第2話

 ケトルのお湯の沸き立つ音が室内に響く。お気に入りのマグカップにミルクティーの粉末を入れ、お湯を注ぐ。それをかき混ぜながらベランダに出て、夜の闇を眺めながら少しずつ飲むのが午前三時の楽しみだ。

 九月の下旬に入ってようやく暑さが多少やわらいできたような気がする。いつもより心が穏やかな気がするのは、やわらかい夜風の心地良さと、身体に染み渡るミルクティーの甘さと、何より今頭の中を埋め尽くす香央琉の存在があるからだろうか。

 携帯の画面は香央琉から届いたメッセージを開いたままで、画面に穴が空くほど何度もメッセージを読み返したけれど、未だに返信の言葉が浮かばずにいた。楽に逝く方法を聞かれるなんて想像もしていなかった。香央琉は、人生を終えたがっているのだろうか。小説の主人公のように? それとも、ただ小説のネタとして使いたいだけ? 心から、後者であってほしいと思った。なぜだろう。文字でしか会話をしていない、本名なのかすら分からない相手にもかかわらず、この世から消えてしまうことを想像したら胸が張り裂けるように痛んだ。ミルクティーの熱が喉を通っていく感覚を追いながら、ようやく返信を打つ。


『稚拙なブログにもかかわらず目を通して下さりありがとうございます。楽な方法は私にも分かりません。人生を終わらせるという行為は、必ず何かしらの苦しみを伴うものなのかもしれません』


 メッセージの意図を聞こうか迷って、結局聞けず、やっとの思いで当たり障りのない文を作成して送信したころには空が白んでいた。忍び足で一階に降りてキッチンの冷蔵庫から牛乳を取り出す。カップの中に三分の一ほど残ったミルクティーに牛乳を注ぎ足す。カップに口を付けたところで母がキッチンに入ってきた。

「歩南、また夜ふかししていたわね」

 母は足音が全くせず、おまけによく通る声で突然話しかけてくるためいつも身体がびくりと跳ねて危うく声まで出そうになる。そんな私の様子は一切気にする様子もなく、母の小言は続く。

「そんな生活でミルクティーばっかり飲んでたら数年後には病気になるわね。老後に逆に娘の面倒を見るなんて私はごめんだからね」

 私も母も極端な暑がりで、夏は一晩中窓を開け放しにしている。そのくせ眠りが浅い母は、ケトルの湯が沸く音で目が覚めてしまうといつも私に文句を言うのだ。

「ところであんたはいつまで親の脛をかじっているつもりなの? 旦那と別居するって言い出したときは仕方なく帰ってきなさいって言ったけど、もう一年よ。離婚決まったんでしょう? 早くまた次のいい人見つけて出ていきなさい」

 私は知っている。母は私が疎ましいのだ。この家は母の城で、住んでいいのは召使いだけ。私は料理も、掃除も、洗濯も、母が満足するようなクオリティでこなすことができない。負けず嫌いの母は何もやらせても完璧で、でもそれを周りにも求める人だった。

 母の言葉を受け流しながら駆け足で階段を上り部屋に戻ると、動悸がして気分が悪くなった。ベッドに横になって目をきつく閉じる。母と話すと、ときどき、死を望んでいた日々の感覚がフラッシュバックして苦しくなる。瞼の裏に香央琉のことが浮かぶ。返信はまだ来ていなかったけれど、私はもう一度メッセージを作成した。


『香央琉様。差し支えなければ教えていただきたいのですが、楽な逝き方を知りたいのはなぜですか? 小説に取り入れるためなのであれば喜んで私の過去の経験を提供しますが、そうでなく個人的に知りたいということなのであれば、貴方様のファンとして胸が痛みます。このメッセージでご気分を害されることがあれば申し訳ございません』



 送信すると、少しだけ気分が良くなった。香央琉のことを考えていると心が落ち着く。その姿をこの目に映してみたい、触れてみたい、と思う。香央琉が紡ぐ文字の世界に自分の経験が生きるのを想像するだけで歓喜の鳥肌が立った。香央琉の私への問いかけの意味が二択の前者であると信じて疑っていなかった私は、思いのほか早いメッセージの通知に飛びついた。


『歩南様。ご質問に関して、はっきりお伝えしておかなければなりません。正直に申し上げると、僕は、長く生きるつもりはありません。小説を書いているのも、生きていた証を残すためです』


 そのメッセージを読み終えると同時に、ああ、と声が漏れた。胸の高鳴りが痛みに変わる。香央琉は前者ではなく、後者。かつての私と同じ。しかしそれならば、誰かの手ですくい上げることはできる。どんな理由であれ、死を望みながら生きるのは悲しい。今ならば分かる。本当に望んでいるのは死ではなく、誰かの救いの手なのだ。

 唯一の繋がりであるこのメッセージのやりとりだけでは、とても自分の感情を表現しきれないと思った。容姿も、年齢も、性別も、住んでいるところも、香央琉がどのような人柄だとしても関係ない。三十五年間生きてきて、こんなにも誰かの心を動かす、それほどの言葉を生み出せる人間を、私は知らない。文字だけでこんなにも惹かれたのは、生まれて初めてだった。


『貴方様に、一度お会いしてみたい。そしてできることならば、貴方様に寄り添いたいです』


 出会って間もないのにこんなことを言ったら引かれてしまうかもしれない、そう思うのに伝えずにはいられない。香央琉は自分に似ている。まるで、ずっと前から知っていたかのように。一階から聞こえる、不機嫌なときの母の荒々しく掃除機をかける音も、いつもは耳を塞いでいなければ耐えられないのに、今は不思議とただの生活音に思えた。香央琉からのメッセージの通知音だけが、私の耳に心地よく入り込んでくる。


『あと一年。僕がこの世からいなくなるまで……それまでなら、どうぞ』


 そのメッセージを読んだとき、私は直感的に何かを感じ、香央琉の小説のページを開いた。目次をたどる。各話のタイトルは一見意味不明な数字の羅列に見えていたけれど、最新話のタイトル『365』でピンときた。香央琉が書いているのは、自身の人生の投影なのだ。タイトルは人生の残りの日数が記されていて、残りを三年と決め、最後の一日が訪れるその日までを、莉央という人物を通して描いている。生きた証を刻んでいる。香央琉が紡ぐ物語を最後まで見届けたいけれど、同時に香央琉の人生も終わってしまうのか。

 小説の続きを読む。第五話は莉央の心に迷いが生じる。それは生まれてはじめて本気で人を好きになってしまったから。彼は真っ直ぐな思いを莉央にぶつけてくる。それを拒もうとして、拒みきれず、次第に心を動かされていく。

 この物語が人生の投影ならば、香央琉は今誰かに恋をしているということになる。ひりつく胸。ああ、恋をしているのだ。顔も声も知らない、それでも圧倒的な才能に心を奪われたのだ。

 生きて欲しい。自然と口をついて出た言葉。それは私がかつて旦那に言われ、救われた言葉でもあった。きっと香央琉も同じ言葉を望んでいる。生きて欲しい、と返信メッセージを打ちはじめたまさにそのとき、香央琉から追加のメッセージ通知が届いた。メッセージを開いた瞬間、私は携帯を握りしめたまま動けなくなった。


『でもひとつだけ、約束して下さい。僕に”生きて欲しい”と言わないことを』


 その約束の理由をこのときの私はまだ知らなくて、ただ生きる希望を与えることだけが正しいのだと、信じて疑っていなかった。



【続】

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1095 篠哉 @shinoya21

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