夜に啼く

七四六明

夜に啼く

 さようなら。


 その一言と共に、暮林くればやしゆうはこのフェンスから飛び降りた。


 初めて出会った日から支え合った君。

 毎日虐められる苦しみを分かち合い、耐え続けていた君の目が、もう堪え切れないと泣いていた事に気付いた時には、君はもう決意していた。


 手術室の前。祈り続けるだけの耳に届く時計の秒針の刻む音が、不安を煽る。

 同時、普段から言われ続けて来た心無い言葉の数々が、僕――朝野あさの雲雀ひばりの中に、暗い暗い夜を齎した。


「手術は成功しました。もう命に別状はありません……後は意識が戻るのを待つだけです」


 医師の言葉に、彼女の両親は涙する。


 だが、それがどうした。


 彼女は自ら命を絶とうとしたのだ。

 原因を絶たねば、彼女はまた同じ事をする。そして自分は、その原因を知っている。


 自分の事なら我慢もしたが、唯一の友達が未遂までして、我慢など出来ようか。

 沸点はすでに振り切った。


 夜の帳が降りる。

 闇に感情が溶けていく。

 振り切れた心は体を突き動かし、夜の街を駆けて、彼らの下へと速やかに運んで行った。


「なぁ肥留間ひるま、良かったのか? あの女逃がしちまって」

「そうだ。もしも警察サツに行かれでもしたら、ちょっとマズくねぇか?」


 男は肥留間一豊かずと


 ある会社社長の御曹司と生まれ、世界でも半数もいない異能持ちとして覚醒した。

 丸々と肥え太った巨漢から繰り出すパワーと、大地を操る異能。そしてバックにある財力で、あらゆる相手を服従させて来た。

 絵に描いたような、悪御曹司おぼっちゃまだ。


「構わねぇ。いざとなれば揉み消せばいい。それにそもそも、あいつにそんな度胸はねぇよ。ま、せっかくを教えてやろうと思ったのに、逃げるとは思わなかったが」


 ニタァ、と口角を歪ませて笑う。

 あまりにも憎らしく、決して他者に悪びれない邪悪な笑みを、友人らは辛うじて、苦笑で受け入れた。

 受け入れなければ、今度は自分が標的にされるとわかっているからだ。


「まぁいい。次だ、次。どうする? また女を探すか? それとも、そこら辺のオヤジでも狩るか? ん?」

「そ、そぉだなぁ……」

「おい、あれって……あさ、の?」


 言い淀んだのも無理はない。

 路地裏の暗闇の中だというのもあったし、何より髪の色が違っていた。

 日常的に殴られ、蹴られ、罵られ、水を被る黒い頭はそこに無く、白い頭の朝野雲雀が、黒い外套を纏った姿で現れたから、本人だと言い切れなかった。

 三人が確信を持ったのは、本当に近くまで彼が来た時だった。


 確信を持って、肥留間は笑う。

 でっぷりと太った腹を抱えて、呵々大笑し切った彼は、また頬の肉をタップリ歪ませて悪魔的嘲笑で笑ってみせた。


「何だよ何だよ驚かすなよ! 髪なんか染めちゃって、どうしたのかな? 朝のしごきが足りなかったか? 昼休みのパシリが足りなかったか? 放課後のサンドバッグが足りなかったか? ともかくかまって欲しいんだろ? なぁ、おい!」

「……暮林さんが、さっき自殺したよ」


 半分だけ嘘を交え、伝えてみる。

 反応は大体予想出来ていた。けれどせめて、予想を裏切って狼狽するなり、何かしら別の反応をして欲しかった。


 が、予想は悲しくもど真ん中で的中。

 狼狽したのは周囲の取り巻きだけで、肥留間は目に涙を溜めて笑っていた。


「そんな事を伝えに来たのか?! それで俺が改心すると思って?! まぁさぁかぁ!」


 ゲラゲラゲラゲラ。

 聞いていて良い事はない。

 腹の内側から焼け焦げるような感覚は、まさしく腸が煮えくり返る思いと言っていいだろう。


「俺が欲しかったのは従順な女さ! だがあいつは逃げた! そんな奴ぁ要らねぇ! そんな奴の事ぁ、俺には関係のない話だ!」

「人を、そこまで追い詰めておいて……関係ないって……?」

「あぁ関係ねぇよ! 関係なく出来るんだよ! 金と権力さえあれば、何でも出来る世の中なんだよぉ! なぁ朝野ぉ、あいつはどんな死に方したんだ?! 葬式はいつやるんだ?! なぁ、朝野ぉ!」


 さすがに、と取り巻きが制止しようとした時、先に朝野が弾けた。

 今までの肥留間と比にならないくらい笑い、笑い、笑い、大口を開けて笑った朝野は、項垂れて、頭を抱えたその手で顔を覆い、前髪を持ち上げて、見えている片目の虹彩を萎縮させ、奇怪な眼差しで目の前を睨んだ。


 風で震える外灯が、影の中に入った朝野の目を、赤茶色に見せる。


「羨ましいなぁ」

「は?」

「羨ましいなぁ……羨ましいなぁ……」


 今の今まで笑っていたのに、今度は一切笑わない。

 突然の変化の連続に、肥留間でさえ、今の朝野に対して気持ち悪さを隠せない。


「そんなにでっぷり太った体に、傷の一つもないんだもんなぁ。最低最悪な人間性を、お金と権力で揉み消せるんだものなぁ。異能持ちだからチヤホヤされてるだけなのに、自分が特別な人間って勘違いしちゃってるんだものなぁ。良いなぁ、羨ましいなぁ。ホント――死んでくれないかなぁ! どこかの通り魔に殺されてくれないかなぁ! 交通事故に巻き込まれてくれないかなぁ! 金目的の強盗に殺されてくれないかなぁ! その腹掻っ捌いて中に石ころ詰めて海に沈めて殺してやろうとか考える人間いないのかなぁ! ロードローラーで潰してどんだけの体液が出るかとか検証するマッドサイエンティスト的な何かに見いだされたりしないかなぁ! 死んで欲しいなぁ死んで欲しいなぁ、これ以上なく幸せなおまえに死んで欲しいなぁ! 自分が幸せだと勘違いしてるおまえに死んで欲しいなぁ! 早く死んでくれないかなぁ!」


 回る回る、呂律が回る。


 普段のたどたどしく言葉を紡ぐ朝野しか知らない彼らは、目の前で潤滑に舌を回し、おぞましい事をスラスラと言ってしまえる朝野の皮を被った何かに怯んだ。

 何だこのなぁなぁおばけは、何て普段なら返すところ、そんな軽口も叩けない。

 自分達を見る赤茶色の目が、今にも殺してきそうな勢いで睨んでいたからだ。


 唯一、肥留間だけは、普段との違いから怒りで震えていた。

 あまりにも具体的な表現の中に自分がそこまで憎まれていた事実を感じ、受け入れ難く、度し難く、今までの行いが生易しかったとさえ思えるほど残酷な仕打ちを考えている自分を、止める事は考えていなかった。


 自分が、朝野雲雀という男を真夜中に引きずり込んだなど、考えもしなかった。


「てめぇ……いい加減にしろよ朝野ぉ……てめぇがどんな願望を持ってようがなぁ……てめぇは金や権力以前に、異能さえ持ってねぇんだ!」


 踏み締めた衝撃で地面が揺らぐ。

 朝野の左右の地面が盛り上がって、左右から挟むようにして起き上がった。


「てめぇが潰れて死んでやがれ」


 死んだ。

 生きてるはずがない。


 一トン近い重量のコンクリートの塊に挟まれたのだ。

 抗いようがない。逃げようがない。救いようがない。


「な、何も殺さなくたって……」

「じゃあ俺が死ねってか? あ?」

「そうだよ。おまえが死ねって言ってるんだよ」


 潰れたはずだった。殺されたはずだった朝野がいた。

 肥留間の目の前に立ち、胸座を掴んでにじり寄る姿に、今までの臆する影はない。


「おまえが生きてても何も良い事がない。おまえに喰わせる残飯がもったいないしおまえに使う金がもったいないしおまえに使う時間がもったいない。おまえは暗い暗い夜の中、ずっと枕を濡らして寝てればいい。俺達の世界を知ればいい」

「何粋がってんだ、雑魚。まぐれで躱したからって――」

「虐められてる方の世界は、いつだって真夜中なんだ、闇なんだ。どんなに明るい場所に行っても暗いんだ。痛くもない、寒くもない、ただただ暗いんだ。そして眠ってしまいたくなるんだ。永眠してしまいたくなるんだ。おまえもそうなれって言ってるだけだ。いちいちブヒブヒ言ってんじゃねぇよ」

「んだとてめ――」


 暗い。暗い。

 何も見えない。何も聞こえない。何も感じない。


 いや、寒い。寒い。寒い。

 ひたすら寒く、冷たく、体の芯から凍えるよう。


 何処よりも暗い。何処よりも寒い。

 光は何処に。炎は何処に。


 寒い、寒い、寒い、寒い、痛い、痛い、痛い、痛い――痛い!


「ぁぁぁぁぁぁっっっ――!!!」


 その悲鳴さえ、他の誰にも届かない。

 周囲には、肥留間がただ体を仰け反らせて、大きく口を開けているようにしか見えておらず、悲鳴の一部さえ、聞こえてなどいなかった。


 が、取り巻きは感じ取った。

 肥留間の側に揺らめく朝野の目を見て、髪を見て、何となくだが察した。


「おまえ、まさか異能持ち……」

「大丈夫。君達も構ってあげるから」


 何が起こってるのかなんてわからない。

 が、目の前の肥留間の様子からして、良い事が起きてるなんて思えない。

 逃げようと背を向けた瞬間、目の前にいるはずのない朝野がいて、二人の顔を鷲掴んだ。


「大元が絶たれればもう関係ないって高を括ってたのかなぁ? 都合良過ぎるよなぁ。そんな訳ないのになぁ」

「ひっ――!」

「た、助け――」

「そう言って助けてくれた事、一度もなかったよなぁ……」


 真夜中は暗い。

 真夜中は寒い。


 虐められている方はいつだって暗かった。いつだって寒かった。いつだって痛かった。

 誰も助けてくれない。誰も救ってなどくれない。

 そうした真夜中の闇が朝野の髪から黒を奪い、異能の闇を生み出した。


 今宵初めて、能力を揮った。

 気持ち悪い。気持ち悪い。気持ち悪い。


 まだだ、まだ――


「夕。夕」

「……ひば、り?」

「おはよう、夕」

「雲雀、私……」

「大丈夫。もう、大丈夫だよ」


 自殺未遂事件から、三日目の朝を告げる日が昇る。


 朝のニュースにて眉間に皺を寄せたキャスターが、三日間の夜の間に起きた高校生連続昏倒事件の詳細を語る中、より詳しい詳細を聞いた暮林が涙した。


「馬鹿、馬鹿……! 私なんかのためにこんな事して! これじゃあ雲雀が、雲雀が……」

「それでも、例え俺がまた、闇の中に戻されるとしても、それでも、我慢出来なかったんだ」

「馬鹿……」


 二人は強く抱き合う。

 これから訪れる夜を予感して。それらの夜を抜けると誓う。


 夜を駆け、夜に啼き、夜の帳を抜ける。

 そうして、朝のひばりを受けるのだ。


 いつしか、二人揃って迎えられる日を。

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夜に啼く 七四六明 @mumei

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