ロボットの俺と彼女と猫とセミ

澁澤 初飴

第1話


 その猫が勝手口からするりと中に入ってきたのは、夏の盛りの暑い日だった。


 彼女が餌付けしている猫だ。

 全身茶トラだが、左手と口の周りだけ白い。顔の大きなオス猫で、猫なのに少し鈍臭く、いつももったりしている。だから彼女は彼をモタさんと呼んでいる。


 モタさんは野良だろう。餌をあげた彼女が目の前で見ていると、食べたそうにはするけれど食べない。見ていないふりをすると食べる。一旦食べ始めたら見ていてもかまわないらしく、平気で食べ続けるところが野良っぽい。それともその警戒心のなさは飼い猫だろうか。


 ともかくモタさんは三日とあけず勝手口に現れ、くつろいで餌を食べていく。俺は昔から生き物が苦手だから、本当はやめてほしい。しかし、猫を見ている彼女の嬉しそうな顔を見るのは幸せだから、我慢している。


 でも勝手口をあけて猫がいるとびっくりする。一度踏んでしまった時はぐにゃりとした感覚に飛び上がった。猫もそんな俺には好意を持ちにくいらしい。彼女には少し愛想も振りまくようになったのに、俺にはちっともなつかない。踏んづけたせいか。


 それとも、俺がロボットだからだろうか。


 俺はもともとは人だったのだが、事故で体を失った。この体には、人だった時の体は一片も残っていない。

 こういうタイプのロボットは珍しいと思う。大概無事だった部分や思い入れの深い部分は残すから。俺も選べたら残しただろうが、そんな余地もなかった。仕方ない。

 もうすっかりロボットに馴染んではいるのだけれど。


 それでも時々、生き物はいいなあと思ってしまう。


 どんなに上手に生卵を掴めても、ロボットの手は硬く冷たい。ドラム缶や鉄柱にしがみついてほっと安らぎを感じる人間は、一部の金属マニアだけだろう。

 猫だって、そんな手で恐る恐る撫でられてもちっとも気持ちよくなんかないだろう。猫と人と、種族が例え違っても、生き物同士の方がまだ親しみがわくと思う。猫から見たら俺も車もきっとそう変わらない。

 こんな俺を好きだと言う生き物は、彼女くらいだ。金属マニアではないのに。


 もしかして、だから彼女は猫をかまいたがるのだろうか。

 俺と2人でいて、それが当たり前みたいにしてくれているけれど、本当は温かく柔らかな感触に飢えているのでは。

 だから俺が生き物が苦手なのに、猫カフェに行きたがるのかもしれない。ちなみに猫カフェの猫は教育が行き届いているから、猫カフェでは俺はキャットタワー並みにモテる。なので猫にたかられたい彼女は俺を連れて行きたがる。まあ、行きつけの店のタワーより俺の頭の位置が高いだけかもしれない。

 猫と遊んで、おみやげにモタさんのおやつを買って、帰り道でモタさんの餌を買って。俺はどれだけ猫に貢いでいることか。


 それでもモタさんは俺になつかず、俺が勝手口を開けると、一瞥して迷惑そうに体を丸め直したりはしても、挨拶ひとつない。ひどいと耳しか動かさず、勝手口が開けられない。彼女が開けると、モタさんはもったりと起き上がり、両手を揃えて腰を下ろしたあの猫らしい格好をする。猫は人を、いや人とロボットを見る。


 家の勝手口は日当たりがそれほど良くない。だから暑い今の時期は、モタさんがよく勝手口の前のコンクリで寝ている。日陰のコンクリは他より少しは冷たいのだろう。それでも最近のモタさんは、毛皮を脱ぎたいんじゃないかと思うほど長く伸びていることが多かった。


 だからこんなに機敏に動けるとは思わなかった。足元をすり抜けられて、俺は慌てて扉を閉めたが、手遅れに決まっている。

「モタさん、入っちゃダメ!」

 俺が叫ぶと彼女が顔を出した。

「モタさん来たの?」

「中に入っちゃったんだ」

 彼女が来たならそっちで捕まえて出してもらおう。俺は少しほっとしたが、俺の人並みの聴力は、不穏な音を捉えた。


 みっ。

 聞いたことのあるようなないような音が、猫の方から聞こえる。

「きゃああ!」

 突然彼女が叫び、すごい速さで走り去る。

 モタさんも驚いたらしい。口から何かが飛び出した。それで謎の音と彼女の消失の原因が判明した。

 モタさんの口から脱出したものは乾いた音を立てて飛び回った挙句あちこちに猛烈にぶつかり、鳴いた。

 みみみみみ!

「ぎゃああ!」


 セミだ!


 俺は生き物が苦手で、だから虫も好きじゃない。彼女は猫は好きな癖に、セミが大嫌いだ。

 家の中にセミという大惨事。

 彼女を守るために、俺は、俺は、俺は、

「うわああ」

 逃げ惑っているわけではない。作戦を考えているのだ。俺が彼女を、この家を守らなければならない。

 でもセミは気持ち悪い。モタさんめ、とんでとないものをおみやげにしやがって!


 何ともできずにセミを目で追う。モタさんはまだもったりしている。モタさんの射程圏では、そりゃあ狭いだろう。頼みの綱が細過ぎる。

 セミが落ち着き、それじゃいっちょ、という訳ではなかろうが鳴き始めた。家の中で。

 み、みみ、みー。みみーんみんみんみんみー、みぃーんみんみんみんみんみん……

「セミ!」

 俺は叫んだ。いい声張り上げやがって。ああもう俺の家なのに!

 セミは全く鳴きやまない。モタさんも全く動かない。

 俺は少し泣いた。それから、覚悟を決め、ビニール手袋をつけられるだけつけて、そこに干してあった彼女のハンカチを掴み、腕の延長ボタンを押した。


 俺は細く開けておいた勝手口を足で開け、猫とハンカチにくるんだセミを外へ放り出した。いや、セミはせっかくの獲物だろうから、モタさんの前に置いた。すまないセミ、来世は幸せになってくれ。

 俺は勝手口を閉め、腕を伸ばしたままセミと猫がいたところを徹底的に掃除した。脚立いらずなのは便利だ。


 半日かけて掃除を済ませ、簡単な夕飯の支度が済んでも、彼女は自室から出てこなかった。セミはいないよ、掃除も済んだよ、と部屋まで呼びに行くと、お風呂に入って、と言われた。

 だから俺は猫なんか嫌だって言ったのに!

 シャワーで金属の体を流しながら俺は憤慨した。追い出すのも掃除も全部俺がやったのに。俺だってセミ嫌いなのに。猫も嫌いなのに。

 しかし風呂からあがると、彼女が俺の、人であれば首の辺りに手をまわし、嬉しそうに笑って言った。

「ありがとう」

 俺の大好きな、彼女の嬉しそうな笑顔を間近で見せられてはかなわない。俺はすぐに降伏して彼女を抱きしめた。

 彼女が俺が人だった時と同じように頬をくっつけてくる。俺の接触センサーは俺に以前と変わらない彼女の柔らかさを伝えるが、彼女の頬は金属の板の感触を感じているだろう。夏は冷たくていいかもしれない、でも。

 俺はすぐに彼女を離した。彼女が少し寂しそうな顔をする。

 だって。俺は。君を。

 ……そんな顔をしないでほしい。俺がうつむくと、彼女は外を見て呟いた。

「モタさん、また来るかしら」

「……猫のことは心配なんだね」

 俺は余計なことを言ってしまった。彼女がキッと俺を見る。

「あなたのことは、心配したってわかってくれないじゃない!」

 彼女は叫び、ごはんも食べずに自室に閉じこもった。猫に嫉妬してしまった俺は取り残された。


 ひとりで眠りながら、俺は夢を見た。

 人と同じ大きさのモタさんはなかなかの貫禄だった。そのモタさんが両手を揃えて頭を下げる。

「この度は、六文銭がわりのセミを取り押さえていただきありがとうございました」

 渋い声だ。俺も頭を下げながら、何だか変な感じがした。

「自分はもうじきあの世に渡りますが、またこちらに戻るために、彼女の持ち物をお借り致したく参ったのです。言葉もままならぬ中、自分の思いをお察しいただき、誠にありがたく、感謝の言葉もございません」

 モタさんはずいぶん堅苦しい猫だったのだ。知らなかった。でも、あの世って。

「致し方ございません。世の摂理です」

 モタさんは渋く微笑んだ。そして、そっとその丸い手を出した。

「あの世に近づいた猫は尋常ならざる技を得ます。目が覚めてから五分だけ、あなたに私の手をお貸ししましょう。その代わり、あなたの言葉を私に貸してください。私の手は、まだ温かく柔らかいですよ」

 俺はモタさんの手を握った。ふかふかの毛、柔らかい肉球。

「モタさん」


 俺は飛び起きた。まだ明け方だ。カーテン越しの薄明かりで確認すると、俺の手は猫の手になっていた。

 俺は急いで彼女の部屋に向かった。俺はそっと扉を開けた。もちろん彼女は眠っている。

 俺は彼女の頬に触れた。彼女が少し動く。俺は爪を立てないように気をつけて、彼女の頬をそっと押した。

「好きだよ。また会いたい。またきっと会いにくるよ」

 俺の口が勝手に言葉を話し出した。これが言葉を貸すということか。囁くような声に、彼女は眠ったまま、ふわふわ答えるともなしに答えている。俺はモタさんの気持ちに心が痛くなった。

「あなたは彼女が認めた人だ。自信を持って。人は人同士の方がいいのでしょうから」

 俺が俺に語る。

 同じ思いだ。彼女を好きなもの同士ってことじゃないか。それで良かったんだ。

 俺は彼女の頬をそっとそっと押したり撫でたりした。温かく柔らかい猫の手で。

 モタさんも彼女に愛を囁き続けた。それは俺も言いたかった言葉だ。そしてモタさんは言った。

「さよなら」

 モタさん、と思った時、急に彼女が起きた。俺の手ももとの金属に戻った。

「モタさんの夢を見たの」

 俺は彼女を抱きしめた。そしてずっと離さなかった。


 暑い夏が過ぎ、秋の嵐が木の葉を全部吹き飛ばした頃、勝手口に子猫が迷い込んできた。

 茶トラで、左手と口の周りだけ白く、首に見覚えのあるハンカチを巻き付けている。

「あら、首に巻いてあったら危ないわ」

 彼女が手を伸ばすと、子猫は簡単に捕まった。彼女がハンカチを外すのを見ながら、俺は言った。

「その子、うちの子にしようか」

 いいの、と彼女が顔を輝かせる。だって本当に戻ってきてしまったんだ。意気に感じるしかないじゃないか。

 俺は彼女に抱きしめられる子猫を見ながら、言葉にせずに語りかけた。

 でも、もうセミはダメだからね。

 


 

 

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ロボットの俺と彼女と猫とセミ 澁澤 初飴 @azbora

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