青のやぶれたところから

一文字ふゆ

第1話 青はまだ

シュワシュワシュワと蝉の音がやかましい。五月蝿いの当て字は漱石がはじめだったか、樋口一葉がはじめだったか。

「お、なんかめんどくさいこと考えてんね。」

話しかけてくる真央は手の甲で額の汗を拭った。

「前のほうを歩いてる茶色い女の子が可愛いなあと思ってさ。」

栗色の髪を一つに束ねた白いヒラヒラを着た子が八列くらい前を歩いている。5限が終わった駅までの道は大学生でガシャついている。そのガシャガシャの前の方に僕の恋仲の女の子が歩いているといった具合の帰り道だ。

「一昨日俺のバイト先来てたかも。」

真央のバイト先は僕も連れて行ってもらったことがある、個人経営のレストランだ。そうなんだ、パスタ食べたのかな。

「隣の男と来てたかも。」

そうなんだ、パスタ食べたのかな。ぐわんぐわんとセミの鳴く声が響く。僕が歩く横の線路を電車が走り抜けても、しぶとく鳴き続けている。

「はなくん振られちゃったんだっけ?」

「んあ」

あくびではない。衝撃が喉を殴打し発声できなかった。えー振られちゃったんだっけ、ちょっとわかんないけど。そういうやりとりあったかな、確かに連絡があんあまり返ってこないけど。そういうことだったのかな。

「セミうるさくね。」

声が出た、適応は早い方じゃないか。

「答えられてないよ。ごめんね、知らなかった感じ?」ぶっきらぼうな言い方を意識した真央の言葉に、胸がキュウってなる。

「なんでレポートもめちゃくちゃある今そんな暇あんの」

夏が真夏に進化する今、レポートにテストの準備という学業が学生の本分であろう。


心頭滅却。喉元過ぎれば熱さも忘れる。クラクラする頭は失恋のせいではない。セミの鳴き声が僕の夏を邪魔するのだ。


*  *  *


「はなくん、小林のレポート何書いた?」

真央は僕のことをはなくんと呼ぶ。入学式前のガイダンスで隣に座った真央が名前を聞いてきた時、名字だけを答えた僕への気遣いだと思っている。名前で呼ぶ必要があるのかは不明ではあるが、それが真央の距離感なのだ。うれしくもないけれど嫌ではない、だからそのまま呼ばせている。

今日で前期日程をやり切った僕と真央はクラゲを見るため、電車に乗っている。今の時期は夜の水族館といって、通常は閉館が17時までのところを19時まで延長し、夕方からは水槽がライトアップされる催しがあるようだ。どう考えてもカップル向けのイベントに誘う真央は僕を慰めたいのか、傷口を攻撃したいのか。しかし、企業の企み通り夏を陰鬱に過ごすのも癪なので真央の提案に乗ることにした。カップル向けに見えるイベントに除け者にされる気はさらさらないのだ僕は。

「赤と黒に描かれる恋と初恋神話について。」

初恋は叶わないと言われていて、僕が便宜上それを初恋神話としている。ジュリアンはレナール夫人に恋をしレナール夫人もジュリアンを愛すが、色々間違えていると僕は思う。真央は気持ち悪いねと僕を笑った。

「初恋を言うには甘さが足りないよな。」

文字数を稼げるテーマが思い浮かばず、初恋と結びつけて書いてしまったがだんだんと単位が心配になってきた。

「リンゴは赤だし。」

リンゴが出てくる初恋は島崎藤村だな。

「真央も初恋書いてるんじゃん。」

真央はヘヘッと気持ち悪く笑った。同様の気持ち悪さは同じ講義を受けていたためだ、仕方ないのである。

目的地の最寄駅で電車を降り、人並みに流されて水族館まで歩くこと5分ほど。ざわざわした不安に気づかないふりをしながら入場券を買う。学期末のテストもレポート提出もやり遂げた達成感よりも、恋人に振られていたことを人伝に聞いた衝撃よりも、もしここで元恋人になってしまった彼女と遭遇してしまわないかという恐怖が心臓を動かしている。

「イルカショーは15時だって。」

真央が入場口を過ぎたところの掲示板を見ている。今日来た水族館にはイルカショーがある。

「水槽の近くなら涼しいかもよ。ちょっと頭冷やそう」

僕のバクバクする心臓の音が聞こえているのか。僕は顔が赤くなるのを感じながら真央をチラリと見る。意外にも、真央はバツが悪そうに顔を背けている。友人に爆弾を投げつけた自覚はあるようだ。鼓膜をバチバチ打ち付けていた脈拍が幾分か落ち着いてきた。

順路に従って歩く僕たちが水族館の独特な雰囲気に包まれる。空気がある側は薄暗く、魚が泳ぐ水槽の方が明るい。来客は水槽で泳ぐ海洋生物を鑑賞しにきたつもりかもしれないが、逆に僕らを魚に見せるために集められているのではないだろうか。ぼんやり歩いていると、順路と外につながる通路の分かれ道に辿り着いた。

「イルカショーはこっちだよ。」真央が僕の腕を掴んで言う。イルカショーの会場を示す表示が見える。会場はすでに多くの人が集まっている。僕たちも後ろ寄りの席を見つけて座る。真央曰く、前寄りの座席は水を掛けられたい方だそうだ。外気に触れると、先ほどまでプカプカしていた僕に重力が働く。そうなるとまた、彼女と新恋人に会ってしまわないかという不安が頭を掴んでくる。不安に掴まれた頭をどうにかしようと唸っていると、イルカショー開始のアナウンスが流れ出した。

シロイルカやバンドウイルカが跳んだり跳ねたり。前から三列目くらいの席まで水をざばんとかけるファンサービスまで可愛らしく披露する、芸達者なイルカたちに目も心も奪われた。

イルカショーが終わって館内に戻り、続きから順路を辿る。16時になりクラゲ水槽のライトアップが始まり、人が溜まり出している。水槽と透明なクラゲがキラキラゆらゆら、至極幻想的な光景だ。

「浦島太郎の気持ちだ。」

「ここ出たらおじいさんになっちゃう。」

真央が律儀に相槌を打つ。

クラゲを見るどの人もスマートフォン越しに水槽を見ている。僕もスマホのカメラでクラゲの写真を撮る。フヨフヨと漂うクラゲを眺めていると、写真も撮らずに真央が言い出した。

「はなくん夏の予定なくなっちゃった?」

「バイトはあるけど」

うんうんと頷きながら、真央は続ける。

「隕石拾いに行こうよ。」

水流に従うだけの透明なフヨフヨを見ながら、ゴツゴツした話をし出すのかこいつは。

「隕石?化石じゃなくて?化石なら福井だっけ。」

「隕石だってば。メテオライト。知ってるでしょ。」

隕石というものは知ってるけれど、どこでお目にかかれるのか、そもそも拾えるものなのかもわからない。可憐な女子ではない真央からの想像も想定もできない誘いは、キャッキャウフフではないけれど検討する価値はありそうだ。

「決まりだね。」

検討する間もなく、決定された夏の思い出候補は静岡三泊四日の旅である。僕が振られたネタバレした時、申し訳なさそうに見えたのは気のせいかこいつ。


* * *


僕の傷心を聞きつけた2人の同級生が慰労会を持ちかけてきた。あと少しというところではあるが、僕たちはまだやけ酒という行動に手を出せない。従って、少々大人しくはあるのだが晩餐を共にした。章太郎から真央のバイト先を会場に提案されたが、繊細な僕は断った。そもそもこいつは僕の傷を癒す気があるのか。章太郎の提案をカバーするために高尾が新しい提案をする。

「英の好きな歌、俺歌うからさ、元気出してよ。」

高尾の発言により場面はカラオケ店に移る。デンモクを渡されたので、高尾と章太郎へのリクエスト曲を入れていく。僕がわかるのもわからないものも含む、国民的変身戦闘ヒロインの主題歌を僕のために歌ってくれたまえ。

「歌ってくれ。」

僕は脚を組んで座り、2人は頷いてマイクを構えた。興が乗ってきて僕も混ざり、三人で合唱になる。僕たち三人は大きなお友達として世界の平和を願う。そして、夜明けと始発を待つ僕たちは三銃士のようにマイクを掲げた。地球の平和を守ってくれる少女たちの主題歌を一通り楽しんだ後、唐突に章太郎がラブソングを歌い出した。

「なぜアカペラ。」

僕と高尾は笑ったが、暗闇のカラオケルームの中で章太郎だけが涙を流している。涙を流しながら章太郎は聞いてもいないのに語り出す。高校一年生の文化祭から付き合い出した彼女に振られたという話であった。彼自身は大事に真摯に彼女を大切にしていたつもりであったが、浪人時代に物理的に距離ができたことから心も離れてしまったようだ。大学生活と恋人との甘い時間を楽しみに、長野からはるばる上京してきたがそのタイミングで彼女から別れを切り出された。

「なんでさあ、俺と別れたのは春なのに、今の彼氏ともう一年近く付き合ってるわけ」

言葉尻が涙と一緒に流れていく。章太郎が僕の腰に抱きつき、その上うなだれた。顔は見えないが失意のどん底にいるように見える。桜とともに散った彼の青春を追悼しよう。夏服になってしばらく経つのに、いまだに薄手のシャツを脱げない章太郎。しょんぼりかわいそうに見えるが、僕の失恋を煽ったことは絶対に許さない。自分が傷ついているからと言って人を巻き込んでいいわけがなかろう。でも、今晩だけは許そう。

「仕方ないな。」

僕はそう言って、初代のオープニングテーマをデンモクに入力した。僕たちは頷き合い、再び世界の平和を願う。世界平和は願うが、許せないこともあるのである。


*  *  *



夏季休暇に入って数日目の夕方、アルバイトに出かけようとしたら玄関の前に水溜りがあることに気がついた。僕の住む木暮ハイツは各部屋の玄関が外廊下で繋がっている。もちろん雨も降り込む。気づかなかったが雨が降ったのだろうか。水がたまるってことはここ凹んでいるのか。水たまりを飛び越えて駅の中に併設された本屋に向かった。

「お疲れ様です。」

挨拶をして事務室に入り制服のシャツとエプロンを着る。おはようございますと一時間前からシフトに入っている綾瀬さんが声をかけた。

「今日は雑誌の返品結構出さないとだな。」

「そうですね。」

客足はまばらだった。ビックタイトルの新刊もなく平和な時間。

「女性誌の棚、空けてきますね。」

明日発売の雑誌を陳列するために閉店までに古い発売日のものを抜いてスペースを作る作業がある。

「青木くんはさ、推しいる?」

話しかけくる綾瀬さんは段ボールを組み立てている。段ボールを組み立て終わった綾瀬さんが雑誌を抱えた僕の横に立ち、雑誌を一冊手に取った。本や漫画の特集が組まれる雑誌で、桃色の髪をフワッとはためかせた女の子のキャラクターが表紙だった。綾瀬さんは好きな子のこと教えてくれるのに、僕はなかなか言い出せない。好きなコンテンツで、自分がどんな嗜好でどういった思考を持っているのかを見透かされるかもしれないと恐れてしまっている。

「その子が好きなんですか。」

雑な返事で話を広げられない自分を大変不甲斐なく思う。

「そう、そんな感じ。」

微笑みが見えた。綾瀬さんほどの屈強な男を柔らかな笑顔にできる桃色の女の子。心に平定をもたらす推しという存在。なんだか胸の辺りに穴が空いたような感じがして、帰路にて空を見上げた。その時、キラキラと発光する大きなものを見た。金星か。残念なことに天体に明るくない僕にはその正体はわからなかった。

隕石を拾いに行くなんて真央はそういうものが好きなのか。人は見かけによらないものだ。そう思い、飲食店のガラスに映った自分の顔を睨みつけた。


帰宅し迅速にシャワーだけ済ませ配信サイトを開く。開始時刻は22時のはずなので、すでに始まっている。登録しているお目当てのチャンネルをタップする。

「うわああああ」

彼女のチャンネルを開いた途端、叫び声が響き渡った。

「びっくりした。」僕は小声で呟き、1人きりの部屋で声を出してしまったことが恥ずかしくて取り繕う。姿勢を少しだけ正し、タイトルを確認する。

「今日はホラゲやります、か。」

ホラーゲームは僕も得意ではないが、誰かのプレイを拝見するのは面白い。怯える姿が楽しいという悪い趣味があるとは思いたくないが、可愛らしい女の子が大騒ぎするのはまた可愛らしい。画面の右下で叫んで暴れる水色の2Dモデル、彼女が僕の『推し』。

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