ソーユーハンズ

ハヤシダノリカズ

SOYU HANDS

【孫の手あり〼】

 濡れては乾き、濡れては乾きを繰り返したであろうシワシワヨレヨレの黄ばんだA4サイズの紙にはそう書いてあった。コンクリートで固められた狭い路地の奥の突き当り、やっているのかやっていないのか外から見ただけでは判別のつかないその店のドアの真ん中、オレの胸の高さくらいにその紙は貼ってあった。書かれた文字もそういうフォントで印刷されたのか、それとも手書きのものなのか、それすらも分からない。古い路地奥の民家といった風情のこの建物には看板らしい看板もない。


 どことなく有名雑貨店のロゴに似た、【SOYU HANDS】とデザインされたスタンプがその紙の下部には押されている。それも、もう日に褪せてうっすらとしか見えないが。

 この店で間違いない。ここが、同僚の佐藤を酔わせて無理やり聞き出した店に違いない。オレはそのドアを引き、中に入る。


 ドアから入り込む外の光。夕方に差し掛かろうかという時間の春の終りの太陽は、店内の床にドアの形の台形の明かりを落とし、その明かりの中にはオレの影が伸びている。無数に舞う埃の向こうには小太りの中年男性、ソイツはオレに一瞥をくれ、またすぐに手元の新聞に目を戻し、「いらっしゃい」とボソリと言った。


 後ろ手にドアを閉める。店内の薄暗さに目が慣れるまでの数秒、オレはドアの前に立ちすくんでいた。目が慣れてくると、左右の壁も、店主と思しき男の向こうの壁も年季の入った木製の棚で埋まっているのが分かった。そして、その棚にはこの店の入り口ドアの貼り紙に負けないくらいの黄ばんで古ぼけた紙製の箱がひしめきあって、その側面を見せている。


「何が欲しいんだ?」

 オレがその狭い店内を数歩歩いて、カウンターの向こうに座っているその男に近づいた時、その男はそう言った。

「孫の手は、いらない」

 佐藤に教わった通りにオレは言う。

「何度目だ?」

 酔った佐藤が言っていた。『この店に来たのは何度目だ?という意味で店主は聞いてくる。嘘をついたら、アウトだ。正直に初めてだと言え』と。

「初めてだ」

「何に使う?」

「金だ」

「そうか」

 男は新聞から目を離し、オレの顔をまじまじと見てくる。

「猿の手を使うには足りねえな。狐の手もオマエには余る。タヌキも、ムリだな。せいぜい猫の手だろう」

 じっくりと値踏みしたのだろう、十数秒じっとオレを見た後に、男はそう言った。

「どういう意味だ?」

「誰に聞いてここに来たのかは知らないが、願いが叶う猿の手を使えば億万長者になれるとでも聞いて来たのだろう?」

「あぁ」

「うちに置いてある【手】は全て呪具じゅぐだ。リスクはあるし、そもそも資質が無けりゃ使えねえ」

「リスクは覚悟してきたが、資質とはなんだ?」

「ヒトが背負っているごうさ。オマエは普通に幸せに生きてきたのだろう。背負っている業が軽い。薄い。ペラッペラだ。その程度の業では猫の手だって使いこなせるかどうか」

 ふんっ、とバカにしたように男は言う。

「オマエが誰かに聞いて来たとおり、うちの【手】はレンタル商品だ。代金だって、後払いで構わない。猿の手を使いこなせる資質があれば、猿の手のレンタル代金三千万円も子供にくれてやる年玉としだまくらいに思えるものさ、猿の手を使った後にはな」

 三千万。オレにとっては途方もない額だが、猿の手とはそれほどまでに強力なのか。後払いでもいいと言う男の説明は、呪具という怪しげなモノに強烈な説得力を与えている。

「オレにはその資質がないのか」

「あぁ。ないね」

「猫の手なら借りれるのか」

「猫の手くらいなら、オマエでもなんとかなるだろうよ」

「いくらだ?」

 オレがそう尋ねると、男は再びオレを舐めまわすように見た後で、

「そうだな、十万といったところか」

 と、言った。


 ---


「幼少期からずっと親に虐待され続けてきた人間……、例えば、そんなヤツだな。猿の手を使うに値する資質を持っている人間というのは」

 アパートに帰ってきたオレは箱の中の猫の手を見つめながら、店主の言葉を思い出していた。

「ただ、この【手】を使う資質、その【ヒトの業】というのは、面白い事にその虐待をし続けてきた親にも同様に宿る。そして、その恩恵とリスクは、虐待されてきた人間であろうが、虐待してきた人間であろうが変わらない。ま、この店に辿り着く人間はちょっとばかり虐待されてきた側のヤツの方が多いようだがな」

 そう言った店主の目は、このオレをからかうようでもあり、憐れむようでもあった。そして、オレはこの猫の手を使うリスクに関する店主の言葉を思い出す。

「猿の手だと、死よりもむごつらい状況に陥る可能性、リスクがある。狐の手、タヌキの手だと、最悪は死で、まぁ、平均的には大切にしているナニカを一つ二つ失うかも知れないってところか。猫の手はそうだな……、二週間くらいの入院、事故か、病気か、その程度のリスクだ。猫の手程度を貸すのに詳しい説明もしたくねえよ。めんどくせえ」

 どうやら、猫の手は恩恵も小さい代わりにリスク……店主がオレに語ってくれた内容を咀嚼してオレが導き出したこの呪具の呪具たる所以の、超常的な力のその遡流そりゅうは、悪くて二週間の入院生活をもたらすといったものらしい。

 また、先週から急に羽振りの良くなった佐藤の、頑なにオレに教える事を拒んだアイツをベロベロに酔わせて引き出したこの情報を、オレはほぼ信じ込んでいたのだが、猫の手のレンタル料は後払いという事にした。

「持ち逃げする、とか、オレがコイツを転売するとか、返しに来るのが億劫になって、コイツをオレが捨ててしまうとかを考えないのか?」

 オレがこの猫の手を持ち帰る際に店主に言った言葉に、店主は「やれるものならやればいいさ」と言いながらひと際長い溜息をついて、「どうせなら、猿の手を持って行ける人間に言われたいセリフだな、それは。猫の手程度の客にそんな事を言われても退屈極まりない」と、心底バカにしたような目を向けられた。


 ---


「競艇にそれほどの大荒れは無いッスよ」

 昔、飲み屋で知り合った建築業の若い親方といった風貌の男が確か言っていた。

「資金繰りで切羽詰まって、社員に払う給料を工面する為に競艇に行ってね。二百万を六百万にした事があるッス」と。

 それを思い出し、オレは競艇場に来た。なけなしの貯金、五十万を持って。『猿の手を使える資質の人間なら、闇金なんかで目一杯限度額まで借りてここに来るのかも知れないな』などと自嘲しながら。

 確かにオレはそれなりに恵まれた人生を歩んできたのだと思う。公務員の父と、趣味の様なパートに出ていた母。姉もオレも公立高校を卒業し、地元の普通の大学に入って、羨まれもしない、蔑まれもしない平凡な仕事についている。今は恋人はいないが、恋人がいた時だってある。普通で何が悪い。そして、普通に金が欲しいと願って何が悪い。


 ---


 平衡感覚がおかしい。視界が歪んでいるようにさえ思える。胃が痛み、めまいがする。吐き気もしてきた。太陽はまだ高い位置にある。なんだ、この気持ち悪さは。


 五十万の舟券がただの紙くずになったあの瞬間から、オレはどうやってここまで来た?歩いてきたのか、走ってきたのか、まっすぐ歩けていたのか、何かにぶつかりながらだったのだろうか。


 猫の手の儀式を何度も頭の中で思い出す。左の手のひらをナイフの刃でなぞって、浅い傷口から滲んだ血を口に含み、願いを念じながら血と唾をぐちゅぐちゅと混ぜ、猫の手の爪にその血と唾を吐きかける。手順は間違えていない。オレは言われたとおりにやった。間違えていない。やったはずなんだ。


 昨夜の記憶を何度も反芻している。今、目に映っている光景はどれだ。頭の中で何度も再生されている昨夜の光景が、実際に目に映っている光景に常に上書きされているようだ。気持ち悪い。吐きそうだ。誰か助けてくれ。


 ---


「ま、そんなトコロだろうと思っていたさ。競艇で五十万スッて、その後に酒も飲んでないのに失意で酩酊したようになって、車道にふらついて出たら善良なドライバーの運転している車に撥ねられた。それで、入院、そして、見舞金。面白くもなんともねえ。十万置いて帰ってくれ」

 店主はあくびをしながらそう言った。猫の手を返しに来たオレは事の顛末を報告したのだ。

「望んだものは手に入っただろう。オマエが背負ってる業の程度じゃ、この結果が関の山さ。これに懲りたら、ここにはもう来るな」

 オレは十万を置いて店を後にする。


 業、……業、か。

 そうだ、あの建築業の若い親方に会いにあの飲み屋へ行こう。あの男は中々に業が深そうだ。あの男に弟子入りしよう。オレの背負う業を深めて、また何かの手を借りにこの店に来よう。


 今日はいるかな、あの男、あの飲み屋に。

 今日、いなかったとしても、明日も行けばいい。明日もいなければ明後日だ。

 なぁに。飲み屋に通うくらいの金なら、ある。

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