3月末日のシンデレラ

かめさん

3月末日のシンデレラ

 卒業式。それは教育課程を全て修了したことを証明し、祝う式典。または、お世話になった先生方や両親に感謝の意を示す行事。或いは学校で苦楽をともにしてきた仲間との別れを惜しみ、新たな門出に向かって励まし合う時間。どれも正しくて、きっとどれも間違っている。


 必要単位は全部取ったけれど、修了したと言えるほど学問が身についた気はしない。ゼミの担当教授や親と式典中に会う訳ではない。加えて在学中に別れを惜しむほど親密な間柄の人ができたわけでもない。連絡を取ろうと思えばいつでも取れるし、卒業を機に連絡が途絶えてしまえばそれまでの仲だったということだ。


 孤独と言えば孤独で、空っぽだと言われればそうだとしか言えない学生生活を送ってきた人間にとって、卒業とは何を意味するのだろう。


 卒業式の朝、私はいつも着ているような地味な服装で学校に向かっていた。ごく普通の、授業がある日のように。強いて言うなら多少荷物が少ないだろうか。


 大学の卒業式ともなると規模が大きくなりすぎて、かえって卒業という実感が沸かないもの。親は当たり前のように仕事で来ないし、式典に教えを受けた教授が出席するとは限らない。私が所属していたゼミの教授は出張で県外にいるそうだ。情緒も何もあったものではない。


 引っ越しや入社前の研修といった理由で式に出ないと言っている友人が何人もいた。こんなご時世だ。いつ病気が流行るか分からない。行われるかどうかも分からない式典のために袴の手配をして、人の集まる行事に出るなんて億劫だという気持ちを責めることは誰にもできないだろう。


 それでも私が出席すると決めたのは何かとお節介を焼いてくれる叔母の一言だった。


「袴を着るなんてこの時くらいよ。もう一生着ないかもしれないから」


  一生に一度。そんな言葉が脳裏に浮かぶ。それなら一見無駄に思えるようなお金を払ってでも、着飾る価値があるのかもしれない。


 大学に到着すると、既にちらほらと袴を着てめかし込んでいる人が不慣れな様子で歩いていた。アップにした茶色い髪には大きな牡丹の飾り。それに合わせた赤い二尺袖に黒い袴をはいている。別の人は黒染めしたであろう髪をクルクルと巻いて、編み込みながら垂らして、小さな花を沢山つけていた。春らしい淡い緑の袴には刺繍が施されている。


 華やかだ、かつて無いくらいに。


 けれど皆が着飾れば誰も彼も似たように見えるのもまた然り。結局、人は個性を出したいと願いながらも、周囲にある程度合わせた姿に落ち着くものだ。


 普段は食堂として利用している建物に入ると、すぐさま列に並ばされ、やっとのことで荷物を置き、あれよあれよという間に鏡の前に座らされる。


「どんな髪型にしますか? 何か見本は持ってます?」


 ヘアスタイル担当の人がこれまで幾度となく発してきたであろう言葉を吐く。特に希望があるわけではないが、なんとなくスマホの画面を見せる。痛いくらいに引っ張られ、ヘアピンを刺され、ゴムを巻き付けられ見違えるような髪型にされたあと、着付けの人の元へ行き、予約してあったレンタルの袴を着せられた。こちらも慣れたもので、何も分からない私に指示を出しながら、こちらが戸惑っている間に布を被せ、帯を巻いていく。


 出来上がった私はまるで別人だった。押し出されるトコロテンみたいに写真撮影をして、式典会場に向かう。


 人は大人になると歯車になるらしい。子どもというのはまだ有機物で、火に焼かれれば焦げ付くような繊細な心を持っている。しかし学校という型に段々押し込まれていくうちに、自分にかみ合う機械はあるのかという不安に苛まれるようになるのだ。


 その恐怖というのは常人には耐え切れないほどのもので、やがて機械に形を合わせるようになる。そのうちに身も心も硬質化した歯車として一生回り続けるのだ。そうなってしまえば、あとは体がすり減る恐怖と戦うだけ。自らが傷つくにも関わらず、人というのは案外そういう苦しみの方が耐えられるみたいだ。


 最期まで歯車になることに抗った者を人は「芸術家」や「世捨て人」と呼ぶ。そんな彼らでも硬質化は進む。機械がひしめく世界からは逃れられない。ゴッホだってヘンリー・ダーガーだって例外ではなかった。


 そんな有機物の「人間」でいられる最期の日。卒業式というのはそういうものだと私は思う。


 機械の部品みたいに案内されて席に座る。偉い人の話を延々と聞かされた後に、ゼミの教室へ向かった。そこで他愛ない話をしながら写真を撮る。最近人と話していなかったな、としみじみ思ったりする。中には涙ぐんでいる人もいた。きっと良くも悪くも正しく卒業式を迎えられた人なのだろう。


 昼頃になってゼミの後輩達がやってきた。彼らから生まれて始めて花束を貰う。いつかは萎れてしまう花。小物と違っていつまでも残らないし、食べ物と違って美味しい思いができるわけでもない。持って帰るのも一苦労。だたこの瞬間美しいだけ、そんな刹那的な存在こそが花。こんなものを貰って本当に嬉しいのだろうか。幼いころから内心怪しいと思っていた。


 それなのにいざ花束を手にすると、少しくすぐったくて、ようやく「卒業生」として、少しだけ胸を張って歩けるような気がした。


「これからどうする?」


 ふと、ゼミの友人に尋ねられる。彼女はこれからサークルの方に行くそうだ。サークルに入っていない私は、もうわざわざ行くところがない。会えそうな人にはもう会ってしまった。


「四時までには袴を返さないといけないんだけど、どうしようかなあ」


「なんかそれ、シンデレラみたいだね」


 そう言って彼女は髪飾りの位置を直す。友人は家から袴を着てきたそうだ。その姿で電車に揺られるのはさぞ大変だっただろうが、親御さんとしては誇らしかったかもしれない。


 それに比べて私は。式の時だけ着飾って時が来れば元通り。十二時までに帰らないと魔法が解けてしまうシンデレラに似ている。ならば、このブーツはさしずめ硝子の靴といったところか。


 結局友人と別れ、着付け会場に戻ってきた。卒業証書やら花束やら持ち慣れないものを貰ったおかげで肩が痛む。脱ぐときはあっさりだった。「おめでとうございます」という受付の人の挨拶が空しく響く。


 飾りは取って貰ったが、あちらこちらをヘアピンで留めた派手な髪型はそのままだった。おそらくもう二度とすることがないだろう。結婚式でも挙げれば別かもしれないが。


 いっそのことそのまま帰ってしまおうかと思ったけれど、地味な私服にこの髪型は不釣り合いで、あまりにも周囲から浮いていて、このまま電車に乗るのはためらわれた。


 駅のトイレで一本、もう一本とヘアピンを外していく。パチンパチンと音がする。魔法の解ける音がする。外れたピンが増えてくにつれて、シンデレラは冴えない灰かぶりに戻っていく。


 これからの私は一寸法師だ。頼りない針を片手に世間の荒波に揉まれていかなければならない。そのうち目の前のタスクをこなすことに精一杯になって、どんどん体が歯車に近づいていく。機械の大きさに合うことに、ただ歯がかみ合って回ることに喜ぶ存在に成りはてる。多分それを幸せと呼ぶのだろう。硬質化に抗うことは、誰ともかみ合わない不幸と隣り合わせだ。


 鞄に入れたら潰れてしまいそうで、ずっともてあましていた花束。手洗い場の端に置かれたそれはもう萎れかかっていた。そっと撫でてみる。花びらの柔らかい感触が肌を伝った。髪を適当に結び直すと、花束を抱え直し、ホームに向かって歩み始める。この花束を持っていれば、まだシンデレラという有機物にんげんでいられるような気がした。


せめて、この花が枯れるまでは……。

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3月末日のシンデレラ かめさん @camesam

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