聞こえたかと思うと、男同士が揉めている声が聞こえ始めた。当然里奈は片方の声には聞き覚えがある。将也だ。
先に後ろで揉めている将也とストーカーに視線を向けていた遥奈に続き、里奈も恐る恐る振り返った。
薄暗い街灯の下で、将也は男に向かって掴みかかった。
肩に力を入れ、男を地面に押し倒そうとするが、思った以上の力で抵抗され、思うようには行かない。男はフードを深く被っていて顔がほとんど見えず、身長は将也より少し低いくらいで、体型は少し太り気味くらいだ。
男は必死に体を動かして将也を振り払おうとするが、逃げられるわけには行かない。将也は全身を使って押し止め、男を地面に押し倒す機会を伺う。
だが、想像以上に男の抵抗が強く、このままでは逃げられてしまいそうだ。
「おとなしくしろ!」
男に向かって怒鳴り声を上げて威嚇する。
次の瞬間、男は前触れもなく将也の腹に向かってパンチを放った。
「ぐぁ……」
激痛のあまり将也の口からうめき声が漏れ、自分の意思とは関係なく、体が崩れ落ちていく。
男は将也を振りほどくと、脇目も振らずに走り始めた。
とっさに将也は「待て」と声を出そうとしたものの、出たのはうめき声だけだった。
このままでは逃げられてしまう。なんとしても、ストーカー男を捕まえなければ。里奈がこれからも安心して声優を続けられるように、奴を捕まえて里奈を安心させてやらなければならないのに。里奈に助けてもらってばかりで、何もできていない自分が何かしてやれるチャンスだったのに。
将也は必死に体を動かそうとするも、体は意思を無視して崩れ落ちていき、地面に倒れ込んでしまった。
腹を殴られると、頭を殴られたときのように気を失うことはなく、はっきりとした意識の中で激痛に苦しむことになる。将也が地面に倒れ込んだまま痛みと無力感に苛まれていると、何者かが走り出し、逃げる男に駆け寄っていった。遥奈だ。
遥奈は驚くべき加速力で男に追いつくと、背中に向かって飛び蹴りを放った。
「うぉっ!」
男はそのままうつ伏せに倒れ、遥奈は手早く男に馬乗りになると、腕を締め上げた。
「あだだだ!」
男は苦痛の声を上げる。
遥奈は一体何者なんだ。そんなことが将也の脳裏によぎったものの、今はそれを考えている場合ではない。
腹を押さえながら起き上がった将也は男の元に歩み寄り、フードを剥ぎ取ると、男の髪を掴んで首を起こした。
「う、嘘だろ……?」
自分の目に映るものを将也は信じられなかった。他人の空似だと信じたかった。しかし、どう見ても巧本人だ。
「巧……だよな?」
腹に走る痛みを忘れ、将也は巧に尋ねた。
「えっ、知り合いなんですか?」
遥奈もまさかストーカーが将也と顔見知りの男だったとは夢にも思わなかったのだろう。腕を締め上げたまま、驚いた表情で将也の顔を一瞬見た後、巧の頭に視線を落とす。
「……」
巧は何も答えようとせず、ふてぶてしい表情で将也から視線をそらした。
「将也」
離れた所にいた里奈がいつの間にか恐る恐るといった足取りで3人の元に近づいてきていた。組み伏せられているとはいえ、やはり怖いのだろう。左拳を右手で掴み胸元に持ってきており、不安そうな表情を浮かべている。
「嘘……? 巧……なんで……」
里奈もストーカーが巧だということに気づいたのだろう。目を丸くして固まり、
「くっ……」
里奈にも顔を見られてしまったことで流石に観念してしまったようだ。巧は諦めた表情で視線を地面に落とした。
「何でこんな事をしたか話してくれるか」
このまま直接警察に引き渡してしまうことも考えたが、やはり巧がなぜこんな事をしたのか聞かなければならない。将也が尋ねると、
「……話すから離してくれ」
巧は素直に従う態度を見せた。
「八雲、離してやってくれ」
「いいんですか?」
遥奈は巧を解放することにあまり乗り気ではないように見えたが、「大丈夫だ」と将也が答えると、ゆっくりと巧から手を離して距離を取る。
巧は頭を前に倒したまま体を起こすと、地べたにあぐらをかいた。巧の前に将也が立ち、その後ろに里奈。そして将也の反対側に遥奈という立ち位置だ。
将也の知る巧は、小学校のクラスに1人はいるお調子者がそのまま大人になったような性格で、ストーカーをするような男ではない。
本当にそうだったら悪い冗談だなと思いつつも、これは何かのドッキリで、下を向いているのは笑いをこらえているからなのではと思わずにはいられなかった。しかし、腹にまだ残る痛みがドッキリではないことを教えてくれる。
「それで、どうしてこんな事をしたんだ?」
将也はうつむいたままの巧に尋ねた。健史がやるなら少し分からないでもないが、婚約者までいて順風満帆に見える巧がこんな事をする理由が思い当たらない。
「……」
巧は無言だったが、答える気がないと言うよりは、どう答えてたものか悩んでいるように見える。
「……俺は」
沈黙の後、巧がようやく口を開いた。
「前から里奈が好きだったんだよ」
「えっ……?」
まさかの事実に、目を丸くした里奈が声を漏らす。
「将也さ、俺のことどう思ってる?」
「……どういうことだ?」
巧の質問の意味がよくわからず、将也が尋ね返すと、
「人生楽しそうかってことだよ」
いらついているのか、若干口調に棘がある。
「そうだな。新たな道を見つけて、婚約者までいて、正直羨ましいなって思うよ」
将也は忖度なしの正直な気持ちを巧に伝えた。
「フン」
巧は鼻で笑うと、
「俺もそう思い込みたいから、他人から見てもそう見えるのかもな」
顔を上げて遠い目で上空を見つめ、そしてまた首を戻すと、滔々と語り始めた。
「声優の道を諦めてから、今までの自分を無かったことにしたかった俺は、全く関係ない業界の今の会社に就職した。同じ年の社員に比べて遅れているから、一生懸命働いて、おかげで社長に気に入られて事務の子との間を取り持ってくれた。……だけど、なんで俺は里奈や健史のように才能がなかったんだろう、俺には何が足りなかったんだろう、っていう苦しみは消えることがなかった」
それを聞いた遥奈は苦しそうに表情を歪める。巧と遥奈は初対面だが、声優を目指している者として巧の気持ちがよく分かるのだろう。
里奈もいたたまれない様子で話の続きを待っているのか、巧に視線を向ける。
「テレビやネットで夢を叶えた里奈や健史を見かける度に羨ましくてたまらなくて、俺は何なんだって惨めな気分になってた」
巧は顔を上げると、
「だからさ、もっと惨めなことになってる将也を見てると『ああ、俺はまだマシなんだな』って思えるから俺はお前と仲良くしてたんだよ」
開き直ったような笑みを浮かべ、将也を見た。
「……!」
将也は巧とは友達だと思っていた。言い方は悪いが、夢に破れた者同士として親近感を抱いていたし、巧が定期的に飲みに誘ってくれることは、退廃的な毎日を送る将也にとっては数少ない楽しみの1つだった。
しかし巧は「俺のほうがまだマシだ」と劣等感をごまかすために将也と付き合っていたのだ。
だが、そんな事実を聞かされても将也の心の中で最初に湧き上がった感情は『悲しみ』だった。
「……それと里奈をストーカーしてたことに何か関係があるのか?」
将也は湧き上がる感情を抑え、巧に淡々とした口調で尋ねる。
「俺がオフィス用のメーカーで働いてることは知ってるだろ?」
「ああ」
それに何の関係があるのかと思いながら将也は相槌を打つ。
「ある日スタジオに營業に行ったときにさ、里奈を見つけちゃったんだよ」
「もしかして……」
巧が続きに何を言おうとしているのか分かったのか、里奈は表情を凍りつかせた。
「良くないとは思ったんだけど、気がつけば後を付けていた。思いを告げること無く会うことはなくなっちゃったし……里奈を困らせてやりたかった」
巧は絡ませていた両手の力を強める。
巧は完全に過去を吹っ切り、新しい人生を歩み出せているのだと将也は思っていた。だが、実際はそれどころか犯罪にまで走ってしまうほど増幅した劣等感を抱えていたのだ。巧のしたことは当然犯罪だが、同じように劣等感と挫折で堕落した日々を送ってしまっていた将也には、同情の念を抱かずにはいられなかった。
「本当は、里奈の姿を急に見かけなくなってしまってから、もう潮時だなってやめるつもりだったんだ。だけど、将也と一緒に住んでるって聞かされたらいてもたってもいられなくて……このざまだ」
巧は自嘲的に笑ったものの、すぐに改まった様子で、
「もちろん、虫がよすぎる話だとは分かっている。だけど、この通りだ。警察だけは勘弁してくれ。それでもやっぱり、今の仕事や婚約者を失いたくないんだ。頼むよ……」
額を地面に押し付け、土下座をした。
相手は将也にとって親友だと思っていた男だ。手心を加えたくなる。だが、本来ならば警察に突き出すべきなのだろうし、許すかどうかは将也ではない。里奈だ。
将也は立っている里奈に視線を送り、判断を促す。
「巧、頭を上げて」
里奈が巧の近くに歩み寄ると、巧はゆっくりと頭を上げ、里奈の機嫌を伺うような目で里奈を見る。
「警察沙汰にはしないから、もう、二度と私の前に現れないで」
冷たい声で、単刀直入に言い放つと、
「……分かった」
巧はよろめきながら立ち上がり、将也たちと視線を合わせようとせずに立ち去っていった。
「……」
将也は巧が見えなくなった後もしばらくは巧が去っていった方向に視線を送り続け、里奈と遥奈もなんとも居心地悪そうにあちこちを見回していた。
もし顔も名前も知らない奴がストーカーだったなら、警察に突き出して万事解決だっただろうし、こんな空気になっていないだろう。
将也はストーカーを捕まえた代わりに、親友を失ってしまった。もとから親友ではなかったと言われればそれまでだが、どんなことでも真実を知ることが正しいとは限らない。騙されたままの方が幸せなことだってあるのだ。
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