鏡の向こう側
柚城佳歩
鏡の向こう側
“深夜零時に鏡の前で願うと、鏡を通って行きたい世界へ行ける”
ネットに出回る噂話の一つにそんな話がある。
一つ、体が通り抜けられるくらいの大きさの鏡を用意する事。
二つ、それは心からの願いである事。
この二つの条件を満たせば、鏡が別世界への入り口へとなるらしい。
「……本当にそんな事が出来るなら、
もう会えない友達。叶うなら、過去に戻ってやり直したい事がある。
美咲とはピアノ教室で出会った。
家も近く習い事も一緒、クラスも一緒で、一番仲の良い友達だった。
一年前。中学最後の夏休み前日。
午前中で終業式が終わると、そこから少し早い夏休みが始まる。
二人とももう部活を引退していたので、一度帰って着替えた後に遊ぶ約束をして別れた。
“三十分後に駅に集合して、数駅先のショッピングモールでランチの後に映画を観よう”
そう言った美咲と別れてからもう四十分経つ。
いつもなら遅れそうな時はすぐ連絡があるのに、この日は何の連絡もなく、メッセージを送っても既読にならない。
駅から美咲の家までは十分ほど。途中で会うかもしれないと、美咲を迎えに行く事にした。
──ピンポーン。
何度目かのインターホンを鳴らすも応答がない。
もしかしてどこかですれ違いでもしたんだろうか。私はその場で電話を掛けてみた。
少しして鳴った呼び出し音と、その音に重なるようにして美咲の好きなアイドルの曲の着信音が小さく聴こえた。
音は玄関のドアのすぐ向こうから鳴っている。
スマホを置いて出掛ける事はまず考えられないから、何か急なハプニングがあってまだ出られていないのかもとドアに手を掛けた。
「美咲ー?入るよー、何かあっ……」
目に飛び込んできた光景に息が止まる。
美咲は確かにそこにいた。お腹から血を流し、真っ白な顔で廊下に倒れた姿で。
その後の事はよく覚えていない。
気付いたら警察と救急車が来ていて、私は病院に運ばれた。両親と美咲のお母さんが一緒に来て、頻りに大丈夫かと聞かれた気がする。
ぼんやりと、隣の家に助けを求めに走った記憶があるから、きっとその家の人がいろいろと手配してくれたんだと思う。
後になってわかった事だけれど、あの日、美咲の家に空き巣が入っていたらしい。
平日の昼間。まさかこんな早くに住人が帰ってくると思わなかったのだろう。
鉢合わせしてしまった美咲は、焦ってパニックになった犯人に襲われて刺された。
あの時、途中で別れずに美咲の家まで一緒に行けばよかった。
制服のまま私の家で遊べばよかった。
遠回りしてゆっくり帰っていれば、空き巣と鉢合わせなんてする事もなかったんじゃないか。
これまで何百回自問しただろう。
考える度に自分を責めてきた。
叶うならあの日に戻りたい。
無理だとわかっていても願ってしまう。
もしもあの噂が本当だったなら。
どうかまた美咲に会わせてほしい。
深夜零時。
静まり返った暗闇の中、姿見の前に立つ。
「美咲がいる世界に行きたい」
万が一の奇跡を願った。
だけど、鏡に何か変化が起きる様子はない。
やっぱりそんな都合のいい事なんてあるわけなかった。
もう寝ようと鏡に背を向けた時、視界の隅で鏡が一瞬光った気がした。
「今何か……」
表面に触れると、指先が飲み込まれる。
「えっ」
慌てて手を引っ込めて鏡を見たら、さっき触れた場所が微かに波打っている。
今度はゆっくりと腕を伸ばしてみた。
まるで水の中に手を入れているみたいだ。
右腕まで入れてみたところで、急に体が中から引っ張られた。
そのまま目を開けていられないくらいに強く揺さぶられる感覚があって、私はいつの間にか意識を失っていた。
次に目を覚ますと自分の部屋のヘッドにいた。
あれは夢……?
まだぐるぐる回っている気がして、頭を押さえながら顔を上げると、そこにあるはずのないものが目に入った。
中学の制服。
卒業式に着たのを最後に後輩にあげたから、今さら私の部屋にあるはずがない。
混乱しつつも毎朝の習慣でスマホを確認して、届いていたメッセージに思わず大きな声が出た。
「えっ」
差出人は美咲で、内容は終業式が終わったら一緒に帰ろうというものだった。
このメッセージにも見覚えがある。
何度も戻りたいと願ったあの日の朝に届いたものだ。
まさか、本当に……?
急いでスマホとカレンダーを確認する。
リビングに行ってテレビでも確認した。
間違いない。一年前のあの日に戻っている。
こんな事、夢でしかあり得ない。
いや、例え夢だったとしても、もしここでやり直せたなら自分の中で何かが変わる気がした。
一年振りの制服に着替えて家を出る。
学校に向かう途中、見慣れた背中を見付けた。
「美咲」
「あ、
また会いたいとどれほど願っていたか。記憶の中と変わらない笑顔に思わず泣きそうになる。
「今年の夏休み、宿題少ないのはいいけど受験勉強しなきゃだねぇ」
「……そうだね」
「勉強は明日から本格的に頑張るから今日は遊ぼ!息抜きも大切!」
美咲の話を聞きながら、心の中で改めて決意する。
今度は絶対に美咲を一人にしない。
私が守ってみせる。
学校に着いてからもずっと事件の事を考えていた。時間が経つにつれ緊張感が高まってくる。
終業式が終わり、校門を出た後も、どうすればあの惨劇を回避出来るかと考え続けていた。
ゆっくり歩けば、美咲の家に着く頃には空き巣は出ていっているかもしれない。
そう思って遠回りをしようとしたけれど、「早く帰って遊ぼう」と美咲が急かすから大して時間を稼げなかった。
このまま帰したら、きっとあの空き巣と鉢合わせしてしまう。
「じゃあ一旦着替えてから駅に集合ね!」
いつもの別れ道。手を振る美咲を引き止める。
「私も行く」
「紗由どうしたの?」
「何でもないよ。ただ何となく、久しぶりに美咲の家に行きたいなって思っただけ」
「いつでも遊びに来ていいのに。じゃあ私の家と紗由ん家に順番に行って、駅まで一緒に歩こうか」
何度も遊びに来た美咲の家。
ここへ来るのに緊張なんてした事はない。
でも今は緊張で足が震えそうだった。
美咲がどのタイミングで襲われたのかはわからないけれど、玄関近くに美咲がいた事から考えて、恐らく家に入ってすぐに襲われたんだと思う。
武器になりそうなものと言えば、制汗スプレーくらいしかない。何もないよりはマシ!とバッグから取り出しておく。
「ただいまー。ほら紗由も入って!」
玄関の先、見える範囲には誰もいない。
何があっても反応出来るように、神経を研ぎ澄ませる。
「なんか涼しいね。朝、クーラー止め忘れたかな。涼しくてラッキーだけど」
──ゴトリ。
美咲の声と被さって、部屋の奥から何かが落ちる小さな音がした。その直後。
「うおぉぉおぉっ!」
部屋の奥から包丁を持った男が向かってきた。
「美咲!」
片手で美咲の腕を引っ張りながら、反対の手で制汗スプレーを男目掛けて噴射する。
「うっ、ごほごほっ、げぇっ」
まさか反撃されると思っていなかったんだろう。
スプレーをまともに吸い込んだらしい男は目を押さえながら大きく噎せている。
美咲も少し遅れて状況を把握したようで、玄関にあった傘立てから傘を取り出し我武者羅に振り回し始めた。
「誰か!助けてください!泥棒です!」
「誰か来てー!早くー!」
手は止めないまま、二人で叫び続ける。
「大丈夫か!?」
異変に気付いて駆け付けてくれたらしい男性には見覚えがあった。
あの日、私を助けてくれた隣の家の大学生のお兄さんだ。
蹲る男に向かってスプレーと傘で攻撃する女子二人に、どちらを助けるべきか迷ったのかもしれない。首を傾げるお兄さんに向かって叫んだ。
「えっ、と……?」
「この人泥棒です!捕まえて!早く!」
「はいっ」
その後、お兄さんの協力もあって無事に泥棒の男を捕まえる事が出来た。
ビニール紐とガムテープでぐるぐる巻きになった男を見て到着した警察官も初めは困惑したようだったけれど、このところ発生していた数件の空き巣被害のあった家から取れた指紋と男のものが一致した事でそのまま逮捕された。
美咲を助けたかっただけなのに、夢中になっているうちにお兄さんまで巻き込んでの大騒動になった。警察からは三人とも表彰される事になったけれど、連絡が行って駆け付けた両親からは危ない事をするなと怒られ、無事でよかったと泣かれ、落ち着いて漸く事の重大さを実感してきた私と美咲も二人で抱き合って泣きまくった。
「疲れた……」
長い一日だった。
警察署に行って詳しく事情を話し、遅い夕食を食べてお風呂に入り、部屋に戻ったのは深夜零時近くだった。体は疲れていたけれど、心は不思議と充実していた。
落ちてくるままに瞼を閉じた瞬間。
真っ暗だった部屋全体が白い光に包まれた。
はっとして振り返る。光源はやっぱりあの姿見だった。
例えここが夢でも、偽りの世界だとしても、美咲が生きているこの場所にいたい。
私の願いとは裏腹に、今度は鏡に触れてもいないのに体が引き込まれる感覚と脳が揺れる感覚がして、また意識を失った。
次に目が覚めた時、私はやっぱりベッドの上にいた。
戻ってきた。直感的にそう思った。
ここには美咲はいない。
「また会いたいよ……」
──ピロン。
メッセージの着信を知らせる音がした。
開いて、差出人の名前に固まる。
“あとで宿題持って行くね!一日で終わらせて残りの夏休み遊びまくろ!”
信じられなくて差出人──美咲へとすぐに電話を掛けた。
「……美咲?」
「おはよう!どうしたの?」
「……ちょっと声が聞きたくなっただけ」
「ふふ、何それ。あとで行くからよろしくね」
美咲と話しているうちに、映画を観ているみたいに新しい記憶が流れ込んできた。
あの夏休みの前日から今日までの記憶が。
勉強して、遊んで、受験を終えて、同じ高校に進学して、また遊んで。
全ての記憶に美咲がいた。
“深夜零時に鏡の前で願うと、鏡を通って行きたい世界へ行ける”
あの噂はどうやら本当だったらしい。
願った先の世界で、今日も私は生きていく。
鏡の向こう側 柚城佳歩 @kahon
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