六日目

Part 1

 窪原は、北の海の浜辺で朝を迎えた。目を開けると、白み始めた空があった。砂浜に仰向けに横たわっているのだった。闇の中に沈んだ時間の流れを、彼は感じ取っていた。最後の夢を見た後は、ただ単に意識を失っていたのだろう。


 昨夜、動かなくなっていた海は、今は穏やかな波が打ち寄せている。彼は、その波に乗って浜辺に打ち揚げられたのだった。

 浜辺は、まだ朝早いこともあって、人の姿は少ない。島の影が濃くなる頃には、死への行進が始まることだろう。


 窪原は起き上がる気になれず、ただ横になっていた。死を恐れているわけではない。彼は、最後に見た夢のせいで、力が抜けてしまっているのだ。夢に傷つけられることもあるのだ。このまま、ずっと横になっているのも一つの方法だと、彼は思う。海に入る人々を見送り、夜が来て。悪夢を見て、朝が来て、また人々を見送り……。幾つかの辛い記憶を取り戻し、それらをまた忘れ……。


 島の影が、くっきりと見えるようになり、死のうとする人たちが集まって来た。皆打ちひしがれた表情で、波の誘いを受けている。今の窪原には、それがとても自然な行為のように思えてならなかった。


 やがて彼は、ゆっくりと起き上がった。美しい波の動きの中に、死はあった。遠い昔、人間の持つ遺伝子が、進化の過程で海から陸に上がったのなら、海に帰って行くのは自然なことなのだ。窪原は、自分自身を納得させるために、うなずいた。

 改めて自らの人生を、悪夢の断片からつなぎ合わせてみる。おそらく平凡な前半生の後、二人の女の狭間で揺れ動く日々が訪れた。それは、自分の優柔不断な心を露呈し続け、自己嫌悪する日々であった。その結果、この島で自分の体は焼かれ、死への道を余儀なくされてしまった。恥ずかしい人生だった。もうたくさんだった。今は、未知の死の世界の方が、遥かに魅力的で新鮮に思えた。


 今度こそ、全てを終わりにしようと思った。海に入る頃合いのような気がしていた。死は限りない慰安なのだ。厳しい人生に対する慰安。

 どこかで歯車が狂ってしまった人生を、死によってのみ清算できるのだ。


 彼は、ついに海に入った。海水は殊の外、冷たかった。まるで氷が浮かんでいるような冷たさだった。

 波が囁くように、やさしく彼の両足を愛撫する。足の先から、徐々に感覚が無くなっていく。頭が、酒に酔ったように麻痺してくる。快美そのものだ。死に至る過程がこんな感じだとは、窪原は予想もしていなかった。


 ぼんやりとした頭の片隅で、このままでいいのか、と誰かが叫んでいるような気がする。それは、遠い過去から窪原の体に運ばれて来た遺伝子が叫んでいるのかもしれなかった。が、もうこれでいい。

 すんなりと島の影に入る。まるで忍び寄るようにして、影の方からやって来たという感じがした。


 今まで島で起こったことが、走馬灯のように蘇ってくる。

 〈導き〉の話。左足を見つけたこと。奇妙な男、置部。悪夢。頼子との再会。赤本との出会い。衝撃的な別れ。古い友人、松瀬……。

 意識が遠くなりかけた。

 やはり、亜矢香のことが心残りだった。

 亜矢香。死に抗う試練を何とか乗り越え、再び俺の前にやって来た女。彼女と、現実の世界で再会することなく、今、死のうとしている。

 彼女のためにも、本当は生きなくてはならなかった。しかし、それももうできない。

 窪原は膝を折った。午睡に入る時の甘い眠気に似た感覚に満たされていた。


 突然、彼は小屋に置いたままの六つの左手らを思い出した。このまま死んだらジャケットにくるまれた、あの左手らは、どうなるのだろう。自分が死ぬのは勝手だが、自分以外の持ち主は、左手をさがして、いつまでも島を彷徨い続けることになる。そうなることは、彼の良心が許さなかった。死ぬのは、左手らを森に戻してからでもできる。この島で、やらなければならないことが、まだ残っていたことに、窪原は気付いた。


 彼は、砂浜に引き返すことを決断した。遠ざかろうとする意識を、必死になって呼び戻す。窪原は、頭を振りながら再び立ち上がった。

 よろめきながら海の中を歩く。しだいに浜辺が近づいてくる。濡れた身体から水滴が落ちるにつれて、朦朧とした感覚が明晰なものに変わってきた。


 波が引いて湿った砂に、足跡がつくようになる。さあ、小屋に戻るぞと思ったその時――。

 右手に痛みが走った。

 彼は驚きを持って、足元の海水に濡れて黒ずんだ砂を見つめた。


 こんな……こんな時に見つかるのか。掘り出したところで何の意味があるというのだろう。皮肉な幸運に、窪原は苦笑した。

 彼は砂に埋まっているはずの右手を、そのままにして歩き始めた。


「それは掘り出した方が良いですよ。窪原さん」

 ふいに耳元で、声がした。

 横を向くと、そこに〈導き〉が立っていた。相変わらず幽霊みたいな奴だった。こいつはいいよな、窪原は思う。この島で生活していても人生の時間が消耗することはないんだろうな。おまけに死ぬこともないのだ。永遠にこの島にいるのか。それも、あんまり愉快なことではないかもしれないな。地獄絵図の高見の見物。やはり明るい気分には、なれそうもなかった。

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体さがし 青山獣炭 @iturakutei

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