家出少女と女装ママ
古月
家出少女と女装ママ
女は勉強なんかしなくていいだなんて、いったいいつの価値観だろうか。
父はそんな古い考えの人だった。母が早世して以来、小学生のころから家の手伝いをさせられ、弟の面倒を見るように言いつけられ、部活や宿題をするくらいなら家事をしろと怒鳴られながら生きてきた。それでも必死で勉強して、高校卒業後は大学へ進学したいとA判定の通知を出して頭を下げた。
今までにないほど怒られ、罵られ、判定表を破り捨てられ、一晩中家から閉め出されたその日、私は家出を決意した。
ほとんど着の身着のまま、最低限の荷物だけを抱えて飛び出した。だけれどお小遣いなんてろくにもらっておらず、行き先も決めていなかった私は駅前で途方に暮れてしまった。すると知らないおじさんに「五万でどう?」と聞かれた。最初は意味が解らなかった。理解した瞬間、恐怖で体が固まった。違うんです、そうじゃないんです――言いたくても言葉が出てこなかった。母の形見のブローチを握りしめ、ただただ立ち尽くしていた。
だけどおじさんは急に背を向けて逃げ出して、ふと振り返ればすぐ後ろに大柄な女の人が立っていた。さっきのおじさんはこの人を見て逃げ出したのだと察した。そして私はまた別の意味で硬直することになった。
違ったのだ。その人は女性の服装だったけれど、筋肉たくましい明らかな男性だった。ラメ入りの服を着て、カツラを被って、化粧をした男性だった。
「あんた、家出?」
季節に合わない服装と大きな荷物から一発で見抜かれたらしい。私はなにも答えられなかった。
終わった、と思った。きっとこの人は私を警察に連れて行くだろう。そうなれば私は親元へ送り返される。私のささやかな抵抗もここでおしまいだ。
そううなだれていたら、今度は予想もしないことを聞かれた。
「あんた、料理はできる?」
「え? えと、それなりに」
「あらちょうどよかった。それならこっちついて来て。あ、歳がいくつかは言わないでね、面倒だから」
言われるままに連れていかれた先はバーというかクラブというか、とにかくそういう飲食店だった。一つ重要なのが、私を連れてきた人は
で、ママ曰く、手首を捻ってしまって料理ができなくなったから厨房を任せられる人を探していたらしい。
そんなこんなで、私はママのお店を手伝い、またお店の空いている部屋を貸してもらうことになった。
ママは私のことを詮索したりしなかった。そして、私よりもはるかに料理上手で手際が良かった。家でもさんざんこき使われていた私だけど、お店はそれ以上だった。それなのに不思議と嫌ではなかった。お店の人たちはみんな優しいし、私の料理を美味しいとほめてくれるお客さんもいた。
あの日、ママに拾われていなかったら。考えるだけでも恐ろしい。その恩返しというわけではないけれど、私はずっとここで働いてもいいかなと思うようになっていた。本当は男性なのに、ママのことを本当の母親のように感じてさえいた。
「大学に行きたかったんです」
数か月が経ったころ、ふとしたことから思いがあふれた。話し出すと止まらなくて、涙ながらになりながらの話でもママは最後まで聞いてくれた。実家での扱いや苦しさ、本当は自分が何をやりたいのかを語り、でもそんな未来は実現できないのだと嘆いた。
私は慰めてもらいたかったのだ。甘えたかったのだ。憐れんでほしかったのだ。それでずっとここにいてもいいと言ってほしかったのだ。
それなのに。ママが発した言葉は真逆だった。
「あんた、そろそろ帰んな」
最初は何を言われたのか分からなかった。理解した瞬間、涙があふれた。この人も私のことを見捨ててしまうのだろうか。私に居場所なんてないんだろうか。胸元のブローチを握りしめてその場に立ち尽くした。知らず嗚咽が漏れていた。
「勘違いしないでよ。別に要らなくなったから追い出すわけじゃない。ただ、嫌なものから逃げてるばかりじゃダメだって言いたいの。じゃなきゃ一生、誰かにいいように使われるばっかりになるよ。家でも、この店でもね」
「でも、お父さんは絶対私のことを怒るよ」
「大丈夫よ。娘が何か月もいなくなっていい加減懲りたころだろうし、なにかあればアタシが必ず力になるから」
ママに説得されて私は家に帰った。
恐る恐る玄関を開けると、なぜか父は怒るでもなく、さりとて喜ぶでもなく、開口一番に「大学へ行かせてやる」と言った。どうしてかと聞いてももごもごとして、かろうじて聞き取れたのは「部長が」の一言のみ。結局なにがどうなっているのかわからなかったけれど、とにかくそういうことになった。
一年浪人したのち、私は大学生になった。遠方の大学だったから一人暮らしをはじめて、それから実家に帰ることはなくなった。
だけれど今でもたまに思い出す。あのバーのこと、ママのこと。行くあてのなかった私を助けてくれた、私だけのヒーローのことを。
***
「あれ、マリちゃん辞めちゃったの?」
「言ったでしょ、あの子は臨時だって」
アタシはそう言いながらカクテル片手にお客さんの隣に座る。グラスをカチンと鳴らして一杯、そこでお客さんはアタシの髪に目を止める。
「あれ、ママその髪留めってマリちゃんのブローチとお揃い? もしかしてもらったの?」
「バカ言わないで、アタシが若い子からアクセサリーをせしめるようなセコい奴に見える? これは昔から持ってるアタシの宝物よ」
それは十数年前、事故で妻子を同時に亡くしたアタシが、火葬場で偶然出会った見知らぬ女の子にもらったブローチだ。
大切な人を失ったのだと語ったら、その女の子もまた母を亡くしたのだと語った。それなのに女の子はまったく悲しんでいないようだった。
そのときのアタシは本当に嫌な奴だった。
「自分の母親が死んで、どうしてそんなにも悲しそうじゃないの?」
そんな毒を含んだ言葉を、女の子はさらりと受け流して。ポケットから同じデザインのブローチを二つ取り出した。
「私にはこれがあるもの。これね、お母さんが私のために手作りしてくれたブローチ。これがあればいつでもお母さんと話せるんだってお母さんは言ってたもん。だから全然悲しくないよ。あ、そうだ」
そして母の形見であるという揃いのブローチの一つを差し出して。
「お母さんの分をおじさんにあげる。私は一つあればお母さんを思い出せるから。おじさんもこれでおじさんの大事な人を思い出してあげて?」
そんな大切なもの、受け取れるはずがない。それなのに、しばらく手の平に乗せられたそのブローチを見つめている間に女の子はどこかへ行ってしまった。名前さえ聞けていなかった。
たったそれだけのこと。たったそれだけのことだったけれど、それは未来も希望もなくしたアタシが絶望の淵で得た光だった。
このブローチがなければ、アタシはもう一度立ち上がり、このバーをここまで続けることもなかった。
「そういえばママ、例の部下ってのはどうなった? ほら、娘を大学に行かせないでいたら家出されたっていうバカ野郎は?」
「あらやだ、本業の方の話はやめてよね。もちろん個室でたっぷり絞ってあげたわよ。子供の未来を潰すような奴は親じゃない、ってね」
もしも妻が生きていたら、きっと同じことを言っただろう。そう思えたからこそ、普段は温厚なアタシもあの部下をきつく叱ってやれた。ポケットの中のブローチがその勇気をくれたのだ。
そうだ。あの子がいたから、あの子がこれをくれたから。アタシは今までやってこれた。そしてきっとこれからも。
あの子はアタシだけのヒーローだ。
(完)
家出少女と女装ママ 古月 @Kogetsu
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