寄り道

 すゑの腹がぐぅとなったのは、山の木々の隙間から、青白んだ空が見えたころだった。

 鬱蒼とした山に一層の蒼い影が落ちる一方で、あちらこちらから聞こえ出した野鳥の声が朝を告げる。

 口減らしのために山に捨てられ、悪霊に襲われそうになったところを助けれてくれた朱鬼の、両目を覆う布端を追って歩いて、どれ程の時間が経ったか分からない。

鬼はすゑのことをあれこれ尋ねたが、気が済むと黙々と道なき道を進む。

 一瞬忘れ去られているのではと思う静寂であったが、人間ではとても降りられそうにない崖や斜面にたどり着くと鬼はすゑを小脇に抱え、ひょいと跳んで、好きな所へ降りた。

 今も、

「腹減ったのか。これでも食べるかい」

と、鬼はすゑへ橙色の丸いものを二個、放り投げるように渡してきた。

「わ、枇杷!」

 すゑは驚いて目を見張った。

 鬼の手の中にあった時は、枇杷はとても小さく見えたが、少女の手に渡ると、彼女の知る大きさと変わらなかった。手に置いただけでも分かるほど、ちょうどよい柔らかさの果肉と細かなうぶ毛、皮から滲む甘い香りが食べごろを示唆している。

 見上げると頭上に枇杷の実がたわわに成っていた。子どものすゑでは、うんと見上げないと気が付けない高さのその木は、鬼にとっては簡単に手が届く高さにあった。鬼は新たな枇杷を三個もぐと表面をぬぐいもせず、ひょいひょいと口に放り込む。

「食べごろじゃな」

 鬼は種だけをぷっとそこらへ吐き出して、満足そうに頷いた。

(果物も食べるんだ)

 鬼は自分の好物は人の魂だと言ってたが、それ以外も食べるらしい。

すゑも枇杷にかぶりついた。ぐじゅりと甘い果汁が口の中に広がる。

「美味しい!わたし、こんな甘い枇杷食べたことない!」

 一個目を食べ尽くすと、透かさず二個目を頬張った。渇いた喉があっという間に潤されていくのがわかる。

「みんなにも食べさせてあげたいなあ」

「へぇ、自分を捨てた村人に食べさせてやりたいって?」

「……」

 嬉しい気持ちと共にするりと出た言葉に、鬼は冷や水をかけた。

 村人が本当にすゑを捨てたのかそうでないのか。今となっては確かめようがない。しかし、村の状況からすれば、口減らしがあったのは十中八九間違いがないだろう。そもそも身寄りのない、一人前に働けない者が一人でも減れば、村の負担が減るのは間違いない。その点で、すゑがいなくなることは彼らにとっては利点になるだろう。

すゑは感情とは別のところで現状を受け入れようとしたが、折り合いがついていないのは自身でよくわかっていた。

 黙り込んでしまった彼女に鬼はからりと笑った。

「これは意地悪じゃったのう。まあ、気にするな。儂の性分だ」

 もう一個食うか。

 気を遣っているのかよくわからない。

 何事もなかったように彼は枇杷をさらに一個もいで、すゑに渡した。

「こ~~ら~~。人ん枇杷ものを勝手にとるんじゃな~~い!」

「ご、ごめんなさいっ!」

 唐突に降ってきた声に、すゑは一口かじった果実を落としかけた。

「おや、珍しい人が来た」

 鬼は驚きもせず、声がした方を見上げた。すゑも鬼が顔を向けた方を見る。

「誰かと思えば君か。一体何をしてるんだい」

 声の主の姿はすゑには確かめられなかった。

 鬼の両目は布で覆われているが、確実に視線があり、何かが見えていることはわかる。

 高い木々の上の方、朝日で逆光となっている太い枝の一本に誰かが座っている。

「なに、目的地に向かう途中、ここを抜けるのが一番早いってだけの話じゃ」

 鬼は声を張り上げるでもなく、淡々と声の主に言った。

「森に害がなければ、君の目的なんてどうだっていいよ。ただ、どうして人の子なんて連れているんだい?ないね」

「これは成り行きというか、これが目的というか。これには海より深く天より高い訳があるんじゃ。◼️◼️様、知りたいかい?」

「結構だよ。どうせ、そのあたりの迷子だろ。早く家に帰してやりなよ」

 人影がしっしっと手を払う仕草をする。当たらずも遠からずの指摘に鬼は面白がるように頭を小さく下げた。

「もとよりそのつもり。御森おんもり通らせてもらいますよ」

「害がなければ端ぐらい通っても怒らないよ。僕は寛大なんだ」

 そう言って気配は消えて行った。

 残るのは朝の爽やかな空気と光に満たされた森だけだった。

 すゑは夜通し歩いてきた枯れた山との違いに今更ながら驚いたが、それよりもさらに気になることを口走る。

「今のは誰?」

「この森に住んでいる狐神きつねがみさま」

「神さまっ!神さまっているの?!」

がおるなら神もおるじゃろ」

 鬼はさらりと言ってのけると、すゑの驚きなど気にする事なく獣道を迷うことなく進んでいく。

「だって、村にも神さまをお祀りする祠はあったよ」

 鬼の背を追いながら、すゑはつぶやいた。

「わたし、お供えや毎日お参りしてた。村のみんなも。でも、日照りは収まらなかったし、領主様はひどい人だし、流行り病も来た……」

「神なんぞいい加減なもんさ」

「……」

「それに人が作ったものに何か宿っておるとは限らん。宿っていたとしても、が人をたすく保証もない」

「そう、なんだ……」

 身近な人の言なら、すぐさま反論したところだった。それをするぐらいには、すゑは村の端にあった祠の社に参っていたのだ。だが、人ならぬ神を論じるのが人ならぬ鬼であるため、返す言葉が見つからなかった。

「知らぬ神より馴染みの鬼というやつもあるしのぅ」

 独り言のように鬼は笑った。

「と、言っている間に着いた」

 鬼が立ち止まるに従って、すゑも立ち止まった。

 いつの間にか森が開け、石畳の道へと出ていた。あれだけ深い森を抜けたにしては、それほど歩いておらず、時も経っていないことに、すゑは困惑した。

 空はまだ明けたばかりで、拓けた道の向こうに見える山間の景色には朝霧が立ち込め、西の空には白い月が夜の名残のように浮かんでいる。

「◼️◼️様、ああは言ったけど、さっさと儂らを追い出したかったようだ」

 隣で鬼が顎を掴んで訳知りに考察した。どうやら、先刻の“神さま“の仕業らしい。

「楽ができた」

 僥倖と長い犬歯をのぞかせながら言った。

「というわけで、ここが目的地じゃ」

 二人の目の前には長い石造りの階段が山の上の方へと続いていた。両側には等間隔に石灯籠が並び、淡い灯りで道を照らしている。

 いくつあるかもわからない数の灯籠が続く先は深く青々とした山の植物に埋もれ、先がどのようになっているかはすゑには想像がつかなかった。参道のような見た目の通り、階段を上がった先には寺や社があるのかもしれない。

「この先はお前さん一人で行け」

「え?」

 鬼が冷たい声色で言った。今までのおどけるような口振りとは違う、神妙な言葉使いにすゑは一瞬、臓腑が冷える思いがした。

「この階段を上がった先にいる連中に、事情を説明すれば、それなりに図ってくれるだろう」

「どういう人がいるの?」

「退魔師の連中」

 すゑには、退魔師がどんな人々なのか想像もできなかったが、昨晩の鬼の言葉を借りれば、すゑが山で遭遇した"悪いもの"を退治することを生業にしている人々であることぐらいは推測できた。

「じゃあ、ここでお別れ?」

「ま、そうじゃな。この先は結界があって、どうせ儂には越えられん」

 結界がどういうものなのか、すゑには皆目見当がつかなかったが、この先へついて来てはくれないことだけは察せられる。

 気が付けば、すゑは鬼の着物の袖をつかんでいた。なんだかんだと言いながらも、あの山を無事に抜けられたのは、彼のおかげだ。

 すゑは礼を言おうとしたが、どうしてだか、喉の奥で詰まってうまく出てこなかった。察したように鬼はすゑに声をかけた。

「礼の言葉なんぞ要らんぞ。言葉そんなものは霞と一緒じゃ。そんなものより十年後ぐらいに、お前さんがぼいんになったら、儂の相手をしてくれるなら、そっちの方が嬉しいんだが」

「また会えるの!?」

 鬼の言葉にすゑはぱっと目を見開いた。

「今のは無し! そんな反応をされると、儂がただのキモチワルイ奴に見える」

「?」

 意味がわからず首を傾げると、鬼は咳払いをして気を取り直す。

「ともかく、さっさと去ね」

 鬼はすゑの視線に合わせてしゃがむと、石階段へと促すように彼女の腕を引っ張った。

「恩に着るなら、もう迷うな。迷った魂は不味い」

 そして、背を押す。

 強くも弱くもない力加減だったが、どうしてか抗うことができずに、一歩前に足が出たその時だった。

 べん、と琵琶の音が耳の奥で鳴った気がした。

「あの、わたしっ」

 弾かれるように振り返ると、もうそこには誰もいなかった。

 すゑだけが、燦燦と降り注ぐ陽光の下、森の石畳の上にぽつりと残されているだけだった。

「お礼、言いたかったのにな……」

 つぶやいた言葉は、夜露と共に朝へと溶けて消えた。

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彼の道、此の道、帰れない道 双 平良 @TairaH

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