不老不死を舐めた猫 【KAC2022】-⑨

久浩香

不老不死を舐めた猫

 猫に九生あり。


「腹いっぱい食えるようにしてやるぞ」

 彼女が瀕死の猫に取引を持ち掛けられたのは9歳の時だった。


 彼女は、杭州こうしゅうから北京へと食料を運ぶ底辺層の貧しい兵士であったしょうりんという男の娘であったので、その日もお腹を空かせていて、一も二もなく了承し、猫の言う通りにした。


 夜遅くに帰って来た彼女に、心配していた母親が理由を聞くと、

「猫の死骸を埋めてたの」

 と答え、母親は、彼女の内腿を伝い踝に届く血液に、

(まぁ、初潮を迎えたんだわ)

 と思った。


 娘になった彼女は、可憐で可愛らしく、求婚者は引きもきらなかったが、どうした事か、婚約が調うと間もなく、急病に罹ったまま事切れたり、落馬して首の骨を折ったり等して、14歳になった時には、六礼りくれいを終えた7人目の婚約者が死亡した。


 誰でも命が惜しい。どれほど嫋やかで麗しかろうと、呪われた娘を妻にしたいとは思わない。否、彼女に子胤を注ぐ事もできないのだ。子孫を残せぬ結婚など意味は無かった。


 貧困に耐えて娘を育てる冥利は、良家に嫁がせ礼品を受け取る事だ。しかし、最早、結婚させる事が絶望的な娘を、これ以上は無駄に養う事はできない。しょうりんは、彼女を鎮守太監ちんじゅたいかんに売った。


 彼は宦官であったので、どれほど彼女の美貌が際立っていようと、肌の滑らかさを愉しみ、羞恥に潤み悲愴に振るえる姿を見て、自らに巣食う淫虐心を晴らすがせいぜいであって、詩歌を始めとした様々な教育を施した。

 彼女の支度を整えるのにかかる充分な時間、天順帝てんじゅんていの寿命はもった。鎮守太監の思惑通り、彼女は見深けんしん皇太子の嬪妃ひんひの一人に選ばれて後宮に入った。



(どうだい? 腹は膨れたかい? 腹いっぱい食えただろう?)


 シシシッという厭味ったらしい笑いと共に耳の奥で声が響いた。

 美しく肌触りの良い漢服を着た彼女に、充分な食事を与えられていた。しかし、即位した第9代皇帝成化帝せいかていは、外戚の専横を避ける為に庶民の中から選りすぐった聡明な美女達よりも、生まれた時から献身的に仕えてくれた19歳も年上のばん皇貴妃こうきひを、彼の持つ全ての愛でくるんでいた。


「全ぜ…ん、足りな…い」


 彼女は飢えていた。女がである。

 彼女には経験があった。一匹と七人とである。だが、七人を受け入れたのは、それぞれ一夜ずつであったし、彼等も若さだけが取り柄で、自分勝手に動く事しかしなかったので痛みが勝った。それでも、その向こうに限りない快感が待ち構えている事を彼女に夢想させるには充分な経験であった。


 さて、後宮に入るには処女である事は絶対条件であるし、そこの形が歪み、自身で慰めた陰りさえ弾かれる対象となりえるので、彼女のそこに触れるのは、排泄の後始末をする宮女に限られ、鎮守太監さえ、そこには指一本触れずに検査と称した視姦に留め、彼女自身にも触らせなかった。

 彼女は処女であった。猫に九魂あり。猫の命を8個使ったのだ。これは猫にとっても誤算であったが、残る1個は、まだ彼女の中に巣食っていた。


 猫は、床榻寝台に仰向けに寝そべる彼女の神経の中を縦横無尽に蠢いていた。彼女の皮膚一枚下の層をジワジワと愛撫するのだ。猫もまだそこには触れない。皇帝が触れていないからだ。だが、もどかしくも延々と続く愛撫は、辛くなるほど甘美であった。


「っ……」


(まぁ、待ちな。いずれきちんと満足させてやっから)


「ほんとっ!」


 反射的に満開の華になった彼女が(しまった)と思う前に、彼女の網膜には、目を弓状に細めて、厭らしく口の端を吊り上げた猫の顔が映った。


 ザリッ。


 彼の舌が顎から鼻頭を目掛けて舐め上げた感触があった。

 彼女は湿っているわけでもない唇を手の甲で擦り、眉間を顰めた。

(しかつめらしい顔すんなよ。鎮守太監の手なんかより、よっぽどいいだろ)

 耳の奥に聞こえる声に、図星をつかれた腹立ちと、そこ以外を這い回るザワザワとした刺激に悦んでいる事が悔しく、唇を噛んだ。



 万皇貴妃が命懸けで産んだ第一皇子は夭折した。

 もう子供を望めない彼女に心を残したまま、成化帝はようやく後宮の嬪妃達を思いだしたが、孕ませて、賢妃けんひにした女の産んだ第二皇子は毒札され、万皇貴妃への想いと亡くした吾子の天秤に揺れる彼は、二度目の恋に堕ちた。

 嬪妃ではない。家族全員を皆殺しにした少数民族の捕虜の娘で、唐妹とうまいという宮女女官であった。嫌がり許しを請う彼女が新鮮だった。万皇貴妃は、妊った上に、成化帝の二股に分かれた一方の心を握る彼女に嫉妬し、堕胎薬を飲ませる等して、ジワジワと陰湿に罠をしかけ、追い詰めていった。


 自分の心が一つで無い事を知った成化帝が、どちらにも加勢せず、次の恋を探して夜の後宮を徘徊している時だった。


 ニャーッ


 近くで猫の鳴く声が聞こえた。

 辺りを見回すも姿が見えない。気のせいか、と踵を返しかけた時に再び、


 ニャー……


 と、今度は遠くに聞こえた。

 諦めかける度に鳴き声が響き、その鳴き声の方へ向かうと、今度は女が詩を口遊む声がした。

 なんともいえぬ悲哀に満ち溢れ、胸の奥が締め付けられて苦しくなるような哀愁が成化帝を苛んだ。

(声の主は、朕に愛されたくて悶えている)

 覗き見れば、夜露に濡れた艶やかな芍薬。彼はゴクリと生唾を飲み込んだ。

 舌を絡める口づけをすれば、成化帝の飲み下した唾液から彼女の中の猫は成化帝の中に潜り込む。生身の肉体を得た猫は、成化帝が自分のクセとは違う不思議を思わせぬまま、猫の性技で彼女のそこへついに触れた。


 成化帝にとって彼女は、父皇帝が蛮族の捕虜となっている内に、皇帝に即位した叔父に廃太子された幼い頃に食べた、熟れに熟れ、腐り溶ける直前のものを皿に乗せて出された無花果イチジクであった。

 果肉を包む皮は透ける程に薄く、持ち上げようものなら蕩ける。背に腹は変えられず、食うには犬のようにむしゃぶりつくしか術はない。しかし、いざ味わえば五感は喝采を上げる。えた匂いさえかぐわしい強烈に豊潤な甘露を引き立てる最高のスパイス。

 夢中になって皿まで舐った。掌も口の周りもベタベタに汚し、当時はまだ侍女であったばん皇貴妃に「情けない。口惜しい」と泣かれたのだ。


 一度、情を繋いだ体なら、成化帝はもう猫の領分である。心を支配下に置く事はできないまでも、微弱な誘導は可能であり、万皇貴妃が李唐妹に標的を絞っている間に、成化帝を彼女の房に通わせるなど容易い事であった。


 彼女が最初の子を妊った頃、唐妹とうまいは身も心も窶れ果てて狂死した。しかし、李唐妹の産んだ第三皇子の祐樘ゆうとうは、宦官によって密かに育成されており、親子の体面を果たした成化帝は、祐樘を立太子させ、李唐妹へは淑妃しゅくひを追贈した。


 その翌年、第四皇子の祐杬ゆうげんを産んだ彼女はしょう宸妃しんひとなった。

 五十近い万皇貴妃に、もう邵宸妃をいたぶる気力は無かった。



(どうだい? 腹は膨れたかい?)

 猫は、祐杬の後にも成化帝の男子を2人産み、しょう貴妃きひに進封された邵宸妃に声をかけた。


「陛下が崩御されてしまった」


(そいつは、仕方ない。あいつが惚れてたのは、結局、万皇貴妃だけだったって事さ)


「そんなのはどうでもいい。でも、体の疼きは止まらない。たっぷりと子胤を注がれたこの肉体が、それ以外を求めてない事は解ってるんでしょう?」


(宦官に金を渡して、男を呼べばいい。そしたら又、痺れさせてやるよ。寡婦の密通なら警備も甘い)


わらわの息子は皇帝じゃないのよ。バレたら殺されるかもしれないわ」


(…)


「そうよ。妾の子を皇帝にして。いいでしょう? 手を貸してよ」


(……間に合えば、な。ああ、でも。そうだな。後胤なら皇帝にしてやるよ)


「妾が生きてるうちによ。廟の中で皇后になっても仕方ないもの。妾は皇太后になりたいの」


(………わかったよ)



 祐杬ゆうげんの長男の厚熜こうそうが、第12代皇帝嘉靖帝かせいていとして即位したのは、正徳16年4月22日(1521年5月27日)の事である。

 猫の手を借りた貴妃は、孫が即位した翌年、寿安皇太后と尊封されたものの、嘉靖元年11月18日(1522年12月5日)に逝去した。


 嘉靖21年。

 宮女15人による嘉靖帝暗殺未遂事件が起きた。

 妃の寝所で眠っていたところ、彼女達は皇帝の体を抑えつけ、首に縄を巻いて縊ろうとしたのである。しかし、彼を絞め殺す事は出来ず、簪を突き刺して傷を負わす事はできたが、皇帝は死ななかった。

 壬寅宮変じんいんきゅうへんという事件である。


(おめぇの祖母ばあさんのお陰で命拾いもしたが、そのせいで力も使い切っちまったんだからな)


 猫は今、嘉靖帝の中にいた。縁の無い人間に影響を与えるのに最後の一つの魂を使い切った。

 もう完全に消滅したと思った。

 しかし、猫の魂は生まれたばかりの厚熜こうそうの中に転移した。成化帝の肉体でもってしょう宸妃しんひを満たすのに、猫の精が含まれていたのが原因の一つだ。しかし、それだけなら3人の息子達の中に行きそうなものだが、猫の力が尽きるまさにその時、厚熜こうそうが彼の正室に向かって精を放つ時刻が重なった。そしてその時は、六十年前、しょうりんしょう宸妃しんひを受胎させる胤を彼の妻に放ったのと同時刻であり、邵宸妃と嘉靖帝は同じ丁卯ひのとうの生まれであった。


 その3つの偶然と、猫が猫の体で邵宸妃を犯した時、彼女の初潮を舐めたのが、今、彼を生かしている決定打になった。


 嘉靖帝が宮女達に暗殺されかけたのは、彼がこさえさせた不老不死の妙薬の材料に起因するとされている。


 宮廷には数え切れぬ程の美少女が集められ、彼女達は朝露しか口にする事を許されず、月経血を採取した物を丹薬として強壮剤とし、初潮を使用したものを不老不死の妙薬とした。


 嘉靖帝が崩御したのは、嘉靖45年12月14日(1567年1月23日)の丁卯。

 長年服用した丹薬の中毒死であった。丹薬の効能かどうかは解らないが、副作用で凶暴化した彼は、一晩に10人以上の女と交わりながら、殺害する事もよくある事であったそうだが、不老不死とはならなかった。


 だが、彼の中にいた猫は…。

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