猫の手を借りた結果

惟風

猫の手を借りた結果

 ワンルームの玄関を開けて、電気もつけないままベッドに倒れ込む。

 憎しみに包まれている。

 もはや何に対しての憎悪なのかわからない。


 連日のサービス残業か。

 上階の夫婦喧嘩の騒音か。

 当て擦りまみれの実家からの便りか。

 渋すぎるガチャの確率か。

 狙っていた半額寿司を目の前でジジイに掻っ攫われたことか。


 先月俺を振った彼女が今日SNSでデキ婚を発表したことか。


 どうでも良い。

 一つ一つは奥歯をギリギリ言わせながらもやり過ごせ――なくもない出来事も混じってはいるが。

 どうでも良いのだ。


 もうコツコツ働くのも、

 ご近所さんににこやかに挨拶するのも、

 親に仕送りするのも、

 推しキャラ引くために課金するのも、

 お年寄りに道を譲るのも、

 やめだやめだ。

 恋愛に関しては向こうからやめられたしその後は新しく始めることすらできない。


 真面目に生きるなんて、やめだ。

 俺はこれからワルになってやる。

 自分勝手に、欲望の赴くままに。

 重たい身体を無理やり起こして、浴室の湯はりボタンを押す。


「お風呂が沸きました」


 格安チューハイを呷っていると、軽やかなメロディと共にアナウンスが流れた。

 うるさい。自分で湯はりをセットしたのは重々承知しているがそれでもうるさい。

 最近、ちょっとした音にも、文字にも過敏になっている。

 脳の中がくだらない雑音でひしめき合っている。

 クソが、なんて毒づきながら服を脱ぐ。自分の発する言葉すらうっとおしく聞こえる。

 ノイズを酒で流し込む。全部手放せたら軽くなるのか。


 俺はワルになってやる。

 酔った状態で、熱い湯で半身浴をしながら、惰眠をむさぼってやる。

 身体に悪いとか溺れて危ないとかどうでも良い。

 もう俺はワルなんだ。


 かけ湯もしないで直接湯に入る。

 冷え切った身体に熱さが染み渡る。

 狭い浴槽の中、限界まで身体を伸ばす。

 固まった手足が解れていく感覚が広がっていくと共に、目からも熱いものが流れてくる。


 惨めだな。


 世界に対して当てつけをしようにも、こんなことしかできない自分の卑小さが、心の底から惨めだ。


 愛してた。

 愛していたのに。



 壁にある、黒猫のステッカーを見る。

 先月出ていった元カノが、「可愛いから」と貼り付けたものだった。

 見る度に、昔実家で飼っていたポン太を思い出す。


 餌は高いのしか食べないし、食い意地が張ってるくせにすぐに腹を壊すし、押し入れに隠れて吐くし、宿題しようとしてるのにノートに乗ってきて邪魔するし、そのくせ撫でようとすると引っかいてくるし、でも臆病で来客があると俺のカバンの中で隠れて震えている情けない奴だった。

 ワガママでいつもは俺の言うことなんか全然きかないくせに、爺ちゃんが死んで俺がメソメソ泣いてた時は、俺の背中にぴったりひっついてきた。

 思い返せば、可愛いとこもあるやつだった。

 今の弱ってる俺のこと、もう一回、助けてくんないかな。

 嫌なことばっかりで、頭の中が、忙しいんだ。


 ステッカーを眺めていると、酔いのせいかゆらゆらして見えて、次第にそれはどんどん膨らんできた。

 しまいには壁から浮き上がり、俺の頭の上で揺れている。

 こいつは夢だなと思った瞬間、身体を支えていた手足が湯船の中で滑った。

 鼻と口に一気に湯が入り込み、ガボガボと息が漏れる。

 苦しくてもがく俺を、ポン太がジッと見下ろしている。

 思わず手を伸ばすと、ポン太の前足が指先に触れた。

 握ろうとしたけどそれ以上は届かず、視界はブラックアウトした。


 寒さを感じて目を開けた。

 いつの間にか栓が外れていて、裸の自分が空の浴槽に横たわっていた。

 身体を起こすと、右手に黒猫のステッカーが絡まっていた。前足の部分が破れている。


「ポン太……なわけ、ないよな」


 乾いた笑いしか出ない。

 酔って溺れかけて、何をやっているのか。

 でも、一瞬死ぬような思いをしたせいか、少し頭がスッキリした。

 明日は会社サボろう。かまうものか。

 侘びしい気持ちは、涙と一緒に風呂に流れていったんだ。


 久しぶりに実家に帰ってみるかな。

 口うるさい両親と顔を合わせるのは気が重いけど。


 三毛猫ポン太にちゅーるでも買ってってやろう。これ以上太らせたら獣医さんに叱られそうだけど、ちょっとくらい良いよな。俺ワルになったし。

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