ブルー・マンデー

芝犬尾々

1

 高級感を意識して過剰に装飾品を飾り付けた店内はそこここで照明が反射して目が痛かった。客入りの少なさを誤魔化すためか、音楽のボリュームがやけに大きい。


 何度も聞いた部長の話と、混ざり合った香水の匂いに胸やけを起こし、いっそのこと安酒を思う存分にり、正体を無くすほどに酔っ払って、可愛くもなく愛想もない店の女どもの瘦せこけた胸元にゲロでも吐いてやれたら、どれほど爽快だろうか。


 俺は脳裏でその場面を想像したが、もちろんそんなことが出来るはずもない。素面のままに愛想笑いを顔に貼り付け、坊主の読経よりも退屈な時間をやり過ごしていた。だというのに、くだらない自慢話の山場という最悪のタイミングで、内ポケットの携帯が火が付いたように泣き始めたのだから焦ったものだ。


 慌ててスーツの裏地へと手を伸ばしたが、時すでに遅し。さきほどまで誰も聞いていない話にご機嫌で長広舌を振るっていた部長の顔が見る間に赤黒く変わっていく。


 典型的な昭和タイプでパワハラとセクハラの権化たる部長が、自分の話を遮られて怒らないはずがなく、俺の眼前に芋虫めいた太い指を突き付け、ありとあらゆる罵詈雑言を唾と共にまき散らしたあげく、不愉快だと野良犬でも追い払うように手を振った。


 ありがたい申し出だが、だからといって、ここで嬉し気にそそくさと帰るわけにもいかない。いや待ってくださいすみませんもう少し一緒に飲みたいんです、と部長の機嫌が良くならないよう祈りながら、心にもないおべっかをいくつか言った後、渋々といったふうを装いながら店を後にした。


 とっくに慣れたつもりだった排気ガスの臭いが鼻を突いた。季節感のない生暖かい空気に顔をしかめる。日曜日の夜だというのに、新宿歌舞伎町はいつもと変わらず、煌びやかな仮面を被り優雅に振舞っている。だが、それも表面だけで一歩裏通りに入れば吐瀉物と生ゴミの悪臭を煙草と酒の臭いで上書きした地獄のような本性があっさりと顔を出す。


 表があれば裏があるのは当然のことだ。これはなにも歌舞伎町に限ったことではない。


 東京という場所は夢と希望ばかりをショーケースに並べて、さも素敵な場所であると装っているが、その実、それらの何倍もの挫折と絶望が影に捨てられている。スポットライトを浴びることなくその他大勢に飲み込まれていった人たちが、路傍の石ころよりもありふれている。


 人工物で覆われたこの都市にいる限り、自分がその石ころであると思い知らされ続ける。いっそ実家に帰ってしまおうか、それとも見も知らぬどこかへ行くのもよいかもしれない。望まぬ家庭の濁った空気を感じるたびに、そう思った。しかし他人に干渉しないこの都市の冷たさが、いまの俺にとっては心地よいのもまた事実だった。


 最初のコールから随分と経ったのだが、よほど我慢強い相手なのだろう、いまだに内ポケットで携帯が俺を呼び続けていた。いや、この場合は我慢強いというよりも、執念深いと言った方が正解だろう。妻の、酔った勢いでの情事で妊娠し、責任を取らざるを得なかった好きでもない女の、つり上がった眉と潰れた鼻づらを思い出して、無性に腹が立ってきた。


 立ち止まればすぐに後ろから押されるほどの人の流れだ。電話に出るために道の端に寄る。長らく続く不況のあおりを受けて潰れてしまった店舗らしく、広く取られた窓の向こうは闇に沈んでいる。


「もしもし」


 通話ボタンを押して開口一番に、いま俺は機嫌が悪いのだぞと低い声を出した子供じみた企みが成功したのか、いつもの豚めいた金切声はいつまで経っても飛んでこなかった。その代わりに幾ばくかの空白を置いて聞こえた声が波のように俺の中の汚れをすべて洗い流し、胸中には甘くも苦々しい若い気持ちばかりが残った。相変わらず遠慮がちな彼女の細い声が、都会の絶える事のない喧騒に負けてしまいそうで、俺は慌てて通話口を耳に押し当てた。


「……いま、都合が悪かった?」

「いや、大丈夫」

「良かった。あの、ウチのこと覚えちょる?」


 懐かしい響きを含んだ言葉が耳に染み入っていく。忘れるわけがない。俺にとっての初恋の相手であり、人生で唯一心から愛した女性である彼女のことを。努めて忘れた振りをしていたが、忘れることなどできなかった。


 彼女、新美英子は俺の心の中に焼き付いた影のように存在し続けていた。


「……英子だろ」


 緊張で口がパサつき、喉がやけに渇く。落ち着きなく視線を彷徨わせ、それでいて声ばかり何気ない風を装っている自分に気が付いて、高校生かと自らを嘲笑した。しかし、そうなのだ。潮風を思わせるハスキーな彼女の声には、俺をふたりが一緒にいた時間へと連れていくチカラがある。男にとって初恋の女というのは、そういう不思議なチカラを持っている。


「覚えてくれちょってよかった。随分連絡も取ってないけぇ、もう忘れられちょるかと思っちょった。前に公孝くんに会ったの、成人式のときじゃけ」

「そんなに前だったっけ」

「そうよ。ウチ、避けられちょるかと思った」

「そんなわけ、ないじゃん」


 女という生き物は嘘に敏感で、俺の言葉が嘘であることを英子は当たり前のように見抜いているだろう。だが、それをおくびにも出さず、気づかぬ顔をして見過ごしてくれる。そういうところが好きだった。


「公孝くん、元気? 後ろ騒がしいみたいじゃけど、いま本当に大丈夫?」

「元気だよ。さっきまで舞台の打ち上げがあったんだけど、疲れてるから抜け出してきたとこ。俺、今回主演だったからしこたま飲まされてさ、参っちゃうよ」


 すらすらと嘘が口をついて出てくる。この嘘までは見抜いてくれるなと、ずぶ濡れのネズミのように情けなく思った。こればっかりは気づいてほしくなかった。ぼろ雑巾のなけなしのプライドだった。


「そっか……」


 言葉尻の沈黙がどんな言葉よりも鋭く俺の胸を刺す。


 思えば昔から優しい女だった。人を傷つけるようなことが出来ない、自分よりも他人を優先するような。


 だからこそ、彼女はあの島を出られない。


 ふたりの間を沈黙が横切った。どちらとも次の一言を探している様子で、あまり高性能でない音声の、ホワイトノイズのような雑音に混じって、寄せては返す一定のリズムが微かに聞こえた。


「海にいるの?」

「うん。ウチ、ここの海が好きじゃけぇ」


 聞き覚えのあるフレーズに、遥か昔、まだ甘い夢に酔っていた頃が鮮明に甦ってくる。あの時にもし戻れるなら、違う選択を出来るだろうか。小さな幸せをその手に掴むことが出来ただろうか。何度思ったかわからぬ考えが、また親し気に顔を出した。俺は慌てて言葉を押し出す。


「それで、なんの用?」


 惨めな気持ちになるのを嫌がって、英子との会話を早く終わらせようと思った。もちろん同時に終わらせたくないとも思っていたが、それでもそうしたのは、甘さよりも苦さのほうが尾を引くことを、年齢を重ねて知っていたからだ。


「ウチのお母ちゃん、死んだんよ。もう二か月になる」


 え、と声が出たかわからない。


 英子の母親の細いシルエットがちらりと浮かんだ。旦那に浮気されたあげく、家を追い出され、英子とふたり島に帰ってきたあの可哀想な母親が、長い髪で顔を隠し、病気がちで、英子を島に縛り付けていた枷である、あの母親が、死んだ?


 親しい友人の死を聞いたかのように、目の前が熱せられたゴムみたいにだらしなく伸びた。脳裏には、あの頃、英子の母が邪魔だと考えていた事実が、熱をもって浮き上がってきていた。いっそ彼女さえ死んでしまえば、と考えなかったと言えば嘘になる。あの時の言葉が呪いとなり、今更になって彼女の命を奪ってしまったような気がした。


「お母ちゃん死んじゃって、ウチひとりになってしもうたんよ。だから……この島出ようかなって」

「出るって、どうすんだよ」

「……公孝くんのとこ、行ったらダメ?」


 潮騒に負けそうな小さな声が、俺の鼓膜を激しく震わせ、胸中で何倍にも増幅されて全身を揺さぶった。返事を待つ英子の吐息が耳元をくすぐり、耳たぶを甘噛みされているように錯覚し、下腹部に熱が集まるのを感じた。


 しかし、それも一瞬のことですぐに夢から醒めた。氷水でもかけられたように、身体が上から順々に冷えていった。左手の薬指、他の指よりもほんの少し重たいその指が、締め付けられジクジクと痛いんだ。


「英子はさ、島に来てからは島から出たこともないだろ? だから、こっちの生活は肌に合わないと思うぜ」

「そうかも知れんね」


 自分の提案がにべもなく断られるだろうことを知っていたのか、英子の声に落胆の色は見られなかった。俺はそのことに安堵を覚えると同時に、少しばかり寂しさも感じた。その感情がいかに我儘なものか、考えることもなく言葉を続ける。


「そうだよ、だから英子は島で暮らしたほうがいいと思うぜ。こっちに出てくるなんて変なことは考えないでさ」


 まだ夢を追いかけていた頃、舞台上ではたどたどしく台詞をなぞるだけだった口が、いまは保身のための言葉をすらすらと吐き出している。皮肉なものだ。これだけ流暢に台詞が言えれば、今頃夢を掴み、胸を張って英子を迎えに行っていただろうに。


 顔を上げると窓枠の中、煌びやかなネオンを背に自分自身を憐れむような表情を浮かべた俺がこちらを見ていた。こんな顔を彼女が見たらどう思うだろう。考えるだけで気が遠くなりそうだった。英子にだけは会うわけにはいかない。せめて彼女の中でだけ、昔の俺に生きていて欲しかった。


「ほら、英子はさ、そこの海好きだって言ってたろ。そっちのと比べてこっちは汚いからさ、絶対こっちに来るなんて辞めた方がいいって」

「そっち、こっち、て公孝くんはもうすっかり東京の人じゃね」


 口元に微笑みを含んだ彼女の声が、やけに寂し気に聞こえた。あの泣きそうに笑う英子の顔が、目の前にあるかのように脳裏に浮かぶ。


「急に電話してごめんね。もう、ええけぇ。ありがとうね。そいじゃ」


 返事を待たずに電話が切れた。


 通話口から単調な電子音しか聞こえなくなっても、俺は耳に当てた状態のままで動かなかった。別れを告げた英子の声が、いまにも泣き出しそうなその声が、ほとんど背後の波の音に飲み込まれていたのが、ひどく気になった。


*****


 夢を見ていた。


 遮るものもなくまっすぐに降ってくる太陽の光に焼かれる首筋。潮風が前髪を優しく撫でて遥か上空へと駆けあがっていく。嗅ぎなれていたはずの懐かしい潮の香が胸いっぱいに広がった。


 緑がかった青色を穏やかに揺らす海と、背後にのしかかるように繁る木々。その両者を隔てるように長く堤防が伸びている。長年の風雨で側面に描かれたポップな鬼の絵がかすれていた。


 唯一の陸路である橋は海を真っ二つに割くようにまっすぐ伸びている。向かいの山の頂上には風を受けて気だるげに回る風力発電の白い風車がいくつも並び立っていた。


 あの島だ。


 もう十年も帰っていない故郷の風景に、思いのほか郷愁を覚え、目頭がじわりと熱くなった。


 ふっと、俺の上に影が落ちたと思うと、堤防の上を歩く制服姿の英子が横を通り過ぎていった。膝丈のスカートが風が吹く度にバタバタと揺れて、時折病的なほどに白い太ももを露わにする。自然と引き寄せられる視線を強い意志で切り離すのが、あの頃はひどく大変なことだった。


 夢を見ている。取り戻したい人生の唯一の輝きを見ている。


「英子」

「なぁに?」


 思わず声が出た。


 名前を呼ばれた英子は堤防の上で器用にくるりと回転してこちらを向いた。雑に束ねただけの髪が少し遅れて揺れる。記憶の中の英子は若いままで、いつまでも変わらないまま島にいた。


 懐かしさと情けなさで、胸がぐっと詰まった。気を抜けばその場で泣き出してしまいそうだった。


「俺、島出るのやめる」

「なにいっとるん?」


 せめて夢の中でもいいから、やり直しができたらと思った俺の一言を、英子はケラケラと笑った。笑うと眉が泣きそうに八の字になる。いまでもこの表情は変わらないのだろうか。


「東京に行って、立派な役者になるのが公孝くんの夢なんじゃろ? 昨日まであんなに熱く語っとったのに、急にどうしたんよ」

「やめる。俺は、英子と一緒にいる」

「そんなんダメよ」


 英子の顔から笑顔が消えた。哀しそうな表情で、俺を見詰めていた。


「なら、一緒に行こう。東京に、ふたりで」

「いけんよ、ウチは。おかあちゃんをひとりになんてようできんもん」

「なら、お母さんも一緒にいけばいい。この島に居続けるよりは」

「そんなん駄目よ。ウチ、公孝くんの足枷になんてなりたくないけ。そんなんになるくらいなら、ウチは死んだほうがマシじゃ」

「そんな――」


 英子の言葉を否定しようと口を開きかけたが、英子のただならぬ様子に声が止まった。俯いた英子の顔が前髪に隠れた。


「死んだほうがマシじゃ。死んだほうがマシじゃ、死んだほうがマシじゃ……」


 エラーを起こしたように、英子が同じ言葉を繰り返す。彼女の身体がぶるぶると震え出したかと思えば、突然、世界のブレーカーが落ちた。視界のすべてが闇に沈み込む。


「ひとりになるくらいなら死んだほうが……」


 英子の肩越し、暗い空に青白い月が滲み出る。寒々しい光が満遍なく降り注ぎ、濃紺へ表情を変えた水面の波頭だけを白く輝かせていた。


 外灯もない薄闇の中、堤防の上に立つ英子は制服を脱いでいた。見たこともない三十の英子がそこにいたが、その顔は影になり見ることが出来ない。ただ両目だけが月と同じ光を放っていた。


 英子の影が両手をこちらに差し出した。あの頃、繋ぎたかった白い手。いつも柑橘の匂いがした、可愛い手。


 俺は咄嗟に掴もうとしたが、どうしたことか身体が動かなかった。見下ろして見れば月の光を受け濡れたように光る白く細い糸が、複雑に俺の身体へと絡みついていた。無理に身体を動かせば、蜘蛛の糸を思わせるそれが肉へと食い込み、ひどく痛んだ。


「公孝くんいままで、ありがとうね」


 彼女の頬を伝った一筋の涙、緑色をほんの少し混ぜ込んだ青い涙の一滴が、彼女の細い顎先から落ちると、波紋を広げ、穏やかだった海が突如猛り狂った。沖で生まれた大きな波が怒号に似た響きを引き連れてこちらへと駆けてくるのが、遠く闇の中に見えた。


「英子! 逃げろ英子!」


 声の限りに叫ぶが英子の耳には届かない。彼女は堤防の上で手をこちらに伸ばしたまま立ち尽くしていた。逃げる気はないのか。それとも俺が助けるのを、待っていたのか。


 獲物を狩るライオンのような猛々しさで、海が大口を開けて英子へと迫り、あっという間もなく彼女の姿を飲み込んだ。


 それですべては終わりだった。


 ざぁ……と荒い砂を流すような音を残して波が引くと、堤防の上には小さなくぼみに水たまりが出来ているばかりで、英子の姿はすでになかった。


 残されたのは糸に縛られいつまでも身動きの取れない俺と、緑がかった青を湛えた静かな海だけだった。


*****


 翌朝は激しく憂鬱だった。


 夢見が悪かったせいか、背中にはべったりと汗を掻いていた。身体が砂を詰めたように重い。


 時計を確認するといつもよりも十五分も寝過ごしていた。隣で鼾をかく身重の妻の、あられもない姿を目にいれないように気をつけながらベッドから出る。


 朝食を諦めて、シャワーを軽く浴びる。あそこで寝ているのが英子だったならどれだけよかったか、脳裏に浮かびかけたそんな言葉を熱いシャワーで汗とともに下水へと流した。


 髪を乾かすのもそこそこに家を出る。忙しなく動くことで考える余裕を自分から奪おうとしていた。少しでも心の内側に視線を向ければ、もう動けなくなってしまうとわかっていたからだ。


 なにも考えない、なにも感じない、なにも求めない。


 渇いた都会で生きていくために必要なこと。夢を見なさいと教えるばかりの学校では習わなかった大切なことだ。大人はこうして毎日を過ごし、そしていつか死んでいく。


 朝のホームは人で溢れているが、騒々しさは休日のそれに比べて少ない。誰もが下を向いているのは、足元からひたひたと這いあがる憂鬱を見詰めているからだ。


 俺も例外ではない。それどころか、中でも一、二を争うほどの濃度だった。憂鬱はすでに胸元まで水位を上げてきている。昨日、唯一愛する女をほんの少しのプライドのために袖にしたことと、悪夢とも呼ぶべきあの夢が原因だった。


 定刻通りに電車が長い身体を引きずりホームへと滑り込んできた。ため息めいた空気が抜ける音がして扉が開くと、ぞろぞろと人の列が飲み込まれていく。鉄の蛇の横っ腹に何匹もの小さな蛇が食らいつくような、不思議な光景だ。


 前の背を惰性で追う俺のポケットで携帯が震えた。滅多に連絡を取らぬ母からだった。画面を確認し、足がビタリと止まる。後ろから舌打ちが飛んだが、俺にはまるで聞こえていなかった。その代わりにこんなところで聞こえるはずのない潮騒が聞こえ、憂鬱の水位が見る間に上がり、ずぶりと全身を飲み込んだ。


 呼吸がうまくできない。視界がちかちかと明滅する中、携帯の画面上、無機質な文字列だけがはっきりと浮かび上がって見えた。


「……英子が、死んだ?」


 俺の呟きは電車の動き出すけたたましい音に軽く掻き消された。たった数分の間にあれだけ溢れていた人の姿も消え、下車したばかりの老婆がひとり階段へと向かいひどくゆっくりと歩いているだけだった。


 電光掲示板には次の電車の到着時刻が表示され、それが近づくにつれて次第にまたホームには人が増えていく。まるで潮の満ち引きのようで変わり映えのしない光景が繰り返される。


 なにも変わりはしない。俺が電車に乗らなくても、英子の命が失われても。この世界はなにも変わりはしないのだ。


 潮騒は遠のき隣人のような喧騒が帰ってくる。硬質な都会の時間が俺を置き去りに進んでいく。


 なにかの間違いじゃないか。頭の片隅でそう唱える声もあったが、メッセージアプリの冷淡なフォントが、業務連絡めいたその知らせにいやに現実味を帯びさせていた。


 耳の内側に英子の声が甦る。それが電話越しに聞いた彼女の声なのか、それとも夢で聞いたものなのか、俺には判断がつかなかった。


 そこからなにをしていたのか覚えていない。ひとりホームで涙に暮れていたようにも思うし、なにごともなかったように出社し、仕事をこなしていたようにも思う。確かなことはいま寂れたバーのカウンターに座っているということ。そして、新美英子がこの世から消えたということだ。


 店内はひどく暗かった。照明がいくつか切れているのか、光の届かぬ端の方には闇がとっぷりと溜まっている。


 客は俺以外にはおらず、バーテンがグラスを磨くささやかな音の他には、この場に似つかわしくないテクノロックがかかっているだけだった。


 記憶にはないがもう何杯か飲っているようで脳みそがアルコールに浸され重くなっている。だけど、まだ足りない。この程度の重さでは。心は遥か下方まで沈み込んでいるのだから。このままでは心だけが、身体を残してどこかへと消えてしまいそうだった。


 英子の死体は朝方浜辺で見つかったらしい。外傷はなく、穏やかな顔をしていたという。事件性はない。事故か自殺か、警察はふたつの可能性を考えて捜査をするらしいが、俺にだけは明確にわかっていた。


 あの時、彼女は最期に別れを言ったのだ。俺と、世界に。


 あの電話は彼女の命綱だった。細く細く伸びた、最後の一本だった。それを、断ち切ったのだ。この手で断ち切った。ほんの少しの情けないプライドのために。


 カウンターに置いてある小皿から落花生を取ると、思いきり握った。パキリと乾いた音を立てて、簡単に割れた。


 バーテンが手慣れた動きでミキシンググラスにウォッカを注ぐ。重量感のあるチョコレート色の角瓶の蓋が軽やかに開けられると、甘いオレンジの香りが鼻先をかすめた。


 視界に白い影がちらつく。


 白くて細い指の並んだ、滑らかな彼女の手。俺の目の前に差し出された彼女の手。俺が振り払った、彼女の手。


 強く目をつぶった。瞼の裏の残光のような白い手が消えるように祈ったが、俺を責めるようにいつまでも消えてはくれなかった。


 俺は一生この白い幻影を見続けるのだろう。柑橘の匂いを感じるたびに、俺は彼女の白い手を思い出し、悔いるのだろう。グラスに注がれるブルー・キュラソーの目の覚める青さの中に、沈み込んでいくのだろう。そうなれば彼女の気持ちがわかるだろうか。広大な海の中でたったひとり冷たく、冷たくなっていった彼女の気持ちが。


 いつの間に頼んでいたのか、俺の目の前に鮮やかな青色のカクテルが差し出される。バーテンの響きのよいバリトンの声が告げた酒の名前に俺は思わず笑った。


 ブルー・マンデー。


 まさに今日の俺に似合いのカクテルだ。


 あまりにも出来過ぎた話に、笑いどころか涙すら出てくる。


 弱々しい照明に照らされた青いカクテルはまるでミニチュアめいていた。彼女の世界はこのカクテルだ。ほんの、ほんの小さな世界。緑がかった青い海。


 震える指でグラスの細い足をつまむと、振動が伝わり湖面に波が立つ。耳の内側に音が溢れる。寄せては返す波の音が聞こえる。


 目の前にカクテルを掲げ、光にかざして俺は青色の中をじっと見ていた。


 この小さな海の中、そのどこかに彼女の姿があるような気がして、ただその姿を探し続けた。

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ブルー・マンデー 芝犬尾々 @shushushu

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