虚構の愛と忍ぶ恋

葛瀬 秋奈

忍び難きを忍ぶ者

 日曜日の午後、花園はなぞの紫苑しおんは一人で使うにはやや広い畳敷きの自室にて少女漫画を読んでいた。漫画といえど本人は至って真剣に背筋を正して読んでいる。


「ふぅ……」


 ため息をつきながら美しい姿勢で優雅にページを捲る姿はまるで深窓の令嬢のようだ。実際に令嬢ではあるし外見も美しいのだがそう呼ぶことを戸惑わせるのは、彼女の内面の問題か。よく言えば親しみやすく、悪く言えば俗っぽい。


「お嬢様、そろそろお茶を飲んでいただかないと冷めてしまいますよ」


 机を挟んで向かいでお茶を啜っていた書生風の少年、奥村おくむら惣一郎そういちろうが声をかけた。惣一郎は表向き花園家に住み込みで働く使用人だが、実際には警護役兼お目付け役として幼い頃から紫苑の側で仕える忍びだ。紫苑の為にお茶を淹れたのも彼であり、ちゃっかり自分の分も用意している。


「わかっているわ。でもあと3分」

「俺が良くてもお茶は待ってくれませんよ。新しいのを用意しましょうか?」

「……それはもったいないわね」


 どんなに暮らしが豊かでも食べ物だけは粗末にしないというのが紫苑の信条だ。


「別にこの惣一郎が飲んでしまいますのに」

「駄目。さっき一度口をつけたもの」


 紫苑はパタリと本を閉じて湯呑みに口をつけると、少し冷めかけたほうじ茶を喉の奥へと流し込む。


「うん、美味しいわ。また腕を上げたようね」

「味わう間もなく流し込んだくせに。ところでその漫画、また読んでるんですか」

「名作は何度読んでもいいものよ。今、ちょうど革命前夜でね、アンドレが……うう、アンドレがね……」

「内容は知っているのでご説明いただかなくて結構ですし何度も読んでる内容でよく泣けるものだと感心しますが、あのブラビリ野郎のどこがそんなにいいんですか?」


 唐突な惣一郎の暴言に紫苑は机を叩いて抗議する。


「アンドレを侮辱しないでちょうだい!」

「いくら叶わぬ恋だからといって女性を押し倒して服を破ったり心中未遂をするような男を肯定してはいけませんよ。はしたない」

「た、確かに現実ではちょっと問題あるかもしれないけど……でもフィクションだし。それにアンドレは一途なの。オスカル様だけのヒーローなんだから」

「愛さえあれば許されるとでも?」

「そうよ!」

「…………なるほど」


 感情に任せて言い切ってしまってから紫苑は内心で少し後悔した。惣一郎を怒らせると後が面倒なのだ。が、不機嫌になるかと思われた惣一郎は顎に手を当てて何事か思案している。

 もう一度声をかけようかと紫苑が迷っていると一瞬で隣に移動してきた惣一郎に肩を掴まれた。


「お嬢様」

「な、何かしらっ?」


 驚きのあまり声が裏返った。


「お忘れかもしれませんが、俺もお嬢様だけのヒーローなんですよ」

「私だけの……ヒーロー?」

「いつか言ってくれたじゃありませんか……『そういちろうはしおんのハットリくんね』と……」

「いつの話をしてるのよ」

「7歳のときですから十年前かと」

「よく覚えているわね……っていうか明らかにそういう話じゃないでしょ」

「ハットリくんは忍者界のヒーローですが?」

「確かにそうだけど! 話の流れ!」


 かつて、忍者漫画にハマっていた紫苑は本物の忍びの惣一郎を半ば無理矢理つきあわせて忍者ごっこをしていたことがある。その件については紫苑も多少は反省しているが、少なくとも今の状況には関係あるように思えない。


「とはいえ流石に自分をヒーロー扱いはおこがましいかもしれませんが。幼少の頃より陰に陽にお嬢様を支えお嬢様だけを慕うこの惣一郎も、あの男と立場は同じはず」

「えっ……そうかしら?」

「身分は弁えておりますから、多くは望まぬつもりでした。我らは忍び難きを忍ぶ者。ですが肝心の貴女がそういう心づもりなのであれば、もう我慢は致しますまい」


 まるで事前に考えてあったかのごとく妙に芝居がかった台詞を早口で捲し立てる惣一郎に紫苑の処理が追いつけなくなっている間に、だんだん惣一郎の顔が近付いてきている。この男はこんなにまつ毛が長かったろうかと紫苑は明後日なことを思った。


「何をするつもり……?」

「お嬢様の考えている通りのことを」

「フィクション! あれは全部お話の中のこと! ちゃんと言いました! それ以上近寄ったら惣一郎のこと嫌いになるからね!」

「…………」


 惣一郎は涙目になって反抗する紫苑を真顔でじっと見つめていたかと思うと、突然ぱっと体ごと紫苑から離れた。


「ええ、勿論『フィクション』ですとも?」


 大仰に手を広げ笑う惣一郎。紫苑は何度か瞬きをしながらその姿を見ていたが、発言の意図を理解するにつれだんだんと顔を赤らめる。


「謀ったわね、この不忠者!」

「何が不忠なものですか。主の間違いを身を挺して諌めるのも立派な忠義ですとも」

「フィクションと理解して楽しんでるんだから間違いじゃないでしょうが」

「俺の前であんな話をしたのが間違いです」

「理不尽!」

「ハッハッハ」

「だいたいね、私はオスカル様とアンドレみたいな絵になるカップルが好きなだけなの。別に私だけのヒーローが欲しいわけじゃないの」

「ほう、そうだったんですか」

「そうよ。それこそいつも助けてくれる惣一郎がいれば充分。だから妙な真似をして首になっては困るのよ?」

「……はい。これからもお嬢様のお側に」

「うむ、苦しゅうない。とりあえずお茶のおかわり頼むわね」

「合点承知!」


 子供のように笑いあい、二人は何事もなかったかのように日常へと帰る。いつか庭先でごっこ遊びをしていたあの頃と同じく、大人になる日を先延ばしにして。


「そもそも今の惣一郎じゃ中身ほぼ天膳じゃない。ヒーローどころか悪役だわ」

「誰だこの人に山田風太郎読ませたのは。せめて小四郎でお願いします!」



 余談になるが。

 本気で無体を働くつもりはなかったものの、惣一郎の告白はほぼ本心である。彼の一連の行動が漫画のキャラクターへの嫉妬心によるものだということを、紫苑は知らない。

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