明日という日が来るまでは

七氏野(nanashino)

明日という日が来るまでは

 人生何が起こるかわからない、とはよく言ったものだ。


 人の運命など、道端に転がっている石と同然。平気でコロコロと転がっていく。そう、俺の運命も、そんな風にコロコロと落ちてしまった。






 ある日のことだ。俺は普段通りに会社でのデスクワークをしていた。いつものような一日、何の変哲もなく過ぎていく。そのはずだった。


 しかし、突然変化は起こった。昼休み休憩後の午後二時。急激な頭痛が俺を襲った。ズキズキ、ガンガン、そんなありきたりな表現ではあらわせないような痛みだった。痛みで耐え切れずに倒れこみ、会社がざわめいていた。


 心配した同僚が呼んでくれた救急車で、俺は大きな総合病院に運ばれた。その間も頭痛は治まらず、ついに俺は耐え切れなくなり意識を失った。




 気が付いた時には俺は病院のベッドで仰向けになっていた。全面真っ白な空間が、やけに怖く思えて身震いしていると、看護師さんが気づき、ナースコールを押した。


 間を置かずして、白衣を着たきっちりした男性医師が駆け付けた。


「お加減大丈夫でしょうか」


「ええ、あの俺は」


「お話ししますが、重要な話なので、親族の方もお呼びしたいのですが。連絡着きますか」


「いません……親族いないんです」


 俺は素直に答えた。医師は難しい顔をした。


「では、このままお話しします」


「はい……」


 少しの沈黙が部屋を包む。


「検査の結果、厄介なものが見つかりました……」


 厄介なもの、という表現に、俺は不安を覚える。


 俺が生まれてから間もない頃、だから二十五年ほど前だろう、世界の医学が急激に進歩した。それまで三大疾病と呼ばれていたがんや脳卒中、心筋梗塞などの重大な病気、それだけでなくその他の様々な病気も、強力な薬の開発(よく言う万能薬の強化版とでも言ったらいいだろうか)によってほとんどの病気は末期でない限りは完治可能になっている。


 ということは、俺は末期の病気か? それとも治療に時間がかかるという意味なのか? 俺は息をのんで会話に耳を澄ませる。


「厄介なものとは……?」


「ええ……率直に申しますと、CU病と思われます」


「えっ……」


 CU病、俺はその病気に心当たりがあった。俺の友人にも発病した人間がいたのだ。まさかあいつと同じ病気になるなんて……


「詳しく説明しますので、まずこちらを……」


 医師は丁寧にその病気について説明してくれた。


 CU病。ここ数年で発見された病気。世界各国で年間百人ほどの発病者が出ているという極めてまれな病気。感染病なのか臓器から来るものなのか、原因不明。さらに治療法はほぼ皆無であり、予防もできない。唯一、発病すると急激な頭痛が起こること、心臓の具合から余命がかろうじてわかる(これはどうも発病者の心臓の動きが弱まるかららしい。だからと言って心臓が原因というわけでもなく、移植しても意味がないらしい)という。頭痛を薬で多少弱めることくらいしか施しようがない。心臓にあまり負担はかけられないが、それ以外は頭痛がするくらいで体にほとんど不自由さはなく、急性心不全のような死に方をする。


 だいたいこのような感じだ。


 そして俺の余命が告げられた。


 四日。


 あまりにも急に、あまりにも極端に俺の人生は終わりに向かっていた。人間本当にショックなことが起こった時には言葉すら出てこない。ただその事実が他人事のように思えた。


 医師は言葉を選びながら、俺に三日分の頭痛薬を処方すること、心臓に負担のかかることは避けること、ここからは医者ではどうにもならないから専門の人に来てもらうことを説明した。俺はそれに放心状態のまま返事をし、気づけば医師は部屋を出ていっていた。


 広い病室に、時計の針の音だけが響く。その一音一音の動きの中で、俺の短すぎる余生が着実に削られているのを感じた。


 しばらくして、部屋に一人の男が入ってきた。


 黒のスーツにズボン、そして白ワイシャツに青ネクタイというサラリーマンのような格好をしている。見た目的にどうやらこいつが“専門の人”なのだろう。


「失礼します」


「ええ……どうぞ……」


「今回あなたの専任付添人をさせていただくことになりました、カサラギです」


「あの、専任付添人って……」


 俺の質問に、彼は「はい、今説明します」と丁寧に言った。


 カサラギはクリアファイルに入った数枚の資料をテーブルに置き、椅子に腰かけた。俺は一体どうなるんだろう、と漠然とした疑問を抱えながら、俺は彼の目を見つめた。


「私は、あなたが生きていく手助けをするためにここに来ました。平たく言えば、それが専任付添人です」


 彼が手元にクリアファイルを置き、資料を引っ張り出す。


「まず、あなたはCU病重篤患者と診断されたため、国からの援助金を受け取れる権利が発生します」


「えっ」


「これがその見積書です」


「あの……」


「それから、あなたにいくつか書いていただきたい……」


「あっ、あの!」


 彼は驚いた様子で俺の顔をまじまじと見つめる。いや、驚いているのはこっちの方だから。


「いきなりいろいろ言われても、正直今混乱していて」


「ああ、ごめんなさい。私新人なもので、すみません」


 頭をペコペコしながら、はにかむカサラギ。いや、笑ってんじゃねーよ!


「あの、始めから詳しく話していただけませんか。何で医者じゃなくてあなたなんですか? というか結局何なんですか専任付添人って!」


「まあまあ、落ち着いてください。ちゃんと話しますから」


 俺をなだめながらカサラギは冷静に俺を座らせてきた。こういう対応はちゃんとしているようだ。全く、ちゃんとしてるのか、うっかりしてるのか。


「ではまず、医師についてですが、恐らくこのことは医師からも聞いていると思いますが、CU病は治療の施しようがないんです。さらに日常生活にほぼ支障はありません。ですので、医師からは薬が処方するほどしか対処がなしえないんです。無理に患者さんを拘束してもしょうがないですから」


「こんな重病みたいな扱いされてるのに、ですか」


「そうです。重病だからと言って、自由をなくす必要はありません。ですが、多少自由が利かなくなる点もございます」


「はあ……」


 カサラギは資料をこちら側に差し出した。


「ここからはあなたの今後についての話になりますが……専任付添人についての説明、したほうがいいですか?」


「まあ……お願いします」


 カサラギは首を縦に振りながら、「わかりました」と言った。


「では。私たち専任付添人は、主にあなたのようなCU病患者に付き添い、サポートをします。理由はいろいろありますが、まずは、これからの時間であなたがやり残したことを、できる限り全力でサポートします。また言いにくい話ではありますが、やけを起こしたり自殺することがないように監視する、という目的もあるのですが」


 カサラギは神妙な顔つきで淡々と話した。先程とは打って変わって、妙に説得力のある様子がした。それに言いにくそうなこともスラリと言いのけたので、どこか安心ができる。


「とにかく私は、あなたのことを全力でサポートします。それはお約束します」


「そうですか……あの、サポートって具体的には」


「ああ、すみません。順を追って説明するので。まずこちらから」


 カサラギはそう言うと、資料を俺のもとに差し出す。


 目の前には三枚の用紙が差し出された。一枚目に目を向ける。どうやら誓約書のようだ。内容は、


一、あなたは、これから余命日まで、法に触れる行為、または自殺をしないことを約束する。


二、あなたはCU病患者として、CU病患者援助金を受け取ることを了承する。


三、二を破った場合、強制収容施設に収容されることを了承する。


四、あなたに、専任付添人が常時付き添うことを了承する




 というようなものだった。強制収容施設という物騒なものには驚いたが、「何もなければそこに入ることは絶対にない」というカサラギの言葉に俺は納得し、サインをした。


 次に、援助金の見積書が出された。中にはグラフ上に細かい数字がびっしりと記されている。俺の場合は残り四日間だったため、二百万円だと言われた。正直額の大きさよりも、自分の死に対して支給される金がその程度なのかと落胆した。


 その用紙にもサインすると、「では」と言って彼がカードをを渡した。


 カードには、「CU病患者支援クレジットカード」と記載されている。どうやら説明を聞くと、これで支援金の使用ができるらしい。まあ十年前から紙幣を使用する人などほとんどいなくなったし、当然と言えば当然か(ちなみに俺は現金派だ)。


「あの……これでもうすべて説明終わりですか?」


「……ああ! まだ一つありました」


 カサラギはそう言い、せわしなく用紙を引っ張り出す。やはりどうも抜けている。


「こちらです」


「これって……?」


「目的達成支援書です。まあわかりやすく言えば、ToDoリストでしょうか」


 目の前にはそのToDoリストがある。一番上に目的達成支援書と記され、下に丸印が三つ。その他はすべて空白。とても簡素だ。


「何を書けば?」


「ありのままに、あなたが今すべきだと、したいと思うことを書いていただければ」


「そんなこと言われても……」


「大事なことです。ゆっくり時間をかけて、考えてください」


 彼に言われて考えてみる。俺が一番したいこと、何だろうか。


 こういう時、真っ先に思いつくものは普通、両親との会話、再会だろう。しかし、俺はその例に入らない。なぜなら、両親はもういないから。血の繋がっている人はもうこの世にはいない。それでも俺は、家族のような温かい人々や、かけがえのない友人に恵まれ育つことはできた。


 その中でも俺にとっての大切な存在、家族と言える人。それはもう一人しかいなかった。


 彼女だ。


同じ施設で暮らし、本当の家族のように絆を深めた。


そんな彼女と叶えたい願いなど、もう一つしかない。死ぬまでにどうしても叶えたい願いだ。


しかし、良いのだろうか。残り少ない俺が。こんな俺がその願いを叶えようとして、果たして彼女の幸せになるのだろうか。


自分に問いかけてみたが、答えなど出るはずもなく、俺は、自分の思いに従うことにした。


そう。彼女に、決めてもらえばいいんだ。


「すみません、一つ目、決まりました」


「そうですか、他はどうでしょう」


「ごめんなさい……なかなか決められなくて……」


「そうですか。大丈夫ですよ、そういう人もよくいるみたいですから。では、一つ目は何でしょうか」


「はい」


 俺は書いた紙を、カサラギに手渡す。


 願いはこうだ。


『彼女に、プロポーズをする。』




 俺の長い闘病生活が、始まった。




            *


 目覚めはあまりよくはなかった。薬を飲んだとはいえ、頭痛は完全には治まらないのだ。痛む頭を押さえながら、俺はミネラルウオーターで薬を流し込む。


「おはようございます。お加減大丈夫ですか」


 優しく訪ねてきたのは、彼女……ではなく、カサラギだ。


 彼は「専任付添人としての仕事ですから」と言って半ば強引に俺の部屋に押し入った。


 本当に専任付添人というものは四六時中俺の隣に付きまとうものなのか。そしたら俺の最初の願い、『彼女に、プロポーズする。』はかなり厳しくなりそうな予感がする。それだけは、何としても避けたい。


「あのさ、ほんとにずっと俺に付きまとうの?」


「付きまとうとは、付き添う、ですよ。それが我々専任付添人の役目ですから」


「それさ、どうにかならないかな。俺の最初の願い、わかってる?」


「そう言われましても……私の役目は……」


「そこを何とか!」


俺は下手に出た。なんとしても、俺はこいつが隣にいる状態で告白なんかしたくはない。お見合いでもそんなことしないぞ!


「はあ……まあ、あなたのおっしゃることもよくわかります。仕方ないですね。今回は特別に、あなたと彼女さんがいる間だけは、私は遠くから見守るという形で」


「え、ほんとに?」


「ええ、特別ですよ」


 やった! と俺はガッツポーズをした。こいつ、案外融通が利くところもあるかもしれない。


 そうとなれば、考えなければならない。彼女にどうやってプロポーズするか。


 彼女との思い出、大事な場所、そういうことを思い出してみる。するとやはり、あの場所のことが頭に浮かんだ。


 施設だ。


 彼女と俺は、同じ施設で育った。俺は十歳の時に両親を事故で亡くし、彼女は五歳の時に病気でお母さんを亡くし(彼女は母子家庭だったという)、この施設に来た。当時、俺はひどく両親の死に落ち込み、施設の誰とも話さなかった。


 そんな時に、彼女に声をかけられた。


「ムスッとしてないで、笑顔笑顔」


 彼女は一言で言えば、明るい子だった。どんな時でも笑顔を絶やさない、そんな子だった。その時も彼女からそんなセリフで、話しかけられた。


 施設では高校を卒業するまで暮らしていたが、そのほとんどの時間は、彼女と一緒にいた。なぜだか彼女は、ことあるごとに俺に声をかけた。朝、登下校、ご飯の時、寝る前、休日の日。ひっきりなしに声をかけてくる彼女に、やがて俺は好感を持ち、それが恋愛感情に移っていくのに、そう時間はかからなかった。


 高校二年の冬、彼女に告白したのだが。


「ねえ、家族とは結婚できないんだよ」


 笑いながら言われた。同い年のくせして、さながら自分がお姉ちゃんみたいに。


 まあそれで納得できるわけもなく、何度も告白し、結局五回目の告白の時、彼女は「いいよ」といった。


 施設を思い浮かべたものの、あそこは二年前にもう無くなってしまったし、第一プロポーズって場所でもない。


 俺は頭を働かせ、次に二人の思い出の場所と言ったら、と場所を決めた。


「あの、余計なお世話かもしれませんが、彼女に連絡しないんですか」


 ふとカサラギの声が耳に入った。そうだ、考えを巡らせることばかりに気がいって、肝心の彼女への連絡をし忘れていた。付添人らしい、ナイスな指摘ありがとうカサラギ様。


 俺は携帯電話をつかみ、彼女にメールを送信した。


 ――――今日、会えませんか。




 目の前には様々な宝石たちが輝きを見せている。二百、三百、八百、全て万単位の値段だ。とてもじゃないが俺には手が出せそうにない。


 彼女にメールを送ると、二分も経たないうちに、わかった! 会うの久しぶりだね、楽しみ! 、と返信が来た。


彼女とは、社会人になってから離れ離れになってしまった。彼女は地元に残り、俺は都会に旅立った。遠距離恋愛だ。だからこそ、彼女にはいまだに俺の今の状況が知られていないし、このようなメールが来たのだろう。思い返してみれば、お互い忙しく、会うのは一年ぶりになるだろうか。


そして現実に戻ろう。俺は今宝石店に来ている。そう、彼女に贈る指輪を探しに。言った通り、目の前の宝石たちは俺には手に届きそうにないものばかりだ。


正直、あのクレジットカードを使えば、払えない額ではない。しかし、これはプロポーズで送る指輪なのだ。自分で稼いだ金で渡さなければ意味はない。こんな俺にでも、それぐらいの心意気はあった。


そして今、俺の手元には、その額が、三十万。そう、三十万円ある。正直、結婚とか、プロポーズとか、意識はしてもだいぶ先のことのように感じていた。将来のことなんて漠然と何とかなる、と考えた結果、貯金などほとんどしてこなかったのだ。


あまりにも少ない資金で買える指輪をあれでもないこれでもないと見ていると、ふと目に留まったものが一つ。ルビーの小さな宝石の付いた指輪だ。彼女の誕生石の指輪。正直、これだ! と思った(値段も二十八万とどうにかなるものだったという理由ももちろんあるのだが……)。


俺はその指輪を購入し、彼女の元へと向かった。


俺の住んでいるところの側の駅から彼女の住む街まで、電車で五時間ほど。そこそこの距離がある。


電車に乗るときに、俺は初めてクレジットカードを使った。駅員に見せるとき、何故かすごい哀れ目で見られた気がして、胸が小さく痛んだ。


電車に乗る中、揺れの影響か五回ほど激しい頭痛に襲われた。頭の痛みに苦しむ中、俺はふと思った。


“俺の命はもうすぐ尽きるんだ”


CU病はあまりにも症状が少ない。だからつい忘れてしまう。俺はこれからの三日間、頭痛が来るたびに悪夢のようにその現実に戻されるのだろう。


怖い。たまらなく怖い。この病気になり、余命を宣告されてから、初めて抱いた感情だった。


恐怖の感情を鎮めるために、俺はただただ遠くの景色を眺めた。


そしてそんなうちに、時間はあっという間に過ぎ、彼女の街に着いた。


メールで彼女は、駅前のベンチで座って待ってる、と言っていた。改札を出て、すぐにベンチに向かった。居た。彼女は一人ぽつりとベンチに座り、本を読んでいた。


「おーい」


 彼女はパッと顔を上げて俺を見つめると、笑顔を浮かべてこっちへ走ってきた。一年も会っていなかった彼女は、何も変わっていなかった。薄いメイク、カジュアルな服装、そして背中には白いリュックサック。まるで中学生か高校生のような姿。彼女は彼女のままだった。


「久しぶり。全然変わってないね」


「君もね。ごめん、待った?」


「ううん、全然!」


 彼女の表情がまた輝く。


 俺は、「じゃあ、行こうか」と言い、歩き出した。彼女は慌てながら小走りをして、俺の隣に来た。


 歩く中、彼女は他愛もない話をした。近所に美味しいシュークリーム屋さんができたとか、会社の上司がすごく意地悪だとか、今やっているドラマがすごく面白いんだとか。いつも以上に気分よさそうに話し、いつも以上に休みなく話し続けた。


 そして、俺と彼女の、思い出の場所に着いた。


 科学館だ。


 彼女は昔から、星が大好きな子だった。誕生日プレゼントに星の図鑑を頼むほど。


 彼女が星を好きになったのは、お母さんの影響だ。彼女のお母さんが死ぬ間際、彼女に、「お母さんは、星になるの。星になってお空からあなたを見守るのよ。だから、あなたは一人じゃないのよ」と言ったそうだ。


 だから、昔の彼女はよく空を眺めていた。昼でも、夜でも。


 そんなお母さんの言葉から、彼女は星に興味を持ち、この科学館に足しげく通うようになった。そして今となっては、彼女は天文台で働く研究員だ。


「久しぶりだな。でも全然変わってないな」


「中は結構変わっちゃったよ。スライムの体験室とか、人手が必要なのは無くなっちゃった」


「へー……ん? 最近でも来てるの?」


「うん。月に一、二回くらい。やっぱ一番落ち着くところだしね」


 彼女がまだ来ているとは。全然知らなかった。そういえば、彼女が休日何してるとか、あまり俺からは聞かなかった。電話でもこっちで会ってても、彼女の話に聞き入るばかりで、俺はそこまで彼女に質問などしてこなかったかもしれない。もしかしたら、俺の知らない彼女の部分が、まだいっぱいあるのだろうか。


「そうなんだ……ここでよかった?」


「全然いいって。あなたと一緒なら、どこでも楽しいし」


 彼女はこういう恥ずかしいことをさらりと言う。良い意味でも悪い意味でも、素直なのだろう。


 俺は頬を赤らめながら、「行くぞ」と言った。


 科学館は、彼女の言う通りだいぶ変わっていた。こじんまりしたといったほうがいいだろうか。展示品などはあまり変わってないが、言っていた通りスライムの体験室はもうないし、他のレクリエーションの類もだいぶなくなっていた。


 その中で彼女は、真っ先にある場所に行った。


 工作教室の部屋だ。今はもう時間が過ぎており、工作教室は終了しました、という看板で入り口がふさがれていた。


「ここで、君が初めてプレゼントくれたんだよね」


「え? そうだっけ?」


「忘れたの? ほら、ビーズのブローチ」


 ああ、と俺は思い出した。


 あれは十二歳の時だ。何回もこの科学館に来た中で、初めてこの工作教室に来た。その日はビーズでブローチを作るという内容で、俺は教えてもらいながら作り上げることが出来たが、手先が不器用な彼女は、結局失敗して作り上げることが出来なかった。俺はそんな彼女を見かね、自分の作ったものをあげたのだ。


「よく覚えてるな、そんなこと」


「忘れるわけないよ! すごく嬉しかったんだから」


 確かに彼女は、あの時かなり嬉しそうだった。そしてそんな彼女を見て、俺も嬉しく思ったんだ。


思い出にふける中で、彼女は向こうの方を指さしながら、「あっち行こう!」と言った。指の先には、プラネタリウム室があった。


 俺は「そうだね」と微笑んだ。


 プラネタリウムはすでに始まっていた。プラネタリウム室に至っては当時のまま変わってはいなかったが、やはり人数は減り、四、五人がまばらに座っているぐらいだった。


 俺たちは急いで後ろのほうの席へ行った。左側に彼女が、右側に俺が座ると、そっと二人で天井を見上げた。


 輝く星たちが無数に散らばる映像が、目の前に広がる。


 夏の大三角形、北斗七星に北極星、カシオペヤも見える。すべて彼女の受け売りだが。


 彼女とはずっと一緒にいる。だから彼女から受ける影響も大きかった。その大半が、星についてだ。彼女は小さい頃ずっと俺に星のことを嬉しそうに語っていた。今も少なからずはあるのだが、昔は星のことしかしゃべっていないんじゃないか、と思うほどに話していた。


 彼女に星のことを話され続け、俺にも多少なりとも星への関心が付いていったのかもしれない。この科学館に来ることを決めたのも、そういった影響があったように思う。


そういえば最近、これほどまでに綺麗な光景を眺めていただろうか。ゆっくり星を見上げることをしていただろうか。星が見にくい環境で暮らしているということもあるだろうが、俺は最近、日々に追われて、ゆっくり空を見上げることすらしてこなかったように思う。昔ずっと見上げていたこの光景を、俺は大人になるにつれて忘れていったのだ。


 ふと、隣の彼女を見てみる。彼女は昔のように目を輝かせ笑顔を浮かべることはなくても、穏やかな表情を浮かべていた。きっと彼女は、仕事以外でも、またこのプラネタリウム以外でも、空を見上げ、星を見て、こんな表情を浮かべているのだろう。そんなところも、昔のままなんだろう、とふいに思う。


 彼女は昔から、ちっとも変わらない。変わらないのだ。


 彼女の人生と、俺の人生。彼女は今でもずっとこの星を見て過ごし、俺はやがて星を見るなんてことはしなくなった。こんなちっぽけな差なのに、彼女はこれからも生き続け、俺はもうすぐ果てる。そう考えると、虚しい。


 生の違いとは何なのだろうか、俺がもうすぐ死んで、彼女はまだ生き続ける、その違いは何なのだろうか。


 たぶん意味なんてない。無差別に、理由なく、俺は死に、彼女は生きる。


 なぜなんだ、そんな怒りにも似た感情がふつふつと湧き上がるとともに、頭の痛みが再熱し、やがて俺は下を向いた。


 この数十分の星の映像でさえも、俺は見上げることが出来なかった。


 プラネタリウムが終わり、部屋が明るくなった時、彼女と目が合った。


「どうしたの、気分悪い? なんか顔暗いよ」


「え、そう……何でもないよ」


 俺は無理に笑顔を浮かべた。


 科学館を出ると、もう夕日が沈むころだった。


 二人で歩いていると、ふいに彼女が切り出した。


「ねえ」


「ん? なに?」


「さっきから後ろにずっといるあの人、君の知り合いかな?」


 俺は振り返る。後ろにいたのは、紛れもない、カサラギだ。


 俺は彼女に、「ちょっとごめん」と断りを入れ、カサラギの元へ行った。


「おい、お前、ばれてるよ」


「鋭いですね、あなたの彼女」


「お前、ついてこないって言ったよな」


「違います。遠くから見守る、って言ったんです」


 こいつ、と俺は奴の顔を睨む。それに気づいたのだろう、カサラギは「まあまあ」となだめてきた。


「わかりました。次はばれないようにしますから」


「おい、まだついてくる気かよ!」


「そんなことより、早く彼女のところ行ってあげないと、怪しみますよ」


 こいつわざとか? 全然話が噛こみ合わない。俺は諦めて、カサラギのもとを去った。


「ごめん、待たせて」


「あの人、誰なの?」


「えっと……同僚だよ。会社の。たまたま出張で来てたみたいでさ」


 俺は咄嗟に嘘を言った。彼女も疑問に思いながらも、「そっか」と言って歩き始めた。


 次に行く場所はもう決まっていた。ここから三十分で着くレストランだ。


 そこには、彼女と二人で行ったことがある。一回目は、告白した日。二回目は、俺の就職先が決まり離れ離れになるとわかった日だ。彼女との大切な話をするときは、決まってそのレストランに行く。


 彼女に行き先を伝えたとき、彼女は「わかった」と言った。


 レストランまでの道のり、彼女は何も言葉を発さなかった。俺も無理に話すこともなく、結局レストランに着くまで、俺と彼女はずっと無言のままだった。


 レストランはあまり変わっていなかった。繁盛しているようで、人々が嬉しそうな話し声を漏らしている。


 俺と彼女は予約していた窓側の席に座った。店員が来ると、俺はオムライスを注文したが、彼女はビーフシチューを注文した。


 そこで俺は少し疑問に思う。彼女とこの店に来ると、決まってオムライスを頼んでいた。このレストランを知ったのがオムライスが隠れた名料理だということからで、そんな噂が好きだった俺たちは、絶対にオムライスを頼んでいた。たった二回しか来てはいないが、それは変わりないことだと思っていた。


 注文が終わると、彼女が話し出した。


「あの科学館、来週無くなっちゃうんだって」


「え? そうなの」


「うん、やっぱり人が来ないからかな……」


 会話に詰まる。こんなことは初めてだった。いつも彼女は明るく、自分のことをしゃべって、俺がそれにうなずく。それが普通だった。だからこそ、今日は何かが違った。しゃべらない彼女、重い空気。俺の手がかすかに震え出した。


 やがて、その空気を断ち切るように、頼んだ料理が運び込まれる。オムライスとビーフシチューの良い香りが鼻を刺激した。


 彼女が食べようとする中、俺はこのままじゃいけない、と思った。


「あのさ、話があるんだ」


「……何?」


 彼女は無表情でこちらを見つめる。緊張で震えながら、俺はゆっくりと話し始めた。


「俺さ、病気見つかったんだ。CU病っていう」


「えっ……」


 彼女は思いもよらないセリフを聞いたように目を丸くした。


「どういうこと? 病気? CU病って?」


 彼女は混乱した様子で、俺にいくつも質問をし出した。俺はそんな彼女をなだめながら話を続けた。


「原因不明の病気なんだ。もう治ることはないし、余命宣告もされた」


 俺は冷静に淡々と説明した。自分の死が近いことの説明なのに人のことのように説明できるのは、最近まで身近な友人のかかった他人事の病気だったからかもしれない。


「いきなりそんなこと言われても……そんな話されるなんて」


 彼女はまだ混乱してる様子だった。俺はそんな彼女に、そっと言った。


「俺、あと三日で死ぬんだ……」


「嘘……」


「俺はこれからすぐに死んでしまう。彼女の君に、悲しい思いをさせてしまうかもしれない。もしかしたら、俺と君は、もう別れたほうがいいのかもしれない……」


 俺が次の言葉を言おうとすると。


「やめて」


 彼女が小さく一言つぶやいた。俺は驚いて彼女を見つめる。


「聞きたくない……」


彼女の目が充血していて、少し赤くなっていた。


「もう聞きたくない!」


 彼女はテーブルをたたき、突然立ち上がった。周囲もその声に驚き、ざわつきだした。


 彼女は今にも逃げ出してしまいそうな様子だった。俺の病気が、俺の言葉が、そこまで彼女を追い詰めていたのだ。


このままでは、俺の思いは、願いは叶わないでで終わってしまう。


そんなことは、真っ平ごめんだ。いやだ。


俺は彼女の手をつかみ、立ち上がった。


「でも、俺は別れたくない! 俺は死ぬまでのその日々を、君と過ごしていたい! だから、俺と結婚してほしい!」


 プロポーズは、もっとかっこよく、スタイリッシュに決めようと思っていた。緊張と焦りで、俺は感じるままにプロポーズの言葉を放っていた。


「え……」


 俺は慌てて指輪を彼女に差し出す。


 彼女は驚きの表情を浮かべて、俺の顔を見つめた。先程までの困惑した表情は消えていた。そして次第に、顔を潤ませていく。


「う……そ、うっ、うぅ」


 彼女は顔を伏せながら、小さな声で泣き出した。


 俺の目の前で彼女が泣いたのは、初めてのことだった。今度は俺が困惑しながら、彼女を摩りながら席に座らせた。


「……私、振られるんだと思ってた」


「えっ、何で……」


「あの時、あなたが就職でここを離れるって話した時と、なんか雰囲気似てる気がして」


 驚いた。彼女がそんな風に感じていたなんて。彼女の中で、あの日のことが、きっとトラウマになっていたのだろう。あの日も確か、俺は別れるようにも取れるセリフを口にして、彼女を混乱させた気がする。それが、彼女の中でフラッシュバックしていたのかもしれない。


「そうか、ごめん……」


「謝らないで。私が勘違いしてただけなんだし」


「うん……それでその……答えは」


「はい、に決まってんじゃん」


 彼女は温かい笑顔を浮かべた。


「私は、君を見捨てたりなんかしないよ。すぐに死んでしまうとしても、私は君の側にずっといたい」


 今までの中で一番の笑顔を浮かべて彼女は言った。


 こんな俺を、本当に愛してくれる。


 そんな彼女の表情、言葉、全てが温かく感じ、気づいたら俺は年甲斐にもない大きな声で泣いていた。


 周りからは拍手のようなものが聞こえ、スーツ姿の男が立ちながらに、「おめでとうございます」と叫んでいるのが聞こえた。




 泣きはらした顔でどうにか食事を終えると、俺たちのもとにカサラギがやってきた。


「お二人とも、おめでとうございます」


 冷静な顔つきで言ってはいるものの、なんとなくウキウキしたような姿が見えて、少し嬉しかったりもした。彼女は「さっきの同僚さん?」と困惑した姿だったので、俺は彼女に彼のことを包み隠さずに話した。彼女は納得した表情で、カサラギと挨拶を交わしていた。


「結婚式とかはするんですか」


「私はしなくていいと思う。今ある時間を大切にしたほうがいいと思うの。違う?」


 以外にも彼女は即答だった。俺もそんな風に思ってはいたものの、彼女とは少しもめるかもと心配してしまっていたが、その心配はなかったようだ。俺は彼女に、「そうだね」と言った。


「でも、婚姻届くらいは出しに行こうね」


 彼女が、パッと手を叩いてそういう。彼女の表情とともに指にはめたリングが輝く。俺はそんな姿を見ながら、「そうだな」と答えた。


「あとは……カズ君に伝えたいなー、元気かな」


 彼女は不意に思い出したかのように口にした。カズ君、カズヤは俺と彼女の高校時代の友人であり、俺にとって数少ない友人と言える存在だった。だがあいつは……


 俺は彼女の瞳をそっと見つめる。


「カズヤ……実はあいつ、病気で今入院してるんだ」


 彼女は驚いた表情を浮かべる。彼女は卒業以降連絡を取っていなかったから、当然だろう。


 彼女は「どんな病気なの?」と俺に訪ねてきた。


 俺はまた彼女に、同じワードを伝えなければいけない。だってあいつも……


「あいつも……俺と同じCU病なんだ」


 動揺する彼女をなだめながら、俺はカサラギに告げた。


『次の願いは、カズヤに会うこと』




            *


 目覚めたとき、彼女が横ですやすやと眠っていた。


 昨日は彼女の言葉に甘え、彼女の部屋に泊めてもらうことにした(もちろん、カサラギはホテルで泊まった)。


 すぐに起きた彼女は、目をこすりながら薄目で、「おはよう」と言った。そのまま伸びをしながらキッチンに向かうと、顔を洗った後にささっと朝ご飯を作った。


 テーブルにはサラダと目玉焼き、トーストが並べられており、俺と彼女は雑談をしながらそれらをたいらげた。


 簡単に身支度を済ませると、俺と彼女は役所に向かい、婚姻届けを提出した。証人はカサラギにしてもらった。俺たちはガチガチになりながらそれを出しに向かったが、あまりにも機械的な受け答えとおめでとうございますの言葉に、俺は少し拍子抜けしてしまった。


 役所を出ると、カサラギがいた。車の隣に立っているあたり、どうやら、私が連れていきましょう、ということだろう。


「おはようございます。ではいきましょうか、ご夫婦」


 にやりと笑って、カサラギは後部座席のドアを開けた。どうやら予想は当たっていたようだ。俺と彼女は車に乗り込み、三人で、病院へと向かった。


 カズヤの病院は彼女の家からはそう離れていなかった。というのも、彼は彼女と同じく地元で就職したからだ。


 カズヤが入院したのは、今から一年前だ。


 彼の場合、CU病とともにがんも発見され、それがかなり深刻な状況だったらしく、入院することになったという。


 俺は彼の入院先に顔をまだ出したことがなかった。俺が上京してしまったという理由もあるし、病気に侵されてしまった彼に会うのが辛く思えたというのもあるが、一番は、彼との関係がぎくしゃくしていたということだと思う。




 病院はだいぶ大きかった。恐らくここらじゃ一番の規模の場所だろう。


 カズヤの病室は三階の個室だった。そんなところからも、なんとなく彼の病状の深刻さが取れた。


 最初に扉を開いたのは、彼女だ。ドア前でもたもたしてる俺を見かね、「何してるの、行くよ」と言ってすぐに扉を開けた。その調子で後にカサラギも続いて病室に入り、俺はとぼとぼと最後に入っていった。


「久しぶり」


 カズヤの一声は、だいぶ掠れた、弱弱しい声だった。俺は「よう」とそっけなくそれに答えた。


 がんと併発したからか、病院から出ないからか、俺のように専任付添人が付いてるようではなかった。


「遅かったな、来るの。というか来ないかと思ってた」


「……悪い」


「私、知らなかったよ。連絡してくれればよかったのに」


 空気を遮るように、彼女が話し出した。カズヤと俺の間にあった微妙な空気感を彼女なりに察してのことだろう。高校時代も、彼女のこの行動に、俺たちは何度か救われた。


「ああ、ごめん。ちょっといろいろ混乱しちゃっててさ」


 照れるようにカズヤは頭を摩った。


 彼女はその姿を見て、「相変わらずだね」と言った。


 その返事に笑いながらも、カズヤの視線は彼女の隣にいるカサラギに移っていた。


「あの、あなたは?」


「わたくし、専任付添人のカサラギと申します」


 それって、という表情をするカズヤに、俺は正直に告白した。


「俺も、CU病になった」


 カズヤは驚きながらも、「そうか」と言ってうつむいた。


病室に妙な空気感が漂う。


そして、それを遮るようにして、彼女が口を開いた。


「ごめん、私喉乾いちゃった。なんか買ってくる?」


 彼女の言葉に、俺は「コーヒーお願い」と返す。続けて聞かれたカサラギは、「ああ、私も一緒に行きましょう」と言った。二人して、気を使ってくれたようだ。


 二人が出てから、しばらくしてカズヤが顔を上げた。


「高校の最後の大会、覚えてるか?」


「ああ、覚えてるよ」


 高校時代、俺とカズヤは共に陸上部に所属していた。高校の陸上部はかなりの強豪で、その中でも俺とカズヤはトップ争いをしていた。俺もカズヤも実力は五分五分と言っていいほどで、俺が勝ち、カズヤが勝ち、を繰り返していた。


「俺さ、知ってるよ、お前が俺の病気のこと知って、手を抜いたってこと」


「えっ……」


 カズヤの目は俺を鋭く見つめていた。


 高校最後の大会……俺はその一か月前から、なんとなくカズヤの調子がおかしいと思っていた。走った後の息遣いがいつもより粗かったり、アップのテンポが落ちていたり、他にもいくつかあったが、俺には彼に異変が出てきてるんじゃないか、と感じられた。それでも、最後の大会が近いんだし、緊張でもしているんだろうと楽観的にとらえていた。


 だが、大会一週間前、俺はカズヤとコーチが話しているのを聞いてしまった。


『次の大会は出れそうか』


『はい、医者にも許可もらってますから』


『そうか。でも無理するなよ。大事なのは体なんだからな』


 俺は驚いた。


 カズヤがその場を出ていくのを見計らって、俺はコーチを問いただした。


 結果、カズヤは病院通いしており、体力が低下しつつあることを知ったのだ。


「俺は……俺は全力でやった! 全力で勝負した!」


「そんなことない! お前、よく思い出してみろ」


 そんなことない、と頭の中で何度も繰り返す。俺はそんなこと、するはずが、したはずがないのだと。だがしかし、彼の主張は俺の頭にひどくこべりついて離れなかった。


だから、頭の中で、記憶を掘り下げてみる。あの日、あの時の記憶を。


あの時、大会の時……俺と、カズヤは決勝まで進み、他の学校の選手たち、合計六人で競うことになった。


スタートとともに走り、ゴールまであと半分の時、俺とカズヤだけが他を突き放して戦っていた。あの時、ゴール手前まで、俺はカズヤの前を走っていた。けれど、最後の最後、俺は……


 あの時、俺は。そうだったんだ。俺は確かに、手を抜いてしまった。


 一週間前からずっと抱いていた、カズヤへの情け。あいつは病気で、俺は元気で。あいつは本調子じゃなくて、高校でも人生でも最後の大会で、あいつは勝ちたくて。そんなカズヤへの間違えた優しさが、そうさせたのだ。


 俺はゴール土壇場で、力を緩め、自分でも驚くほどに自然に、カズヤに負けるように動いていた。


「俺は……ごめん」


 あまりにも不自然な対応の切り替えに、カズヤは驚いていた。しかし俺自身も、どうしてこんな簡単に思い出せたのかわからなかった。


「今となってはわかるんじゃないか、俺の気持ちが。病気だからってひいき目で見られるのって、結構くるんだぜ」


 確かにその気持ちは痛いほどわかった。俺はまだ、“病人”となってから二日しか経っていないが、それでも、CU病になって、彼と多少なりとも同じ思いを味わった。昨日の電車の改札でも、指輪を買ったとき、婚姻届を出した時でさえ、何か同情の目で見られている気がした。思い込みだろうが、そう感じた。


 だから、俺に本当に同情の目を向けられていたカズヤは、一体どれほど傷ついたか。当時の俺には(もしかしたら今の俺でさえ)計り知れない思いを味わったのだ。


「正直まだ許してないけど、いや、一生許すつもりはないけどさ、お前がそんな顔して謝ってやがるんだから、ちょっとスッとしたわ」


「ああ……」


 偉そうな素振りを見せながら、カズヤは「この野郎」と言って俺の肩をグーで叩いた。彼の力が弱弱しく思え、無性に悲しくなった。


 ガチャ、とまるでタイミングを見計らったかのように、扉を開く音がした。帰ってきたのは何故か彼女だけだった。。手には彼女の好きなオレンジジュースと、頼んだコーヒーが握られていた。


「ただいまー、はい、コーヒー」


「ありがとう。カサラギはどうしたの?」


「なんか、先行っててください、ってどっか行っちゃった」


 彼女は首をかしげながらそう答えた。


 俺がもらったコーヒーを飲んでいると、彼女がカズヤのもとに歩み寄った。


「調子、どう?」


「良く……はないけど、そこまで悪くはないよ。薬も効いてるしさ」


 病室に入ってからあまり彼のことを直視できていなかったから気づかなかったが、彼のベッドの側には、腕につながった点滴がぶら下がっていた。だいぶ重そうな袋から、薬が一滴一滴落ちている。あれが彼の命を繋いでいるのだろうか。


「そろそろ昼かな。二人もなんか食べてきなよ。この病院の食堂、結構美味いらしいよ」


 彼がそう言って笑顔を浮かべると、程なくして隣の部屋から「お昼ですよー」という看護師の声がした。


 俺たちは邪魔してもと思い、彼の言葉に乗って「じゃあ食べてこようかな」と言って病室を出た。


 話はしなかったものの、俺も彼女もなんとなく昼を食べる気はしなくて、待合室の長椅子に腰かけた。


 彼女は緊張の糸がほどけたように深いため息をして、頭を押さえた。


「カズ君、高校の時と全然違った」


「うん、すごい痩せてたよな、ビックリしたよ」


「それもそうだけど、なんかさ、言葉にも、表情にも、元気が感じないというか、無理してる感じがしてるんだよね。昨日のあなたと同じ」


「え? 俺そんな風だったか?」


 彼女は薄っすら笑いながら、「そうだよ」と言った。確かに昨日は、もちろんプロポーズの緊張もあったが、自分がCU病になったという現実が頭に残って、離れなかった。彼女はそんなところからも、いろいろな不安を感じていたのか。


「さっきは気使ってくれてありがとうな」


「えー? 何のことー?」


 彼女は悪びれたように向こう側を向いて言った。


「仲直りはできたの?」


 やはり気を使ってくれたようだ。それにしても、彼女の言い草だと、まるで俺たちの中がぎくしゃくしていたことを知っているかのようだ。


「もしかして知ってたの?」


「高校の時の大会の後でしょ。何となく君もいつもらしくなかったし、カズ君だって、なんか変な様子だったし」


 驚いた。どうやら彼女には何でもお見通しらしい。


 だが、彼女はこっちを覗きながら、「違った?」と尋ねてきた。俺がカズヤの病気を知ったのは偶然的なことだったし、カズヤが入院してると聞いて彼女もかなり驚いていたから、きっと彼があの時病気になっていたことを彼女は知らないのだろう。


 俺が「正解だよ」と彼女に答えてみせると、彼女は少しほっとした様子を見せた。


「で、どうだった」


「どうって、まあ言いたいことは言い合えたんじゃないかな」


「そう、よかったね」


 彼女が嬉しそうにそう言うと同時に、後ろの方から「ここにいましたか」とカサラギが近づいてきた。


「お前こそ、どこ行ってたんだよ」


「ちょっとカズヤさんの担当医に会っていました。これも私の仕事ですので」


 そういうと、カサラギは俺にクリアファイルを一冊渡してきた。中にはカルテのようなものが数枚入っている。カズヤのものだ。俺の願いのサポートとして、彼は俺にカズヤの病状を知れるように動いてくれたようだ。


 カルテにはカズヤのCU病、そしてがんの病状が細かく記されている。CU病についてはやはり俺同様詳しいことは皆無で、余命があと一年と書かれていた。


「カズヤさんのがんは相当進行しているようで、治療の施しようはもう無いようです」


 カサラギは淡々と説明する。カルテにもそう書かれており、余命はこちらは半年~二年と記されていた。


「あいつは、俺みたいに病院出れないのか」


「残念ながらカズヤさんの場合はがんの影響もあって体力面が衰えているみたいで」


 やはりそうだったか。元気なそぶりを見せようとしていたが、カズヤは少ない気力を振り絞って俺たちと話してくれていたのか。


「リハビリもしているようですが、まだ外に出れるほどではないようで……」


「それって、どういうことですか」


 俺よりも先に、彼女がカサラギの言葉に食いついた。


「カズヤさんの要望で、体力が戻るように毎日リハビリをしていると伺いました。丁度今頃やっていると」


 俺と彼女は顔を見合わせた。カズヤが俺たちを病室に出そうとしたのは、このこともあったのだろう、と合点がいった。


 俺と彼女はカサラギに案内させ、リハビリ室へ行った。


 中では何人かの患者たちが健闘をしており、その中に、手すりにつかまりながら懸命に歩くカズヤがいた。


 俺たちはまじまじとその光景を見つめた。彼は俺たちの視線には気付かず、リハビリを続けていた。


「カズヤさん、体力が戻るといいですね」


 カサラギが俺の隣で呟くように言った。彼の表情には一心にその言葉通りの願いを祈るような思いが見えた。


 カズヤは何度か倒れながらも、その都度自分で踏ん張って何度も歩いていた。その姿から、彼の心から良くなりたいという思いがまじまじと伝わる。


 俺たちは、そのままカズヤには声をかけず、その場を離れた。




 リハビリを終えて帰ってきたカズヤは、清々しい顔をしていた。


 俺と彼女はそれを見て心を撫で下ろし(カサラギは何故か空気を読むように姿を消していた)、そのまま彼と話し込んだ。


 三人での会話は、やはり高校時代の話ばかりだった。


 俺とカズヤは部活でずっと一緒だったし、彼女は俺たちと二年からクラスが一緒になったが、それ以前からカズヤとは俺を通して関わりがあったから、話題は尽きなかった。


 朝練で遅刻して俺とカズヤが廊下に立たされたとか、彼女が授業中に爆睡して(もちろん星見たさの夜更かしが原因)先生にこっぴどく叱られたとか、修学旅行では三人で迷子になりかけたとか、他愛のない話で盛り上がった。


 そしてだいぶ時間が経ち、少しの沈黙が出来たとき、彼女が急に立ち上がった。


「カズヤ、私たち、結婚した」


 カズヤは「えっ」というと、途端に俺の方を見つめた。俺は無言で頷いた。


「そうか、おめでとう。本当に、おめでとう」


 カズヤは目を潤ませていた。俺はカズヤにずっと彼女のことを相談していた。付き合う前も、付き合ってからも。だから彼は俺の彼女への思いをすべて知っている。それだけに、彼は一緒に喜びを分かち合ってくれているし、それが何より嬉しかった。


 カズヤが俺のことをからかっていると、部屋に一人入ってきた。カサラギか、看護師だと思っていると、そのどちらでもなかった。カズヤのお母さんだ。


 彼のお母さんは、高校の時とあまり変わらないままで、俺たちに気づくと驚きながらも「久しぶりねー!」と笑顔で言った。


「わざわざありがとうね、二人とも仕事忙しいだろうに」


「いえ、長く来ることが出来なくてすみません」


「いいのよ、気にしないで。それよりも今日来てくれて嬉しいわ」


 俺は俺の病気については伏せたままにした。俺のことで気を使ってもらうのも申し訳ないし、俺自身もあまり進んで言いたくはなかった。そんな俺の思いを察したのか、彼らも触れないでくれた。


 カズヤのお母さんは、持ってきた花を花瓶に生けながら、話し続けた。


「お父さんも体弱かったし、カズヤの体も心配してはいたんだけどね。でも、カズヤもいろいろ頑張ってるから、どうか見守ってやって」


 カズヤは照れたように「やめろよ」とぼやいでいた。まるで彼のお母さんは、、決して病気のことを後ろ向きに考えずに、むしろ彼の“生”に意識を向けていた。そんな考えに、俺はすごいと思うばかりだった。


 そんなやり取りをしていると、彼女がそっと俺の腕をつかんできた。目線で、親子水入らずにしよう、と訴えてきた。


「じゃあ、俺たち夜ご飯でも食べてくるよ」


 夜ご飯と言うには早いと思える、オレンジ色の景色が窓から見えていたが、カズヤは何も言わず、手を振ってくれた。




 病院の食堂のご飯は、確かに美味かった。俺と彼女は何の気なしに定食を頼んだのだが、想像していたよりもちゃんとしていて、普通に外でお店としてありそうな出来栄えだった。


 俺も彼女も、顔を緩ませながら、二十分もしないうちに平らげた。


 しばらくしてから、彼女は落ち着いた顔つきになって、頬杖をついた。


「カズ君も、お母さんも、強いね」


 俺は何も言葉を出せなかったが、その通りだと思った。二人の強さは、俺にはないものだと思えていた。俺は今でも、自分の“死”につい思考が向いてしまう。それに、前向きになんてなれない。俺はそれが当然だと思っていた。だが、あの二人は、俺の思うその当然を、見事に覆してみせたのだ。


「俺も、変わらなきゃいけないかな」


 精一杯考えた末、俺はぼそりと言った。


 彼女はそれを聞いて、ただ「うん」とだけ言った。


 静かな時が流れる中、突然バイブレーションがそれを断ち切った。俺の携帯電話から流れたもので、カサラギからの着信を知らせるものだった。俺はそのまま電話に出ると、慌ただしい音が聞こえた。


「カズヤさんの容態が、急変しました。急いで来てください」




 カズヤの病室には、医師や看護師が数名集まり、まさに緊急状態だった。


 カサラギの電話で俺たちは血相を変えて急いで病室に向かったが、既にそのような状態で、混乱を隠せなかった。カサラギは病室の入り口でその様子を神妙な顔で見守っている。


「カズヤどうしたんだ!?」


「急に苦しみだしたんです。私が来た時には既にこの状態だったので、何とも言えませんが」


 彼女が不安そうな瞳で俺を見つめていた。俺も不安でいっぱいになりながらも、病室に入った。


 病室では、カズヤの苦しむ姿を見て、不安そうに「カズヤ大丈夫なんですか!?」と医師に問いただすお母さんの姿があった。医師や看護師は必死になって、何が原因か、どうしたら直るかを見つけ出そうとしていたが、あれでもない、これでもない、というセリフが飛び交うばかりだった。


「うっ、ぐうっ」


 悲鳴のような叫び声とともに、カズヤの苦しむ声が聞こえてくる。俺はその姿をただ見ているしかできない。


 何で俺は見ているだけなんだ。


 何かできないのか。


 何をしている俺。


 そんな思いを巡らせているうちに、カズヤの声がだんだんと弱まっていった。だが苦しそうな様子が収まることはない。声も弱くなっていくほどに苦しみが増しているということだ。


 耐え切れず、カズヤのお母さんはカズヤの元へ飛び込み、もがく彼の手を必死に握りしめた。「カズヤ、カズヤ」と彼の名を何度も涙声で呼んでいる。


 俺も震える足で、カズヤの元へと行った。彼女も不安そうな顔のまま、駆け足で彼の元へ来た。


「カズヤ、おいカズヤ!」


 大声で叫ぶ。彼女も合わせるように叫んでいる。カズヤは苦しそうな顔で、それにこたえるどころの様子ではない。足をジタバタ、させもがいている。


 お母さんは泣き叫びながら、「カズヤ、頑張って、頑張って」と言っている。


「ごめん、ね、母さ、ん」


 もがきながら言ったカズヤの言葉は、彼のお母さんを泣かせるばかりだった。


「何言ってんの、カズ君! まだだよ、ねえ!」


 彼女の叫ぶような訴えは、カズヤの叫び声に容易くかき消される。


 俺は何を伝えればいい。


 ごめん。


 ありがとう。


 さようなら。


 空っぽな言葉が脳裏をよぎり、その都度かき消されていく。高校時代あれほど何も考えず話し合えた奴だったのに、こんな時になると、何も言葉が出てこない。かけるべき言葉が、見つからない。


 カズヤはまだなお苦しみ声を上げながら、振り絞った力で俺を見上げた。


 彼の目は、苦しみの中、何かを訴えるような鋭さを宿していた。


「お前、は、逃げ、るな。あの時、みたいに、目をそらさないで、突っ走れ、よな」


 とぎれとぎれに俺に伝える言葉は、かすかにけれどはっきりと聞こえる。


 なんで。


なんでこんな時に俺のこと心配してるんだ。


自分のこと、自分のことを考えろよ。


なんで、何でお前は。


 溢れ出る気持ちは言葉にならず、俺はただ「カズヤ、おいカズヤ」と泣きじゃくるだけだった。


 バタン――――――


 カズヤの暴れていた手足が急に動きを止めるとともに、カズヤは目を閉じ眠った。


「ご臨終です」


 医師のその言葉を耳にしながら、カズヤを囲む俺たちは、泣いて、泣いて、泣き叫んだ。




 空はもう暗く、星々が綺麗に輝いている。


カズヤの死は、医師たちにとっても想像外のことだったようだ。カルテの余命よりもだいぶ早いのは、CU病とがんが影響しあってとしか言えないと言っていた。


 それから俺は、悲しみに包まれるあの部屋にいることが耐えられなく、何も言わず出ていった。


 病院の廊下を慌ただしく、人が行きかう。


 初めて見る、人の死。


 かけがえのない親友の死。


 すでに心は空っぽになっていた。


 ただ感じるのは、この上ない死への恐怖だった。


 目の前で起こった“死”は、想像していたより悲惨で、苦しくて、残酷だ。


 俺の目の前で親友の生涯が終わった時、薄情なことに俺は彼の死への悲しみ以上に自分の死への恐怖で頭を支配された。


 俺の死は、あと数十時間と宣告されている。その死が近づいているのだと、脅されているように感じた。


 今まで漠然と他人事のようにさえ感じていた“死”の恐怖が、突然勢いをつけて迫ってきた。


 怖い。


 逃げたい。


 助けて。


 そんな感情がひしひしと増していった。


 気づいたら俺は、病院の屋上に来ていた。施錠はされておらず、夜になって人もいなかった。


 夜空に星々が散らばっている。


 あの中に俺の親がいて、彼女の親がいて、そしてカズヤもいるのだろうか。


 見上げても首が痛むだけで、俺は頭を下げた。


 急に頭が痛み出した。いつも気づかぬうちに訪れるそれは、またも俺に死を意識させる。残酷な主張をする痛みは十数秒するとパッと止んだ。


 その痛みを感じ終えた俺は、ふと思った。


「死にたい」


 恐怖に支配されるくらいなら、いっそのこと身を投げ出せば楽になる。俺はそう思った。思いは増すばかりで、やがて足を進めだした。


 あの先に、俺の未来がある。


 恐怖から解放される未来が。


 俺は手すりに手をかけ、足を上げる。


 やっと楽に――――――


「やめろ――――――!」


 叫びながら掴みかかった誰かの手によって、俺は強引に引きはがされそうになる。


「放せ、放せよ」


 抵抗するが、掴まれた手の力は増すばかりで、俺はその力に圧倒されて後ろに押し倒された。


 目の前には、カサラギがいた。


「何してるんですか!」


 彼の怒号が耳を襲う。俺はやつれ顔でそれを眺める。


「もう、いいんだよ。どうせ、俺はすぐ死ぬんだから」


「何言ってんだ! 残された者がどれだけ悲しむかわからないあなたじゃないだろ!」


 敬語がなくなり、感情のままカサラギは訴えてくる。わからないわけがない。だがそれを勝る恐怖があるんだ。


「私の目の前で、もう自殺する患者を見たくない、見たくないんだ」


 カサラギは真っ赤になった顔で俺を見つめた。


「私の父は……CU病患者でした」


 彼はまっすぐ見つめながら、話し出した。




            *


 私は五年前から、この専任付添人の仕事に就きました。


 ただ漠然と人のためになるような仕事をしたいと思い、何の気なしに公務員になり、そしてこの専任付添人という仕事を請け負うようになりました。


 専任付添人と言ってもやはりCU病患者はそうたくさんいるわけではないので、私が専任付添人として初めての実務をしたのは、それから一年経ってからでした。


 私は地元の大きな病院に行くよう指示され、そのままもらった資料に案内されるまま、病室に入りました。


 そして、ドアを開くと、すごく驚きました。私の父が、そこにいたんです。


 私の父は大工の人間で、今まで病気とは無縁と言っていい暮らしをしていました。そんな父が、CU病になり、そして私の専任付添人としての最初の患者さんになったのです。


 父は私が入ってきたとき少し驚いた様子を見せましたが、すぐにいつも通りの姿に戻りました。


「俺、CU病ってのになったみたいだ」


 そんな風に、父は呟きました。


 私は正直悲しさと恐怖でいっぱいになりました。専任付添人としてCU病の知識は頭にありますし、それが不治の病だということも当然知っていました。


 けれども、私は専任付添人としての仕事をしなくてはいけませんでした。


 私はあなたの時と同じように説明を父にし、そしてあの目的達成支援書を差し出しました。


 父は迷うことなくそこに願いを書き込みました。


 そこにはただ、生きる、とだけ書いてあり、それ以外の願いは書かれていませんでした。


 私は、複雑な感情に支配されながら、必死にその願いを拒みました。


 CU病は治らないのだ、信じたくはないけれどあなたはもうすぐ死んでしまうんだ、と訴えました。


 父の余命は、その日を含めあと三日だったんです。


 だから、私は必死に訴えたんです。


 けれど、父はちっとも、頑として譲りませんでした。


「俺は絶対、それ以上生きるんだ」


 そういって聞かなかったんです。


 私は仕方なくそれを受理して、父の専任付添人の仕事を開始しました。


 次の日、さして父は変わった様子を見せませんでした。実家で目を覚ますと、飼い犬のペロの散歩をし、白飯と焼き鮭をかきこみ、新聞を広げました。


 十時になると隣の事務所に行き、書類整理をしてから、現場に行き、家を建てました。


 何も変わらない、子供のころに見た父の仕事ぶりと変わらない姿を見せていました。


 私は正直、そんな父の姿に、驚くばかりでした。父はこんなに強いものなのかと。私の父は死への恐怖を全く抱いていないのだと。




ですが、そんなことはなかったんです。




その日の夜に会社の人に病気のことを知られ、会社を休むよう言われた父は、実家で、「明日は家でゆっくりするか」と私に言いました。


私はそんなことを言う父に対して、この人は強いな、と一方的に感じていました。


その日の朝、父は前日と変わらず、ペロの散歩をして、ご飯を食べ、新聞を読みました。そしてテレビを椅子に座りながらだらだらと見ていました。


そんなことをして、昼になりまたご飯を食べて、テレビを見てと過ごして、いつの間にか十六時を過ぎていました。


そんな矢先、突然の出来事が襲いました。


ペロが死んだんです。


ペロは私が小学生の時から飼っていた犬なので、だいぶ老犬ではありました。しかし、前日もその日も元気に散歩していたのに、急に死んでしまうなんて、思いもよりませんでした。


私はペロの横たえている姿を目にし、大人ながら大号泣していました。それに気づきすぐに父も駆けつけました。


父はペロのことをそっと撫でると、俯きながら「埋めてやらなきゃな」と言いました。


こんな時でさえ冷静な対応をする父に驚き以上にちょっとした不信感を抱いていました。


父がその場を離れていくのを目にし、私は薄情だと思いながら庭にペロを埋める穴を掘り始めました。ペロは大型犬だったため、穴を掘るのも、埋めてやるのもかなりの時間がかかりました。


やっと終わったと一息ついたとき、家の方からガタンという音がしました。


だいぶ大きな音だったので、私は警戒しながらその音のした方へ行きました。


そこは父の部屋でした。


 私は息を飲みながらドアを開けました。


 そうすると目の前には、ブラブラと揺れる父の背中が見えました。一瞬何が起こっているかわからなかったんですが、よく見ると、父は宙に浮いており、天井から首元にかけてロープが伸びていました。


 そこで私はようやく状況を理解しました。


 父は首を吊ったのだと。


 急いで父のもとに飛び込み、ロープをほどいて父を降ろしましたが、その時には既に父の息はありませんでした。


 父の部屋の机には、即席で書いた遺書が置いてありました。




ごめんな。俺はもう自分の死への恐怖に耐えられなくなってしまった。


  ほんとはな、病院で病気を告げられた時から怖さでいっぱいだったんだ。


  だけど、お前の前でそんな姿は見せたくなかったから強がってしまった。


  もう限界だ。


許してくれ。




 そう記されていました。


 私は気づきませんでした。そんな父の弱さを。


 父の部屋には泣きはらして使い果たしたティッシュのごみと、空のティッシュ箱がありました。


 父は私の知らないところで、恐怖と必死に戦っていたんです。


 何で自分に言ってくれなかったのか。何で気づかなかったんだ。後悔で頭がいっぱいになりました。


 そしてそれ以上に、私が後悔したこと、それは父の余命に関してです。


 父の余命は、正確にはその日の十六時だったんです。患者には極度の混乱を避けるため正確な時間は教えないように言われていたから、父には言っていませんでした。


 父は、余命以上に生きていたんです。


 父は本当なら、ペロが死んだ時間に死んでいたはずだったんです。


 私は、父のこれから生きられた無限の可能性を、教えてあげることが出来なかったんです。目の前のことでいっぱいになって。


 私は、父の可能性を奪ってしまった。そのことが悔しくてたまりませんでした。






 カサラギはそう淡々と彼の過去を話した。


 俺は彼の父の状況が、自分と重なって見えた。


 そして、彼の父は余命よりも生きていた。そのことが大きな驚きだった。余命は覆らないものだと思っていた。だから恐れたし、ここまで恐怖に支配された。


 だが彼の父は、結果だけ言えば、確かに突き付けられた余命以上に生きていたのだ。


 そのことが、信じられなくも思えた。


 彼はこんな経験をしていたから、柔軟な対応をしていたし、熱くなってもいたし、仕事に熱心だし、俺を全力で止めてくれたのだ。


 カサラギは一度深呼吸をして落ち着きを取り戻すと、今度は背広から紙を取り出した。


 俺の、目的達成支援書だ。


 彼女にプロポーズ、カズヤに会う、そう書かれたその紙に、彼は自分のペンで新たに文字を書き込むと、俺に押し付けた。


 彼は気持ちのままに、その願いを叫んだ。


『生きろ』




            *


 部屋に朝日が差し込み、俺の余命の日を告げた。


 あの日の夜、カサラギは俺に「生きろ」と告げた後、俺に話してくれた。


 俺の余命は明日の十五時ちょうどだということを。


 そして去り際に、「明日はあなたの好きなように暮らしてください。それが一番いい。私は付きまとわないので安心してください。まあただ、十五時に生きていたなら、連絡をください」そう言った。


 皮肉にも思えたが、あいつの考える俺への最大の配慮にも思えた。


 彼のあの話を聞いて、生への希望が出るのかなとも思ったが、やはり死への恐怖が勝っていた。俺の余命の日が変わることはないのだから。だからと言って自殺はもう俺の考えから消えていた。カサラギの一喝もあったし、何より最後の最後に必死に俺に言葉を残してくれたカズヤ、最後まで俺と添い遂げてくれると誓ってくれた彼女に、失礼なことだと俺は今更思い知ったからだ。


 そしてそのまま俺は彼女と彼女の家に戻り、眠って、今日という日がやってきた。


 今日の一日、何をしよう。


 何の考えも俺にはない。


「人生最後の日何がしたい?」


 そんな話を人は小さい頃にするだろう。


 死ぬことなど考えもしない子供たちは、遊園地に行くとか、アニメをいっぱい見るとか、お菓子をめいいっぱい食べるとか、そんなことを言う。


 しかし人は死を意識した瞬間、呆然とする。


何をすればわからなくなる。


ただ、混乱するだけなのだ。


それが死の当日ともなれば、それこそ、何をするかなんてそうやすやすと決められない。


俺は正直に、彼女に話すことにした。


寝室に彼女はもういなく、彼女はもう起きて朝食の準備をしていた。


「おはよう」という彼女に、俺はすぐに話を進めた。


「あのさ、今日、何しようかなって」


「えっ?」


「カサラギが教えてくれた。俺は今日の三時が余命時刻だって」


 彼女は俺の顔を不安そうに見つめた。


「三時……? ほんと、なの……?」


 たどたどしくも、彼女は噛みしめながら口にした。彼女自身、俺のプロポーズの日から、何らかの覚悟はしていたと思う。しかし、現実に時間まで突き付けられると、さすがに動揺が隠せないだろう。


「そう……なんだ……」


 俯きながら、彼女は口にした。


 彼女のそんな姿に、俺は俺の重荷を背負わせてしまっているようで、胸が痛んだ。


「大丈夫……?」


「……うん」


 彼女はそういうと、顔を上げた。まだ動揺はしている様子だが、何となく、何かを決めたような風に見えた。


 彼女は俺の目をまっすぐ見て、言った。


「行きたいところがあるんだ」




 窓からは過ぎ去る街並みが見える。


 彼女は行きたいところがあるというと、朝食を食べさせると早速というようにそそくさと支度をし、俺を車に乗せた。


 知らないうちに彼女は免許を持っていて、車も持っていて、俺は改めて彼女の知らないことが多いというのを知った。


 車に流れるロックサウンド。学生時代俺が好きだったミュージシャンのアルバムだった。そういえば高校時代俺が「めっちゃいいから聞いてみて」といって強引に貸したことがあった。彼女はそんな俺の好きな曲ですら親身になって聞いてくれていたのか、今でもそんなことを覚えてくれていたのか、と彼女の温かみを感じた。


「ねえ、この景色、覚えてない?」


 運転に集中しながら、彼女は俺に訪ねる。


「覚えてるよ」


 確かに、覚えている。


 この景色、高校時代、通った道。時にカズヤと、時に彼女と、また三人で。何度も通った道だ。


 この道は、高校の時の通学路だ。といっても、今進んでいるのは、当時進んでいたのとは反対方向だった。


「ねえ、どこ行くの?」


「そのうちわかるよ。いつも行った場所だし」


 彼女は一瞬俺の方を振り向いて笑うと、また真剣な表情で運転を続けた。


 彼女の言ったセリフ。


 いつも行っていた場所。


 どこだろう? 科学館は一昨日行ったばっかりだし……そんな見当はずれな考えを巡らせていると、景色がどんどんと見たことのある所へと進んでいく。


 そこでようやく、俺は気が付いた。


「そうか、海か!」


「そうだよー、やっと気が付いたの?」


 彼女は呆れたような横顔でそう言った。


 そうだ、この通り道、俺たちがよく寄り道して通っていたところだ。何で気が付かなかったんだろう。


 どんどんと車は走り、見たことのある景色が流れていく。そしてあっという間に、車は目的地へ着いた。


 車を出ると、やはりそこには、見たことのある青い海が広がっていた。


「着いたねー! 懐かしいでしょ」


「うん。よく来たよね」


「ほんとに覚えてるの?」


「覚えてるよ、ちゃんと」


 俺は彼女の少し怒った視線を避けながら、そう言って笑った。


 浜辺に行くと、海には人はいなかった。高校の時も人は少なかったし、この街自体の人が少ないということもあるかもしれないが、やはり季節が季節ということもあるだろう。


 海の景色に全く変わりはなかった。澄みきった青色が広がり、心が癒されていく。


 ここには、本当に彼女とよく来ていた。田舎町と言ってもいいここでは、遊ぶところと言える場所がほとんどなかった。それが彼女とのデートとなれば、なおさら困るものである。


 俺と彼女の場合で言えば、科学館があったが、それでも毎回科学館へ行くというわけにもいかなかった。そんな中で、俺が選んだ場所がこの海だった。学校と反対方向でもあるし、俺たちの施設からもだいぶ距離が離れていたことから、あまり行かなかった場所であった。高校の奴らも来ることもなかったし、デートスポットとしては最適だった。最初はあまりに遠い場所だったこともあり、「ねえ遠いよー」と彼女が文句を言っていたが、この綺麗な景色、人の少ないスポットに一気に惚れこみ、気に入ってくれた。


 彼女とともに、浜辺に座り込む。俺はたまらなく、腕時計を覗き込んだ。時間は十二時半。あと数時間で俺は……と考え込んでしまう。


 そんな俺の様子に気づいたのか、彼女は手を握って悲しそうな目で見つめてきた。


「やっぱり……気になる?」


「そりゃあ……さ。もうすぐ……死んじゃうかも……しれない訳だし……」


「うん……」


 彼女も表情では、何言ってるの!? という風に表してもいたが、俺の雰囲気に圧倒されてか、言葉を飲み込んでいた。


「あのさ、高校三年生の夏、覚えてる?」


「……ああ、覚えてるよ」


 彼女は気を使って話を変えてくれた。本当に彼女のこういう反応にはいつも助けられる。


 高校三年生の夏、俺と彼女は昼からこの海へ来て、水着で泳いだ。さすがに夏場の時期になると人も多くなり、大群衆の中で俺たちは海デートを楽しんでいた。さすがにこのままじゃ終われないと俺も思っていて、彼女に「花火持ってきたんだ」と言って、夕方には帰りたがっていた彼女を何とか夜までこの海に残した。二人で花火をした時間には、夜は街灯ぐらいでほとんど明かりがないこの街の海には、人はほとんどいなかった。彼女と花火をした後に、満足げに笑顔を浮かべる彼女の肩をつかみ、俺は真剣な顔で彼女を見つめた後、キスをした。


 あれが俺たちの、そして俺のファーストキスだった。


 彼女は照れた顔をして俺の方を向く。あの日の時と同じように。


「花火の後さ……ほんと驚いたよ」


「いや、なんかさ、今日こそ決めようとか、思ってて」


「なにそれ! こっちはファーストキスだったんだよ!」


「こっちはって、俺もだよ」


 彼女は照れた顔をして、「おお、そうですかー」と言った。


 俺はそんな彼女を苦笑いしてみると、再び海の方を見た。


 俺はここで……何度も彼女と過ごした。ファーストキスも、思い出のデートも、何回も、何回も、ここに来て、彼女と時間を分かち合ったのだ。


 そうだ、彼女はこの思い出の場所を見せたかったんだ。


 崖っぷちに立たされた俺に、自分たちの築いてきた思い出を、大切で、楽しかった時間を、思い出させようとしてくれたんだ。


 彼女とのその思い出たちがぼろぼろと溢れ出し、俺は感慨に浸っていた。すると彼女が、そんな俺の肩をトントンと叩いた。


「ん? なに?」


 そう俺が振り向くと、目の前にまで彼女の顔が近づいていた。そのまま俺は状況が理解できないまま、どんどんと彼女の顔が近づいていく。


 彼女はそのまま、俺に口づけをした。


 広い海辺に、小さなさざ波が響く。


 俺は驚き顔で彼女の口づけを受け止めていた。


 あの時の感触が、そこには確かにあった。


 口づけが終わっても、俺は驚き顔で彼女を見つめるばかりだった。彼女は俺のそんな表情を見つめながら、顔を赤らめた。


「初めて私から……しちゃったね……」


 俺は情けなくも、言葉が出なかった。


 彼女はそのまま、赤く染めた顔のまま、次第に表情を曇らせていき、そしてとうとう、泣き出した。


 俺は驚きながらも、彼女の背中を摩った。彼女の泣き顔をこんな短期間で連続して見ることになるとは、思わなかった。


「怖い、怖いよ……あなたが一番怖いことはわかってるのに……私が泣いちゃいけないのに……もう……だめ。ねえ、行かないで……カズヤが死んじゃって……あなたまで死んじゃったら……私……」


 彼女は必死にこらえながらも、抑えきれない様子で、何回も、何回も、嗚咽を繰り返した。


 俺は結局、彼女に支えられ続けていたのだ。彼女は強くあろうと、俺を支えてくれようと、必死に悲しみを俺に見せないようにしてくれていた。


 俺が、すごく小さな存在に思えた。


 彼女の気持ちを何とか抑えようと、彼女を摩るが、行かないよ、なんてことは言えなくて、「ごめん、ごめん」と何度も繰り返していた。


「俺、やっぱりだめだな」


 俺は途端に、そうぼやいた。


 彼女も驚いた様子で、俺を見つめた。


「勝手に遠くに行って、辛い思いさせて、挙句の果てに久しぶりに顔を合わせて、俺死ぬんだ、なんてさ……」


「そんなことないよ? ごめんね、私が急に泣いたりしたからだよね」


 彼女が泣きはらした顔で、俺を必死になだめる。


 やめてくれ、そんな壊れ物に触れるような目で、見つめないでくれよ。


「俺なんて、お前と出会わなきゃよかったのにな」


 俺はそういって、立ち上がった。


 彼女を置いて、一歩、一歩、海の方へと近づいていく。


 カサラギ、最後の願いは、もう無理だ。


 足を進めていくうちに、足先に冷たい感触がした。足はそれからどんどん沈んでいく。進むにつれて、俺は海に体を濡らしていく。


 どんどん進む俺の姿に、彼女もようやく気が付き、俺のもとに走ってきた。


 気が付けば、腰辺りまで海に沈んでいた。


「やめて! 何してるの!」


「もういいんだよ! 俺なんてもう何時間したら死んじまうんだ!」


「やめて! カズヤ見てたでしょ! 自分から死のうとするなんて絶対ダメ!」


 彼女は必死に俺の手をつかんだ。


「放せよ! 俺なんてもう死んじまえばいいんだよ!」


 俺は大声でそう叫んだ。


 すると彼女は、手を振りほどくと、その手を上げて、俺の頬を思いっきり引っ叩いた。


 俺はまたも唖然とし、叩かれた頬を手で押さえた。


「死んじゃえばいいだなんて、二度と言わないで!」


 今まで見たこともない怒りの表情を浮かべていた。今まで親、そしてカズヤ、大切な存在を多く亡くした彼女にとって、そしてそんな彼女と同じ境遇の俺だからこそ、そんな言葉を口にして欲しくはなかったのだろう。


 俺は暴れていた体をおとなしく沈めると、そのまま泣きじゃくった。まるで子供のように。


 今の俺には情緒などというものはなかった。気分は平気で浮き沈みするし。勝手に絶望して、勝手に死のうとする。


 俺は大声で、彼女の目の前で、俺のためだけに泣いた。


 生きたい、死にたい、そんなことではない。


 単純な恐怖から、泣いた。


 ああああああ、と声を大にして、俺は止まらずに泣いた。


 そんな俺の姿を見て、彼女も泣きながら近づき、二人で海の中、抱き合い泣いた。


 波音さえも、かき消されるほどに。


 思えばCU病を告げられてから、頭は、余命の時間、死の実感で一杯だった。恐怖が強すぎて泣くことさえしなかった。この日になって、俺は初めて、全ての重荷を放り投げるように泣くことが出来たのかもしれない。


 彼女に支えられ「戻ろう?」と言われ、俺たちは海岸まで戻り始めた。どこまでも彼女頼りだ。


「ちょっとタオル持ってくるね」


 そう言って彼女は車の方へと走っていった。


 俺はこの何日も、彼女に頼ってばっかりだ。そうまたも思った。


 すると、急に、今日初めての痛みが俺を襲った。しかし、それは頭ではない、胸だ。心臓が痛み出したのだ。


 俺は膝から倒れこみ、息遣いを荒くさせた。


 死ぬのか!? もう死んでしまうのか!? 


 焦りながら、俺は痛みに耐えきれず叫び出した。


 そんな声に気づいたのか、彼女は駆け足で俺の元へ近づいて、俺を抱き寄せる。不安と焦りの表情で一杯だった。


「大丈夫!? なんで!? まだ二時前なのに!」


 彼女は必死に言った。まだ俺は余命の時ではないらしい。俺の余命は早まったのか。


 今まで散々死のうとしていたのに、こんな時になって気づく。


 まだ死にたくない。


 やりたいことがたくさんある。


 やり残したことがたくさんあるんだ。


 何で。


 何で。


 まだ死にたくない――――――



 爽やかな風が吹く。


 真っ青な空が広がる。


 俺は一人、そこに立っていた。


 そこにはたくさんの鳥たちが行きかっているが、鳴き声一つ聞こえない。


 無音の空間が、俺を包む。


 そんな中で、後ろから、俺の名前を呼ぶ声がした。


 その声に振り向く。


 そこには、母さんと、父さんがいた。それにカズヤも。


 父さんと母さんは俺を笑顔で見つめると、後ろを向いて、歩き出す。


 俺はそれを見て、二人を追いかけようとする。


 しかし、カズヤは、俺を止めた。


「お前はまだ、こっちに来ちゃだめだ」


 彼はそう言って後ろの方を指さした。


 その方向を向くと、不思議な光が俺を包み込む。


 眩しい。


 そう思いながら、俺はその方向を進んだ。


 すると声が聞こえる。


 帰っておいでと――――――



「―――――さん、大丈夫ですか!?」


 隣から焦る声がした。


 聞きなれている声が。


 俺は重たい目をゆっくりと開けた。


 目の前には真っ白な光景が広がっている。眩しい。蛍光灯の光が目を刺激する。天井だ。


 ゆっくりと起き上がると、辺りを見渡した。この光景、病室か。


「大丈夫ですか!?」


「……カサラギ」


 目の前にいたのは、カサラギだった。


 彼は焦りながらも、何か安堵した表情を浮かべている。


「俺は……どうして……」


「海で倒れたんです。覚えていないんですか」


 そうか。俺はあの時胸が痛んで、海で倒れこんだんだ。思い出してきた。でも、それじゃあ……


「でも、あの時死んだんじゃ……」


 そう、あの時の胸の痛み確かに、死を意識するものだった。俺は余命が早まって死んだんじゃなかったのか。


「それが、何と言ったらいいかわからないんですが」


 カサラギは真剣な表情で、俺を見つめた。


「奇跡が起こったんです」


「奇跡……って……?」


「あなたのCU病が、治ったんです!」


「治った!? どうして!?」


 状況が全く呑み込めなかった。医者にもそれこそカサラギにも、不治の病だと言われて、俺も諦めていたのに。治った!?


「海であなたが倒れた後、病院で出来うる治療を施していたんですが。二時間後、急激に心臓の動きが回復したんです。それこそ、健康な人と遜色ないほどに。医師もまずCU病患者の心臓の動きではないと言っていました。精密検査はまだですが、今までの検査では、CU病は完治したとしか言いようがないようです……」


 確かに、俺の心臓は強く脈を打っていた。確実に以前よりも強く。痛みなんてもう全くなかった。


 俺は生き延びたんだ。病気に、打ち勝ったんだ。


「……大丈夫ですか?」


 ああ、ああ、と声が漏れる。気が付けば俺は、泣いていた。柄にもなく大声を出して。鼻水まで垂らして。人には見せられないような情けない表情で、泣いていた。


 俺はCU病を宣告され、余命四日を告げられた。


 あるはずだった時間が無くなり、それこそ道の石が転がり落ちるように俺の人生が転落していった、はずだった。


 でも今、俺は生きている。


 余命に打ち勝ち、病気さえ克服し、俺は生き延びたのだ。


「おめでとうございます。まさか完治してしまうなんて。本当に驚きです」


 カサラギは目に涙を浮かべながらそう言った。


「父のこともあったからかもしれませんが、本当に嬉しいです。あなたが死なずに生きてくれたことを、本当に嬉しく思います」


 丁寧ながらも、言葉に熱気が帯びている。彼は本当に俺のことを、専任付添人として以上に思ってくれていた。そんなことが嬉しくて、俺はまだ涙が止められずにいた。


「いけない、彼女に伝えてこなければ。あなたのことを、ずっと心配してくれていたんですから」


「彼女はこのことを?」


「病気が治ったことは伝えてあります。でも意識が失っていたのが長かったので」


「あの、今って」


「ああ、二十二時ですよ」


 彼はにっこりと言った。そんなに経っていたのか。


 彼女にも、本当に、この数日、いろんな思いをさせてしまった。


 悲しませ、泣かせ、怒らせて。


 彼女に会ったら何て言おう。何を話そう。


 今は思いつかないな。会ったら何か自然と出てくるかな。


 いろいろ思ったが、彼女に会ったら、真っ先に言おう。


 ありがとう、と。


「釘を刺すようですけれど、CU病完治者なんて前例はありませんから、これからその要因や再発の可能性など、様々な検査が施されるかもしれません。不安になるかもしれませんが、誇りに思ってくださいね」


 カサラギはそう言って、病室を出た。


 鎮まる病室で、俺は立ち上がり、空を見上げた。


 空にはやはり、輝く星たちが溢れている。


 俺は、カズヤに助けられたのかもしれないな、そう思い、俺は星空を見上げた。


「ありがとう、カズヤ」


 俺はCU病に打ち勝った。


 だがカサラギの去り際のセリフ。俺のCU病との戦いは、まだ終わっていない。これから様々な思い、体験をまだするだろう。


 しかし俺は思う。今くらい、噛みしめようと。


 生き延びた喜び、これからあるいくつもの可能性、未来に、喜ぼうと。


 明日になれば、慌ただしい日が続くかもしれない。大変なことも多いだろう。


 けれど、せめて、今くらいは喜びをかみしめたい。


 せめて、明日という日が来るまでは――――――

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明日という日が来るまでは 七氏野(nanashino) @writernanasi

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