鯨の歌よ、花に届け

藤咲 沙久

あの子だけに聴こえる五十二ヘルツ

【52ヘルツの鯨】



52ヘルツの鯨とは、正体不明の鯨の種の個体である。他の種より遥かに高く、非常に珍しい52ヘルツの周波数で鳴く。この鯨はおそらく世界で唯一の個体であり、「世界でもっとも孤独な鯨」とされる。



             (参考:Wikipedia)





『鯨の歌よ、花に届け』





 初めての個展。一日目は、まずまずの客入りだった。それだけでも俺は安堵で震えそうな思いだ。土日のたった二日間、しかも駆け出しの画家の絵。見るだけでなく購入までしてもらえた、その感動だけで準備期間の疲労も緩和される気がした。

 そうして土曜も終わろうとしている。閉めるまであと一時間をきった。これ以上人が来ることはないだろう。

「ふぅ……」

 人目がないのをいいことに思い切り伸びをして、狭い空間に並んだ作品たちを眺めた。慣れない緊張で身体が軋む。個展なんて接客じみた会話が必要なものを開くのは、かなり勇気のいる決断だった。

 楽しい、悲しい。そういった感情を人と分かち合えない、共感が出来ない生き物。自分のことを今でもそんな風に思う。それはどうしたって変えられなくて、今でも周りと同じフリを続けている。でも、そうやって“擬態”するのは、昔より少しだけ息苦しくなくなっていた。

(あの子は今頃どうしてるかな……)

 同じじゃなくてもいい。同じじゃなくても一緒にはいられる。そう言ってくれた無垢な少女。とある鯨について話し、笑わされたのが懐かしい。出会った当時まだ俺は大学生だった。あの夏以来帰省していないが、彼女はそれを理解しているだろうか。俺を探してやいないだろうか。

 室内は空調が効いて心地よい。ここから一歩外に出れば、九月の夕暮れが未だ暑さを孕んでいる。あの子に会っていたのもこんな季節だった。

 ──ガラガラガラガラ、と。静かな空間を割り裂くように、スーツケースを転がす音が響いた。ハッと顔を上げる。どうやら音を立てないよう一生懸命らしく、試行錯誤を繰り返すように歩く女性が入ってきていた。袖無しの鮮やかなワンピースが若々しい。恐らく今日最後のお客さんだ。

「……どうぞ、ごゆっくり」

 自分でも不器用だと感じる声音で声を掛けると、女性もこちらに気づいたようだ。ピタリと足を止める。深く被った、つばの広い麦わら帽子で顔はよくわからなかった。

 その女性は何か口を開いたようだが、特に言葉を発することなく、黙って展示を見始めた。またガラガラと音が鳴る。荷物を預かるべきか迷ったが、声の掛け方がわからなかった。

(もうすぐ時間だな……)

 閉館を気にして時計を見たとき、女性はちょうど最後の一枚の前に立っていた。まるで縫い止められたように動かない。それは俺にとっても大切な、本当に飾る為だけにもってきた作品だった。

「……絵は、昔からお好きなんですか?」

 俺と女性しかいないのだから決まっているのに、一瞬誰が喋ったのかと思った。絵を見つめたままの彼女が俺に話しかけていたのだ。慌てて姿勢を正す。

「ええ、まあ。ずっと画家になりたかったので」

「夢を叶えられたんですね、素敵。この絵にはモデルがいらっしゃるの?」

 滑らかに投げ掛けられる質問は、どうしてか耳に心地よかった。不思議な気持ちをもて余しながら、俺も女性と一緒に絵を見上げた。

 額の中には鯨と、ヒマワリと、赤いランドセルを背負った子供がいた。ヒマワリ畑を泳ぐ鯨が少女に寄り添っている。いや、本当は……少女が鯨に、寄り添っている。

「モデルというと大袈裟ですが、学生時代に俺の、僕の描いた絵を気に入ってくれたお嬢さんがいたんです。絵といってもラクガキです。そのお嬢さんを描きました」

「じゃあ、夢を叶えて今も絵を描くあなたは、その子にとってヒーローですね。とってもカッコいいもの」

 俺を格好良いなんて言う人は、それこそお嬢さん以来だ。すかさず否定しようとしたが、ふと思うところがあって止めた。

「逆かな……」

「え?」

 女性が不思議そうな声をあげる。俺は、うまく言えないんですけどと前置きしてから、自分の髪をぐしゃりと乱した。

「僕が今も絵描きでいられるのは、彼女のお陰なんです。あの子にとっては普通のことを言っただけでしょうし、あの子自身も普通の女の子だ。でも」

 言葉を区切って、懐かしい笑顔を思い出す。俺が俺のままで居ていいのだと少しだけ思えた、大学四年の夏。まだ蝉が名残惜しそうに鳴いている暑い日だった。

「俺にとってだけは、ある意味ヒーローのような存在だったのかもしれません」

 言いながら段々と頬が熱くなる。十も離れた女の子のことをヒーローだなんて、それもいい歳した大人が何を言っているんだろう。

 女性はフッと微笑んだようだった。馬鹿にしたようには聞こえなかったが、俺にはそれが逆に恥ずかしく思えた。

「この鯨はきっと……綺麗な五十二ヘルツで鳴くんでしょうね」

 五十二ヘルツ。女性の言葉に自分の目が見開かれたのがわかる。俺はその話を誰にもしていない。この鯨は、他の誰が見たって“ただの鯨”だ。種を定めず描き、解説もしない。これが五十二ヘルツの鯨だと思っているのは俺だけのはずだった。


 ──わあ、渡り鳥さん上手! それ何か特別なクジラなの?


 ただ一人。あの夏、俺が描いたラクガキに瞳を輝かせた少女以外は考えつくわけがないんだ。

「貴女は……お嬢、さん……?」

「また私の名前忘れちゃったの? イジワルな渡り鳥さんね」

 不意に砕けた言葉遣いはどこか幼く、振り向きざまに帽子のつばが揺れた。ようやく見えた表情は照れくさそうな笑顔だった。いつかの夏休みを思わせる呼び方に、胸が震える。

 自分の体温が上がったのを感じた。背中をじわりと濡らしたのは、もしかして汗か。この居たたまれなさは、本人に胸の裡を暴露してしまったことへの羞恥なのか。ここまで動揺するのは久しぶりだった。

 空調が切れたのではと疑いながら、記憶に刻まれた名をゆっくり紡ぐ。さすがに二度も忘れるものかと思いながら。

「……九条くじょうさん。九条、かなでさん」

「そうだよ。覚えていてくれてありがとう、蒼井律あおい りつくん!」

「“くん”って、貴女ね……そんな同級生みたいに」

 驚きのような戸惑いのような、心をドクドク鳴らす何かを鎮めたくて心臓の辺りを押さえる。でもあまり意味がなかった。せめて落ち着きの足しにならないかと、本日終了の札を出入口まで掛けに行く。

 俺が足音と心音を馴染ませながら戻ってくるのを、お嬢さんは大人しく待ってくれていた。もう、小さな子供だった時のようにくるくる回ったりしなかった。

「久しぶりだね。渡り鳥さんが……律くんが来てくれなくなってもう五年だよ。たまたま個展の告知を見て、律くんだって気づいて、飛んで来たんだから」

 そうか、五年も経つのかと改めて驚いた。ならばお嬢さんも十七歳になる。随分背が伸びた。顔立ちが大人びた。綺麗に、なった。変わらないショートヘアは今でも似合っている。

 俺たちの地元はここからだと半日は掛かる場所にあった。あんな田舎でも開催の知らせを知れるインターネットの力と、小さなスーツケースを引っ提げて突撃してくる彼女の行動力との両方に感服するしかなかった。

「来てはみたものの、私のこと覚えてないかもって急に不安になって。でも、この絵があったから……」

 再び作品へ向けられた視線が穏やかで、横顔はいつかのように輝いていた。目に痛いほど眩しい。彼女が今も真っ直ぐに、愛情深く育てられていることがよくわかる。

 素直で明るいまま在ってくれて、妙に安心するような心地だった。

「……貴女こそ、よく俺のことなんか覚えてましたね」

 鼓動が落ち着きを取り戻し始めたことで、やっと彼女に椅子を勧めるという考えに至った。腰を下ろすのを見届けてから、自分も座る。脚が引っ掛かって大きな音が鳴った。

「律くんのお嫁さんになってあげるって約束したもの」

「前にも言いましたが、俺はロリコンじゃないので結構です」

「もう子供じゃないんだから関係ないでしょ。律くんのけち」

「ケチで結構。あと既視感があるので先に言っておくと、エッチでもないです」

 先に言われた! なんて無邪気に貴女は笑う。五年という月日は長いはずなのに、こうして向かい合うと、神社の裏手で聞いた蝉時雨がつい昨日のことのように感じられた。

「ねぇ、律くん。またこうして会おうよ。それから本物のヒマワリ畑を一緒に見に行こう。そしたらまた、鯨の絵を描いて」

「貴女という人は、相変わらず元気ですね……」

 貴女が細い小指を差し出してくる。恩人ヒーローの申し出を無碍むげにも出来ず、俺は下手くそな笑みを返して、自分のそれと絡めてやった。

 五十二ヘルツの鯨は孤独で、唯一の個体。それでも隣にいることは出来ると貴女は言った。ただ考えてみて欲しい。そんな変わり者の隣にいようと思う奴だって、それなりに変わり者なんじゃないかと。だからそちら側だって珍しい。例えば九条さん、貴女がそうだ。

 今も昔も。こんなに俺の感情を目まぐるしくさせるのは、貴女ぐらいしかいないのだから。

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鯨の歌よ、花に届け 藤咲 沙久 @saku_fujisaki

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