猫の手は震える。そして『ナニカ』を描く

とは

第1話 夜のはじめ頃に

「ひーちゃん、ひ~ちゃ~ん。おじゃましてもいいかしら~」


 自室で勉強をしていた私の耳に、ノックの音と母の機嫌のよさそうな声が届く。

 弾むような声、とはまさにこのことだろう。

 何かいいことでもあったのだろうか?

 先程リビングで夕飯を食べていた時には、そんな話はしていなかったのだが。


 参考書をぱたんと閉じると、座ったままでぐっと伸びを一回。

 長時間、同じ姿勢をしていた自分の体がカチコチになっているのを自覚する。

 塾の予習も出来たことだし、今日はそろそろ休憩にしてもいいかな。

 ぼんやりとそんな事を考えながら、私は廊下にいる母に声を掛けた。


「ん、大丈夫。入ってきていいよ」

「はーい、と言いたいけれど差し入れを持ってきたの。だから開けてもらっていいかしら?」


 あぁ、だからこんなうきうきとした様子なのか。

 母は人懐こい性格もあり、近所の人や知人から色々な物を頂く機会が多い。

 今日も何か貰ったものがあったのだろう。

 それが嬉しくて報告に来たといったところか。


 椅子から立ち上がり扉へと向かいかけた私に、本能が警告を告げる。

 いや待て。

 ならばなぜ、夕食の際にその差し入れの話をしなかった?

 あのおしゃべり大好きな母が私に言ってこないはずはない。


「えっと、お母さん。……何か、たくらんでないよね」

「ひーちゃん、なにを、いっているの。わたしは、なにもおどろかせようとか、かんがえてないよ!」


 うわ、これはめっちゃ何か驚かそうとしてるわ。

 話している言葉、全部ひらがなじゃん。


 とはいえ、このままにするわけにもいかない。

 諦めるという結論を出した私は、平常心を保てるようにと願いながら扉をゆっくりと開いていく。

 お盆をもって嬉しそうにしている母の左半身が次第に見えてくる。

 なぜだろう。

 彼女の頬には黒いペンでヒゲが二本。

 そして手の甲には猫の肉球のシールが貼られている。

 それが私の視界に入った時点で、私は無言で扉をばたんと大きな音を立てて閉めてやった。


「ちょ、ひーちゃん! 何で閉めるの? あっ、これが話に聞く反抗期ってやつなのね!」

「違うから。ただ単に私の平常心が一瞬にして消えるというか、蒸発するようなことをしている自覚を持ってほしいだけ」

「ひどい! 私はただ可愛くておいしそうなものを貰ったから、見せたかっただけなのに!」

「あとなんで、そのヒゲと肉球を登場させようと思ったの?」

「え、だってなんか今日のは特別な差し入れだし、特別な雰囲気も出したいなぁと思って」


 だっても何も、全く理解できないのだが。

 うん、これはらちが明かない。

 残念だがここは、私が大人にならなければならない場面のようだ。

 ――大人相手に使う言葉ではないのだけれど。


 かちゃりと扉を開く。

 そこにはうなだれた母の姿。

 だが私と目が合うと、悲しげな表情が一転し笑みが広がっていく。


「見て見て! このパンね、猫の形しているんだよ! 可愛いでしょ」


 床に置いていた盆を持ち上げ、こちらにみせるその中には。

 確かに猫の顔の形をした食パンが二つ、ちょこんとお皿に載っている。


「うわぁ、可愛いっ! 何これ凄いね!」

「うふふ~。お友達が贈ってくれたのよ。ねぇ食べよう」

「うん! あ、私の勉強もう終わったからリビングで食べようよ。私、テキスト片づけて手を洗ってからリビングに行くよ、……ってもういないや」


 私の話が途中にもかかわらず、母は嬉しそうにリビングへと戻って行く。

 まぁ、いいや。

 穏やかな気持ちで洗面台に向かい手を洗う。


 それにしてもあんな可愛いパンがあるんだなあ。 

 友達に写真送ってあげようかな?

 部屋に戻り、スマホを手にすると私はリビングへと向かう。

 リビングに入れば、母がテーブルの上でお皿に向かい一心不乱に何かをしている後ろ姿が目に入る。


「あれ、結構これって難しいのねぇ。チョコペンが固まるまでに、顔を描いてあげなきゃ」


 あぁ、なるほど。

 母はまっさらな食パンに猫の顔を描いて、……ってちょっと待てやぁぁぁ!!

 お母様、お忘れですか?

 あなたの美的センスは人よりも一歩、いや「歩」という言葉では足りない。

 そう、もはや駆け足レベルにずれているということを。

 おそるおそる私は後ろから近づくと母の様子をそっと覗きこむ。


 ……うん、『ナニカ』がいるわ。

 そもそもが目と口を描くだけだろうに。

 どうしてそんな個性的なものを創り出しちゃうかなぁ。

 あとなんで一筆書きで描いちゃうんだろうね。

 両手でしっかりとチョコペンを握り締め、描いている母の手の甲の肉球がプルプルと震えながら顔を描き出していく。


「あっ、ひーちゃん! 待っててね。もうすぐ出来るからね!」


 こちらが微笑まずにはいられない眩しい表情を見せたその人、いやその猫は。

 実にたどたどしいその猫の手によって描かれたちょっぴり変な顔をしたそのパンは。

 どうしてだろう。

 二人で笑いながらかぶりついたパンは。


 ――なぜだかとっても美味しかった。

 





 

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猫の手は震える。そして『ナニカ』を描く とは @toha108

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