猫の手を借りたら猫に手を貸せと言われた件
八百十三
第1話
うちで飼っている茶トラの雄猫、トラは獣人になることが出来る。
というよりも元々獣人で、人間社会で安全に暮らしていくために猫の姿を取って生きているらしい。
私の家にやってきて二年と少し、今のところはペット以上でも以下でもない。
今日も私のベッドを占領し、獣人姿で惰眠を貪っていた。
「ん~……」
午後のうららかな日差しの差し込むベッドで、気持ちよさそうに私の布団で眠るトラ。そんな彼に背を向けながら、私はダンボールにクローゼットの中の服を詰め込んでいた。
もうすぐ引っ越しだ。転勤のため、私は来週から新しい土地で暮らす。もちろんトラも一緒につれていくわけだが、この猫は寝ているばかりで私の手伝いなんてしてくれやしない。
「もう、トラ! また私のベッド占領して、どいてよ! 片付けられないでしょ!」
「うっせえなぁ……どうせ引っ越すその日まではベッド使うんだろ、寝させろよ」
私が文句を言っても、トラはベッドから起き上がりはしない。確かに引っ越しするのは明後日、あと二回は布団を使うし、片付けるわけにはいかない。しかしベッドがなくても人間は寝れるのだ。
「布団は使うけどベッドは片付けるの! もう、後で布団床におろしといて!」
「へいへい」
片付けをする手を止めないままにトラに文句を言うと、彼は分かっているのかいないのか、どっちつかずの生返事。これは分かっていないやつだな。
その間にも私は最低限の服と下着だけを残してダンボールに詰め込んでいく。あとは食器と調理道具、保存食なんかも片付けないといけない。こういう時、物がたくさんあると大変だ。
「ああもう、片付け進めなきゃってのに……」
こういう時、トラが少しでも片付けを手伝ってくれたらいいのに、と考えてしまう。完全な猫だったら手伝いなんて頼むべくもないが、猫獣人なんだし私の同居人なんだし。せめて自分の使うものくらい自分で片付けてほしいものだ。
そんな事を考えていると、後方でドスン、ガタンと大きな物を動かす音がする。何事か、と振り返ったところで、私に声がかかった。
「ご主人、俺も手伝おうか?」
「へっ」
予期しない言葉に、私の口から素っ頓狂な声が漏れた。
手伝う。手伝うと言ったのか、この猫は今。
見れば、先ほどまで彼が寝そべっていたであろうすのこベッドは二つに折り畳まれ、敷布団と掛け布団、枕が床に降ろされていた。正確には放り出されていた、という有様だが、まぁ、これは別にいい。
折り畳んだすのこベッドに手をかけながら、トラがにやりと笑う。
「引っ越しの荷物梱包。『猫の手も借りたい』ってこういう時のことを言うんだろ。借りていいぞ。ちなみにベッドは見ての通り、畳んどいたから安心しろ」
笑って言ってくる彼に、私は目をまんまるに見開いた。
あのものぐさなトラが自分から手伝いを申し出てくるなんて、どういう風の吹き回しだ。何か企んでいるんじゃないか、とも一瞬思ったが、正直手伝ってくれるのはこの上なくありがたい。
「ありがとう、めっちゃ助かる。じゃああれ、食器棚のお皿新聞紙で包んで」
「あいよ」
私が指示を出すと、トラは素直に梱包用の新聞紙とセロテープを手にキッチンへと向かっていった。どうやらポーズでもなんでも無く、本気で手伝ってくれるらしい。本当にどうしたというのだろう。気になるが今は片付けが優先だ。
服を入れたダンボールに封をして、私は新しいダンボールを組み立ててキッチンへと向かった。既にトラが手早く包んでくれた食器類を、ダンボールの中に収めていく。ついでに調理器具や包丁も、新聞紙で包んでもらって箱の中へ。
だいぶスムーズに片付けが進んでいる。これなら今日の夜までには終わりそうだ。
「よし……これなら今日中に終わる」
「そりゃ何より」
私がこぼすと、棚の中の拭き掃除を始めたトラが手短に返事を返してきた。私がやってほしいことを先取りしてやってくれるのはとてもありがたい。いつになく頼もしい。
そのままどんどん梱包作業は進んで、午後7時になる頃合い。ようやく梱包作業は終わりを迎えた。床に座って私が両手を突き上げる。
「終わったー!」
「ん、お疲れさん」
私の突き上げた拳に、トラがこつんと拳を合わせてくる。獣人特有の短い体毛に覆われた手が、私の肌に触れた。私を見下ろすトラを、見上げながら微笑んで声をかける。
「トラのおかげだよ、ありがと」
「ん」
御礼の言葉に短く返事を返したトラだが、不意に。私の右手をぐっと掴んできた。
「じゃあさご主人、今度は俺に手を貸せよ」
「へっ」
何事か、と目を白黒させる私に、トラがぐいと顔を近づけてきた。ニヤリと笑ったトラの鼻先が、私の鼻に触れそうなほどに近づく。
「俺の手を借りたんだ。俺だってご主人の手、借りてもいいだろ?」
「え……そ、そりゃまぁ、そうかもしれないけど」
急に男らしいムーブをキメてくるトラに、戸惑いながら私は答えた。確かに世の中ギブアンドテイク、トラから手伝ってくれたのだから、じゃあ私にもトラを手伝え、というのは自然な流れだ。だが、何を?
戸惑う私の手を、トラが引っ張り上げる。そのまま彼は家の外へ向かって歩き出した。
「よし、外行くぞ」
「ま、待って、かばんとスマホ」
急な外出、戸惑いながら私はハンドバッグを手に掴み、その中にスマホを放り込む。鍵はハンドバッグの中にいた、はずだ。
私を引っ張るようにして、トラは街に出た。獣人化したトラを見ても驚く人は誰もいない。「知らない人からは人間に見える」という謎の仕組み、本当に便利。
それはそれとして、呪文みたいな言葉をつぶやきながら迷いなく歩いていくトラだ。
「赤い石畳の道をまっすぐ、二つ目の角を右、路地を進んで左角、赤ちょうちん」
「トラ、待って、どこ行くの」
トラに引っ張られ、時々つんのめりながらも私は彼についていく。こうなったトラは最早テコでも意見を変えない。慌てながらついていく私が問いかけると、トラが小さく振り返りながら口を開いた。
「町の猫たちの間で有名な家があるんだ。『いつも肉の焼ける美味そうな匂いを漂わせている』ってな。引っ越しが終わる前にそこに行きたい」
「それって……あ」
言われて、もしやと思った瞬間。トラが立ち止まった。細い路地と細い通りの交差点、その角のところ。赤ちょうちんが灯ってぶら下がっているそこが、目的地らしい。
「ここ?」
「おそらくな」
トラに問いかけると、彼はこくりと頷いた。見れば見るほど、この店は。
「……居酒屋じゃん」
そう、居酒屋だった。住宅街のただ中にある、小さな居酒屋。こういう店が美味しかったりするのは定石だが、こんなところにあるなんて知らなかった。
スンと鼻を鳴らしながらトラが言う。
「こういう店では金を払って飲み食いするんだろ? それならご主人の手を借りないといけない。俺に稼ぎは無いからな」
そう言いながら空を見上げるトラは、どことなく寂しそうだった。
たしかに獣人のトラは、いくら知らない人から人間に見られると言っても人間ばかりの会社では働けない。最近は在宅の仕事も増えてきたし、獣人を受け入れている会社も増えてきたから働き口がないわけではないのだが、今の所当人にその気がないのでニートである。
だから、気軽に飲みに出るなんてことは出来ないのだ。私に付き添ってもらわないとならない。普段は家で食事をするのが基本だから、こういう時でないと居酒屋には来れないわけで。
「トラ、もしかして、引っ越しで荷物全部片付けたのも」
「食器も全部梱包したら、外でメシを食うか、買ってくるかのどちらかしか無いよなぁ? ご主人」
私が問いかけると、いたずらっぽく笑いながらトラが言った。
こいつ、分かっていて食器も調理器具も全部梱包できるように手伝ったな。でもこういう形で私にもリターンが返ってくるなら、問題はない。どのみち今日や明日、引っ越してからの数日は外食なり買ってくるなりしか仕方ないのだ。
なんだか嬉しくなって、私はトラの脇腹を小突く。
「……ふふっ。やるじゃん」
「何だよ、いいから入るぞ。さっきからいい匂いが鼻をくすぐって仕方ないんだ」
ぶすっとしながら、トラが居酒屋の引き戸に手をかける。元気のいい店長さんの「いらっしゃいませー!」の声が、私とトラを出迎えた。
猫の手を借りたら猫に手を貸せと言われた件 八百十三 @HarutoK
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