ニャミキ通りのコーニーショップで

ナナシマイ

 大きな背広を着たタレ目の男が、大事な仕事道具であるノートパソコンを抱え、駅前へつながる並木通りをいそいそと歩いていた。

 足を動かすスピードは速いが、しかし、進みは遅い。

(困ったことになったぞ……)

 ビルとビルの隙間や、室外機の下や、街路樹の茂みの中などなど……とにかく、いろいろな場所を覗き込んでいるからだ。

 タレ目の男は、探し物をしていた。

「ミケぇ、おぅい、出てこぉい……」

 それは彼が飼っている猫と、

「……やっぱり、ないよなぁ」

ノートパソコンに挿していたはずのメモリーカードであった。

 つい先ほどのことを思い返す。

 自宅の書斎で忙しく仕事をしていたタレ目の男であったが、急きょそのデータをとある事務所へ運ぶことになったのだ。

「あぁ、こっちは手が離せないっていうのに……。ホント、猫の手でも借りたい気分だよ。なぁ、ミケ」

 日の当たる窓辺に寝そべっていたミケはその言葉に片目をにゅうっと開けた。そしてわかっているのかわかっていないのか判断しかねる表情で「なぁ」と鳴いた。

 タレ目の男は微笑みを返し、コーヒーを淹れなおすためにキッチンに入る。

 そして戻って来たときにはミケとメモリーカードが消えていたのだ。

(ミケは、たまに、本当にこちらの言葉を理解しているようなことがあるからなぁ)

 そう思って近所や事務所へ向かう道なんかをくまなく探していたのだが、どこを覗いても見つからない。そのまま事務所までたどり着いたので事情を説明してみても「ハァ」とか「猫がねぇ」などと要領を得ない返事しかもらえず(事務所にしてみれば当然の反応だ)、タレ目の男は来た道を戻ってきたところであった。

(……いったん、落ち着こう。そうしよう)

 焦るからいけないのかもしれない。ふぅ、と息を吐いてみれば街の穏やかな賑わいが彼の目と耳に飛び込んでくる。

 ゆっくりと視線を動かすと、視界に、見慣れぬ建物が映った。

『並木通りのコーヒーショップ』

 控えめな店構えと看板に書かれたシンプルな店名。こんなところにいつの間に、という疑問も湧いたが、タレ目の男は自宅で飲み損ねたコーヒーのことを思い出してとりあえず入ってみることにした。


 コロンコロン……。

 ドアチャイムの音がしとやかに鳴って、その店はタレ目の男を迎え入れた。

 店内には老夫婦の客がひと組だけ、カウンターでグラスを拭きあげていた初老のマスターがちらりと入り口に目をやり、またグラスに視線を戻す。その格好と所作は紳士然としており、上品に整えられたひげがわずかに揺れた。

 タレ目の男が窓側の席に座ると、

「ご注文は?」

と声がかかる。見た目通りの穏やかな声にほっとして、アイスコーヒーを注文した。

 マスターはひとつ頷き、カチャリと音を立ててコーヒーを淹れる準備を始めた。焦っていた気持ちが少しずつほぐれていくのを感じながら、タレ目の男は窓の外を眺めようと頬杖をつく。

「やっと来ましたか、雄大ゆうだい

 ハリのある少女のような声が聞こえるのと、さわりとタレ目の男――雄大の膝上になにかが潜り込んでくるのは同時だった。

 どこか慣れた感覚に彼はハッとして視線を落とす。

「ミケ! ……ん、ミケ?」

 そこには散々探した猫の姿。しかし、声が聞こえてきたのもそこからだった。

 飛び退きそうになった自分の身体をなんとか抑え、雄大はいつもの調子で猫を抱き上げる。

「ミケが喋ったのかい? ……いやいや、そんなまさかね」

 自分の発言に自分で可笑しくなったのか、雄大は「ははは」と笑った。それを見た猫がフンと鼻を鳴らす。

「人間だけですよ、猫が喋らないと決めつけているのは。それとワタクシにはシュヴィーリュナという立派な名前がありますのに」

「シュヴィーリュナ……?」

「だいたい、ワタクシは白猫です。タマって名前も大概だとは思いますけど、この光輝く毛並みを見てもなお、ミケだなんて……本当、ナンセンスです」

 ミケもとい、シュヴィーリュナがピンク色の舌でぺろりと真っ白な自分の毛を舐めた。

「お喋りが過ぎますよ、シュヴィーリュナ」

「……マスター」

 シュヴィーリュナがマスターと呼んだ視線の先を追うと、驚くべきことに、豆を丁寧に挽くマスターその人が猫の姿をしていた。

 きっちり着こんだシャツとベストはそのままに灰色の長い毛がふわりと飛び出る。

 ガッガッとミルのハンドルを回す音。

 ひくひくと揺れる上品なひげ。

 雄大があんぐりと口を開けて見ていると、マスターはクスリと笑う。

「それで? 雄大さんは、なにかご用がおありだったのでは?」

 喋る猫がコーヒーショップを営むというあり得ない状況に「そうかこれは夢か」とひとり納得し、雄大は彼らの話に付き合ってやることにした。

「ええ。仕事で必要なデータの入ったメモリーカードをなくしてしまいましてね、ミケ……シュヴィーリュナも一緒にいなくなったものですから、それを探していたのです」

「探し物はこれですかな?」

 コトリとカウンターテーブルに置かれたのは、雄大が探していたメモリーカードだ。

「そうです! やっぱりミケが……。まったく、勝手に持ち出したらダメじゃあないか」

「ダメって……。雄大、あなたがワタクシに頼んだのではありませんか。ワタクシが頼まれるに値するか、マスターに聞きにきただけですのに」

「まぁ、まぁ。人間サマってのは、ずいぶん偉くなったものですねェ」

「昔は『猫の手も借りたい』なんて言われたら嬉しいものだったけれど、今じゃあ正反対の意味で使われることばかりだからねェ。シュヴィーリュナもお気の毒に」

 しわがれた新しい声に雄大が顔を向けると、奥のカウンターに座っている、老いぼれた二匹の猫と目が合った。

(マスターも猫なら、お客も猫か。奇妙な夢だ)

「おや。この店は『ニャミキ通りのコーニーショップ』ですよ。猫がいて当然です」

 心を読んだかのようなマスターの発言に雄大の背中がぶるりと震えた。

 穏やかに微笑む瞳の奥に、獰猛な光が一瞬、見えた気がしたのだ。

 そう思うと、シュヴィーリュナも、猫の老夫婦もなんだか恐ろしい存在のように感じられた。急に居心地が悪くなった彼は右手でパッとメモリーカードを掴み、ノートパソコンを抱えて店を飛び出す。


「……あれ?」


 ドアを開けたそこは並木通りではなく、雄大の書斎であった。

 固いものを握りしめた感触に右手を開けばしっかりとメモリーカードが収まっている。

 ――コロンコロン。

 耳に残るしとやかなドアチャイムの音。

 ハッとして窓辺に目をやると、いつものように寝そべっていたミケが「なぁ」と鳴いた。

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ニャミキ通りのコーニーショップで ナナシマイ @nanashimai

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