真夜中の騒音

星来 香文子

深夜2時の足音



「限界だ」


 誰もが寝静まった、真夜中、深夜2時。

 突如として、男は立ち上がった。


「もう無理、絶対に文句言ってやる!! 時間なんて関係ない!!」


 同棲していた彼女と別れ、気持ちを新たに一人、このアパートに越してきて早三週間。

 その三週間の間、ずっと彼は真夜中に聞こえる騒音に苦しんできていた。


 仕事を終えて、ヘトヘトの体で帰宅し、シャワーを浴びて布団に潜り込んで眠りにつきたくても、決まって深夜の2時になると上の階からのドタバタと足音が聞こえてくるのだ。

 真夜中だというのに、跳んだり跳ねたり、走ったり、大きな笑い声や子供の泣き声が聞こえてくることもしばしば。


 最初は上の階に小さな子供がいるのかと、それなら少しくらいは我慢しようとしたのだが、その音は日に日に激しく大きくなっていくし、やはり気になって眠れないし……で、ついに我慢の限界に達して、彼は階段を駆け上がった。


 引っ越しの挨拶をした時に、一度だけ顔を合わせたが上の階の奥さんは気が弱そうな人だった。

 体調も悪そうで、夏だというのに長袖に長いスカートで暑苦しそうだったのを覚えている。


(あれだけ子供がうるさいのだから、子育てで疲れているのかもしれないけど、俺だってもう我慢しきれない!! 毎晩毎晩、うるさいんだよ!!)


 まともに眠れるのは、仕事が休みである昼間だけだ。

 それでも十分な疲労回復は見込めない。

 最近では寝不足のせいで仕事でもミスが増えてきていた。

 このままではいつか大きなミスをやらかして、会社をクビになるかもしれない。


(その前に、俺が死ぬ! この引っ越しで貯金もなくなったし、もう一度引っ越すなんてできないんだ!!)


 ————ピンポピンポピンポーン


 呼び鈴を連打したが、誰も出てこない。

 しかし、騒音だけは響いている。

 足音や物が倒れる音、子供の泣き声……


「おい、開けろよ!! 出てこいよ!! うるせえんだよ毎晩毎晩!!! 何時だと思ってるんだ!!」


 男は何度も何度も扉を叩いた。

 それでも、やっぱり誰も出てこない。

 音はピタリと止んだが、やはり誰も出てこなかった。


「————なんですか、あなたこそ何時だと思ってるんです!?」

「そうだよ、あんた、こんな時間になんだっていうんだい!」


 かわりに、両隣の部屋の住人が、騒ぎを聞いて眠い目をこすりながら出てきた。

 右は老夫婦、左の部屋は中年女性だ。


「なんですかって、あんたたちも迷惑してるだろう? この部屋、真夜中に子供は走り回るは、笑い声も泣き声だって————!!」


 老夫婦と中年女性は、男の言葉に顔を見合わせる。


「————……あんた、何言ってるんだい? そこには誰も住んじゃいないよ」

「……は? 何言ってるんだ!! 俺はここの奥さんにあってるぞ!? それに、毎晩足音が————……」

「いやいや、もう誰も住んでいないですよ。三週間くらい前だったか、引っ越して行きましたよ?」

「そんなはずない!! 俺は、毎晩……————」


 男は、毎晩騒音に悩まされていた。

 それなのに、誰もこの部屋にいないはずがない。

 納得がいかなかった。


「とりあえず、今日は自分の部屋に戻りな。信じられないなら、明日にでも管理人さん呼んで、中を見せてもらえばいい」

「でも……音が————」

「だから、音なんてなんも聞こえてないって。あんた相当疲れてるんだよ、いいから、帰りな。こんな真夜中に、騒ぐんじゃないよ」



 そうして、翌朝、男は管理人に連絡し、部屋の中を確認する。


「そんな……どうして————?」


 両隣の住人たちが言った通り、この部屋は誰も住んでいなかった。

 家具も家電も、何もない、空っぽの部屋。

 退去した後の、空っぽの部屋だ。


「ほら、だれもいませんし、音なんて聞こえるはずがないですよ。それに前に住んでいた方が引っ越して行ったも三週間ほど前です。結構長く住んでおられたので、壁や床の修繕をしてから今月末から賃貸情報を公開する予定でした。こちらに越して来られた時は、お子さんもいらしたそうで…………ほら、あの畳のシミとか、とこどころ汚いでしょう? 茶色くなってて——……そろそろ全面フローリングに変えようかと思ってましてね」


 管理人が指差したのは、4畳半の和室。

 押入れの前に、確かに茶色いシミが残っている。

 男にははそれが、まるで人型のように見えた。


「……あの、引っ越して行ったのは女性の方……ですよね?」

「ええ、引っ越していかれる1ヶ月前に、旦那さんが事故で亡くなりましてね、奥様お一人で引っ越していかれました」


 確かに、ここには誰もいない。

 それでは、毎晩聞こえていたあの足音や笑い声は、一体なんだったのか————


「納得していただけましたか? ご覧の通り、この部屋には誰もいません。真夜中に足音なんて、聞こえるはずがないですよ。ホラー映画じゃないんですから。まぁ、お子さんはここで亡くなってますけどね」




 終






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真夜中の騒音 星来 香文子 @eru_melon

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