真夜中のシスターインロー

成井露丸

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 真っ暗な階段を下りてリビングの引き戸を少し開くと、向こう側の洗面所から光が漏れていた。浴室の電気を消し忘れていたみたいだ。右手で扉を横に引くとレールに沿って車輪が転がる微かな音。

 ソファとローテーブルが闇の中に浮かぶ。窓ガラスからは遠くの街明かりが見えた。ふとソファの上に人の気配を覚えた。薄っすらと人の姿が浮かび上がる。若い男と女だ。男が女の上に覆い被さる。


「……兄貴?」


 右腕でまだ眠い目を擦る。心臓が電流で刺激されたみたいに何度も跳ねる。

 目を凝らす。やっぱりそこには何も無かった。

 明かりの漏れる浴室。暗いリビング。こんな時は決まってあの夜のことを思い出す。闇の中の蠢動。少し高い嬌声。衣擦れの音。


「――どうしたの? 眠れないの?」


 振り返ると満里奈が立っていた。


「あぁ、ちょっと嫌な夢を見てさ」

「そう。……どんな夢?」

「覚えてないよ」

「そっか」


 扉に添えた僕の右手の下に、彼女は手を差し込む。僕は手を離した。


義姉ねえさんは?」

「ん? 物音がしたから。ちょっと不安になって」

「起こしちゃったか。ごめんね」

「気にしないで。――私が過敏になっちゃっているだけだから」


 二人っきりの家。二人が住むには広すぎて静かな家。


 *


 瀬戸満里奈――旧姓山口満里奈は僕の幼馴染だ。兄貴の幼馴染でもある。


「はじめまして。山口満里奈です。よろしくおねがいします」


 幼稚園を卒園して小学生になる桜の季節。わが家の玄関に、彼女が現れた。両親に連れられて、明るい陽光を背にして。

 はきはきとした口調で挨拶をする様子を、今でよく憶えている。

 隣を見ると二つ年上の兄貴――瀬戸あきらが真っ直ぐ彼女のことを見ていた。無言で。目を見開いて。


 小学生の頃、兄貴の彰と、僕――いつき、そして満里奈でよく遊んだ。家の中ではテレビでスマブラをしたり、DSを繋いでポケモンをしたり。

 あの頃は母親もいたから、遊んでいるとお菓子や紅茶を出してくれた。それを一緒に食べる時間が好きだった。

 出してくれた母に満里奈が行儀良く「ありがとうございます」とお礼を言う姿が何だか誇らしかった。母親に「樹も、満里奈ちゃんや彰みたいにちゃんと挨拶できるようにね」とお小言を言われたけれど、それで凹むより、満里奈が褒められたことのほうが嬉しかった。


 *


「――もう起きちゃうの? 電気つける?」


 リビングの入口。暗闇の中、触れそうな至近距離。


「起きるにはまだ早すぎるなぁ。でもまあ、――うん」


 小さな音が鳴って、白い光が部屋を満たす。

 隣には寝衣姿の君がいた。ボブヘアの髪は一緒に通った中学高校時代に見慣れた髪型だ。


 *


 僕が小学五年生になると、中学に入った兄貴は新しい友人と外で遊ぶことが増えた。だから僕と満里奈は二人で遊んだ。

 満里奈の両親は二人とも働いていて、帰りが遅かったから、彼女は自分の家では暇で、寂しかったのだと思う。彼女は僕らの母親によくなついていた。


 中学、高校と、僕と満里奈は同じ学校に通った。いつも一緒で、まさに幼馴染の親友。

 周囲からはいつも「瀬戸と山口って付き合ってないの?」と尋ねられたけれど、「そういうんじゃねーよ」と返した。「ぶっちゃけ、山口って可愛いよな? お前、好きじゃねーの?」とか踏み込まれることもあったけれど、率直に「可愛いと思うけれど、家族みたいなもんだからなぁ」とか、そんな感じでのらりくらりと。


 正直、僕は山口満里奈のことが好きだった。

 友人としてだけじゃなく、きっと女の子として。彼女に一番近い男子は自分だという揺るがない自信もあった。

 だからこそ、告白なんかして彼氏彼女みたいな関係になって変にぎくしゃくするのも嫌だった。僕は満里奈と、変わらない関係を続けたかったから。


 兄貴と満里奈の関係も変わらなかった。僕の方が学校で毎日一緒だから顔を合わせることは多いけれど、兄貴が家にいるときは、小学生の頃と変わらず喋ったし、遊んだりもした。


 *


 明かりの点いたリビングでソファへと腰を下ろす。


「樹、――紅茶でも入れようか? 私、飲むけど? 温かいの」

「ん? あ、うん。貰うよ」


 彼女は「わかった」と小さく微笑んでキッチンへと消えた。

 リビングの隣に小さな和室がある。

 襖は開け放たれており、その端にある仏壇が視界に入った。

 その仏壇の中央で、二つの写真が僕らを見守っている。


 *


 人生において、どうしようもない事件というのは起きるものだ。

 僕が高校生二年生の時に、父親が浮気をした。会社の若い女子社員で、父親より十歳以上若い女性だった。


 僕も相手の女性を何度か見たことがある。少し寂しげな表情を浮かべる綺麗な人だった。

 だけどもちろん僕と兄貴は母親の味方だった。

 四人家族は一瞬で崩壊した。僕の大学入学を待たずに両親は離婚し、わが家の人口は一人減った。


 母親は働きに出るようになった。

 とはいえずっと主婦をしていた母親が急に働きに出ても得られる収入なんて微々たるものだ。

 僕らの生計は主に父親からの養育費によって賄われていたし、それで最低限の用は足りたのだけれど、責任感からか、母親はよく働いた。


 肉体的疲労もあったのだろう。

 心的疲労もあったのだろう。

 母親が働き先で倒れたのは僕が大学二年生の時だった。意識を失って倒れた母は、打ちどころが悪く、脳に損傷を受け、あっけなく帰らぬ人となった。

 そしてわが家の人口はさらに一人減った。


 *


「――はい、どうぞ」

「あ、ありがと」


 ローテーブルに置かれたティーカップを手にとる。

 満里奈が入れてくれる紅茶は、母親が入れてくれた紅茶と同じ香りがする。


「義姉さん、どうして髪を切ったの? 昔みたい」

「ん、これ? なんとなく? 区切りかなぁ。もうすぐ一周忌だし」


 彼女はそう言って、人差し指を髪に絡めた。

 満里奈は兄貴と付き合うようになってから髪を伸ばし始めた。兄貴が好きだったから。


「そういえば樹、いつまで私のこと義姉さんって呼ぶの? 昔みたいに満里奈でいいんだよ?」

「――そうだね」


 ソファで隣に腰を下ろして、満里奈もティーカップを持ち上げる。

 あの夜、君が兄貴と身体を重ねていたソファの上で。


 *


 真夜中。目が醒めて、階段を下りるとリビングの扉が微かに開いていた。

 微かに光が漏れている。それは点いたままの浴室の明かりだとわかった。

 誰もいないはずの真っ暗なリビングから、ぎしぎしという物音と、喘ぐような声がした。僕はその中をそっと覗き込んだ。

 ソファの上で二つの身体が重なりあっていた。

 それが誰かはすぐにわかった。兄貴――瀬戸彰と、幼馴染――山口満里奈だった。

 暫く呆然とそれを眺めた後、僕は割って入ることさえ出来ずに、階段を上がって自室に戻った。そして一晩中泣いた。


 あの頃、母親が死んで、静かになったわが家に満里奈はよく世話を焼きに来てくれていた。

 父親はまだ生きていたけれど、新しい家庭があって、子供もいたし、僕らはこの家に兄貴と二人で住み続けることを選んだ。


 満里奈がよく家に来るようになって、晩御飯を一緒に食べるようになった。成人していた僕らは、お酒も一緒に飲んだ。

 だから時々、彼女はそのまま泊まっていくなんてこともあったのだ。人口が減って、部屋数だけは無駄にあったから。


 その夜からしばらくして、兄貴と満里奈は付き合いだした。

 そして兄貴が大学を卒業し、働き出すと、二人は結婚したのだ。


 *


「――じゃあ、僕も一周忌が終わったら、満里奈呼びに戻そうか」

「別に一周忌待たなくても良くない?」


 ボブヘアの幼馴染は相好を崩した。


「うーん。ケジメ、みたいな?」

「――彰さんに?」

「まぁ、そうかな。――それと、自分に」

「そっか」

「うん、そう」


 二人が付き合いだした時、僕は二人にどう接していいか分からなくなった。

 でも二人が結婚することが決まって、僕は宣言したのだ、満里奈を「義姉さん」と呼ぶって。

 初め戸惑っていた満里奈も、僕がしつこくそう呼ぶ内に慣れて、そのうち定着した。

 そして僕らは家族になった。


 *


 その病気は突然発覚した。

 兄貴が大量の血を吐いて、病院に運び込まれた。

 病状は末期で、もってあと一ヶ月だと、医者に言われた。


 満里奈は泣いたし、僕も一人で泣いた。


 *


「悪かったな、樹。満里奈のこと」

「……何のことさ?」


 白い病室。痩せ細った兄貴が、入院着で横たわりながら、口を開いた。


「お前は満里奈のこと、寝取られた、俺に裏切られたって思っているかもしれないけど」

「――思ってないけど」


 兄貴は右手でそっと僕を制した。


「お前と一緒でさ。俺もずっと好きだったんだ。満里奈のこと。正直、小学生の時、あいつが初めて家に来た時、もう好きだったんだと思う」


 桜咲くあの日。陽光を背に微笑んでいた満里奈。


「だけどあいつは俺じゃなくてお前のことが好きだった」

「――何言ってんだよ」

「だからあの日、半ば強引に満里奈を襲った。どうしても俺のものにしたかったんだ。――何も失いたくなかったから」


 自嘲気味に口角を上げる。


「あの夜、お前に見られていたこと、俺は気付いてたぜ。――あいつもな」


 一言も発せなかった。


「こんなこと言える立場じゃないけどさ。俺が死んだら、満里奈のこと――頼むよ。お前達二人は、俺の大切な家族だから。本当は、世界一お似合いのカップルなんだから」


 それから一週間が経ち、瀬戸彰はこの世を去った。

 

 *


 一周忌がもうすぐやってくる。


「ねぇ、義姉さん。義姉さんはずっとこの家にいるんだよね?」

「……うん。そのつもりだよ」


 彼女は紅茶を美味しそうに飲む。

 小学生の頃と変わらない横顔で。


「だったらさ、一周忌が終わったら聞いてほしい話があるんだ。あと、その時からきっと、満里奈呼びに戻すよ」

「――うん、わかった」


 僕らは今、真夜中にいる。

 でもきっと、明けない夜はない。


 あの日、桜の季節に、君が現れた時から、僕だってずっとずっと好きだった。

 

 今はまだ義理の姉シスターインロー義理の弟ブラザーインローの関係だけど。

 僕は君とずっと一緒に生きていたいと思うんだ。

 兄貴の分まで。いつまでも、――ずっと。

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真夜中のシスターインロー 成井露丸 @tsuyumaru_n

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