彼の道、此の道、帰れない道
双 平良
彼の道、此の道、帰れない道
自分は捨てられたのだ。
すゑがそれに気が付いたのは、山奥の黒々と茂る木々の間に、薄ぼやけた月が出た頃だった。
否、日が暮れるころにはもう気が付いていた。山菜採りを手伝ってほしいと隣の家のおじさんとおばさんに頼まれて、言われるがままについて行って、四半刻も経っていない頃には、自分は山に置きざりにされたのだと感じた。もっと時が経っていたならば、ただの迷子だと思っただろう。普段、山菜取りや柴刈りに手伝う時ははぐれないようにと、気を遣ってくれていたのだ。故に、あまりに短時間で二人を見失ったことに違和を感じざるを得なかった。
だが、まさかとも思い、何度もおじさんとおばさんの名を呼んだ。家族を早くに亡くし、血の繋がりもないのに、子供ながらに一人で暮らす自分にいつも親切にしてくれたおじさんとおばさんなのだ。二人がそんなことをするはずがない。そう考えながらも頭に過るのは、最近の村の様子だった。
すゑの村は昨年からの不作にあえいでいた。去年は水害、今年は日照り。あげくに、都の方角からは疫病のうわさが流れてきていた。山も山菜一本見つけるのに苦労する状況になっていた。すゑは暗闇の中、空の籠の中をじっと見つめた。
さらに、村の蓄えは日に日に無くなり、疫に怯える中、領主からの慈悲はなかった。「昨年の水害で減免した分、今年は例年通りに年貢を納めよ」との達しが届いたのだ。村中は重いため息に塗りこめられていた。集会には出なかったすゑにも耳に入るほどだった。
口減らし。
すゑの頭に浮かんだのはこの言葉だった。
もしかしたら、本当にただの迷子なのかもしれないが、それにしては誰も探しに来てくれないのはおかしいではないか。
すゑの中で、すとんと心に落ち着くものがあった。こういう時、最初に見限られるのは身寄りのない者や働き手として役に立たない者だと、子供ながらにすゑは気が付いていた。そういった考えにたどり着くぐらいには、すゑは子供ではなかった。
村に、悪人という人はいなかったに思う。だからと言って、善人ばかりであったとも言えない。
悲しいが、貧しい暮らしにさらなる貧しさと悪意の追い打ちがかかれば、生きるために何でもやる人が出てくる。すゑだって、お天道様に顔向けできないことはしていないが、それでも死に物狂いで生きてきたのだ。死にたいと思うほど苦しくて寂しいこともあったが、死ぬのは怖い。怖かった。
自由に死ねないなら生きるしかないのだ。
「せめて、どっかに売ってくれればよかったなあ」
下を向くと泣きたくなるので、薄雲に隠れがちの月を見ながら、山の中を手探りに進んだ。虫一匹鳴き声のしない山はいよいよ不気味であったが、狼の遠吠えが聞こえないのはむしろ安心した。月明かりのおかげで鬼や妖も出てくるようには思えない夜だった。ここで蹲って動くのを止める方法もあったが、熊や狼に食われるのも、ひもじく果てていくのも、他の選択肢もすゑはどれも怖くて、ただ歩いた。
運が良ければ、元の村(歓迎されないかもしれないが)や他の村、どこか一晩でも過ごせる場所を見つけられるかもしれない。一縷の望みをかけて、獣道を歩く。
長い日照りは山にも影響を与えているらしく、足元は枯れた木々ばかりで、ゆっくりと歩めば、存外に足場は悪くなかった。
そうして何とか山を進んでいると、すゑは遠くに光を見つけた。
すゑがいる場所からだいぶ下った場所だったが、真っ黒な視界の中、炎らしき光がいくつもちらつくと、木立の輪郭がにわかに見え隠れしていた。
「人、かな……?」
何人もの人が松明で山道を照らしているようだった。
すゑは重くなりつつある足を叱咤しながら、揺らめく光の列を追った。光の列はゆっくりと下の方へと降りて行く。すゑの足でも追いつけそうだった
(もしかしたら山賊かもしれない……。隠れて様子を見よう)
光の列が木立の向こうで止まった。
これ幸いに追いつくと、すゑは手前にあった黒い藪の前にしゃがみ、枯れた葉枝の隙間からこそりと列を覗いた。
覗いて、後悔した。
「っ!」
いたのは、松明を持つ人の列ではなかった。
大量の煤が空で留まったような黒い”何か”であった。夜の闇より暗いそれの周りには無数の青白い鬼火が揺らめいている。
近くに来るまで、どうして気が付かなかったのだろうか。
どう見ても、この世のものではなかった。よく見ると、塊だと思われたものは、無数の人影の集合体であった。老若男女様々な人がいるように見えるが、どれも人の形をぎりぎり保っているに過ぎなかった。どこへ行くのか、同じ方向を向いて進む人の形の中には、首や手がない者、頭があってはならない方向へ向いたもの、ぼたぼたと何かを落としながら行く者など、通常、動いていてはいけない者ばかりだった。
腐臭と冷気が地面を這って流れて来た。
すゑはなんとかこの場から逃れようと、藪から身を離そうとしたその時だった。
ぐるりとそれがこちらを向いた。
皆、顔がない。振り向いた瞬間に頭がぼとりと落ちる者もいた。
―――いるぞ。
―――何がいる。
―――生者がいるぞ。
―――うまそうだ。
―――まずそうだ。
―――喰ってみなくては分からぬぞ。
―――足がいい。
―――目玉がほしい。
―――髪をちょうだい。
一斉にすゑを見て、口々にそれは言い出した。
歯の根が合わない。身体も硬直して動かなかった。
その内の何本かの手がざわざわとすゑに向かって伸びてきた。
「ひっ」
「うるさいなあ。食事の邪魔をしないでくれないかなあ」
すゑの足をそれの手が掴んだか掴まないかところで、唐突に男の声が降ってきた。
すゑもそれも、無視できないぴんと張った男の声に、ぴしりと固まる。
鬼火に照らされた男は、六尺はあるように見える身長の、朱色の髪をざんばらに肩までたらした青年だった。
それを証明するように、男の朱色の髪の間、両耳の上、こめかみの後ろに赤い角が生えていた。
「鬼……」
―――鬼だ。
―――何しに来た。
―――邪魔だ。
―――喰ってやろう。
―――鬼はうまいのか。
鬼もそれ……
「はいはい。鬼ですよ~。そして、ここは儂の最近のお気に入りなんじゃ、此の世と縁が切れたのなら、さっさと彼の世に行きなされ」
朱色の鬼は、見た目に似合わない老人のような言い回しをすると、琵琶を弾いた。べぃぃぃんと腹の底をふるわせる音がする。
鬼が幾度か琵琶を鳴らすと妖は鬼火と共に闇に溶けて霧散していった。
「……消えてく」
ほっとしていいのか分からないまま、その様子を見届ける。
「で、お前さんは人か?」
「ひぃ!」
目の前に鬼の顔があった
鬼は、しりもちをついて動けないすゑに視線を合わせるように、しゃがんでいた。
「うん、人じゃな」
鬼はすゑが想像していた鬼よりも人に似ており、端正な顔立ちをしていた。だが、長い外耳には、見たことがない金属の耳飾りをいくつも着け、口は大きく、長い犬歯が口を開くたびに見え隠れしていた。
「た、食べないで……!」
すゑは、新たな危機に精一杯の懇願をした。
「誰が人なんか食べるかい」
「へ……」
「いや、食べる
うまいのだろうか。
頭をひねる鬼に、すゑは少しだけ身体のこわばりがなくなった気がした。
「とにかく、お主もさっさと去れ。ここは生者の来るところじゃない」
鬼はすゑの腕を強い力でつかむと、あっという間に藪から外へと引き上げた。
先刻、妖がいたところは木々が開けた道だった。ずいぶんと整備されているらしく、所々にある石灯籠が均した地面を淡く照らしている。
その道を、黒い人影がまたゆらゆらと見え隠れしていたが、先ほどのような恐ろしさはなく、何もないようにもあるようにも見えた。
「ここは……」
「ここは彼の世と此の世の狭間。まっすぐ彼の世に帰れない死人の通り道。まあ、放っておけば凡そは勝手に彼の世へと行くが、たまに吹き溜まって、さっきのように悪い
「あなたが退治したの?」
「まさか。それは退魔師の仕事じゃ。儂は邪魔だったから散らしただけじゃ」
べぃんと琵琶をおどけるように鳴らす。
良くも悪くも自分に害を与える気がないらしい鬼にすゑは少しだけ気が緩む。
「儂はここのあぶれた魂で食事をしているだけじゃ。澱があると飯がまずくなる」
「え゛」
あっさりと放たれた物騒な一言に、すゑの冷え込んだ声が夜の森に響いた。
その後、人は食べないが人の魂は好物という赤い鬼は、すゑを人里近くまで案内してくれた。生者には興味がないと言うわりに事情を聴くと、鬼はすゑを、元の村ではなく別の領主が治める地域に連れて行った。
そこの領主は変わり者だが、話が分かるし、金持ちだから、無茶な取り立てはしない”良い領主”なのだそうだ。
鬼が何故そんなことを知っているか疑問に思うところであったが、すゑがその中の一つの村に落ち着いて、一年が経つ頃にはそれを実感した。この地も他の地と同じように水害、日照り、疫等に苦しめられることはあったが、領主が民に無茶を強いることはなかった。
すゑは、鬼に助けられたことを憚りなく人に言った。その度に気味悪がられたが、気にすることはなかった。
何者であれ、命を助けられたのだ。
善も悪もなく、命があり、生きていたから助けられただけだった。無いようにも有るようにも見えるその理由が、すゑにはある意味気楽だった。
まだ生きていける気持ちにさせてくれた。
ひとつ、寂しく思うのは、時折遠く聞こえる琵琶が鳴る場所が、生きてたどり着けない地にあることだけだった。
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