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篠哉

第1話 


 人は、証を残したがる生き物なのだろう。


『このブログをいつも読んで下さっている皆様へ。長らく更新ができておらずご心配をおかけしました。この度、当ブログで紹介しておりました旦那と離婚が決定したことを報告いたします』


 キーボードを撫でるように打っていた指が震え、目を閉じる。

 三年。このブログを始めてからそれだけの年月が経っていた。

 最後の更新は一年前。旦那の誕生日を祝った記事を最後に、このパソコンは部屋の隅の棚に眠っていた。そして本当のこと――旦那と一年前から別居していた――が言えないまま、ここまで来てしまった。久し振りのキーボードの感触を指に染み込ませながら続ける。


『充実した結婚生活を綴ったブログであるにもかかわらず、このようなことになり、読者の方々には申し訳ない気持ちでいっぱいです。このブログを更新するのはこれが最後になると思いますが、この久々のブログにも目を通して下さった読者の皆様へ、最後に私の話をさせて下さい』


 これは私の結婚生活だけでなく、私が前を向けるようになるまでの軌跡でもある。

 どこからか軽やかな足音が聞こえてくる。おそらく幼い子どもが部屋の中を駆け回っているのだろう。ファミリー向けを謳っているこのマンションは当然子連れが多く、私と旦那も元々は「いつか子どもが生まれたら安心して子育てができるように」とここに入居を決めた。引っ越してきた当初はよく旦那と子どもの話をした。漠然と最初の子どもは男の子が可愛いだろうと思っていた私に対し、ベタに一姫二太郎がいいと言っていた旦那。結局、旦那が仕事で家を空けることが多く実際に子どもを作ることはなかったけれど。今までの日々に思いを馳せながら文字を打ち進める。


『私は過去に自ら命を絶とうとしたことがあります。今思えば、誰にも必要とされていないような気がして寂しかったのでしょう。当時思いつく限りの方法で、身も心もひたすら痛めつけていました。そのとき私は確かに、死んだような気がします。死んだような気がするのに、私はその後人を愛し、その愛が枯れるのを見届け、そして今ここにいます。この文章を書いています。自分でも不思議な感覚です』


 離婚を選んだ理由はいたってシンプルで、お互いがお互いを必要としなくなったからだ。

 離婚という選択をしたとき、周りはまた私が生きる理由を失うと思っていた。私をすくい上げてくれたのが旦那であったから。でもそれはなかった。それどころかのんきに、第二の人生に思いを巡らせている。

 このブログを消すことは簡単だろう。でも命を消すことは、簡単ではなかった。

 今は、"いつか終わりがあること"が安心に変わったのかもしれない。

 丸三年かけてようやく立つことのできた人生のスタート。自由が、手を広げて待っている。




 ブログが一段落し、ひとつ欠伸をしてパソコンを閉じた。テーブルの上の携帯を手に取り画面をタップする。ネット小説を読んでいる途中だったことを思い出した。今は、プロアマ問わず誰でも小説を発表できる時代だ。暇を持て余したとき空想の世界にひたることで、自分にはまだ第二の人生が待っているんだという気にさせてくれる。”後で読む”ページに登録していた作品を一通り読み終えたころにもう一度大きな欠伸をし、そろそろ寝ようと画面を閉じかけたとき、人差し指が画面に触れた。切り替わった画面。今月投稿された小説一覧の紹介文を指で何気なくスクロールする。そこで目に入った一文に、目を奪われた。


『あと三年で、私は人生のゴールを見つける。それを見届けてくれる誰かがいたら、私は幸せだ。いなくても大丈夫。きっと、ちょっぴり寂しいだけだ』


 はっとした。頭の中で、背中を向けて足を折りたたんで座る誰かの姿が浮かんだ。

 それは、三年前の私だった。

 言いようのないものが込み上げてきて、胸を巣食った。それから突然涙が溢れて、止まらなくなった。他の作品のように、暇つぶしで読み飛ばすことができない。一文字一文字がまるで意志を持っているかのように鋭く目に飛び込んでくる。私はまるで何かに取り憑かれたかのように、その小説を最初から読みはじめた。

 主人公は二十二歳の女の子、莉央。両親を早くに亡くし、一人暮らしをしている。彼女は三年後の二十五歳で人生を終えようとして、誰にも知られずに少しずつ少しずつ身辺整理をしている。淡々と語られる物語。彼女には、失うものはなにもないようだった。遠いようであっという間にやってくる三年後に向けて、ぬかりなく準備を進めているようだった。

 三話目までを読み終えた後、作者のプロフィールのページを見る。作者の名前は「香央琉」。本名だろうか。年齢はいくつだろうか。男性? 女性?  この作者のことを、もっと知りたい。携帯を両手でしっかりと持ち、早まる感情を抑えながら文字を打った。


『香央琉様。小説、拝見しました。感想を言葉で言い表すのがこんなにも難しいと思った作品はありません。もちろん、いい意味で、です。私はずっと、こういう作品に出逢いたかったのです。大袈裟ではありません……』


 気が付くとコメントが何行にもわたっていた。流石に引かれてしまうのではないかと悩みに悩んでようやく半分程に縮めた。人差し指で送信の文字をタップしかけたとき、ふいにこのサイトにダイレクトメッセージの機能があることを思い出した。はやる気持ちを押さえながら文をコピーしてメッセージに貼り付ける。そして最後をこの文で締めくくった。


『どうしたらそんな素敵な文章を考えられるのですか?』


 送信し終えると、胸が激しく高鳴っていた。メッセージの通知をオンにしてしばらく携帯の画面を見つめていたけれど、そんなにすぐに返信が来るわけがないと冷静になり、携帯を枕元に置いて布団に潜った。

 だから朝になって返信が来ていたときは寝起きにもかかわらず大きな声を上げてしまった。布団から飛び起きてリビングに移動する途中で引き戸に小指をぶつけ、悶絶しながら床に落とした携帯を拾う。痛みを堪えながらメッセージを何度も何度も繰り返し読んだ。


『歩南様。メッセージありがとうございます。こんなに嬉しい言葉をいただいたことはないのでとても光栄です。僕は、文章を"考えている"という感覚で書いてはいません。頭の中に下りてきたものを形にしているだけです。そうすることが自分の役目である、そんな気がしているのです』


 文章を書くことが自分の役目だという考え方は、私にとってすごく新鮮なものだった。かつて自分も小説家の仕事に憧れ、原稿用紙で何作か書いたことはあったけれど、ただ書きたいことを書いているに過ぎなかった。読者がいることを想定した書き方はしていなかった。だから長続きしなかったのだろう。それに、ブログの方が性に合っていると気付いたのもあった。架空の物語よりも、自分自身のことを赤裸々に綴って反応をもらう方が、楽しくて仕方がなかったのだ。


『執筆でお忙しい中で早速の返信、感謝いたします。役目という言葉に感銘を受けました。香央琉様は本当に、小説を書くことで誰かの心を動かす、そんな役目を負って生まれてきた方のように思えます。現に私が、貴方様の小説で心を震わせているのですから』


『大変ありがたいお言葉です。僕にはとても勿体なく思います。歩南様のブログも拝見しました。僕も、あなたに教えてほしいことがあります』


 小説サイトのマイページのプロフィール欄にブログのURLを載せていたことをすっかり忘れていて、慌てる。まさか読まれるなんて。稚拙な文章だと思われはしなかっただろうか。それに、私のブログを読んで教えてほしいこととは一体何なのだろうか。


『私に教えられることであればどうぞおっしゃって下さい』


 そこで、テンポよく続いていたレスポンスが急に途切れる。どんな返信が来るのか気になって落ち着かず、小説の続きを読むことにした。

 第四話は、莉央が生まれてはじめての恋をする。相手は一歳下。情熱的に愛し合うが、それでも二十五歳で人生を終えるという莉央の思いは揺らがない。

 なぜ、莉央がそんなにも人生を終えたがっているのか。その答えはいつ分かるのだろか。

 四話目を読み終え五話目に進もうとしたとき、メッセージの通知が目に入った。待ち望んでいた香央琉からの返信だった。胸が躍る。でもそのメッセージを読んだとき、私は言葉を失った。


『楽に逝く方法を、教えてくれませんか?』


【続】

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