昭和60年、自販機の前で

泰山

昭和60年、自販機の前で

「飼い犬を探しています。体色は白色……赤い首輪をしています、と」


中学生の娘、綾音がドアを開けて飛び込んできたのは……。

ちょうど僕が書斎でキーボードを叩き、チラシの原稿を作っている最中のことだった。


「ねえ、父さん」

「なんだい?」

「フレキが帰ってきたよ!」

「お、良かったじゃないか」


フレキとは綾音が飼っている犬のことだ。

昨日、雨の中を家出したとかで家族総出で探すのが大変だった。


正直、僕は昔襲われた事もあってそんなに犬が好きなわけじゃない。

何しろあの時、僕は追い回されただけじゃない。

もっとひどい目にあったんだ。

そんなわけで僕は一切世話をしないと妻と娘には言い含めている。


それでもフレキが綾音と戯れている時に見せる幸せそうな顔は大好きだったし。

それに……娘の辛そうな顔をこれ以上見なくて済むのもやっぱり嬉しい。

車とか大丈夫かな?変なもの拾い食いとかしてないよね?

綾音は昨晩からずっとそんな風に心配していたのだ。


「でもね、これ何だろう?」


そう言って娘が出してきたのは……消しゴムだった。

否――これは!


「キンニクメンの消しゴム、それも父さんが一番好きだったやつだ!」


思わずひったくるようにして受け取って電灯にかざしてみる。


「懐かしいなぁ」

「フレキがどこかから持ってきたみたいなんだけど……父さん、知ってるの?」

「ああ、この消しゴムはね……」


もう戻ってこないかと思っていたのに……。

僕は綾音に昔話をすることにした。


▽▽▽▽▽▽


あれは昭和60年ぐらいのことだったと思う。

父さんが小学校の……とても暑かった、雨の降らない夏の話だ。

その日、父さんはお母さん……ああ、綾音からしたらおばあちゃんになるのか。

そのお遣いでスーパーに向かってたんだ。


その途中、どうしても喉が渇いて渇いてね。

そんなわけでスーパーに向かう途中のジュースの自動販売機の前で立ち止まったんだ。

だけど、低学年だったからお金なんてお遣いのぶんギリギリしか持たせてもらってない。

あと、ポケットの中にあるのは少し前に当たって嬉しかったキンニクメンの消しゴムだけ。

ああ、うん……一番大好きな超人のものでね、いつも一緒だったのさ。


ああ、いいなぁ。

キンッキンに冷えていてさぞかし旨いんだろうなぁ。


そんな風に自販機を眺めていたら、ふと取り出し口にオレナミンCのビンが転がってるのを見つけたんだ。

忘れ物かな?ラッキー、いただきます!


そんな風に考えて手を伸ばそうとした時、向こうのほうから白い犬が走ってきた。

首輪はしていたけど……どんなぬかるみの中を走ればそうなるんだってぐらい全身、泥汚れの目立つ犬だった。


「おいおい、こっちに来るなって!」


父さんの制止の声を無視して走り寄ってくる犬。

そして、そのまま勢いよく飛び掛かってきた。

首輪がついていたから病気持ちじゃないのは分かるけどそれでも怖いものは怖い。

そりゃもう噛みつかれる前に必死で振り払って逃げ出したよ。


ただ、父さんは……それからのことを今でも覚えてる。


汗をかくのも構わず、逃げて逃げてとにかく走って。

やっと足を止めた公園で何度も確認したけど……。

ポケットの中にキンニクメンの消しゴムが無かったんだ。


「しまった!」


父さんは青ざめたよ。

来た道を探したけどキンニクメンはどこにも居なかった。


探し疲れてヘトヘトになって……。

さっきのオレナミンを飲もうと自販機のところにも戻った。

警察の人が何人かいた。

みんな自販機の前でしゃがみこんでいた。

子供が犬に襲われたぐらいそんなになるかな?となんだか剣呑な雰囲気だった気がする。

とてもじゃないけどオレナミンCを拝借しようという気はなれなかった。


うん、あの日からかな……。

父さんは毎日のように探し回ったけれど、結局キンニクメンの消しゴムは見つからなかった。


ひょっとしたらあの犬が持って行ったのかな?

そう思って白い犬を飼ってる家も探してみた。

でも、白い犬を飼っている家なんてこの街には一つもなかった。


そして諦めた後もずっと後悔し続けたよ。

ああ、お母さんの言う通りちゃんと家に置いておけばよかったって。


それが今頃になって帰ってくるなんて何だか嬉しいよ。

ちょっとだけボロボロになってるけど色も、手触りもほとんど当時のままだしさ!


ああ、うん。今度こそ……大事にするからね。

僕だけのヒーロー。



▽▽▽▽▽▽


「……昭和60年、か」


父の話を聞いて、気になったことが一つ。

スマホでそれを調べ終えた後、綾音はそっとフレキを撫でた。


「ありがとう、父さんを守ってくれて」


フレキはただ一度、ワン!と吠えて返す。

どうしてフレキが昨晩、時間を超えて昭和60年のこの街に跳んだのかは分からない。

あるいはそんなのただのファンタジー。

本当はあの時、あの場所に居たのはフレキじゃない別の犬だったのかもしれない。


(だとしたら持ち主を探して消しゴム返さなきゃね……)


でも、だとしてもひとつ確実に言えることがある。


"フレキ"が居なかったらきっと父はあの自販機の前で……。

そしてそれは綾音自身も今、この世に生まれていないということでもある。

そう考えたら感謝してもしきれない。


彼女が調べていたサイト。それは昭和の事件史。

未解決事件の一覧表の中に"その無差別毒殺パラコート事件"は……今も刻まれている。



「ねえ、フレキ。誰かに説明しても信じてもらえないだろうけど……私だけは知ってるからね?」


綾音はぎゅっとフレキを抱きしめた。


「フレキは私たちのヒーローだって」


綾音が微笑むとフレキも応えるようにまた一声鳴いた。

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