ぶながや -ジャズの森ー

ケン・チーロ

ぶながや

 ぶながや

                                 

 一・起

 地面に突き刺さった銀色の翼の後ろで、胴体が無残に折れ曲がった飛行機が紅蓮の猛火に包まれている。それは私が搭乗していた戦闘機の残骸だった。激痛で動けない私は、愛機が焼け尽くされる光景をただ見ていた。

 私は撃墜された。4月から始まったオキナワ上陸作戦は連合軍の優勢が続いていた。日本軍の航空戦力は壊滅し、私達部隊は占領した飛行場へ移動する命を受け、空母から飛び立った。珊瑚礁に囲まれた美しい島の上空に差し掛かった時、ゼロファイターの奇襲を受けた。数機の僚機が落とされ、私は必死に敵機から逃げ回った。だがついに後方に喰いつかれ、銃弾の嵐が機体を貫いた。機体は操縦不能になり、森へと落ちて行った。

 私の意識は、そこで一度途絶える。

 次に意識を取り戻した時、私は激しい咳に襲われた。コクピットが煙で充満している。

 その時、機体が停止している事に気付いた。手探りでシート下のサバイバルバックを掴み、急いでキャノピーを開け、煙から逃れる様に身を乗り出した。薄暗い中、目を凝らすと開けた場所が見えた。周囲は木立で囲まれ、空も枝で覆われている。恐らくジャングルの様な森の木々がクッションになり、胴体着陸に成功したのだろう。私はその奇跡を神に感謝し、地面に飛び降りた。

 機体から離れた直後、背後で爆発が起きた。私は吹き飛ばされ、木の幹に激突した。鈍い音がして左腕に激痛が走る。歯を食いしばり立ち上ろうとしたが脚に力が入らず、バランスを崩して前のめりに倒れた。見ると左脚のズボンは破れ血で黒く染まっている。上半身を無理に起こし、木の根元に座り込んだ。炎は下草に移り、燃え広がっている。少しの呼吸で気管が焼ける程の熱気が迫って来た。

 思わず天を見上げる。

 見た事も無い太い幹から伸びる枝が天を覆い、そこから漏れる光が天使の階段に見えた。

 ……自分は死ぬのか。

 バックに手を掛けた。中には拳銃がある。生きながら焼け死ぬくらいなら自決をと思った時、何者かが後襟を掴んだ。

 振り向く間も無く、強い力で後ろに引っ張られる。そしてそのまま地面の上を引きずられていった。地面の凹凸が容赦なく背中を痛めつける。あまりの激痛に私は叫んだ。

「止まってくれ! 死んでしまう!」

 絶叫と同時に拷問のような引きずりは止まった。息を整えようとするが、喉からはヒューヒューと空気の抜ける音だけが鳴り、意識が徐々に薄れていく。その時何者かが私の顔を覗きこんで来た。

 大きな瞳に燃えるような赤い髪の子供だ。

 何でこんな所に子供がと訝りつつ、逃げろと言おうとしたが言葉が出てこない。世界は消え失せ、私は再び意識を失った。


 小麦畑に雨が降っている。晴れていれば黄金色の海が広がっているが、今は空と同じく鉛色に沈んでいる。私はテラスの椅子に座りそれを見ていた。耳には雨音に混ざりピアノの調べが聞こえる。デュークエリントンだ。

 雨音とジャズの協奏が心地よい。

「こんな日もあるさ」

 父の声がした。私の隣にロッキングチェアーにもたれパイプを燻らせている父がいた。父は遠くを見ている。父の影響で私もジャズが好きになった。その父と軍に入隊する事を巡り口論になり、家を出た。父の顔を見るのはとても久しい。涙が滲む。居た堪れない気持ちになり私は立ち上がった。父と話がしたい。

 そう思った時、違和感を覚えた。

 父の姿がおかしい。まるで板に描いた絵の様に平面的で、立体感が無い。

 胸に点った温かい気持ちは一瞬にして霧散し、心臓が鷲掴みにされたように痛む。周囲は暗転し、父の姿はパタリと床に倒れた。

 何て残酷な夢だ。涙が溢れ、暗闇に浮かんでいる小さな明かりが滲んで見えた。

 私は少し硬いベッドに仰向けに寝ていた。天井にあるランプから仄かな光が漏れ出している。だが依然とデュークエリントンのピアノと、雨音がはっきりと聞こえる。

 まだ夢の中に居るのか? 

 意識が戻っても、現実感は乏しかった。

 起き上がろうと身体に力を入れた瞬間、全身に電撃が走る。うぅと苦悶の声を上げた。

「目覚めたか、気分はどうだ」

 突然皺枯れた声が聞こえた。その声の主が枕元に立って見下ろしている。禿頭に、立派な白い顎髭を蓄えた老人だった。

「ここは何処だ、病院なのか? 」

「いや、ここは俺の家だ。病院ではない」

「家? 民間人の家なのか?」

「そうだレイモンド・イェーガー中尉。お前さんは左腕が折れているし、左脚も負傷している。大人しく寝ていた方がいい」老人の言葉通り、左腕は包帯が何重にも巻かれていた。 

 その時老人の顔に違和感を覚えた。眉を顰め、老人の顔をじっくりと見た。

「日本人か?」その問いに老人は頷いた。

「ヒサシ・クロイワだ、よろしく中尉」老人は東部訛りの英語でそう言った。


 雨音が更に激しくなっていた。身体はまだ自由にならないが、首は少しだけ動く。私は視線を横に動かした。ガラス窓が見える。雨はそのガラスを叩いていた。

 私はヤンバルと言う奇妙な名前の森の、その奥深い場所に居ると黒岩は教えてくれた。

 雨に遮られ森は見えない。そして雨降る暗い森にジャズが流れていた。

 ジャズは、窓の下にあるキャビネット型の蓄音機から聞こえて来るが、不思議な事に私が目覚めてから音が一度も途切れる事がなかった。それどころか、レコードすら取り換えられていない。先ほどまではエリントンだったが、今は知らないミュージシャンに変わっている。ラジオかとも思ったが、ここは本国から遠く離れた戦場だ。

 こんな呑気にジャズだけを流している放送局があるとは考えられなかった。

 そんな不思議な蓄音機に似た機械の横には机があり、黒岩がこちらに背を向けている。何か書き物をしているようだ。

「……日本人もジャズを聴くのか?」黒岩の背中に問いかけた。

「ジャズも聴くしカントリーも聴く」黒岩は振り向きもせず答えた。「もっとも、お前さんの国と戦争してからは禁止になったから今ジャズを聴いている日本人は俺だけだ」

「どうして私の名前を知っている?」

「お前さんが持っていたバックに身分証が入っていた。一緒にあったモルヒネと抗生剤は使わせてもらったぞ」

 バックとは恐らくサバイバルバックだろう。確かにあの中にはそれらが入っている。

「黒岩は医者なのか?」

「いや、だが説明書通りに注射した。もしお前さんに何か起きたら説明書を書いた奴に文句を言ってくれ」

「……なぜ私を助けた?」

「つまらん事を聞くな。助けるのに理由が必要なのか」

「私は敵国の軍人だ。それに」

 黒岩が声を張り上げ、続きを遮った。

「それがつまらん事だと言っている。怪我人に敵も味方もあるか」

 その気迫に押され私は黙った。ふーっと長い嘆息を吐く。不思議な感覚だ。英語で会話しているとは言え、日本人と話しているとは思えない。その時私はとても大事な事を思い出し、慌てて問い質した。

「私を助けた子供は無事だったか?」

 黒岩の手が止まり、暫くしてから私の方を振り返った。黒岩は丸眼鏡を掛けていた。

「子供? 何の事だ?」

「赤い髪の、目の大きな子供だ」

「知らんな。幻覚を見たんじゃないか」

 その言葉はとても白々しく聞こえた。

「お前さんは疲れているんだ。寝なさい」

 黒岩はそう言い残し、また背を向けた。


 目が醒めると雨は上がっていた。眩い光が窓から差し込んで来る。黒岩は私の上半身を抱えて起こし、ゆっくりと白湯を飲ませてくれた。水分を口にしたのは久しぶりで、ただの白湯が自分でも驚くほど美味に感じた。その時奇妙な黒いガウンを着ている事に気付いた。それがキモノだと分かったが、私には小さすぎる。

「これは黒岩のキモノなのか?」

 黒岩は、負傷した私の左脚の包帯を交換している最中だった。

「お前さんの服は破れていたし焦げていたからな。小さいだろ、我慢してくれ」

 そういう黒岩は上下カーキ色の服を着ていた。服には皺が寄り、所々当布で補修されている。正直、見すぼらしいと思った。

「ありがとう」それしか言えなかった。

「もう大丈夫だ。出血は止まっている」

 手際よく左脚の包帯の交換を終えた黒岩がベッドから離れた。

「畑に行ってくるが、何か聴きたいか?」

 私は少し考え言った。

「ジャズなら何でも」

 黒岩は蓄音機に向かうと、上蓋を開け手を中に入れた。暫くもぞもぞと手が動く。

 ふいに力強いピアノの連弾が流れ、それにトランペットが重なる。聞いた事のないジャズだったが、軽やかな疾走感が心地よかった。黒岩は蓋を閉めた。

「これでも聞いていてくれ」

「それはラジオなのか?」

 昨晩からの疑問を口にした。黒岩は眉間に皺を寄せた。

「日本の秘密兵器だ。勝手に開けるなよ。開けたらボカンと爆発するぞ」

 冗談なのか本当なのか分からないが、黒岩は渋面のままだった。

「暫くしたら戻る」黒岩はそう言って出て行った。

 私は枕元の壁にもたれ、目を閉じた。疑問が晴れず欲求不満ではあったが、黒岩の言う秘密兵器から聞こえるジャズは心地よく、いつの間にか私の心は落ち着いていた。

 やがて音がフェイドアウトして音が途切れた。別の曲が始まるのかと思った時、バタンと音がした。黒岩が戻って来たと思い、目を開けた。だが黒岩は姿を現さなかった。ドアはベッドの左斜め後ろにあり、クローゼットの様な戸棚もあって死角になって見えない。私は不審に思い、戸棚の方を見ていた。

 突然戸棚の影からひょいと子供が飛び出して来た。燃えるような真っ赤な髪、普通の倍はあるだろう大きな瞳。すぐにあの時の子供だと分かった。黒岩と同じカーキ色の服だが、半ズボンの裾は千切れていて糸が解れ出ていて、上着もあちらこちらに破れている。

 性別は分からないが多分男の子だろう。声を掛けようとしたが、声が出てこない。言葉の問題もあるが、それを忘れる程にこの子の異様な風貌に私は戸惑っていた。

 私の戸惑いもよそに、赤髪の子は小さな鼻をヒクヒクさせ部屋の中を見回し始めた。やがて右手にある戸棚に小鼻をくっつけ、更にヒクヒク動かした。そして私の方を見て、満面の笑みを浮かべた。

『約束したの、食べていい?』

 突然言葉が聞こえた。驚き周囲を見渡す。この部屋の中には私と赤髪の子しかない。だがはっきりと英語で聞こえた。

『中にあるよ。取っていい?』

 驚いた事にその子の口は動いていない。その言葉は直接頭の中に響いている。私が呆然としていると、赤髪の子は戸棚の引き戸を引いた。その隙間から中が見えた。パイロットスーツと、キモノが数着吊り下げられている。赤髪の子は身を屈め戸棚の中に入り、すぐに出て来た。手にはサバイバルバックを持っている。

 赤髪の子は笑顔で私の所に来て、バックを置いた。

『出していい?』また言葉が響く。

 確信した。この子の言葉は直接頭の中に聞こえて来る。摩訶不思議な現象に混乱した私は、意味も分からず頷いていた。

 赤髪の子はバックルを外し、かぶせを開くと、バックの中に手を入れ中身を掻き出し始めた。折り畳まれた数枚の紙と一緒に、拳銃がベッドの上に飛び出した。慌てて銃を掴み、枕の下に隠す。赤髪の子はそれに気を止めずバックの中を探っている。そしてまた私の顔を見て満面の笑みを見せた。

『あった』そう言ってバックの中から取り出したのは黒い袋に包まれた非常食の束だった。

「……もう来たのか」黒岩がいつの間にか赤髪の子の後ろに立っていた。黒岩は長い嘆息を吐き、渋面を浮かべていた。


「この子に名前は無いが、ブナガヤと呼ばれている」

 そのブナガヤは口を尖らせ床に座っている。手にはまだ非常食の束を持ったままだ。

「この島では木の精霊と思われている」

「……精霊?」黒岩は頷き、何処から話せばいいのか、と前置きして訥々と物語を語り始めた。

 ……信じられないだろうが、こう見えても俺は将来を嘱望された生物学者だった。海外留学を終え帰国した俺に、沖縄での学術調査の打診があった。地理的特性から沖縄の森は独自に進化した生物が居る可能性が高かった。その頃の学会は新種生物の発見ラッシュでな、国威高揚にもなるって事で国からも資金援助が出た。今から30年前の話だ。 

 俺は他の研究者達とヤンバルの森に入ったが、半年経っても目ぼしい成果を上げられなかった。焦った俺達は森の更に奥深い場所を目指した。険しい山道を登っていた時、俺は誤って脚を滑らせ谷に落ちた。

 真っ暗な谷底で脚が折れ身動きも出来ず死を覚悟した時、ブナガヤが目の前に現れた。

『痛い?』直接頭の中に響く声に俺は震え、同時に学者としての血が騒いだ。これが現実なら驚天動地の大発見になる。俺は多くの質問をしたが、ブナガヤは無邪気な笑みを浮かべて何も答えなかった。するとブナガヤは俺を抱き上げると駆けだした。物凄い速さで崖を駆け上り森の中を走った。木の枝が容赦なく当たり骨折の痛みもあって、俺は何時の間にか気絶していた。気づくと俺は麓の農家の軒先に寝かされていた。病院に担ぎ込まれた俺は仲間に未知の生命体の存在を告げたが誰も信じてくれなかった。遭難のショックで気が触れたとも言われた。だが話を聞いていた地元の人間が、ブナガヤの事を教えてくれた。赤髪で尋常ではない能力を持つ子供。俺はあの赤髪の子がブナガヤだと確信した。そしてブナガヤを探すために、大学を辞めこの森に移り住んだ。

 それから15年、森の中を探し回りやっとこの子に再会した。

「……15年」思わず呟いていた。

「それから徐々にこの子との距離を縮めてきた。この子も気紛れにだが俺の小屋にも遊びに来るようになった」

 そう言って黒岩はブナガヤの方を見た。その目はまるで孫を愛でる祖父のようだ。

「待ってくれ、30年前に会ったと言ったが、それはこの子なのか? 」黒岩は頷いた。

「俺も最初疑ったが、遭難状況や俺の事も覚えていたよ。それに長年この子を見続けてきたが、この子の外見は全く変わらない。俺はすっかり禿げ上がったけどな」

 お道化た黒岩の言葉が入ってこない程、非常識な話しに私は困惑した。

「ところで中尉、この子にその非常食を食べさせてもいいかね。約束なんだ」

 唖然としていた私は、またしてもあぁと無意識に返事をした。黒岩は、恐らく食べて良いと言ったのだろう、ブナガヤは笑顔で袋を破った。チョコレートとは名ばかりの茶色い棒状の非常食が現れた。ブナガヤはまたヒクヒクと小鼻を動かし、それを一口齧った。

『んーーーーーー!』

 ブナガヤの絶叫が頭の中で炸裂し、思わず耳を塞いだ。見ると黒岩も耳を塞いでいたが無駄だった。雄叫びは直接脳に響く。黒岩がブナガヤを落ち着かそうとしたが、当の本人は頬を一杯に膨らませゴロゴロと床の上を転がり回っている。暫くしてどうにか非常食を取り上げ、少しずつ千切ってブナガヤに与えた。不満そうだったブナガヤだが、非常食の欠片が口に放り込まれると満面の笑みになった。

 驚いた事に、ブナガヤの多幸感が私にも伝わって来た。

「この子は五感がとても良くてな、特に甘い匂いはすぐに分かる。戦争が始まって甘い物が食べられなくなり飢えていたのだろう、お前さんをこの家に運び込んだ時、バックの中の甘い物を食べていいかと聞いて来た。その人が元気になったらと言ったのだが……勝手な約束をしてすまない」

 チョコを千切りながら黒岩が謝った。傍らのブナガヤは笑っている。二人の奥床しさに思わず微笑んでいた。自然に笑ったのは本当に久しい。私は戦場に居る事を忘れていた。

 二・承

 日差しは強いが、開け放たれた窓から涼しい風が入って来る。私は食卓に着いていた。テーブルの上には、木の器に入った野菜スープが湯気を立てている。

 黒岩達に助けられてから3日が経った。左腕は未だ動けないが脚の傷は悪化する事なく、どうにか歩けるまでに回復した。そして何よりも普通に食事が出来るようになったのが嬉しい。利き腕が骨折しなかった事を神に感謝しながらスープを飲む。薄味だがトマトの程よい酸味が身体に染み込む。

「口に合うか?」

 無言で頷いた時、突然音楽が聞こえてきた。

 伸びやかに歌うサックス、跳ねるピアノ、蠢くベース。静かな雨音の様なドラム。それぞれの楽器が自由に音を奏でているが不協和音になっていない。こんな自由なジャズを聴いた事が無かった。

 謎の蓄音機を見たが、黒岩は今日はこれを触っても居ない筈だ。驚いて黒岩を見る。

「あの子だよ。さっき木の枝にあのお菓子をぶら下げて来た。3日にひとつと約束したからな。相当ご機嫌のようだ」

「ブナガヤが作った曲なのか?」

「ああ、あの子もジャズが好きでね。聞いて覚えた楽器の音色を自分でアレンジして遊びで演奏している。今日はなかなかの出来だ」黒岩は曲に合わせて鼻歌を歌っていた。

 その時、ある思い付きが頭をよぎった。

「もしかしてあの蓄音機もブナガヤと関係しているのか? 」

 黒岩は一瞬眉間に皺を寄せたが、軽く溜息を吐いて「仕方ない」と呟いた。

「見てみるか? 」黒岩の言葉に私は頷いた。

 黒岩の肩を借りて立ち上がり、蓄音機の前に二人で立った。黒岩が蓄音機の蓋を開ける。そこにはターンテーブルもレコードもなく、薄っすらと光っている赤や白、緑や黄色の色とりどりの無数の小さな丸い点があった。

「赤いのは俺が集めていたレコードでそれ以外の白や緑はブナガヤが作った音楽だ。それを押すと音楽が流れる。続けて聞きたい時はそれを数個押せばいい」

「どういった仕組みなんだ」

「さあな、俺にも分からん。ブナガヤは蓄音機のゼンマイが切れて音楽が途切れるのが理解できないし不満らしくてな、ある日俺が家に帰って来るとブナガヤが蓄音機の前に立っていて、いきなり『できた』って言ったんだ。それがこれさ」

 私は驚きのあまり声が出なかった。

「だが欠点もある。どの丸がどの曲なのか、どのレコードなのか押してみないと分からん。同じボタンを押しても毎回違う。まあ俺もブナガヤも気にしないが、お宝のレコードコレクションが全部なくなったのが痛かったな」

 黒岩は今度は深く溜息を吐いた。寂しさと諦めが混じった何ともいえないその表情に、黒岩には悪いが思わず笑いそうになった。

 食事を終え食器を片付けようとした時、ブナガヤの音楽が止まった。

 昼寝の時間だ、と黒岩が言った。私はその寝姿を思い浮かべ微笑んだ。


 日が傾き、薄暗くなった室内にランプの火が灯る。その灯りの下、テーブルの上に地図が広げられた。黒岩が持っていた地図で、地名は英語も併記されている。地図にはあちらこちらに日本語で書き込みがあった。

「お前さんの居る所は大体ここら辺だ」細長い形の島の北側に赤鉛筆で丸が描かれた。私は赤鉛筆を受け取り、YOMITANGと書かれた場所に丸を入れた。

「この飛行場へ移動するよう命令された。その時にオキナワの北部は全て連合軍が掌握していると報告があった」

 戦争も終わるな、と黒岩は呟いた。

「読谷以北は全て占領された訳か。ならばお前さんを助ける手はある」

 そう言って黒岩が描いた赤丸を指さした。

「この小屋から西に半日山を下った所に大宜味と言う村がある。お前さんがもう少し歩けるようになったら一緒に山を下り米軍に引き渡す」

「大丈夫なのか」私は黒岩の身を案じた。

「適当な所で引き返すさ。後は上手い事やってくれ。ところでお前さんは本国に戻っても軍に残るのか?」

「いや、大学に戻ろうと思っている」

「学生だったのか。専攻は何だ」

「建築学だ」

「そうか、いい建築家になれよ」そう言いながら、黒岩は物憂げな視線を向けてきた。

「命の恩人ぶるつもりは無いが、お前さんに一つだけ頼みがある。本国に戻ってもここで体験した事は誰にも言わないで欲しい」

 思いもよらなかった言葉に、虚を突かれ返事が出来なかった。黒岩は続けた。

「ブナガヤの存在が明らかになれば世界中から学者連中がこの森に殺到する。あの子のテリトリーは荒らされ、万が一捕獲されれば、一生研究室に閉じ込められる」

 黒岩の言う事は十分に理解出来た。言語を超越し直接頭の中に言葉を伝える人間の子供に似た生物。その生物は我々の想像を遥かに超える魔法の様な技術を持っている。

 学者が、いや人類がその存在をそっとしておく訳がない。  

 ブナガヤの無邪気な笑顔を思い出した。

 私は強く頷いた。

「了解した。良心に従いあなた方の事は誰にも言わない。だが」

 言葉を区切り黒岩を見つめた。黒岩のその顔に緊張が走る。

「戦争が終わったらブナガヤを連れてアメリカに来てくれ。こっそりと今日の曲をレコーディングして世界中を驚かせよう」

 強張った表情がみるみる緩み、ついに噴き出した。私もつられて笑う。

 一通り笑いあった後、黒岩が聞いてきた。

「酒は飲めるか?」唐突な質問だったが、頷いた。黒岩は席を立ちクローゼットを開け中に入った。やがて、一抱えもある重そうな茶色い壺を抱えて出て来て、それをそっと床に置き、口の蓋を取った。

「この島の酒だ。長い年月こうやって壺に入れて寝かし熟成させている」

 素焼きの小さなコップが置かれ、杓子で掬われた酒が注がれた。干し草の様な甘い香りが立つ。そのコップが差し出された。それを受け取り恐る恐る口を着け、一口飲んだ。

 甘く芳醇な味が口の中で一気に広がる。繊細で柔らかな舌触りはウイスキーでもバーボンでもない。

 強烈だがまろやかな刺激を伴った液体は、食道を焼き胃に落ち、身体を一瞬で暖めた。

 感嘆の吐息が自然と漏れ、暫し感動の余韻に浸った。それを見て黒岩も一口飲んだ。彼もまた吐息を吐く。私達はどちらからとも無くコップを近づけ、カチンと当てた。

 三・転

 日は落ち森の上に月が昇っている。謎の機械からは上手い具合にスイングジャズが流れて来る。そしてゴーヤと言う苦みがある野菜の塩漬けを酒のあてに酒宴は続いていた。

 酒に強い私だが、この極上の酒はたった数杯で私をほろ酔いへと誘った。

 黒岩の頬が紅潮しているのはランプの灯りに照らされているからではない。彼もまた気持ちよく酔っていた。多少呂律が回らないが、上機嫌で喋っている。

 ジャズに没頭した青春時代、留学先のシカゴの美しい街並み、学会内の不毛な権力闘争、ブナガヤと再会した時の歓喜。黒岩の脈絡の無い想い出話を、私は聴き続けていた。

 今までの黒岩の半生を考えれば、酒を酌み交わす相手に話すと言う行為は皆無だった筈だ。助けて貰ったお礼に聞き役に廻るのも吝かではない。それに不愛想だった黒岩の表情が目まぐるしく変化し、身振り手振りも交えた軽妙な語りは聞いていて飽きなかった。特にシカゴの話は秀逸で、彼の地に行った事は無いが、街並みや黒岩が通っていたジャズバーが見える様だった。

 やがて思いの丈を吐き出し尽くしたのか、黒岩は大きな嘆息を吐いて語りを終えた。

 少しの間の後、今度は私が口を開いた。それはどうしても聞きたかった事だ。

「ブナガヤとは一体なのだ? 本当に精霊なのか」

 黒岩はすぐに答えず、酒を一口飲み、白髭を撫でていた。

「誰にも言わない。約束する」

「あぁ、お前さんを疑っている訳ではない。どう答えたらいいか……何せあの子の事を誰かに話すとは考えていなかったからな」

 黒岩は残っていた酒を一気に飲み干し、結論ではないが、と前置きして言った。

「あの子は別の惑星から来た生命体の可能性が高い」

 想像を絶する答えに私は絶句した。まだ精霊だと断言された方が現実味はあった。

「あの子は言葉が通じるが、質問の意味を分かってないようで、こちらの意に沿う答えが返って来た事は無かった。ほとほと困っていた時に、何気なくお前は何処から来たんだと聞いた事がある。その時何が起きたか分かるか?」

 私は分かる訳もなく、首を横に振った。

「俺はあの子と一緒に真っ暗な宇宙空間に浮いていたよ。俺が驚いていると、あの子がある場所を指さした。そこは無数の星が集まっていた。そして俺の頭の中に『あそこから来た』と聞こえてきた。すると体が凄い速度でその星々の中に吸い込まれていった。それはもう恐ろしい速度でな、星が線になって後方にすっ飛んでいく。気を失いかけた時、青い星が突然現れ、その星の前で止まった。真っ暗な空間に浮かぶその星は宝石の様に美しかった。この星から来たのか、と聞くとあの子は頷いたよ」

 私は無言でただ黒岩の言葉を聞いていた。

「驚異的な身体能力と言語を超えた意思伝達法、不老に近い身体。そして我々人類がまだ持っていない技術。それらを出来る生物がこの地球上で誕生したと考えるより、別の惑星の生物だと考えた方が辻褄が合う」

「……何故地ブナガヤは地球に来たんだ?」

「同じ質問をしたが、あの子は何も知らないと言った。何らかの目的があって来たのか、それともお前さんと同じように不時着したのか。正直わからん」

 黒岩は肩を竦めた。私は大きく嘆息を吐き、両手で髪を撫でつけた。信じられない話の連続に困惑の表情を浮かべていると、黒岩が声をあげて笑った。

「一生あの子の事を誰にも言わないと思っていたが、まさかこんな形で語る日が来るとはな。しかもアメリカ人に。奇妙な縁だ」

 その言葉に触発され、もう一つのどうしても聞いておきたい事を口にした。

「本当に、それで黒岩は満足なのか?」

 黒岩の目尻の皺が深くなった。

「お前さんの言いたい事は分かる。この森で世俗を離れ隠遁生活を続けていたのは、無論研究の為だ。あの子を観察し詳細な記録を取る。世界中で俺だけが出来る研究で、生物学者としてこれ以上の幸せは無い。だがもう一方で、どうにかあの子を手なずけ、人間界に連れて行こうと秘かに思っていた」

 え? と思わず言葉が漏れていた。

「名誉欲が無かったと言えば嘘になる。だがそれ以上に科学者の俺は、ブナガヤの存在を世界に発表する義務があると思っていた。あの子の持つ不思議な力が科学的に解明されれば、人類は劇的に進化する」

 黒岩は深い嘆息を吐いた。

「だが今人類は何をしている? 国や人種が違うだけで殺し合いをしている世界にあの子を引きずり出すのか? あの子は本当に天衣無縫だ。好奇心の赴くままに動き、悪意が無い赤子そのものだ。あの子と長い時間を過ごしている内に、とっくに俺の中から『科学の為に』『人類の為に』なんて高尚な大義は消えて行ったよ。今でも観察は続けているが、今は俺の知的好奇心を満たすだけの観察だ。科学者としては失格だけどな」

 黒岩は自嘲気味に笑った。

 私は目を閉じた。黒岩の言う通りだ。人類を豊かにする筈の科学技術は、海を進む船を軍艦に、空を飛ぶ飛行機は戦闘機に、化学肥料は毒ガスに、その性質を変化させた。

 今や科学は敵を倒す為の手段になっている。

「あの子は赤子だが、人類は無知で愚かな大人かもしれんな」

 その言葉は、酒よりも深く心に染みた。

 スイングジャズは既に終わり、静かなクラッシックが流れ始めた。

 その時、荒々しく音を立ててドアが開かれ、二人の男が部屋になだれ込んで来た。

 日本軍の敗残兵だ。大声で何か喚きながら私達にライフルを向けた。彼等の服は黒く汚れ、饐えた匂いが漂ってくる。窪んだ眼は血走り、頬はこけていた。戦場である事を忘れた迂闊さに、ギリリと奥歯を噛んだ。

 私は両手を上げながら、背後のベッドの枕元を横目で見た。枕の下には銃がある。だがこの状況では動けない。黒岩に銃口を向けていた兵士が机の上に広げられていた地図を指さし、何か叫んだ。

「敵国に通じていたスパイか、貴様は!」

 黒岩は首を振ったが、兵士は銃口を黒岩の胸に押し当てた。『スパイ』と言う言葉は分かる。地図もそうだが、私と一緒にいる事が黒岩の立場を悪くしていた。

「他に仲間は居るか!」その叫びにも黒岩は首を振った。兵士が銃で黒岩を小突いた。黒岩はよろめき背後の椅子に足を取られ、床に尻もちを着いた。兵士は銃を片手に持ち変え、黒岩を制しながら机の上にあったノートを手に取った。その時黒岩が動いた。

 黒岩が銃身を払いのけ、立ち上がり兵士に掴みかかった。二人は机やテーブルに激しく当たりながらもつれ合っている。酒壺が蹴られて音を立てて割れた。酒の匂いが一気に広がる。騒然とした中怒声が飛び交い、私に銃を向けていた兵士の視線が外れた。私は身を翻し、ベッドに飛び込むと枕の下から拳銃を掴み、兵士に銃を向け撃鉄を起こす。

「動くな!」私は叫んだ。兵士は狼狽した顔で、私と背後でもみ合っている黒岩達を交互に見ながら大声を出している。

「銃を捨てろ!」また叫ぶ。ウワーと言う叫び声と同時に私に向けられていた銃口が火を噴いた。銃弾が私の右耳を掠める。その轟音は一瞬意識を真っ白にする。

 私は歯を食いしばり、引き金を引いた。

 兵士の右肩から血飛沫が上がり、後ろにもんどりうって倒れた。床に銃が転がる。

 バン!

 鈍い銃声が響いた。黒岩がゆっくりと膝から崩れ落ちていくのが見えた。ベッドから身を乗り出した時、ガシャリと金属音がした。黒岩を撃った兵士が私に銃を向けている。

 死を覚悟した時、突然真黒な空間が目の前に広がった。足元の感覚が無くなり平衡感覚が狂う。

 なんだ?

 訳も分からず、眩暈で崩れていく身体を立て直そうとしたが、ドサリとベッドの上に倒れた。銃を向けていた兵士も、ふらつきながらテーブルに片手をついていた。

 ガシャン! ガラス窓を突き破り、何かが部屋の中に飛び込んで来た。それはテーブルの上にドスンと落ち、立ち上がった。

 ブナガヤだ。だが私が知っているブナガヤとは違っていた。燃える様な赤髪は全て逆立ち、大きく見開かれた両目は爛々と緑色に光っていた。ブナガヤはゆっくりと横を向く。 

 視線の先には兵士が居た。彼は慌てて突然の闖入者に銃を向けたが、ブナガヤは銃身を掴み、ぐにゃりと曲げた。そして、ふわりと浮きあがり、唖然とする兵士の後ろに音も無く降り立った。兵士は振り返ろうとしたが遅かった。細い腕が彼の腰に回されると、その腕が胴体にめり込んでいった。叫び声を上げる兵士の身体がゆっくり持ち上がって行く。

 再び自分の中からではない感覚が襲ってくる。

 今度は全身の毛が逆立ちする程のおぞましい、どす黒い感情だ。

 私は理解した。これはブナガヤの憎悪だ。

 憎しみに支配されたブナガヤが、兵士を殺そうとしていた。黒岩の言葉が甦る。

『あの子は赤子だ』

 ブナガヤの手を汚してはいけない。

 銃声をかき消す程の大声を上げながら、私は引き金を何度も引いた。

 硝煙の匂いが部屋に立ち込める。私はベッドを下りた。右肩を押さえ、床に倒れている兵士と目があった。弾を撃ち尽くした拳銃を向けると、青ざめた顔を何度も横に振った。 

 通じるとは思っていないが、私は出て行けと言った。案の定戸惑っていたのでドアを指さし、出て行けと大声で言った。通じたのか、彼はあたふたと逃げて行った。

 ドア近くには息絶えた日本兵が横たわっている。それを跨ぎ、黒岩の元に向った。黒岩はブナガヤに抱かれていた。

 右胸の服は血で黒く染まっている。ブナガヤの髪は元に戻っていたが、俯いたブナガヤの表情は、その前髪に隠れて見えなかった。

 黒岩が手を伸ばした。急いで近寄り、手を握る。彼の唇が動いた。

「ノートを……頼む。誰にも、渡さないで……くれ」

 私は傍らに落ちていたノートを取り、黒岩に見せた。革の表紙でかなり使い込まれている。黒岩は頷いた。

「この子の観察記録……だ。机の中にも、過去の、がある」言葉が切れ切れになる。

「分かった。もう話すな。あなたの研究は私が守る。あなたの意思を守り抜く」

 黒岩は薄っすらと微笑んだ。

「この子の、事を、知っている人間がいてよかった。ひとりぼっちは、寂し、すぎる」

 握っていた手から力が抜けていく。

 揺らめいている小さな火が、ふっと消えた気がした。胸を締め付ける寂寥の想いが、津波の様に押し寄せてくる。

 私は床に膝を着いたまま動けずにいた。暫くして、黒岩を抱いたままブナガヤが立ち上がった。握っていた手が離れる。ブナガヤは静かに部屋から去ろうとしていた。 

 ブナガヤの背中に声を掛けようとしたが、思いとどまった。ブナガヤはドアを抜け、振り向きもせず、森の暗闇に消えて行った。


 夜が明けるとすぐ、私は兵士の遺体をやっとの思いで部屋から引きずり出し、小屋の外壁の傍らに横たえた。日本の風習は分からないが、冷たい両手を胸の前で合わせた。せめてもの弔いにと、口の周りに着いている血を、着物の袖で綺麗に拭いた。小屋に戻り、戸棚からパイロットスーツを取り出した。着物を脱ぎハンガーに掛け、戻す。左腕から包帯とギプス代わりの板を外した。痛みを我慢し、パイロットスーツを着た。黒岩の地図とノートで膨らんだバッグを肩から掛け、日本兵が残していったライフルを持つ。それは松葉杖代わりになればいい。

 テーブルの上にあるブリキ缶の蓋を外す。中にはランプの油が入っている。缶を持ち上げ、左手を添えてジャバジャバと油を撒く。油の匂いが鼻を突く。

 ベッド、テーブル、蓄音機……全てに油を掛けた。空になったブリキ缶を床に置き、部屋を出た。振り返り、改めて部屋の中を見渡す。僅か数日の出来事が、遠い昔日の事に思える。だが感傷に浸る暇は無い。バッグからジッポーを取り出し、火を着け投げ入れる。

 一瞬で赤い炎が部屋中に走った。身を翻しドアから離れる。黒い森の上が白み始めている。その方向に背を向け、私は森の中へと入って行った。

 四・結

 ドアが開かれ、車内に熱気と共にセミの大合唱が流れ込んできた。

「本当にここでいいのかい?」

 運転手が代金を受け取りながら、怪訝な顔で聞いた。

「古い友人がこの近くにいます。ご親切にありがとう」私は日本語で答えた。

 釣りを断り、リュックサックと共に車外に出る。タクシーは砂埃をあげながら来た道を帰っていった。30年ぶりにヤンバルの地に私は降り立った。昔と変わらない濃緑の森が目の前に広がっている。リュックから地図とコンパスを取り出す。空を見上げ、大きく息を吸い、私は森の中に分け入って行った。

 30年前、一昼夜掛け森を歩き辿り着いた場所は、幸運にも友軍が占領した集落だった。 

 そこで保護され本国に送還された私は軍を辞め、大学に復学した。建築から生物学に専攻を変更し大学院まで進学した。博士号を取得した後母校の教授職に就いた。その傍ら黒岩のノートを読み解く為、日本語も学んだ。

 飛び去る様に時は過ぎ、齢が50を超えた時、長年の宿願を叶える為大学を辞め、沖縄へ向かった。黒岩の遺志を継ぎ、ヤンバルの森に住むためだ。

 廃墟だった島は、驚くべき復興を遂げていた。そして今は海をテーマにした万博が開催されていて、沖縄はその熱狂の中だった。私はその熱気を感じながら、もう一つの宿願の場所へ向かった。そこは黒岩の地図に記されていた場所だ。

 ヤンバルの険しい山の中にあるその場所へ行くため、詳細な沖縄の地形図を入手し、慎重に登山ルートを計画した。

 藪を掻き分け道なき道を歩き、立ち止まり、地図とコンパスで現在位置を確認する。目的地に確実に近づいている。だがその場所が本当に目的地なのか分からない。それでも私は進む。老人になった私を突き動かしているのは、ノスタルジーではなく、黒岩と同じく知的好奇心だけだ。

 知る事への渇望を原動力に、道標なき荒野を行く姿は科学者そのものだ。

 肩で息をするようになり、適当な所で私は足を止めた。額に流れる汗を拭い、空を見上げる。木々で切り取られた空色の空に、薄い三日月が浮かんでいた。

 人類は月に到達したのに、戦争はまだ続いている。人はまだ無知で愚かな大人だった。

 大きく深呼吸をして再び足を動かす。目的地まで、もう少しの距離だ。

 暫く進むと突然視界が開け、木立に囲まれたテニスコート2面程の広場が現れた。

 その奥には崖の様にそそり立つ巨木がある。その巨木から伸びる無数の枝が空を覆い、そこからの木漏れ日が数多の光芒になり、広場に差し込んでいた。

 黒岩が地図に書き込んだ文字の中に、家と書かれた場所があった。そこは黒岩が赤丸で囲んだ黒岩の小屋よりも遥か北の森の中だった。そして黒岩は、ブナガヤの家を数回訪れた事をノートに書き残していた。そこに書かれている風景は、まさに私が見ているこの場所だ。そして最後のノートに、この言葉があった。

『4月23日。ブナガヤが負傷した米兵を運んできた。あの子の家の近くに飛行機が墜落し火災が発生した模様』

 広場の中に、ツタに覆われたこんもりとした小さな丘が見えた。私は逸る気持ちを抑え、丘に向かった。

 幾重に絡まったツタを千切ると、黒く煤焦げた壁が現れた。震える手で煤を払う。銀色の地肌と黄色い星が見えた。

 間違いない、私が乗っていた機体の翼だ。

 私はあの日、この場所に墜落した。

 ……奇妙な縁だ。黒岩の言葉を思い出す。

 自然と巨木を見る。

 あれがブナガヤの家だ。

 私は巨木の元に向かい、あの日と同じように根本に座り込み、幹にもたれた。

 ヤンバルの森に住んでも即座にブナガヤと会い、親しくなれるとは限らない。黒岩と同じく時間を掛けブナガヤとの距離を縮めていくしかない。それが残り少ない人生全てを費やしても後悔はしないが、この場所だけはどうしてもこの目で見たかった。そして私が帰って来た事を伝えたかった。

 何処からともなく柔らかく涼しい風が吹いてくる。その心地よさに疲れが和らぐ。 

 何時までもこうしていたかったが、暫くして私は立ち上がった。巨木を見上げその勇姿を目に焼き付ける。そしてリュックから包み紙を取り出し、根元に置いた。その中には数種類のチョコレート菓子が入っている。私はリュックを担ぎ直し、そこから離れた。

 残骸の丘を過ぎた時、音が聞こえてきた。

 ジャズだ。あの時と同じ、自由に飛び跳ねる無邪気な音が流れてくる。立ち止まり、目を閉じて、その心躍る音をしばし聞き入る。

 ……ブナガヤ、お前のよく知っている場所に私は居るから、いつか遊びにおいで。まだお前の知らない素敵な音楽がこの世には沢山ある。それを一緒に聴こう。

 心の中でそう呟き、私は森の中へ帰って行った。

                                     了

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ぶながや -ジャズの森ー ケン・チーロ @beat07

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