私だけのヒーローが悪役の場合もある

出っぱなし

私だけのヒーローが悪役であるという事実

 ヒーロー、一般的に英雄、勇士、華々しく活躍した人、敬慕される人物であることが多い。

 世間一般の道徳や規範において好印象を与え、模範的な人物として尊敬を集める。


 僕の場合は誰になるのだろうか?


 真剣に考えてみた。


 身近なところでは、父親を上げても良いだろう。

 人を育て、家庭を築いた人物はそれだけで尊敬に値すると思う。

 しかし、読み物としたら満足してくれる読者は少ないだろう。

 他にも身近にお世話になった方々や著名なスポーツ選手等がいるが、僕にはそれほど語ることは出来ない。


 その代わりに、衝撃を受けた人物、というかキャラクターがいる。

 バットマンシリーズ『ダークナイト』で故ヒース・レジャーが演じたジョーカーだ。


 ヒーローじゃなくて、悪役だろ! とツッコまれることは間違いないがもう少しだけ付き合ってほしい。


 ジョーカーは、その存在感が圧倒的だ。


 通常の悪役は圧倒的な能力があったり、権力や暴力が強かったりするが、ジョーカーにそんなものはない。

 頭は狂気に満ちているが、身体能力は一般人レベルだ。

 

 対するヒーロー、バットマンは、驚異的な身体能力、最先端のテクノロジー、加えて大富豪なのである。

 そんな強大な相手を手玉に取るのだから、ひねくれ者にとっては痛快なのだ。


 これだけだとただの頭のキレる悪役に過ぎないが、自身は正義も悪もないただの純粋なカオスであろうとしている。

 対して、秩序を乱す者には問答無用に鉄拳制裁のバットマンだ。

 ここでもまた『正義』を掲げる強大な相手にその欺瞞を突きつけている。

 詳しくは映画を見ていただければ分かると思う。


 この関係はどこか身近に感じないだろうか?

 社会常識により「こうしていないといけない」ということを押し付けられる世の中に閉塞感を感じないだろうか?

 

 僕の場合は学生時代にはよく感じたものだ。

 拙作『神の血に溺れる』以前に働いていた黒い企業では特にそうだった。

 なぜ、こんなことを? と。


 初めて『ダークナイト』を観た時、ジョーカーの言葉には大きな共感を抱いた。


 大きな力に支配され、自分自身で判断することができない今の世の中こそが狂っている。

 誰かにコントロールされるのではなく、自分のやりたいことをやろう。


 僕は何かが吹っ切れたのかもしれない。

 黒い会社を辞め、放浪の旅に出た。

 そして、ワインに出会い、『神の血に溺れる』の旅に出ることに何のためらいはなかった。


 新たな自分自身になるには、まずは自分自身を壊す必要があった。

 創造のための破壊、混沌だった。

 閉塞感を感じているなら、まずは自分自身の殻を壊してみるといいだろう。

 きっと新しい自分が見つかるはずだ。


 僕は今、苦労は多々あるが、新たな自分になれた。

 多少はマシな人生になっていると思う。


 これが、悪役ジョーカーが「私だけのヒーロー」である理由だ。

 ジョーカーとの出会いが『神の血に溺れる』の前日譚でもある。


 ただし、人の迷惑になることはやめましょう、ということを付け加えておく。

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