主人公に見る肖像
鶴崎 和明(つるさき かずあき)
僕もヒーロー 君もヒーロー
今回のお題が「私だけのヒーロー」ということで、何か英雄について書いた覚えがあるなと見返して見ると、二年前のKAC最終回で英雄の条件を語っていた。
「どんでん返し」というテーマでこのようなエッセイを仕上げた私の当時の心理状況は分からぬが、私の中の英雄像ははっきりと表れている。
今回のテーマを書くにあたって「ヒーロー」という言葉の意味を手許の辞書で調べてみたが、
①英雄、勇士
②小説などの男の主人公
という予想通りの内容が載っていた。
二番目の意味に「私だけの」という形容を付けると、私の場合には私自身が当てはまることとなってしまうが、それだけでは面白くない。
自分の人生の物語、などと手垢のついた表現でお茶を濁せれば気も楽なのだが、それを三十路の凡な男が語ったところで滑稽噺にしかならぬ。
また、身の回りに在った非凡な才能を持った者や勇気のある人、ないしは勇気を与えてくれた人を扱うのもいかがなものだろうか。
他の方ならばいざ知らず、私が「私だけのヒーローは小学校の頃の先生です」などと書くのは鳥肌が立ってくる。
強いて言えば「下町のナポレオン」こと「いいちこ」の話でもすればいいのだが、残念ながら私の好物は芋焼酎である。
そこで仕方なしに、自分の創作してきた作品の主人公に注目することとしたのだが、ジェンダー論者には申し訳ないが、今回は辞書の定義に正確に男主人公に限ることとする。
いや、女主人公が今までに二人しかいなかったため大きな差異はないのだが、女主人公を入れてしまうと文芸評論になりそうなので避けることとした。
さて、まずは私の処女作を改変した「何もない日常が好きな図書室の少年は美少女に襲われ英雄を騙られ世界を護るために戦う」の主人公である二条里から話を始めたい。
元々は「辻杜先生の奴隷日記」という題名であったのを、昨年変更してみたのだが、改めて見返して見るとやはり題名が長い。
本来は短い方が好きなのであるが、色々と思考錯誤をしてきた本作であるためこうした挑戦をするのも悪くはないだろう。
と、話が逸れてしまった。
この作品の主人公である二条里は、私が元々感情移入型で創作を始めたこともあり、私に似ている部分が多い。
いや、改変前は「理想とする自分像」であったのだが、今はそこから切り離されている。
何より、そこそこ挫折に強い。
そして、元々の作品が習作であったために好き勝手に書いていたものを、本格的に書き直すにあたって主題を定めたことからどんどん主人公らしくなっている。
九〇年代のギャルゲーのノリを残しつつ、戸惑いながらも英雄として成長していく姿を、今の私は親のような思いで見つめているようだ。
いずれ書き上げねばと思ってはいるのだが、それが今年中になるかは不明である。
二年前のKACで書いた「最後のUターン」の主人公勇也はダメな男であるが、こちらも私との共通点が多い。
煙草を吸うことはないのだが、卑屈な点は正しく私だ。
いずれこの続編を書いてみたいと思っているが、これ以上風呂敷を広げてしまってはパンクしてしまうので止めておこう。
制限時間一杯の中で書いたため、あまりに典型的な男性になってしまった。
昨年のKACに上梓した「注がれた悪意」の新田は、落ち着いた男性像が上手く表れていたように思う。
ただ、話作りに時間がかかり過ぎてしまい、気付けば人物を掘り下げる余裕がなくなっていたため主人公の輪郭が朧にしかない。
マティーニを初めからやるというのは私も時にするが、ホットウィスキーをあまりやらぬというのは私と大違いである。
このように見返すと、人生の主人公は自分であるというのを否定しておきながら、自分の生み出す世界には自分の分身を産み落としているようだ。
特に、KACのように時間がないとストックしてある人物像を用いるため、そこかしこに私の匂いが染みついてしまっている。
ならば時間をかけて造形した場合や自分と異なる思考を持たせなければならないっ場合にはどのようになるのか。
「肥後司書伝」の林浩一は「鬼平犯科帳」を意識して書いていることもあって、その人物像は池波正太郎氏が書く長谷川平蔵に近い。
しかし、単純に同じかと言われればそうではなく、やはり私なりの味が出ている。
『いかんなあ、この暑さには殺気立ってしまう』
『お褒めに与り、光栄だな。それで、何か言い残すことはあるか』
悪役染みた言い回しが増えており、これを主人公とするのはいささか抵抗があるという人もいることだろう。
「祖父のフルコーラス」の主人公である圭祐は、どちらかと言えば私の思想の塊であるおじいちゃんの対立軸として生み出したキャラクターである。
偽善という言葉を出そうとしたように、諦観を以って生きているのだが、そこまで私は世界に絶望していない。
まあ、皮肉程度であれば言うこともあるだろうが。
「神君カエサルとオクタヴィアヌスの憂鬱」では英雄アウグストゥスを主人公としたが、その実際の性格は一切分からぬものの、塩野七海氏の解釈の影響を大きく受けている。
この頃は英雄も三十路に差し掛かっているのだが、あくまでも少年らしい顔立ちをイメージしながら書いたのは、特にその印象が深かったからだ。
しかし、漠然とした不安感を持つという点については私の解釈によるところが大きい。
カエサルのような自信の溢れ方があるようには流石に思えないが、ここまでの心の弱さを持つというのは独特であろう。
このように主人公を見返してみると、やはり朧気ながら一つの影が浮かび上がってくる。
どうやら忌避したものの、人生の主人公は自分であるという言葉が私にも重く圧し掛かっているようだ。
やはり自作の主人公というのは「私だけのヒーロー」と呼ぶにふさわしいのである。
主人公に見る肖像 鶴崎 和明(つるさき かずあき) @Kazuaki_Tsuru
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