猫の手を借りたし

鶴崎 和明(つるさき かずあき)

月明かりの下に

 これほどまでにエッセイで扱いづらい話があっただろうかと疑うほどのテーマが出されることとなったが、昔は猫が怠け者や役立たずの象徴だったのだろうか。

 私のように駄文を連ねるものの方が余程害悪でしかないと思うのだが、そこはホモ・サピエンスに一部の利があると考えるのが近代までの思想なのかもしれない。

 その一方で、ネズミ捕りで猫の手を借りるというのは十分に考えられる話であり、忙しいからというよりも、分業として頼むのがよろしかろう。

 捕獲率がどれほどかは分からぬものの、外敵がある場所を回避する以上は一定の効果が得られるのではないか。


 以上、実際に「猫の手を借りた結果」の考察である。


 と、ここまででこの文章を終えることができれば幸せなのであるが、まだ三百字は頑張って書く必要がある。

 エッセイで書き通すと決めた手前、ここで止まってしまっては名折れだ。

 それならばせめて、この題目を考えたユーザーに猫でやり込めてやりたいと思うのだが、それもまた何の解決にもならない。

 故に「猫の手を借りた」経験を探し、それを話の種にするより他になく、その煩雑さから私のとりだめた写真から猫の姿を見て記憶を辿ることにする。


 いや、何とも愛くるしい。

 これで、私の疲れも悩みも吹き飛んだからそれを結論にしてもいいのではないか。


 書きながら、今の私は本当に苦悶しているということが分かる。

 三十文を残して結論を急ぎ過ぎではないか。


 さて、このような話を書きながら、やっとのことで私の愛読する鬼平犯科帳の作者、故池波正太郎氏が猫を飼われていたのを思い出す。

 氏に負けず、酒を嗜んだというこの猫は、しかし、現行の上に躍り出て怒られることもあったようだ。

 傍から見れば微笑ましい光景なのだろうが、作家からしてみれば時に致命的なものであった可能性もある。

 一昼夜で原稿用紙七十枚強を書き直した氏の集中力の恐ろしさは言うまでもないが、それが崩れてしまえば苦境に陥るかもしれない。

 愛くるしさで気力の回復に資することもあろうが、この面で猫の手を借りるというのは何とも博打が過ぎるのではないか。


 熊本を舞台にした作品を手掛けられるウオズミアミ先生の「三日月とネコ」という作品では、猫が緩衝材となって利いている。

 時に私の内面の奥深くにあるものを抉られるような、それこそ私という存在自体を問い直すような話の中で、彼らは一服の清涼剤となっている。

 程よいギャグのバランスもあるのだろうが、ここから猫が消えてしまうと私の頭は疲れ果ててしまっていたかもしれない。

 そう考えると、猫の持つ手の一つは「癒し」なのであろう。


 もう一つの手は、私の先輩のご家庭にヒントが眠っているかもしれない。

 先輩はもう結婚されて長いもののお子様がなく、代わりに猫を飼われている。

 いつご家庭の話を伺っても仲睦まじいのであるが、掘り下げてみるとその中心には常に飼い猫の存在がある。

 以前、旅行の企画を建てられようとしていたのだが、

「猫を預けるところがないから」

と、奥様と一緒に結論付けられて、結局は日帰りになったようだ。

 結論こそ旅行に行かぬというものであったが、それまでは留守番の猫のために何をするか真剣に考えられていた。

 子はかすがいという言葉をよく聞くが、私も猫はかすがいという言葉を推したい。


 猫といって思い出すのは広島在住の頃に通い詰めたガールズバーであるが、そこの女の子たちは皆「魔法」で姿を変えられた猫であるという。

 それにしてはマタタビよりも甘味に飛びついたものだと思うのだが、まあ、あまり意地悪をしても仕方がないので私もどっぷりと魔法に漬かっていた。


――踊る阿呆に、見る阿呆。


 そのようなことを考えながらも、この「猫」たちを中心に紡ぎだされた空間というのは、未だ以って鮮烈に残る。


――広島家族


 というフレーズがカーラジオから流れるたびに、その店の光景が浮かんだのはその居心地の良さ故であっただろう。

 無論、猫だけでは在り得ない光景なのであるが、同時に客だけでも醸し出せない景色であった。

 ある意味では、これが「猫の手を借りた」最たる「結果」であるのかもしれない。


 しかし、魔法も永遠というものを与えるには至らない。

 やがてある少女が内部での「抗争」をつまびらかにしようとし、他の猫に食って掛かったのである。

 取り巻きもそれに乗ったのであるが、果たしてそれは誰のためになったのだろうか。

 何らかの薬効、それこそマタタビのような快感をその少女は得られたのかもしれないが、それが見せたのは彼女の「猫」ではなく「ヒト」としての姿である。

 やはり「猫の手を借りた結果」というのはどことなく極まりが悪いのかもしれない。


 いや、あるいは、と思いながら今夜も帰り道で少々猫と戯れてきた。

 少し離れてその様子を伺い、無邪気そうに散歩するその姿を見れば、それだけで胸のつかえも下りよう。


 そもそもが、我々に間違いがあったのかもしれない。

 そのように思いながら、もし本当に猫の手が借りられるのであれば、その手形で手紙を作るのが良いかもしれない、と柄にもないことを考えてしまった。

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