プロフェッショナル
将也と健史が焼肉屋で巧のお祝いの席で揉めてしまった日の夕方。
遥奈は養成所でのレッスンを受けていた。男女比半々の10人ほどのクラスで、講師は遥奈も聞き覚えのある作品に何本か出演していた、ヒゲが特徴的な40代後半の湯村という男性声優だ。レッスンは1回3時間。
「教えてもらう場ではなく、常に発表の場だと思いなさい」
今の講師が最初に全員に向かって言った言葉だ。実際、人数的にマンツーマンというわけには行かないので、前回指摘されたところを次で自分なりに直し、再び指摘を受ける。というのが基本的な流れになる。
レッスンスタジオがあるのは電車で30分、徒歩で10分のところにある雑居ビルだ。ワンフロアをまるまる貸し切り、フロアの8割をスタジオ、2割を事務室として使用している。
レッスン後着替えを終え、ビルを後にしようとしたところで事務室から出てきたスタッフに珍しく声をかけられた。
「八雲さん、少し時間大丈夫ですか?」
遥奈に話しかけてきたのは、推定30前半と思われる上田というスタッフだ。いつも長い髪の毛を後ろでまとめ、上下とも黒のパンツスーツを着ている。低い声で、語尾まではっきりと話すのが特徴的だ。
「はい、大丈夫です」
「ちょっと話したいことがあるので、事務室まで来てもらえますか?」
「……? 分かりました」
遥奈は上田に続いて事務室へ足を踏み入れた。ぱっと見は声優のポスターが壁に貼られていたり、声優関係の雑誌が置いてある以外は、その辺の会社のオフィスと何も変わらない。
とは言ったものの、遥奈は普段事務室に入ることはあまりないので、つい物珍しさから部屋の中を観察してしまう。
「奥の席にどうぞ」
遥奈は事務室の奥にある、パーティションで区切られただけの小さな応接スペースに通され、遥奈は自分が呼び出された理由を考えながら腰を下ろした。
真面目にレッスンを受けているから態度が悪いわけでもないし、月謝はこの前振り込んだばかりだ。何のために呼び出されたのかさっぱり分からない。
いや、本当はもう一つある。見込みがあると判断されて講師から推薦を受けると、ちょい役で仕事をする機会があると以前上田が全員に向かって話していた。だから、自分もそれに呼ばれたのではないか。自分なんてまだまだだからそんな事は無いとわかっていつつも、期待せずにはいられなかった。
上田は遥奈の反対側にある椅子に腰を下ろすと、机の上にクリップで束ねられた『マネジメント契約書』と書かれている紙を置いた。
それを見た瞬間、遥奈は心臓が一瞬大きく鼓動したのを感じた。事務局がドッキリなんてするはずがない。つまり、本当に自分が『それ』に呼ばれたのだ。
上田が話し始めていることに気づかず、遥奈はその契約書に見入ってしまった。
「……八雲さん?」
「あ、はい、すみません!」
完全に気を取られてしまった遥奈は、上田に名前を呼び出されていたことにやっと気づき、慌てて顔を上げた。恥ずかしさから顔が熱くなってくる。
「前に話をしたから、多分知ってるよね。ぜひ八雲さんに経験を積ませてあげたいって湯村さんから推薦があったの。簡単なセリフがあるだけなんだけど、やってみない?」
いつもは丁寧な言葉遣いの上田だが、なぜだかいつの間にかフランクな口調に変わっている。平常時ならば緊張を紛らすためだと遥奈も気づいたかもしれないが、今の遥奈にはそんな余裕がなかった。
もし自分にそのチャンスがあれば二つ返事で受ける。普段そう考えていたはずなのに、遥奈はすぐに首を縦に振ることができなかった。今までこうやって指導を受けてきたのは、声優になるためで、そして今自分は先へ進むためのチャンスを手にしようとしているのだと分かっているのにも関わらずにもだ。
小さな役だとはいえ、これは紛れもなく声優として仕事をするということだ。つまり、プロの世界に素人の自分が飛び込むということにほかならない。
そんなことはありえないと思いつつも、恐怖から『断る』という言葉が遥奈の脳裏をよぎる。
「……あの、これって今この場で決めなくちゃダメですか?」
この場で決められないなら他の人にやってもらう、と言われないことを願いながら遥奈は恐る恐る尋ねた。
「今すぐじゃなくてもいいけど、明日の午前中までには返事が欲しいかな」
「分かりました。明日の午前にまでに必ず連絡します」
思ったより短かったけど、午前までなら十分だ。遥奈は立ち上がり上田に頭を下げると事務室を後にした。
遥奈がビルの外に出ると、空が暗くなり始めていた。きれいな夕焼けだ。青かった空の色は赤を経由して少しずつ灰色に近づきつつあり、陰になり黒く染まったビルは夕日が眩しくてうずくまっているかのようだ。
ふと里奈から地元の風景を話してもらったときの事を思い出し、いつの間にか空を眺めていた。
視界に入るのは、ビルや陸橋のような無機質なものばかりで、山なんてどこにも見えない。だが、ビルでも夕日に照らされているとこれはこれで安心するのは、自分が都会の生まれだからだろうか。そんなことを考えてしまう。
いけない、帰らなきゃ。
遥奈が駅に向けて歩き出そうとすると、ビルの前でたむろしていた同じクラスの受講生の1人から「遥奈ー。事務室に呼ばれてたけど、何かあったの?」と尋ねてきた。
「あっ、えっと、先月の月謝を忘れちゃって」と作り笑いを浮かべつつウソを答え、
「じゃあ、またね」とアニメの話で盛り上がる彼女たちに背を向けて歩き出した。
ここにいる全員はライバルだ。ああやってまるで友達のように話したくなる気持ちも分かるし、実際楽しい。
以前は遥奈も彼ら彼女らに加わって立ち話をしたり、ファミレスでおしゃべりをしていたが、今はそんな時間があれば今日の復習をしたい。こうしている間も、まだ見ぬライバルはめきめきと実力をつけていっているかもしれない。こう言ってはなんだが、馴れ合いをしている時間はないのだ。
その日の夜。遥奈は家に里奈を招いていた。
以前と同じように里奈にはローテーブルの前に座ってもらい、夜にカフェインは良くないということでこれまた里奈の好物であるナタデココジュースを2缶冷蔵庫から取り出し、テーブルに置く。
「どうぞ。キンキンに冷やしてあります」
「ありがと……って、これ好きなのやっぱり知ってるんだね」
「当然です」
若干引き気味の笑顔を見せる里奈に、遥奈は自慢気に笑う。
「いただきます」
里奈はよく振った缶を開けて一口飲むと、ナタデココの食感を味わうように咀嚼し、飲み込む。
「うーん、おいしい」
「このナタデココにしかない、程よい弾力がいいんですよね!」
遥奈もナタデココを飲み込むと、以前里奈がラジオで話していたことを、本人に向かって語りかける。
「ホント、相変わらず私のことに詳しいね……」
里奈は苦笑を浮かべ、軽く缶の底を回すように揺らしてまた一口飲む。こうしないと飲みきったときに底にナタデココのかけらが残ってしまうのだ。
遥奈は以前より里奈の反応が小さいことに寂しさを覚えつつも、話を切り出した。
「あの……三代さんに相談があるんですけど、聞いてくれますか?」
「うん」
おちゃらけた態度ではなく、真剣な表情で言う遥奈に、里奈も真顔で応える。
「……実は、講師推薦でちょい役なんですが、何かの作品に出られることになったんです」
「えっ、すごいじゃない。おめでとう! やっぱり私のおかげかな?」
それを聞いた里奈は目を丸くし、自慢気に胸を張る。
公園での一件以来、遥奈は時間があれば里奈に演技を見てもらうようになっていた。遥奈の吸収力は並外れたもので、感覚的な里奈の指摘も見事に自分の演技に落とし込み、回を重ねるごとに、元から実力があった遥奈は更に劇的に成長していたのだ。
「だけど、ちょっと迷ってて……事務局には考えさせて下さいって答えました」
「……? どうして?」
本来なら喜ばしいことのはずなのに、遥奈があまりうれしくなさそうな態度をとっているためか、里奈は首を傾げ、低い声で探りを入れるような様子で尋ねる。
「三代さんは、初めて声優の仕事をしたとき、怖くなかったですか?」
「……そうだね。私も収録前日の夜は不安で全然眠れなかったな」
里奈は何かを察したように優しい声で言った。
自分だけではなく、人気声優の三代里奈も最初は怖かったという事実に、遥奈は安心感を抱きながら質問を続ける。
「やっぱり三代さんも最初は怖かったんですね。それで、いつ頃から怖くなくなったんですか?」
「んー、今でも怖くて逃げ出したくなることはあるかな」
「えっ……」
それが当たり前のように答える里奈に、遥奈は耳を疑った。今でも……怖い?
「本当ですか? 私をからかってるんじゃないですよね?」
信じられなかった。里奈ほどの人気声優が未だに怖いはずがない。
「本当にそう思ってるなら、私を買いかぶりすぎ。ベテランに囲まれた現場なんて胃が痛くなってくるし、今でも収録前日は上手く演じられるか不安で、何度も何度も台本を読むし、もう次は呼んでもらえないかも、っていつも思いながら収録に挑んでるよ」
里奈は遥奈の目をしっかり見ながら答えた。その態度には遥奈をからかいたい、ごまかしたいという意思は全く感じられない。
「……やめたくなったりしないんですか?」
どんな答えが返ってくるか何となく想像がつきつつも、遥奈は尋ねずにはいられなかった。
「そりゃ何回もあるよ」
里奈はフッと笑い、遥奈が相談を始めてから一度も飲んでいなかったナタデココジュースをひと口飲むと、
「だけど、やめたくなる以上に楽しいんだよね。プロのクリエイターが作ったキャラクターはみんな個性的で、演じている間は自分とは全然違う存在になれる。その瞬間が本当に気持ちよくて……次はどんなキャラを演じられるんだろう、って思うとやめたいなんて気持ちは吹き飛んじゃうかな」
そうやって目を輝かせながら話す里奈に、遥奈は見とれてしまっていた。大好きな三代里奈はという自分が思った以上に完璧な存在ではないけど、声優という仕事に誇りを持っていて、声優という仕事を心から愛し楽しんでいる。
なんてまぶしい人なんだろう。遥奈は中途半端な気持ちで声優を目指そうとしている自分が恥ずかしかった。
「そんな風に考えられるのってすごいですね。だけど、私にはできなさそうです……」
しかしそんな里奈のようにはなれる気がしないという無力感から、遥奈は視線を落とし弱々しい声で言った。
「そんなことないよ。遥奈はある意味私より上だから」
「え?」
頭上から聞こえる声に、遥奈は思わず頭を上げる。
「私は遥奈みたいに養成所時代に仕事をもらえたことはなかったからね」
「……そうなんですか?」
里奈ならばきっと養成所時代から仕事をする機会があったと思っていたから、信じられなかった。
「だから私よりきっと才能がある! 自信を持って!」
里奈はグッと拳を握り、笑顔を浮かべた。
「そうなんですかね……」
やはり里奈ほどの声優でも不安を抱えているという事実を聞かされると、自分に才能があると言われたところで不安は消える気がしない。
2人の間に沈黙が訪れる。
里奈は肩が上がって下がるほどの大きいため息をつくと、
「ま、本当は上手くいくか分からないんだけどね」
先程まで遥奈を励ましていたのが信じられないような興味なさそうな態度で、今までの発言の真逆の事を言い放った。
「どっ、どういうことですか?」
遥奈は里奈の変貌具合に混乱してしまい、戸惑いながら尋ねた。さっきまで自分を励ましてくれていたと思ったら、急に突き放すような態度。まさか自分は愛想を尽かされてしまったのだろうか?
「同時期にデビューした、私より遥かに上手いって思ってる人がいたんだけど、その人は仕事をもらえなくなって、最後は引退しちゃった。声優業界は、そんなことが当たり前のようにある世界なんだよね」
「……」
遥奈は言葉が見つからず、黙って里奈の話の続きを待つ。
「ちなみにその人の引退を決断させたのは多分私」
「どういう……ことですか?」
深堀りしないほうがいいんじゃないか。そう直感的に思いつつも、唾を飲み込み、尋ねる。
「これで役をもらえなかったら引退するつもりで挑んだオーディションで、私がその役を取っちゃったから」
遥奈はその日一番のショックを受けた。もちろん、声優業界は厳しい世界だという事は分かっている。それでも、里奈もそうやって容赦なく他人を蹴落とせるという事実には、やはり動揺せずにはいられなかった。
「まあ、そんな世界なの。ちょい役くらいで怖がるなら仮に声優になれたとしても、長くは続けられないだろうし、今のうちに気づけてよかったんじゃない?」
里奈はそう言うとまたナタデココジュースを飲み、テーブルに缶を置く。軽い音が鳴り、中身が空になったことが分かる。
「……それが三代さんの本音ですか?」
体は言葉を発することに抵抗しているが、何とか声を絞り出す。
遥奈は里奈の態度の変化の理由をなんとなく察した。最初の辺りまでは自分を励ましてくれていたけど、途中から変に励ますよりは真実を話したほうがためになると判断したのだろう。
「うん。そうだよ。自分の覚悟が足りな……」
「私のことを思って、言いづらい事をビシっと言ってくれるなんて感動です! これで覚悟が決まりました。私、がんばりますね! ああ、それにしても声優業界の厳しさを語る三代さんカッコよすぎです。……やはり良心を捨てて盗聴器でも設置しようかな」
里奈が全部を言い終える前に遥奈は身を乗り出すと、反対側に座っている里奈の手を取り、目を輝かせながら異様なテンションで里奈にまくし立てたかと思うと、不穏な独り言をつぶやき始めた。
突如ハイテンションになってしまった遥奈に引いてしまったのだろう、
「あ、うん、頑張ってね……」
里奈はひきつった笑顔を浮かべる。
ついいつものノリでおちゃらけた態度を取ってしまっていたが、遥奈は内心では里奈に感謝していた。
本当に相手のことを思っていなければ、厳しいことなんてなかなか言えない。大切な相手だからこそ、その一言で関係がギクシャクしてしまったとしても、心の中に留めずに言う。
里奈がそこまで自分のことを思ってくれているという事実が、嬉しくてたまらなかった。
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