振り向け、愛しい人よ!

酸味

第1話

 好きな人がいる。それを友人に伝えたのは果たしてどんな因果からだったか。

 修学旅行の夜の乱痴気に惑わされたあの日。友人と一夜を過ごす特別な空気と底知れぬ興奮に紛れて、思わず私はそれを口に出してしまったと覚えている。その日友人は一瞬の間を置いた後、歓喜し悪辣な顔を見せ饒舌になった。私が踏み入ったことをその友人に話したのはこれが初めて出会ったから、友人も驚いていたのだ。


 私は世に言う八方美人。色々な相手に良い顔をするという意味する言葉がこれほどに似合う人間はいないだろうと自覚する。しかし私は弁疏したい。その言葉に含まれる悪意、例えば他者にいい顔をして他者から己の利益だけを奪取する。そのようなことを意図して私は八方美人をしているつもりはない。そう自己擁護する。

 八方美人は独立自尊を護持しつつ学校と言う小さな社会。あるいはアルバイト先の退屈で同質的な共同体に和衷共同するためのツール。同質を好み異端を排斥する社会において、唯一私が頼ることのできる生存戦略であった。

 そも私の根底にある人格というのは社会に対する協調性が著しく欠如している。


 おそらくそれはこの世に生を受けたその以前からの性質なのではないか。変えようにも変えることのできない、そして代えることも出来ないそれは呪いのようで運命的な特質。陰鬱根暗と一言で表せるほど単純で、しかし忌々しく複雑に絡まり合ってしまった私の人格。それは他者との関係を前提としたものではなかった。

 一人でいることが好き。夢想しているのが好き。派手に遊ぶことよりも未知なる己の内側に冒険することを尊く覚える。人間以外の生物と関わることが好み。人と関わる退屈さと煩わしさを、私の奇天烈なほどに鋭敏な心が感じ取ってしまう。

 幼少期からそうだった。昔から人との関わり合いが苦手だと自覚していた。

 しかしある時を境にそうも言っていられなくなる。


 危機感を抱いたのは小学三年生だった。今思えばこじんまりとして薄汚い教室には、私と似た性格を持つ者が三人ほどいた。それぞれは外部との関りを一方的に遮断し、快適で自尊独立を護持していた。そしてそれは長らく続くのかと思われた。

 しかしある日、孤独を謳歌する一人がいじめにあった。そして私の心に激震が襲った。人脈の皆無な私には極めて少ない断片的な情報だけがあった。しかしそれでもこれが危機的状況であることを把握し得たのである。あの時意識は覚醒していた。鎖国している中清朝がアヘン戦争で敗北したことを知り、攘夷を止め開国しようと志した新政府側の如き感覚を持った。

 そして私は無意識的に、先手に行われるはずだったいじめのさらに先を打ち、瞬く間に八方美人を会得した。それは猫かぶりと言えるようなものであった。けれどお陰で私はいじめを回避することが出来た。

 けれどこの経験が私の人格を複雑怪奇にせしめたのである。


 私はそれ以来出会う人すべてにいい顔をするようになった。まず最初にその人専用の猫を被る。その後関係が多岐に広がり類型的な性格の人に対する猫に融合する。

 そしてそれは上手く言っていたのだ。今日この日までは。


 修学旅行の日、愛する人について少しだけ語ったあの日に語り合った友人が、狂気的であることを先日知った。何気ない日常を送る私、猫を頭の上に数十匹も乗せていた私に彼女は軽く言ったのである。

「皐月が放課後用があるってアイツに伝えておいたよ」

 私は何も言っていない。告白するための場を整えろと言った覚えは私の脳裏を縦横無尽に駆け巡ってもどこにも落ちていない。探せど探せど見つからない。

 だからこそ問いかけた。

「そんなこと言ったっけ?」

「恋せよ乙女、愛せよ乙女」

 あまりに要領のつかめない返答。しかしこれが友人の余計なお世話によってなされた凶行であると知った。若干の緊張がやって来る。

 しかし問題はない。私の頭には数十匹もの猫が頭にかぶさっている。そもそもたとい愛しき人であっても猫がいればなんと言うこともない。私の十年近くの八方美人を支える猫たちは歴戦の猛者であるのだから。

 急いで告白するための猫を探さねば。


 問題は恋なるものを知らぬから、どれが恋愛強者の猫か判別がつかない点だ。


 □


 どうしたらよいのか。


 友人はその悩みに端的に答えてくれる。「ただ思うがままを言えばいいんだよ」と。しかしそれをそのまま実行するとなると些か問題がある。おそらくそれをすると呼び出した挙句、一切無言のまま応対することとなる。

 勘違いしていただきたくないが、私はその人を愛しく思っている。ただ誰であっても私は人を目前にすると、私そのものは虚無になってしまう。代わりに虚無となった私を頭の上に連なり重なる猫たちが自由自在に操るのだ。そしてそれは私の対人生存戦略として骨髄にまで染み渡ってしまった特質。

 これがお陰で思うがまを言うことができない。

 まずもって数十匹の猫をどうにかせねばならぬのだから。

 その上恋愛強者の猫は未だ見つからなかった。


「皐月さん、一体なんのご用事で?」

 それだというのに愛しき人は来てしまう。猫は捕まえられずどうしてよいか分からぬまま、彼はあまり映えない顔に残念な笑みを張り付けて私の前にやって来た。


「まあそうですね……座ってください」

「面接でもするので?」

 とりあえず今いる猫に身体を動かしてもらう。ただ愛しき人の言う様に告白と言うものに含まれる甘酸っぱい青春の香りはまるでしない。空気は凍てついていて彼の言う如くアルバイトの面接のように思える。


「いえそういうわけではないのです……」

 普段ならば猫もまともに動いてくれるのだろうけれど、しかしこの状況は今までの人生で経験のないもの。猫はちょっとまごついている。


「……じゃあこの機だから俺から言わせてもらっていいか?」

 幾ばくかの沈黙が流れた。そんな頃有無を言わさずに彼が声を出した。


「俺はお前が好きだ」

「はっ」

 瞬間、猫たちが驚きどこかへと飛んで行ってしまった。

 今まで虚無だった私自身の人格にすべてがのしかかって来る。

 久しぶりに猫武装を解かれた。素の私がさらけ出されてしまった。


「お前みたいに綺麗なヤツは皆そうなのかもしれないが」

 ど、どこへ行ってしまったんだにゃんこ達。気を抜いていたらいつの間にか数十匹も私の頭の上に無遠慮に乗っかっているくせに、なぜ今になって突如いなくなる。

 空虚だった私に全責任が降り注ぎ、平生の顔をすることさえままならない。


「お前って絶対猫被ってるよな? 時々素出てるし」

「な、な、な……なにを言っているか分からないんですけど」

 しかも知られたくないことを簡単に口に出されてしまって、平生にあるような虚無荒涼たる私の心には、昂る感情が濁流となって暴れまわる。


「普段は凍てついた綺麗さ。けど一人になると柔らかい可愛らしさがある」

 壊れてしまいそうな感情が襲う。けれど私にはその対処方法が分からないのだ。今まで八方美人をしていて、猫を被っていたがゆえに、心からなにか強い感情を抱いたいことはなかった。だからこれをどういなせばよいか分からない。


「だから」

 彼は私を抱いた。腕の中、身体が密着する。

 耳元で、彼は囁いた。


「付き合ってくれないか」

 ねこっ、ねこーーーーーっ!

 お前たち、お前たちだけ逃げるなんて卑怯!

 早く、早くわたしの下に出てこいねこっ!


 手を貸せ、手を貸せ!

 ねこ共!

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

振り向け、愛しい人よ! 酸味 @nattou

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ