にゃんこハンド・イン・わんだーらんど

真野てん

第1話

 朝起きると手がしびれて動かなくなっていたので、飼い猫の手を借りた。


 動かなくなっていたのは左手だけだったが、急いでいたので両腕とも借りた。


 なのでいまぼくの手は前腕のなかばほどからにゃんこの手である。

 茶色い毛並みで指先にいくほど濃い色をしている。

 丸みを帯びたふにっとした形が我ながら可愛らしい。いわゆる「あんよ」というヤツだ。


 ちなみにいまぼくの腕は、飼い猫がつけている。

 言わずもがなだが恐ろしい見た目をしており、わずか全身の10パーセントほどが挿げ替えられただけに過ぎないのに、あの愛らしいお猫さまが、深淵から這い出してきたクリーチャーのようになっている。


「にゃあ」


 でも鳴き声はカワイイ。


「行ってきます」


 ぼくは仕事へと向かった。

 玄関に鍵を掛けるのも一苦労だったが、車の運転はわりとすんなりいけた。

 ハンドルに肉球を押し付けるようにして操作すれば、あとはそれほど難しい技術はいらない。マニュアル車への憧れはあったが、オートマにして良かったと思う。


 会社へ到着すると、皆、意外なほど好意的であった。

 女子社員などはぼくの手を見ると「肉球カワイイ~さわらして~」と行列が出来るほどの大人気である。

 これはモテ期が来ているのでは、と勘違いのひとつもしたくなるものだ。


 朝礼が終わるとすぐさま課長からお声が掛かる。

 普段は別の同僚に回ってくる上得意さまに見積もりを出してみろと仰せだ。


「年度末だし、猫の手も借りたいんだからな。なんつって」


「も~課長やだぁ。オヤジギャグですよぉ」


 と、なんだか課全体の空気もいつもより明るい気がする。

 めちゃくちゃ仕事がやりやすい。


 しかしさすがに猫の手では、パソコンのキーもブラインドタッチというわけにはいかない。

 ひとつひとつをまるで、毛布をもみもみするときの猫のように打鍵していく。


 なんだかOLたちの視線がアツい。

 きっとカワイイって思われているんだろうな。

 仕方がない。

 ぼくだってカワイイと思うもの。


 そのうち隣にいた女子社員から「じれったいな、もう! 貸してっ」とクレームを頂戴する。

 加藤さんだ。

 彼女の座った椅子がキャスターを滑らせてぼくの椅子にガツンと衝突した。

 長い髪がふわっと舞い、淡いシャンプーの香りが期せずしてぼくの鼻腔をくすぐる。


「あ、ありがとう。んじゃここの金額なんだけど――」


 彼女の手伝いもあって、先方さまにもご満足いただける内容となった。

 もちろん他社との相見積もりの結果待ちとなるが、ぼくにとってはそんなことよりも彼女との素敵な時間が愛おしかった。


 昼もあっという間に過ぎてゆき、終業迫った午後の五時。

 両手の肉球でマグカップを挟んでコーヒーと飲んでいると、爪が伸びているのが気になった。

 そう言えば最近、猫の爪切りをさぼっていたなと思い至る。


 ぼくはコーヒーを飲む手を止めて、デスクの引き出しから爪切りを取り出した。

 しかしながら、というか当然のことながら、猫の手のままでそんな器用なことが出来るわけがないじゃないか。

 とほほ――と思っていると、またしても加藤さんが「切ったげようか?」と世話を焼いてくれるのである。


 柔らかなぼくの指先をむにゅっと押して、彼女は手慣れた様子で尖った爪の先を切り取っていく。猫の爪は根本に血管が走っているので切り過ぎは要注意だ。


「上手でしょ? うちも猫飼ってるんだ」


 そういう彼女の口元は艶やかなグロスで潤んでいて。

 いつも仕事中に盗み見る表情とは全然違っていた。ひとは好きなものを語るとき、こんな笑顔になるんだと感心させられる。


 ほわほわとした気持ちのまま、その日は帰宅した。

 またぞろ玄関の鍵を開けるのが面倒であったが、ドアを開けるとクリーチャーと化した我が愛猫が、ぼくの帰りを待っていた。


「にゃあ」


 その瞬間。

 ぼくと猫の手は入れ替わった。

 しびれも完全に取れており、視界に広がる十本の指。

 貧相な手相もそのままだ。


 ホッとしたような。がっかりしたような。

 これでまた明日からは、普通の一社員に戻るんだな。


 そんな気持ちで寝床につくと、愛猫も一緒に布団の中へと入ってくる。そういやここしばらく寒の戻りで冷えるもんな――。


「にゃあ」


 顔の前で大きく口を開けひと鳴きすると、ぼくの脇のあたりを前脚で掘り始める。

 腕枕をしろという合図である。


「はいはい」


 脇をすこしだけ開けてやると、倒れ込むようにして頭を乗せる愛猫。

 ずしりと二の腕に掛かる体重に、こんな重かったっけと苦笑する。キャットフードを食べさせすぎだろうか。去年の寒い時期よりも成長した気がする。


 しばらくすると眠気が襲ってくるが、どうにも左腕がしびれて寝づらい。

 愛猫の想いが重い――なんて考えていると、ふと思いつく。


「手しびれたの、こいつのせいじゃね?」


 これは明日も猫の手を借りねばならない。

 ああ、困ったなぁ。

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にゃんこハンド・イン・わんだーらんど 真野てん @heberex

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